1977年米軍偵察機が住宅地に墜落

2018年02月11日 23時12分47秒 | 社会・文化・政治・経済
幼児2名は全身熱傷、母・和枝さんは壮絶な4年間の末に他界。
反安保・反自衛隊、米軍相手の日本初の判決など波紋が大きい事件だった。
その日、戦術偵察機RF-4Bファントム機は、厚木から千葉県館山の東南沖に待機する空母ミッドウェーを目指し離陸した。
ファントムといえば一時代を築いた超音速戦闘機。事故を起こしたのはその偵察機型で長さは約19m、重さ26tの機体だ。

離陸後すぐエンジンから出火し、2名の乗員はパラシュートで即時脱出。ジェット燃料を満載した無人の機体は緑区の上空に取り残され、火を吹き轟音を立てて墜落した。離陸からわずか3分後のことだった。

墜落現場は宅地造成中で家もまばらだったが、炎は一瞬で6軒の家を焼き尽くし、9名が負傷。中でも、墜落の衝撃で分解したエンジンが直撃した土志田和枝さん(当時27歳・亡くなった時の姓)と、ご主人の妹(26歳)は、衣服が焼け落ちた姿で2人の子どもを抱え、黒煙の中から飛び出して来たという。

4人のやけどは最もひどい “全身熱傷3度”の状態。和枝さんの長男・裕一郎くん(3歳)、次男・康弘くん(1歳)のやけどは体表面積の100%に達していた。
墜落時の熱風は30m離れた地点でも肩にやけどを負ったほどだそうだ。晴れた夏の昼下がり、アイスクリームを食べての団らんは一転。のどの渇きに苦しみながら、長男は深夜に、次男は明け方に、二人は母とは別の病院で亡くなった。

パイロットのパラシュートは墜落地点から約3km離れた緑区鴨志田に着地した。連絡を受けた海上自衛隊の救難ヘリは無傷に近い二人のパイロットだけを助け、墜落現場に向かうことはついになかった。
一ヶ月もの危篤状態を抜けると、敗血症などの感染症を防ぐため、硝酸銀の薬浴に漬かるという厳しい治療が始まった。壊死した皮膚をはがすにも衰弱のあまり麻酔は使えない。想像を絶する苦痛に耐えたのは、子どもたちに会うためになんとしても生きようとしていたからだったという。

皮膚移植が始まると今度は、繰り返される麻酔がのどを傷つけ呼吸困難におちいった。以降、のどを切開しカニューレという管が呼吸を助けることになる。移植で皮膚は伸縮性を失い、歩行もできなくなった。
 42名からの皮膚提供を受け、車椅子で一時帰宅もできるほどに回復した事故から1年3ヶ月後、家族から和枝さんに子どもの死が知らされた。

書籍には、窓口となった防衛庁施設局への恨みが増し、職員を大声で責め立てた事実も赤裸々につづられている。
子どもの死を知ってからの心理的リハビリは、和枝さんの精神をますます混乱させ、ご主人とも離婚。

仮退院時もカニューレのあるなしにかかわらず、深夜になると呼吸に苦しみ、幾度となく救急車を呼ぶが、しまいには心因性のものとされ救急車の対応もなくなっていった。

病院の勧めでなかば強制的に精神病院へ転院。和枝さんのショックは相当だったそうだが、退院してからの夢も語るようになった矢先、心因性呼吸困難で31歳の生涯を閉じた。

子どもたちの死を知ったその日の日記を、緑区北八朔町(きたはっさくちょう)の「和枝福祉会」にある喫茶室「ぽっぽ」で見つけた。和枝福祉会とは、「元気になったら福祉の仕事で恩返しがしたい」と願った和枝さんの遺志を父・勇さんが継いで設立した施設だ。
店名は、次男が “鳩ポッポ”を歌いながら亡くなったことにちなむ。
 実物を見ると胸に迫るものがある、和枝さんの手記

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沖縄の問題は、全日本の問題。
沖縄の不安は、われわれすべての日本人の不安。
他人事ではありえない。
我々が想像力を失った時こそ、我が国の存亡の危機であろう。

