高原 永伍の「高原オッズ」

2018年11月24日 13時01分57秒 | 未来予測研究会の掲示板

高原 永伍(たかはら えいご、1940年1月3日 - )は、元競輪選手。

現在は日本競輪学校名誉教諭。
現役時は日本競輪選手会神奈川支部所属。
川崎市川崎区出身。命名は高原 永俉(読み同じ)で、1941年1月3日に高原家の三男として生まれる。高原家は長男・悠光、次男・以好、四男・由价、五男・清多と、家族の男子は後に全員が競輪選手となっている。
幼年期は後に歌手となる同郷の坂本九と同世代であり面識もあった。

若い頃は血気盛んで、東京商業高等学校を中退後の一時期はボクシングを行っていたが、やがて既に選手となっていた長兄の悠光を追うように競輪選手を目指すことになる。
競輪選手としての戦績
既にアマチュアとして活躍していた次兄の以好と共に、1959年3月に日本競輪学校へ第13期生として入学する。卒業後は6月27日に門司競輪場の同期同士による新人戦でデビューすると、翌日に初勝利を挙げて兄の以好と共に決勝に進出したが、決勝では兄の以好を連れて逃げて兄を優勝させ、自身は着外に沈んだ。
しかし、この事があってから同期の平間誠記は高原永伍に対し激しい敵愾心を抱くようになり、後には既にトップの地位を確立していた白鳥伸雄をも交え「3強」として、文字通りに生死を賭けるほど激しい争いが繰り広げられることになった(この頃は安全面への対策不足から競走中の死亡事故が稀でなかった状況下にあった)。
その後特別競輪での優勝は平間などに先を越されてしまったものの、高原は過度の練習で体調を崩すこともあったほど鍛錬を続け、1962年にはミラノで開催された世界選手権自転車競技大会に出場し、高原はスクラッチ(スプリント)競技で準決勝敗退となる。世界選手権への参加はこれのみとなったが、この時共に参加していた松本勝明は高原の実力を認め、以降は互いに親交を持つようになった。
そして1963年の日本選手権競輪決勝3着から才能が開花し、怒涛の勢いでオールスター競輪での特別競輪(現在のGI)初優勝を果たすと高松宮杯競輪も優勝し、年末の競輪祭では若手メンバーの新鋭王(その後の新人王)で優勝した直後、当時の制度により一般メンバーの競輪王戦にもスライドで出場し、その競輪王まで優勝を果たした程で、この年は競輪選手で初めて年間獲得賞金1千万円突破を果たす形での賞金王に輝いている。
そして1964年までに新鋭王を含む通算で7つものタイトルを奪取し、競輪における高原時代の到来を強烈に印象付けた。
高原が出場するレースでは、車券において高原が1着以外になった場合の配当がすべて万車券になってしまう「高原オッズ」という現象まで起こしたほどで、高原が先行態勢に入った段階で勝利を確信したファンが、結果を見ずして車券払戻所に列を作ったとまで言われる。
その強さから高原は競輪選手ではじめて世間に「一般的な存在」として取り上げられるようにまでなり、寺山修司なども高原について記した文章を残している。
1967年の結婚を記に、高原は本拠地を川崎競輪場から平塚競輪場に移動して神奈川県平塚市内に自宅を新築する。この年に白鳥伸雄が引退すると、一時の低迷から脱却した平間誠記と高原永伍との争いは2強状態で推移することになり、先に平間が特別競輪の全冠制覇に王手をかけると、高原も1968年2月の秩父宮妃賜杯競輪優勝により全冠制覇に王手をかけた。しかしこの年の8月、高原の本拠地である平塚で合宿を行っていた平間が、競走参加中で不在だった高原の自宅に訪れた数日後、事故により落命する皮肉な巡り合わせが起きてしまい、平間と高原の争いにも幕が下ろされた。
一人残される形になった高原には全冠制覇への期待がかけられ続けることになり、1970年2月の日本選手権競輪決勝は松本勝明がトップ引きを申し出るという間接的な援護を得た形で行われたが、最後の直線で工藤元司郎に交わされ2着に敗れ、高原は以降も日本選手権競輪だけ手が届かず全冠制覇を成し遂げることができなかった。
それ以降もあくまで自分の先行にこだわりを見せて走り続け、38歳までオールスター競輪に出場するなど高い人気を保ち続けていたが、緩やかながら徐々に成績が下降していき、1989年に当時の最下位クラスであるB級に陥落した時には関係団体から引退の要請も出ていたが、本人は固辞して走り続け、競走得点不足による強制登録消除が確定した時点で引退を表明し、1994年3月14日に平塚競輪場で挙げた941勝目をもって競輪選手として最後の競走を全うした。


