リアル過ぎる 金正男氏の暗殺

2018年11月17日 15時37分17秒 | 社会・文化・政治・経済

金正男氏の暗殺、白目むき激しく痙攣「一か八か」医師が下した決断 襲撃30分で「絶命寸前」1時間の攻防
11/17(土) 7:00配信 withnews

マレーシアの空港で、顔に謎の液体を塗られた金正男(キム・ジョンナム)氏は、近くの診療所で「顔が痛い」と異変を訴えた。

警察への取材や医師らの証言によると、異変は見る間に全身に広がり、血や泡を吹いたり、痙攣(けいれん)したりする症状が続発。襲われてから30分足らずで、ひん死の状態に陥った。裁判が続く中、新たに明らかになった情報などから「その時」に迫る。(朝日新聞国際報道部記者・乗京真知)

【図解】金正男氏の「奇妙な遺留品」パスポート4枚、デル製のPC、iPhone、大量の札束…

仰向けで反応なし
 2017年2月13日朝。空港の出発ホールで襲われてから11分後、正男氏は診療所にたどり着く。診察カウンターに歩み寄り、「顔が痛い」「誰かが顔に液体をかけてきた」と訴える。右腕は手荷物の黒いバッグを支え、なんとか自力で立っている。

 しかし、ほどなくカウンター横にへたり込む。口から血や泡を吹き出し始める。心臓の動きが弱まったときに見られる症状だ。

 襲撃から30分たつ頃には、意識を失う。倒れた正男氏の体を、看護師や救急隊員ら数人が持ち上げる。仰向けの状態で、ストレッチャーの上に引きずり上げる。

異変が同時多発
 白目をむいた正男氏の額に汗が噴き出す。涙やだ液も止まらない。
救急隊員がテッシュをつかみ、繰り返し拭き取る。
 
 心臓の動きが、さらに弱まる。
血流が滞り、酸素不足に陥る。血中の酸素の量の目安となる「酸素飽和度」が、絶命寸前の40%以下に落ちる。正常値は90%台後半だ。

 なんとか命をつなぎとめようと、診療所の医師が救命措置を急ぐ。酸素マスクをあてがいながら、心臓の動きを促すアドレナリンを注射する。

 相前後して、発作の症状も現れる。歯を食いしばり、激しく痙攣(けいれん)する。

救命手詰まり
 原因が分からないまま、同時多発する異変。心臓に加えて肺の動きも弱まり、いつ呼吸が止まってもおかしくない。
のどに管を通し、強制的に酸素を送らなければならない。

 医師は、のどに詰まった血へどを取り除き、管を通す。のどの奥から胃酸の臭いが逆流してくる。

 ひん死の正男氏への救命処置は、1時間余り続けられた。それでも、正男氏の反応は戻らなかった。診療所は、わずかな可能性にかけ、正男氏を大きな病院へ運び出すことを決めた。


日本ボクシング連盟の会長選2011年の暴力事件

2018年11月17日 15時04分55秒 | 社会・文化・政治・経済

「ペンの暴力で悪くない人間をハメこんだトップが毎日新聞なんや。俺は法を犯したんか!」
先月(10月)、山根明会長(79)に改めて取材を求めようと自宅を訪ねたところ、怒気を含んだ言葉が
返ってきた。

11月16日毎日新聞記者の目 武本光政記者(大阪本社)
暴力を加え負傷させたのは、山根氏の「秘書」で、暴力団の「企業舎弟」とされている。
山口組系暴力団の元組長(81)2006年に簿力団を解散=との半世紀にわたる交友関係毎日新聞が報じが念頭にあるのだろう。
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告発状に新疑惑 山根会長の対抗馬、暴行受けた 選挙前「プロ」から殴られたと証言
デーリースポーツ

番組出演を終え、テレビ局を出る日本ボクシング連盟・山根明会長=大阪市内

 都道府県ボクシング連盟の幹部や元選手ら関係者333人が、スポーツ庁や日本オリンピック委員会(JOC)などに日本ボクシング連盟の不正についての告発状を送った問題で、告発された12項目の中に2011年の同連盟の会長選挙に関わる暴力事件疑惑が含まれていることが8月3日、明らかになった。
山根明会長(78)が会長に就任する直前に選挙の対抗馬であった当時の副会長が関係者から暴力をふるわれたというもの。
告発状には、山根氏の会長就任に反対していたために殴られたという趣旨の証言も添付されている。
山根氏はこの日、デイリースポーツの取材に応じ、全面否定した。
 告発状に添付されているのは、11年に第12代会長を決める選挙前の出来事について、告発状を提出した「日本ボクシングを再興する会」が聞き取った証言だ。
証言者は当時の日本連盟副会長のA氏。
選挙前のある日の会合に、同じく当時副会長だった山根氏の地元奈良県連盟の男性と、その他関係者数人と食事した後のことだった。
 さらにホテルの部屋で酒を飲むことになっったが、すぐに他の関係者が酒を買いに部屋を退出。
2人になると男性はA氏に山根氏の会長就任を容認するように懇願した。
A氏が「みなさんが決めること」と返すと「急に立ち上がってきてね、ここをブチーンて殴ってきて、ドアのロックをかけて」と密室で殴られたことをA氏は証言している。
 殴られたのは腕で、A氏は「あいつらもプロだなと思ったけど…。顔を殴られたら警察騒ぎですね」と振り返るが、アザができた腕は「整形(外科)に行って写真もある」という。
後日山根氏から「どないするつもりや」と電話があったことも証言。
吉森照夫・現副会長兼専務理事から「内輪のことだから」と言われたことも明かし、警察には届けなかったという。
 殴られた理由についてA氏は「会長選で(自分が)勝ちそうだったから。(山根氏に)表だってNOっていうのは、〇〇(自分)だけだってことで」と証言し、殴ったとされる男性は「先生(A氏)さえ山根でいいって言ってくれたら、山根で決まるんだから」と説得してきたという。
 A氏は立候補を辞退して、日本連盟、下部連盟に辞表を提出。
山根氏は無投票で会長に就任した。
殴ったとされる男性も奈良県連盟を去った。
告発メンバーによるとその男性は、暴力団との関わりもうわさされていた人物といい、A氏は報復を恐れてその後も口をつぐんでいたが、今回初めて証言したという。
 この日、デイリースポーツの取材に応じた山根氏は「そんな幽霊みたいなうその話あるわけがない。暴力して会長になったなんて言うてるのはうそ。そんなことしたらその時点で相手に訴えられて、僕の人生終わってます。連中はうそばっかりや」と全面否定。
「(A氏には)立候補の資格がない。ブロックの代表理事じゃないと立候補できない。あの人は学識経験者というだけで立候補なんて論外」とそもそも立候補できなかったと主張した。
当時理事だった告発メンバーは「連盟の副会長が立候補できないことなんてない。なぜそんなおかしなことを言うのか」と話している。


