第15代総長 南原繁
真理の探究に生涯を捧げる
南原繁は、戦後間もなく本学第15代総長になった。
同学在任中は法学部の教授を務め、政治哲学の分野において歴史的な学問業績を残した。また、理念だけでなく現実をしっかりと見定め、政治・教育の分野において的確な意見を語り、政策を実行してきた現実主義者でもあった。
一高で新渡戸稲造と出会う
1907年7月、17歳の南原は第一高等学校に入学した。
一高入学により南原はそれまでの生き方を根底から揺るがされるほどの文化的衝撃を受けるようになる。
それは西洋文明との出会いであった。
南原はしばらくの間、儒教によって育まれた人生観と新たに出会った西洋文化との二つの世界の中で悩みながら過ごすことになる。やがて南原は新渡戸稲造、内村鑑三との出会いにより、それまでの儒教的人生観から、キリスト教に回心していくのである。
新渡戸稲造は南原が一高に入学した時の校長であった。
新渡戸の教育理念は、西欧的な教養によって裏付けられたものであった。
その二つの柱は、内省による人間形成を求めるヒューマニズムの精神と、世界平和のための国際協調を訴えるインターナショナリズムである。
新渡戸のこうした教育理念はあきらかに反時代的であり、その反時代性ゆえに、一高生に大きな感化と影響を与えたのである。
南原もその影響を深刻に受け止めた。家を再興し、「天下国家」に奉仕し、国益を広めることを信条としていた南原にとって、内面世界の重要性を訴える新渡戸の教えは、それまでの生き方の問い直しをせまるだけの重い意味を持っていた。
それからは新たな自己確立を果たすための読書と内省の生活が始まった。
南原の内面には、真の自己を見い出したいと願う切実な欲求があった。
内村を通じてクリスチャンに
自己確立のために、諸宗教の門を叩くなど精神の遍歴を経た南原は、やがて「生涯の師」に出会うことになる。それはクリスチャンで無教会主義の創始者である内村鑑三であった。深い悩みの中にあった南原は、内村との出会いによってキリスト教に新たな人生の光を見い出したのである。それは南原にとっての「第二の生誕」であった。
しかし南原はクリスチャンになったことによってそれまで身につけていた全ての価値観を失ったわけではない。例えば、南原が儒教によって与えられた「人間の共同体的結合に、高い価値を付与する共同体的価値観」は生き続けた。
それは、後にキリスト教的神性と国民共同体とを結び付けようとする哲学的立場として復活することになる。南原が内村との出会いによって清算したのは、世俗的な立身を目指す功利主義的な生き方であった。
筧哲学からプラトンに共鳴
南原が入学した当時の法科大学では、実証的・法解釈的な学風が強かった。その中で南原が哲学に関心を持つ大きなきっかけになったのが、「仏教哲理」「西洋哲理」などの著作で知られ、唯一の哲学的講義をしていた筧克彦である。南原は大学四年間にわたって筧から仏教哲学に由来する普遍我や事物の根本関係を説いた国法学、西洋哲学を内容とする法理学を教わり、大きな影響を受けている。
筧により南原は哲学への興味、関心が育まれたのである。そして目指すべき哲学の方向性の手掛かりを筧から与えられたのである。
南原は筧の講義によって、プラトンに深く共鳴した。
南原の奥深くには小学校時代に身につけ、キリスト教信仰によってゆるぎないものとなった超越的な存在への確信があった。
そうした南原が、経験主義的、実証主義的なアリストテレスに不満を感じて現象界を超えるイデアの世界の実在を解いたプラトンに共感を覚えたのは自然なことであった。こうして南原は筧により哲学への方向を意識するようになる。
そして、哲学への意識をさらに「政治」についての哲学に向けるようになる。そのきっかけは学問の恩師小野塚喜平次との出会いであった。
政治哲学者になることを決意
そして、小野塚から受けた三つ目の影響は、南原にとって逆説的で決定的なことであった。小野塚の講義を通して「科学としての政治学」を学ぶ中で、政治学に「哲学的な考え方を取りいれてゆく領域があるのではないか」と感じさせられていたことである。南原は、小野塚の経験主義的な政治学に触れることにより、逆に筧から与えられた経験を超越する哲学への関心をより深めたのである。
南原は小野塚との出会いを通して、自らの道は政治に関する哲学的研究であることを予感する。
一高に入学して以来ずっと精神の遍歴を重ねてきた南原は、そこに自身の個性に見合う「生涯を通して成し遂げるべき業」を見出していった。
それは自らが「何であらねばならないか」を問い続けた末に「何を為すか」への手掛かりを得たという意味で、新渡戸の教えに対する南原の答えとなった。
「新日本文化の創造」を演説
戦争とファシズムが吹き荒れた時代の中、反時代的である自らの立場をジャーナリズムに発表することなく、「洞窟の哲人」として学問に打ち込んだ南原は、第二次世界大戦終了直前に法学部長となり、大戦終了後の1945年12月に東大総長となった。
南原は、戦後の日本が自主自律的な変革を必要としていると一貫して訴え続ける。1946年2月11日の紀元節にあたって新たな国家の再建を呼びかけた「新日本文化の創造」と題する総長演説を行なった。この演説で南原は、日本に欠けているものは「人間意識」であり、「人間性理想」であったと表明。よってその実現を目指す主体的な人間革命による新たな国民精神の創造こそが世界的な普遍性に立つ、新日本文化の創造、道義国家日本の建設の道であること、それが日本が世界と自らとに犯した過去へのつぐないを果たし、「民族の復活と新生」につながる方向であると熱っぽく語った。
この「新日本文化の創造」演説が示すように、南原は戦後改革が目指すべき「真の革命」の方向を、「道義国家日本の建設」との結合に見出していた。それを支えていたのは、真・善・美・正義からなる文化諸価値が「相関関係」をもつとする南原の価値哲学であった。この哲学に立つ限り、南原にとって「真の革命」は政治的価値としての正義の実現を目指す「政治革命」と、「真理や人格価値」の確立を目指す「人間革命」との一致によってのみ成就し得るものだからである。
真理の探究に生涯を捧げる
南原は政治哲学者として理想と現実の中で絶えず現実を克服して理想に近づく努力をしてきた人であるといえよう。
それが顕著に表れたのが、1949年、冷戦状態を超えて全面講和と永世中立を主張することで独立を図ろうとする南原と、冷戦状態を受け入れて米国を中心とする西側自由主義諸国との片面講話を選択して日本の独立を進めた吉田茂との対立に現れている。
吉田からは、現実を直視せずに空論をもてあそぶ「曲学阿世の徒」と批判された。
南原の取った立場は、現実は克服すべきものとする政治哲学者としてのゆるぎなき信念から来るものであったと推察できるのである。
南原は、東大総長を離任する際に、「真理は最後の勝利者である」とのメッセージを残している。政治哲学者として真理を探究し、ひたむきに人間としての理想を追い続けた南原の人生から、私たちは、学問に対する姿勢や学生として今何を為すべきかなど学ぶことがたくさんあることを知るだろう。
人間革命による新たな国民精神の創造こそが、道義国家日本の建設の道であると説いたのは、南原茂東京大学第十五代総長であった。
南原繁著『人間革命』東京大学新聞社1948年3月刊。
南原にとって「真の革命」は政治的価値としての正義の実現を目指す「政治革命」と、「真理や人格価値」の確立を目指す「人間革命」との一致によってのみ成就し得るものだからである。
(中略)
南原は、東大総長を離任する際に、「真理は最後の勝利者である」とのメッセージを残している。