徹が25歳の時に出逢った朝賀麻実は既に結婚していたのであるが、皆が独身と想っていた。
一人住まいであり、「私の部屋へ来ない」と男性の徹も誘う。
話し込こんで終電がなくなり、泊めてもらう。
布団一つなので、一緒にも寝た。
でも深い関係ではない。
「男女の友情よ。分かってね」と言われる。
当時、当方も<男女の友情>はあると思っていた。
彼女の住まいは目黒駅からバス5分ほどの閑静な住宅街にあった。
大家さん夫妻は60代。
お子さんは同居していない。
母屋が木立の奥にあり、大きな門をくぐると右側の竹の林の中に離れの家屋に二部屋。
6畳一間の下宿で、隣の部屋は4畳半で目黒区役所に勤務する麻実と同じ年の女性が住んでいた。
彼女は徹の大学の先輩を「畠山」と呼び捨てにしているので、徹は違和感を抱く。
「畠山さんは、3歳も年上なのだから、さんというべきではないかな」と注意したが、彼女は無視する。
実は、彼女は畑山さんと別居結婚をしていたのだった。
彼女が、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの<信奉者とはね>徹は驚いたり、納得したり。
彼女はどこで、どのように畠山先輩と出逢ったのだろうか、と想像してみた。
畠山先輩は彫刻家であったので、モデルとして麻実と出逢ったのだろうか、などと・・・
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シモーヌ・ド・ボーヴォワール (Simone de Beauvoir; 1908年1月9日 - 1986年4月14日) は、フランスの哲学者、作家、批評家、フェミニスト理論家・活動家である。
20世紀西欧の女性解放思想の草分けとされる『第二の性』(1949)、ゴンクール賞を受賞した自伝小説『レ・マンダラン』(1954) など多くの著書を残した。
主要著書はほとんど邦訳されている。
1970年代に人工妊娠中絶の合法化を求める運動をはじめとする女性解放運動に加わり、『レ・タン・モデルヌ』、『フェミニズム問題』などを通して運動を牽引した。
在学中に出会ったジャン=ポール・サルトルとは、実存主義の立場から自由意思に基づく個人の選択を最重要視し、婚姻も子どもを持つことも拒否。
互いの性的自由を認めつつ終生の伴侶として生きた。
1954年にゴンクール賞、1975年にエルサレム賞、1978年にオーストリア国家賞を受賞。
2008年、「女性の自由のためのシモーヌ・ド・ボーヴォワール賞(フランス語版)(略称:シモーヌ・ド・ボーヴォワール賞)が設立され、アヤーン・ヒルシ・アリ、マララ・ユスフザイ、ミシェル・ペローらが受賞している。
必然的な愛 ― 終生の伴侶サルトル
パリ6区ラスパイユ大通り136番地にあるバルザック記念像前のボーヴォワールとサルトル (1920年代)
1929年(21歳)、哲学のアグレガシオン(一級教員資格)試験に合格。前年に落第したサルトルが主席、ボーヴォワールが次席であった。
21歳での合格は史上最年少であり、また女性全体としてもアグレガシオンが女性を受け入れ始めてから9人目の合格者だった。
志願者76人のうち、合格した女性は4人、男性は9人で、ニザンは5位、マウーは落第した。ダンフェール=ロシュロー通り91番地に越す。
サルトルから婚姻も子どもを持つこともなく、嘘をつくことも隠し立てをすることもなく、互いの性的自由を認めつつ終生の伴侶となることを提案される。
これ以前に、サルトルは、高等師範学校の同級生の従妹でリヨンに住む女性との結婚を望み、彼女の両親に正式に申し込んだが、アグレガシオンに落第したことを理由に反対されていた。
制度としての婚姻や母性を拒否し、自立と自由を求めていたボーヴォワールは最終的にこの申し出を受け入れた。二人のこの反体制順応的な関係は、しばしばサルトルの「私たちのあいだの愛は必然的なもの。
でも偶然の愛を知ってもいい」という言葉により表され、新たな男女関係のあり方として若い世代を魅了した。
なお、二人の関係はサルトルがボーヴォワールを「身分違いの妻 (épouse morganatique)」と呼んだことから[5]「貴賤結婚 (mariage