競輪の世界を知ってもらいたかったんです

2018年11月24日 12時47分34秒 | 未来予測研究会の掲示板

編集会議掲載記事の引用
-「書きたいこと」には、
どのように出会われたのですか?
25歳の時に神戸から上京し
編集アシスタントなどの職を転々としていたのですが
ある時、大阪で働いていたころの会社の上司が、
競輪選手の話をしてくれまして。
埼玉の大宮競輪場で今度その選手が走るから
見に行ってみないかと、誘われました。
この競輪選手がデビュー作でテーマにした
高原永伍選手です。
すでに当時50歳くらいでしたが、
「逃げ」という、スタート直後に先行して、
そのまま逃げ切るという、戦法を使っていたんですよ。
逃げて、勝てればかっこいいのですが
先行するがゆえの風圧や年齢などの要因があって、
なかなか勝てませんでした。
たとえスタート直後に先頭に立っても
ズルズルと追い抜かされ、結局負けてしまう。
それにもかかわらず、観客のおじさんたちは盛り上がり
高原選手に対してエールを送っているんです。
それで「この人、何者だろう?」と。
これが、発端ですね。
それに、高原選手は、
わたしがうまれた1963年に競輪王になられていて、
そこにも縁を感じました。
当時、後楽園競輪場に、
8万人が詰めかけるほど競輪が全盛期だったんです。
隣の後楽園球場では、王・長嶋が5万人集めたんですよ。
今では考えられない規模ですね。
―それで、その高原さんに
取材をしたいと思われたんですか?
そうですね。
ただ、会って話を聞いてみたいというだけで
そのころは「取材」という言葉の本当の意味すら
知らなかったかもしれません。
その後、手紙を書いて、お会いした際に改めて、
遠征に同行、取材させていただけませんか?
と伺いましたが、明快な答えはもらえませんでした。
でも、お礼の手紙を書くなど、やりとりしているうちに
徐々に話をしてくださるようになりましたね。
そんな中、遠征先でスポーツニッポンの記者の方と
知り合ったのです。
「おねえちゃん何やってるの?」と聞かれて。
「高原永伍選手の取材をしています」と答えたら、
すごくびっくりされました。
知らなかったのですが、マスコミ嫌いで
全然取材を受けない方だったそうなんですよ。
―その取材された高原選手の記事を、
出版するには、どのような経緯だったのですか?
最終的には、先ほどの記者の方や
競輪雑誌の編集者の方の紹介で
徳間書店から出版していただくことになりました。
でもそう決まるまで、自分の自伝でもないのに
北九州市の自分史文学賞に応募したりもしました(笑)
小倉が競輪発祥の地というだけの理由です。
とにかく本にしたかったんです。
自費出版でもいい、と思っていました。
―そこまで「本にしたい」思わせた原動力は、
何だったのですか?
高原選手を通じて競輪の世界とそこに生きる人たちを
一人でも多くの人に知ってもらいたかった。
すでに引退した選手や、
予想屋さん、食堂のおばさんなど
競輪場で働く人々にもさまざまな人生があります。
そもそも、国がギャンブルを運営していること自体、
不思議な話だと思いませんか。
戦後史とも深い関わりがあるんですよ。
―高原選手を取材している間も、
お仕事はされていましたか?
もちろんしていますよ。
競輪は、だいたい土・日・月に行われるので、
平日会社に行って、週末取材する。という生活でした。
今では信じられませんが、
初版1万部も刷っていただけたんです。
ただ、それで食べていけるわけではないので
出版後も、編集の仕事は続けていましたが。
高原永伍という選手の名前は、
競輪ファンなら、絶対に知っているんです。
寺山修司や阿佐田哲也、寺内大吉といった作家たちに愛された選手でもありました。
出版を決めてくださった徳間書店の編集者は、
阿佐田哲也の担当だった方なんですよ。
この本を出版できたことで、
競輪界を取材できるようになり、
私の名前も認知していただけるようになりました。
―上司の方に誘われるまで
競輪に興味はありましたか?
まったくありませんでした(笑)