創価学会創立者・牧口常三郎の研究

2018年02月11日 20時49分12秒 | 社会・文化・政治・経済
同志社大学神学部出身で神戸女学院大学院長の森孝一さんがアメリカで神学博士号を取った論文のテーマは、日本語訳にすると「創価学会創立者・牧口常三郎の研究」であった。
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牧ロ 常三郎(まきぐち つねさぶろう、1871年7月23日〈明治4年6月6日~1944年〈昭和19年〉11月18日)は、日本の思想家、教育者、地理学者、宗教家。
1902年、国粋主義で知られる地理学者の志賀重昂の門を叩く。
1903年、人間の生活と地理との関係を論じた『人生地理学』を32歳で発刊。
牧口は志賀に校正・批評を依頼し、志賀は同著に序文を寄せた。
同著は新渡戸稲造や柳田國男らの目に留まることになり、新渡戸宅で開催された「郷土会」にも牧口は名を連ねている。
地理学者である牧口と民俗学者である柳田が共に研究・現地調査を行った記録も残されている。
1930年11月18日、『創価教育学体系』第1巻を刊行する。
なお、創価学会はこの日を創価教育学会設立の日としている。
1931年、教職を辞し、宗教・教育活動に専念。
同年に出版した『創価教育学体系』第2巻(『価値論』)で唱えた「創価教育学」は、新渡戸稲造や柳田國男らから評価された。
牧口は著書において「人生の目的は価値創造にある」という理念を唱え、価値の対象として「美・利・善」を挙げている。
これはヴィンデルバンド(新カント学派代表)の価値体系である「真・善・美」と一線を画すものである。
「真理は認識の対象であり価値の当体ではない。主体と客体の関係の中にこそ価値は存在する」として、新カント学派の説く「真」の代わりに「利」の価値を説いた。

創価教育学会創立

創価教育学体系の刊行を機に、「創価教育学支援会」が結成された。
同会には『創価教育学体系』を高く評価した新渡戸稲造、柳田國男、犬養毅ら28名が参加した。
治安維持法違反並びに不敬罪の容疑で下田警察署に連行される。
牧口は獄中においても転向を拒否し、1944年11月18日、東京拘置所内の病監で栄養失調と老衰のため死去した。

女性には平和に貢献する力がある

2018年02月11日 19時28分21秒 | 社会・文化・政治・経済
「社会の底流から見た女性の役割」
「平和は、家庭から始める」
「協調と調和の人間関係を創造する上で、鍵を握るのは女性である」
女性の役割を、「平和の構築」や「平和の文化を築く」という視点から捉える。
「女性には、平和に貢献する力がある」
「大切せつなのは、女性の力を地域へ社会へと大きく開いていくことだ」
「さまざまな理由から仕事を離れざるをえなかった女性たちの再就職を支援するトレーニング・コースを設ける」
「女性が取り残されるところに、本当の意味の意味での<世界平和>はない」
「男性より女性のほうが、愛情と思いやりと共感をもって問題に対処することができる」

人々が諦めそうな困難な時代にあっても

2018年02月11日 16時16分46秒 | 社会・文化・政治・経済
たとえ希望が見いだせず、人々が諦めそうな困難な時代にあっても、市民社会の連帯を広げていかなけれればならない。
「核兵器は必要悪ではありません、絶対悪なのです」広島の被爆者であるサーロー節子さん
ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)にノーベル平和賞が贈られ、授賞式で演説した。
世界平和のために、サーローさんの言葉を共有して、新しい一歩へ踏み出す意義が大きい。
<草の根の平和構築>
日常に生きる等身大の平和行動。
「健気なる決心より美しいものはない」哲学者・西田幾太郎
あらゆる差異を超えて、誠意を尽くし語り、民衆の連帯を広げていくことだ。
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小型核兵器の開発と使用など、断じて認めてはならない。

強いことが、幸福である

2018年02月11日 15時58分01秒 | 社会・文化・政治・経済
幸福は<心>できまる。
生きる<哲学>の深さで決まる。
強いことが、幸福である。
弱さは不幸である。

幸福を決めるんは、自身の強気心。
内に秘めた強き心は、試練の冬の季節を乗り越えて、つかみとったものだ。
どのような困難があろうと、自身の可能性を疑わなければ道は必ず開かれる。
そのことを確信できるかどうかだ。

河野外相 米の新たな核戦略を評価

2018年02月11日 14時33分01秒 | 社会・文化・政治・経済
河野外相:トランプ政権の核指針「高く評価」 - 毎日新聞

2018年2月3日 - 河野太郎外相は3日、核兵器の役割を拡大させるトランプ米政権の新たな核戦略指針「核態勢見直し(NPR)」に関し「わが国を含む同盟国に対する拡大抑止へのコミットメントを明確にした。高く評価する」との談話を発表した。
<トランプ政権>小型核開発へ 「核なき世界」転換 · <核態勢見直し>「力による平和」推進 トランプ政権 · <河野外相>中国副報道局長と笑顔 「自撮り」写真話題に · <「私の失敗」>河野外相、在外公館減員で反省の弁
河野外相 米の新たな核戦略を評価 | NHKニュース - NHKオンライン

