語り継ぐ8代目 間宮正孝さん
つくばみらい市の間宮正孝さん(49)は、間宮海峡を発見したことで知られる江戸時代の探検家で測量士、間宮林蔵の生家を継ぐ8代目。
子供のころは林蔵の偉業を聞いてもぴんとこなかったが、大人になって測量の知識を得ると改めて尊敬の念がわいた。
間宮海峡発見200年という節目の今年、林蔵の業績や人となりを再認識しようという機運が高まり、まちおこしの起爆剤になればと、地域とともに汗を流す。
林蔵の像を見上げ偉業を懐かしむ
間宮林蔵は1780年(安永9)、上平柳村(つくばみらい市上平柳)の農家に生まれた。名は倫宗(ともむね)、号は蕪嵩(ぶすう)といい、林蔵は通称。
武士の血筋を引くが、生家は米やたるを作ってほそぼそと暮らしていた。
子宝に恵まれなかった両親がやっと授かった一人っ子で、大切に育てられ幼いころから神童と呼ばれた。
長じて生家近くを流れる小貝川の堰き止め工事の有効なアドバイスが幕府役人の目に留まり、江戸での修業を経て時に危険も伴う日本各地の仕事に奔走した。
19歳で蝦夷地(北海道)に渡り21歳の時に測量士の伊能忠敬と師弟関係を結び、東蝦夷地や南千島などの測量を行った。
その後、択捉島や樺太の測量にも携わり、1809年(文化6)、樺太と大陸間に海峡があり樺太が島であることを確認。
ドイツの博物学者、シーボルトが翻訳した日本辺境略図で世界に初めて「間宮海峡」と紹介され、世界地図に名前が残る唯一の日本人として今に伝えられる。
生涯独身を貫き家庭も実子もなかった林蔵は、故郷で暮らす両親の老後と田畑の管理などを憂慮。自分に代わる後継ぎとして、両親に分家から養子を迎えてもらった。
「両親としては、親元を離れて要職に就いている一人息子に継いでもらいたいというのが本音」と話す正孝さんは、その分家筋の養子・正平(鉄三郎)の子孫にあたり、7代目の父、雅章さん亡き後間宮家を継いでいる。
子供のころは特に「林蔵の子孫」という意識もなく、1955年(昭和30)に県指定文化財史跡に指定され71年に移築・復元された茅葺きの生家に住んでいたころは、林蔵研究家や外国人、テレビ制作スタッフなど多数の来客に父が熱心に対応していた姿を覚えている。その様子は楽しそうだったが、自身の興味を引かれることはなく、山形の大学では経済を学び、卒業後は大阪の精密機器メーカーに就職。そこで約7年間測量機を販売する営業を担当した。もともと人と話すのが好きで、物づくりや機械も好き。客との信頼関係を築くため測量機の構造を熟知し、不具合を見極め修理もできるようになるとふと林蔵のことが頭をかすめた。測量士の林蔵にとって測量機はなくてはならない道具。くしくも測量機を扱う仕事に就き、その機械を知ることが林蔵について学ぶきっかけになったことに、不思議なえにしを感じた。
特に仕事の一環で同行した国土地理院の測量作業は、不屈の精神と忍耐力、自分の足を頼りに偉業を成し遂げた林蔵を改めて思い知るよい体験になった。
一般公開されている生家をバックに笑顔の正孝さん
そんな仕事に区切りをつけて故郷つくばみらいにUターンしたのは30歳の時。市商工会で約14年働き、今は介護サービスの仕事で奮闘の日々。
仕事のかたわら93年市内にオープンした間宮林蔵記念館で解説員をすることもあり、96年には自身のホームページ「間宮林蔵の世界へようこそ」を開設し、林蔵の研究者・技術者魂や人となりを広く紹介している。
林蔵没後150周年の94年に双子が生まれ、それぞれ林蔵の本名を一字ずつ授けて倫考、宗考と名付けた。
歴史をつないでくれればとの期待もあるが、「あまり荷が重くならないようにしています。自分もそうだったように自然体でいてくれればうれしい」と優しく見守り地域の子供たちにも林蔵の業績を広く知ってほしいと願う。
間宮海峡発見から200年。
その偉業を後世に伝えるイベントが、開かれたつくばみらい市で開かれる。