最相 葉月(さいしょう はづき、女性、1963年11月26日 - )はノンフィクションライター、編集者。
プロフィール
1963年生まれ。関西学院大学法学部卒業。
会社勤務、フリー編集者を経て
ノンフィクションライターに。
スポーツや音楽、教育、科学技術と人間の関係性を
テーマに取材活動を行う。
主な著作に、『絶対音感』『青いバラ』
『東京大学応援部物語』
『いのち 生命科学に言葉はあるか』
『星新一一〇〇一話をつくった人』など。
近刊に『ビヨンド・エジソン』がある。


子どもの施設訪問アドボカシー

2018年11月24日 12時21分12秒 | 社会・文化・政治・経済

施設訪問アドボカシーの意味

子どもには自分に関わる決定について意見を表明することができます。

そしてその意見をおとなによって聴かれ、考慮される権利があります(国連子どもの権利条約12条)。しかし実際には、おとなはどれだけ子どもの声を聴いているでしょうか。

家庭でも、学校や保育所でも、そして親から離れて施設で生活する時でも、おとなの決めたことに従順に従うことを子どもは求められてきたのではないでしょうか。

 おとなが子どもの声を聴き、それが子どもの生活に関わる決定に影響を与えるように支援することが「アドボカシー」です。

比喩的に言えば、子どもの声を大きくする「マイク」のような役割です。

「子どもの声なんて」と軽視して、耳に入らないおとなに、子どもの声が届くようにするのです。

また無力感にとらわれて声を出すことができなくなっている子どもたちが自信をもって自分の気持ちや願いを話せるように励まし、支援することもアドボカシーの仕事です。

 国連子どもの権利委員会は、乳幼児も障害児も、すべての子どもには、声を聴かれる権利があるとしています。

親でも専門職でもない第三者の支援者として、イギリスではNPOなど市民が子どものアドボケイトとして活躍しています。

市民だからこそできるアドボカシー、それが今、日本でも求められています。

イギリスでは、1970年代から施設等で生活している子どもに対して市民によりアドボカシーが行われてきました。

障害児施設、児童養護施設、里親宅、学校の寄宿舎などです。

全国の様々な場所に、子どもたちが行政やケアを提供する人たちから完全に独立したアドボケイトと話すことができ、またアドボカシー(傾聴・意見形成支援・意見表明支援等)を受けることができるようにするためのサービスです。日本でもこうしたサービスがぜひ必要だと考え私たちは研究に取り組んでいます。(堀正嗣)

 施設訪問アドボカシーが求められる背景

① 2016年 の児童福祉法等の一部を改正する法律(以下、改正法とする)では、理念規定において児童の意見尊重・最善の利益の考慮な どが明確化された。国連児童の権利委員会は、2011年に、「児童相談所を含む児童福祉サービスが児童の意見にほとんど重きを置いていない」ことを懸念し、その対策を講じるよう日本政府に勧告している。改正法における「児童の意見尊重」の明確化は、勧告への対応となるものであるが、それを担保する制度・サービスの整備は今後の課題であり具体的な制度設計が求められている。

② 2013年度の被措置児童等虐待の通告受理件数は288件で過去最多となった。被措置児童等虐待対応をはじめとした権利擁護の制度化が行われてきたが、さらに強化することが求められている。現在、児童福祉施設の小規模化が推進されているところであるが、「閉鎖的あるいは独善的なかかわりになる危険性」(厚生労働省:2012)が懸念されている。施設内虐待の背景に、「施設の閉鎖性・密室性」があることはつとに指摘されているところであり、外部機関からのアウトリーチの必要性が高まっている。

③ 障害者権利条約第7条3項は、障害のある児童の意見表明権の保障及びその際の「障害及び年齢に適した支援の提供」を求めており、それを担保する制度設計がもとめられている。                                (堀)


子どもに出会い、子どもの声を聴く

2018年11月24日 12時16分15秒 | 社会・文化・政治・経済

子ども情報研究センター(森山康浩代表理事)