2018年2月8日 - アメリカのトランプ政権は、先に発表した新たな核戦略で、ロシアなどの脅威に対抗するため、「低出力核」と呼ばれる威力を抑えた核兵器を増強するなどの方針を打ち出しました。
これに関連して、河野外務大臣は衆議院予算委員会で、「現在、核の世界を不安定にしているのは、アメリカではなく、小型の核兵器の開発を進めるなどしているロシアだ。アメリカの戦略は核使用の敷居をむしろ上げようとして努力しているものだと理解している」と述べました。

米核戦略への談話めぐり - MSN.com
河野外相、質問に声荒らげる
2018年2月8日 - トランプ米政権の「核戦略見直し」(NPR)について「高く評価する」との談話を出した河野太郎外相に対し、8日の衆院予算委員会で質問が相次いだ。河野氏は評価の理由について、「同盟国に対して核抑止を明確にコミット(約束)している」と改めて強調。「オバマ政権も友好国に対して核抑止のコミットをしてきた」と指摘されると、「ご質問の意図が全く分からない」と声を荒らげる一幕もあった。 NPRは爆発力を抑えた小型 核兵器の開発についても明記しており、河野氏の談話は、被爆者団体などから批判 ...
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核兵器は悪魔の兵器である。
いかなる理由があろうと、使用されてはならない。
一度使われたら、報復合戦になるだろう。
アメリカ、中国、ロシアなどの大国に自制が期待される。







歴史の文脈で捉えなければ

2018年02月11日 14時13分11秒 | 社会・文化・政治・経済
フィクション作家の保坂正康さんは、「なぜ西部さんは自ら命を断ったのか。それを単に個人のレベルで考えるのではなく、歴史の文脈で捉えなければ、彼に申し訳ないとの思いがする」と記している。
西部さんは真正直で神経質で、そして直線的な思考や生き方を貫いた。
その自裁死に至る理念は、戦前の命の軽さ、戦後の人命尊重への痛烈な批判が宿っている。
西部さんの性格はこの現実社会の偽善や虚構を知的にも感情的にも見過ごすことができなかった。
右翼も左翼も嫌いというのが本心だったと思う。
多くの友人をもったが、また別れも早く、ときに切り捨てるといった付き合いを選んだ。
そこにひそんでいるのは、西部さんなりの「人間観」だったように思えてもくる。
そのような西部さんを近代日本史の中にどう位置づけるべきか。
私はその役割を果たすことによって、西部さんの自裁死を受け止めようと思う。
「近代の学問、理論を前にさまよえる日本人。伝統に復活せよ」となる。
簡単に言うと「虚から実に目覚めよ」と一身を賭して訴えたのではなかったかと思う。
保坂正康さん
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評論家の西部邁さん入水自殺
多摩川河川敷に遺書も - 社会 : 日刊スポーツ

2018年1月22日 - 保守派の論客で知られ、「朝まで生テレビ!」などでも活躍した西部邁(にしべ・すすむ) さんが21日、死去した。
78歳。
東京都大田区の多摩川で自殺を図り、溺死した。

西部邁さん:最後の「保守と死」論 自裁の10日前に言及 - 毎日新聞
2018年1月23日 - 保守派の評論家で社会経済学者、西部邁さん(78)が21日、東京都大田区の多摩川で入水し亡くなった。
その10日前、毎日新聞の取材を受けた際に「数週間後には(自分は)生きていない」。
神経痛で痛む腕をかばいながら、近年繰り返していた自らの自殺の話をした。
しかし語りはあくまでも冷静。
取材後は午前4時過ぎまでバーをはしごする元気さをみせていた。【鈴木英生】
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西部邁さん自殺を知った時、川端康成の72歳での自殺や田宮虎彦の77歳での自殺を思った。

