繰り返し思い浮かべる面影は、何か里見伸久の気持ちを切なくした。
タクシーが右折しようとした時、自転車に乗った女が歩道を直進して来るのが目に留った。
女はその仕草が特徴であるように、首をすくめてみせると、今度は反対に頭をそり返すようにした。
里見は思わず、握っていた源由紀の指を放り出すようにした。
眠っていた由紀がピクリと体を座席から起こして車外に目を転じた。
「ここはどこなの?」
「用賀」
「用賀?何故なの」と言いながら由紀の指が絡みつき、長い爪を立てるようにした。
里見は、自転車の女の健康過ぎる横顔を見送りながら、歳月が停止しているような心の在り処が存在することに気付いた。
同時に、自転車の後部に女の分身が張り付いているように座っているのを衝撃
的に認めた。
ヘップパーン刈りにこだわり続けていた女は、娘にもそれを強いたのだかと苦笑が込みあげた。
「なぜ、薄笑いなんかするの」と由紀の声は尖った。
里見は、怒っている時の由紀の瞳を努めて見ないようにしていた。
里見の指に絡みつく由紀の指は冷たくぬめっていた。
「今回の映画出演には、気乗りしないの」と愚痴をこぼす由紀は神経を終日ピリピリさせていた。
愛した女の嫌な面に接して、里見は優しい気持ちになれなかった。
里見の心の中にすきま風が吹いていた。
彼は撮影所に由紀を下して、成城学園駅へ向かう予定であった。
由紀が眠りにおちた時、タクシーは上町を左折している。
里見は未婚の母を自ら選択した川田典子と暮らしたアパート辺りを見たくなる。
突然の方向変更に、タクシーの運転手は念を押すように「東宝撮影所へ行くのんですね」と声をピリッとさせ念を押す。
「少し遠回りだけど、この道を行ってください」と里見は声を和らげた。
由紀は青山通りでタクシーに乗車した時から、今回の映画出演に不満を露わにしていた。
浅井次郎監督に対する由紀の辛辣までの批判を里見は聞き苦しいと嫌な気分となった。
どうひいき目に見ても、非は由紀の方にあるとしか里見には思えなかった。
「監督は私を正当に理解していないのよ」
里見はそれ以上、愚痴や批判は聞きたくないと、タバコを取り出したが、火はつけなかった。
年齢より若く映じる由紀が、一人娘が居る人妻役を演じる。
しかも、ダブル不倫のドラマであり、最後は相手の男と情死する役柄だった。
また、幼く映じる由紀を揶揄するような週刊誌の記事にも翻弄されていた。
「週刊誌は俗悪、売れさえすればいいのね。あの時だって・・・」由紀は歯ぎしりように怒りを込め、悔し涙を流した。
作曲家の秋葉元との不倫問題の記事である。
「愛しているのは、あなただけよ」由紀は甘えるような仕草の中で言う。
里見の胸に左手をあてながら、顔を埋めるようにして上目つかいで微笑む。
「愛している、と言ってみてよ」幼く繕う口調は、里見が初めて由紀と出会った時そのものであった。
ヘップバーンカットはヘップバーン刈りとも呼ばれているように、後を刈り上げたのだ、 という説明もあります。とても短いカット。
昭和二十九年の夏、日本列島の若い女性の髪形が一気に変わった。その年の四月に映画『ローマの休日』が公開され、アン王女を演じた新人女優オードリー・ヘップバーンのショートカットに魅了 された。