子どもの権利条約にも謳われている「子どもの最善の利益」実現のために事業を展開する。
子ども情報研究センターは子どもとおとなのパートナーシップ社会の実現のために様々な事業を実施しています。

子どもに出会い、子どもの声を聴き、「子どもの権利条約」に則って、子どもの意見形成、意見表明支援に努めています。子どもには自分のことは自分で決めていい、自分の気持ちを親や周りのおとなに伝えていいと伝える活動をしています。
いじめ、先生からのセクシュアル・ハラスメント、体罰、親からの暴力、友だちや親や先生との関係で悩んでいることなど、困っていることやどうしたらいいかわからないことなど、なんでも相談できます。
困っているとき、悩んでいるとき、電話もいいかもどんなことでも、あなたの声を聴いていっしょに考えます。
子育て、子育て支援、子どもの権利擁護、人権保育等にかかわる講座の紹介、講座企画等をしています。
乳幼児の親子が、気軽に相互交流する「つどいの広場」。
子ども情報研究センターでは、大阪市の委託を受けて、「大阪市つどいの広場事業」を実施しています。
こちらでも相談できます。
秘密は必ず守ります。保護者、先生からの相談もお受けします。


川原できれいな石こと探し

2018年11月24日 11時21分29秒 | 社会・文化・政治・経済

石そのものよりも、そこに含まれている鉱物が面白い。
中には、きらきらしたきれいなサファイアや、ガーネットなどが見つかることも。
水晶は結構見つかりやすいはずだ。
自然環境研修オフィスの柴山元彦代表
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どこにでも転がっている“石ころ”にロマンあり その探し方とは?

2018年6月25日 23時0分 新刊JPニュース
どこにでも転がっている“石ころ”にロマンあり その探し方とは?
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道端や河原に転がっている石ころに普段から注目している人は少ないだろう。
だが、石ころにはロマンがある。素晴らしい景観を作り上げた壮大な自然の営みを感じることができるものなのだ。

そう述べるのは、『素敵な石ころの見つけ方』(中央公論新社刊)の著者であり、石ころ探し人の渡辺一夫氏である。
本書では、石ころの見つけ方、楽しみ方など、石ころ探しの魅力を紹介している。

渡辺氏の石ころとの付き合い方は、研究者のようにフィールドを定め、データを整理し、論文をまとめる、といった学術的な姿勢とは対極にある。

「この河原に行けば、この石ころに会えるはず」
「あの海岸に行けば、あの石ころに会えるはず」
こんな風に、わくわく感を大切にして石ころを探しに行く。

また、石ころ探しは、コレクションとは違うという。
「集めたい」という感情の赴くままに持ち帰るのではなく、まずは手に取り眺めて楽しむ。収集はあくまで「自然を楽しむ方法の一つ」だということは忘れてはいけないのだそうだ。

石ころには火成岩、堆積岩、変成岩などの種類がある。
ただ、石ころ初心者の人ほど、種類や名前のことは横に置いて、とりあえず気になったものを手に取るのがいいと渡辺氏はいう。
また、「収集する石ころは手のひらに載る大きさにとどめたい」というのが、渡辺氏が決めた「石ころ」と呼んでいい大きさの標準だ。

では、どこに探しに行くのがベストなのだろうか?
まずは川原から始めるのがいいという。近所にどんな川があるかを地図帳やネットの地図サイトで調べておこう。

歩きやすさでいえば、下流から上流に向かい、前方に山並みを見ながら歩くのが楽しめるが、川原歩きはハイキングコースを歩くのとは違う。適度な緊張や判断、運動能力が必要だ。探検と同じなので、注意して挑んでほしい。
また、川の仕組みを知っておくと、川原歩きのコツがつかみやすく、石ころのある場所がわかると著者。

そして、探した石ころには、採集地を記しておくのが基本中の基本だ。渡辺氏は、手に取ったその場で油性ペンを使って、河川名や海岸名を小さく記しておくという。これをしておかないと、持ち帰って時間が経つと、どこで見つけた石ころかわからなくなってしまうからだ。

どんな分野でもよく覗いてみると、奥が深いもの。石ころの世界も奥が深い。そして、渡辺氏の石ころ愛を感じる一冊だ。

(新刊JP編集部)


11月23日(金)のつぶやき

2018年11月24日 03時18分28秒 | 医科・歯科・介護