45年前の1972年4月16日、日本人初のノーベル賞作家となった川端康成が、神奈川県逗子市のマンションで自殺しました。
遺書はなく、いまも謎とされる自殺の理由。
川端は子供時代から常に天涯孤独でした。
もっとも目をかけていた三島の自殺を受け、彼は精神的にかなりの打撃を受けたようで枕辺に三島が現れたこともあったようです。
老いることで近づく死への恐れ。
ノーベル賞をとったことで、それ以上の作品を書くことはできないと作家としての限界に気づき、絶望したのかもしれません。
若い家政婦に関係を迫って拒まれたのをショックに自殺したという説もあります。
しかし、どの理由にしても「孤独」が彼を死においやったのだと思います。
川端康成自殺
1968(昭和43)年にノーベル文学賞受賞以降は小説らしい小説をほとんど発表していなかった川端康成は、1970(昭和45)年の三島の自刃直後の現場を目の当たりにして以来、しばらく床に伏せるなどを繰り返していたが、それまで見られなかった言動をするようになり、1971(昭和46)年4月の東京都知事選では秦野章候補の応援弁士に立ち、美濃部都知事を激しく攻撃するなどもしていた。1972(昭和47)年4月16日、川端は鎌倉の長谷の自宅に岡本かの子全集の推薦文を書きかけのままで外出、14

いつもは几帳面な性格なので、万年筆のキャップをはずしたまま、机を離れることはなかったし、外出する時は、必ず夫人がお手伝いに声をかけていたのだ。
午後2時ごろ、車が渋滞した由良が浜通りで途方にくれたように立っているのを目撃されている。

4月9日 作家・田宮虎彦さん自殺 : 【昭和63年】

1988年1月に脳梗塞で倒れ日産玉川病院にて療養、右半身不随になり、同年4月9日午前9時15分頃、同居人である旧友の子息の不在中に東京都港区北青山2丁目のマンション11階ベランダから投身自殺する。
脳梗塞が再発し手がしびれて思い通りに執筆できなくなったため命を絶つとの遺書が残されていた。享年77。






清掃活動へ行く

2018年02月11日 10時49分34秒 | 日記・断片
午前8時30分に待ち合わせをして、林さんと清掃活動へ行く。
このため、小堀(おおほり)の支部の会合は欠席となる。
枯葉はほとんどなく、清掃は30分で終る。
「しばらく」と佐々田さんが挨拶する。
先日の敢闘会打ち合わせを休んだので、しばらくぶりのであった。
「元気ですか」と聞くと、娘さんがインフルエンザのA型に罹り5日間会社を休んでいたそうで、「家族には、うつらずよかったです」と言う。
清掃後に林さん活動報告。
仕事で午後9時、10時に帰宅、その中での地域活動をしていた。
ついで責任者の村田さんが、頑張ってきた人が挫折した話をした。
「人間だから、やる気がなくなることもあるでしょう。それはそれで仕方ないのですが、それでも自分を見失わないことです」と色々は教訓を例に挙げて前向きになることの必要性を強調した。
うつ病は心の風邪ともいわれており、「こんなはずはない」と思っていても落ち込んでいく。
そこから這い上がるのは<一念>。
自身を信じ抜くことだ。
「自分はダメだ」とは思わないことだ。
励ましてくれる仲間がいることは救いである。
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取手文化会館で11時から結婚式が行われる予定で、人が集まってきていた。
既に新郎、新婦が来ていて、家族らしい人たちとカメラで写真を写していた。
それを見ていて、林さんも取手文化会館で結婚式を挙げて、披露宴は牛久シャトーで行ったと言っていた。
美味しい料理を食べて欲しいと食事を豪華にしたそうだ。
「ところが、みんなに酒をつがれてベロンベロンになって、せっかくの料理が食べられなかったのですよ」と笑っていた。









取手井野団地で火災70夫婦が死傷

2018年02月11日 06時35分43秒 | 社会・文化・政治・経済
昨日の火災は午前4時10分ごろ、の出火でった。
取手市井野団地で、鉄筋5階建集合住宅の1階の無職戸津敏彦さん(76)さんが焼け跡から遺体で見つかり、戸津さんの妻(79)がのどに火傷を負う重傷で病院に搬送された。

まだ、新聞配達の人たちバイクが走り回っている時間帯。
思うに、「バン」と爆発したような音を上の階の人(80)が聞いており、石油のような臭いがしたそうだ。
石油ストーブから出火したのだろうか。
団地の住民が高齢化しており、今日の時代を反映している。
気の毒な火災であり胸が痛む。












2月10日(土)のつぶやき

2018年02月11日 03時31分22秒 | 医科・歯科・介護