現行の選挙運動の規制

2018年11月17日 13時03分36秒 | 社会・文化・政治・経済

現行の選挙運動の規制

 現行の公職選挙法では、選挙の公正、候補者間の平等を確保するため、選挙運動期間中に行われる文書図画の頒布・掲示その他の選挙運動について一定の規制を行っています。

インターネット等による情報の伝達も、文書図画の頒布に当たるものとして規制されてきました。  

今回の公職選挙法改正により、インターネット等を利用した選挙運動のうち一定のものが解禁されることとなりました。

一方で、今までどおりの規制もありますので、注意が必要です。

(注)掲載内容は、平成25年の制度改正時点のものであり、現在は18歳以上(有権者)になれば選挙運動ができます。

【選挙運動とは】

 判例・実例によれば、選挙運動とは、「特定の選挙について、特定の候補者の当選を目的として、投票を得又は得させるために直接又は間接に必要かつ有利な行為」とされています。

【選挙運動期間に関する規制】

 選挙運動は、選挙の公示・告示日から選挙期日の前日までしかすることができません(公職選挙法第129条)。
 違反した者は、1年以下の禁錮又は30万円以下の罰金に処することとされており(公職選挙法第239条第1項第1号)、選挙権及び被選挙権が停止されます(公職選挙法第252条第1項・第2項)。

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茨城県議選の違反>茨城 NEWS WEB
NHK水戸放送局 トップ
県議選前に選挙違反取締本部設置
11月15日 10時56分

来月投票が行われる茨城県議会議員選挙を前に、県警察本部は15日、選挙違反の取締本部を設置し、およそ3500人態勢で違反の取り締まりにあたることにしています。

県警察本部は15日、茨城県議会議員選挙の「選挙違反取締本部」を設置し、今後はおよそ3500人態勢で、買収などの悪質な違反の取り締まりや、情報収集に努めていくことにしています。
15日はあわせて、県内すべての警察署の署長を集めた会議も開かれ、種部滋康本部長が「今回は選挙区の減少や定数の変更に伴い、従来にも増して激しい選挙戦が予想される。県民は、公正公平な選挙で県民の代表が正しく選ばれるよう、厳しい目を向けている」と取り締まりの徹底を求めました。
県警察本部によりますと、今回の選挙では、ポスターが適切な場所に貼られていないなどの警告が、14日までに44件出されていて、前回・4年前の選挙の同じ時期と比べて、11件増えているということです。
県警察本部捜査2課の瀬端理之課長代理は「公正な選挙のため、不偏不党の立場を堅持して厳正な取り締まりを行っていきます」と話していました。
文書頒布(はんふ)違反11件、個別訪問1件


無能な人間で埋め尽くされ

2018年11月17日 12時38分14秒 | 社会・文化・政治・経済

ピーターの法則(英: Peter Principle)とは組織構成員の労働に関する社会学の法則。
世の中の組織のあらゆるポストは、無能な人間で埋め尽くされている。
能力主義の階層社会では、人間は能力の極限まで出世する。
したがって、有能な平(ひら)構成員は、無能な中間管理職になる。
時が経つにつれて、人間はみな出世していく。
無能な平構成員は、そのまま平構成員の地位に落ち着く。
また、有能な平構成員は無能な中間管理職の地位に落ち着く。
その結果、各階層は、無能な人間で埋め尽くされる。
その組織の仕事は、まだ出世の余地のある人間によって遂行される。
1969年、南カリフォルニア大学教授の教育学者ローレンス・J・ピーター(Laurence J. Peter)によりレイモンド・ハル(Raymond Hull)との共著 THE PETER PRINCIPLE の中で提唱された。
日本では1969年、『ピーターの法則―〈創造的〉無能のすすめ―(ローレンス・J・ピーター/レイモンド・ハル 田中融二訳)』がダイヤモンド社より出版された(2003年再版の新訳は渡辺伸也)。
このユーモアあふれる論文で、ピーターは「ためになる階層社会学」を「うっかり創設してしまった」としている。
この原理の理論的妥当性を検証するため、モデル化による研究が行われている 。


朝賀麻実と邂逅

2018年11月17日 02時38分59秒 | 創作欄

畠山次郎先輩から行動展の案内が届いた。
東京都美術館は上野駅「公園口」より徒歩7分ほどにあった。
東京都美術館の3階展示室で偶然、声をかけてきたのが、彼女である。
「この彫刻気にいったの?」
その女性は、膝上15㎝ほどの黒いミニスカート姿で、徳利のセーターも黒であった。
「この彫刻は、大学の先輩の作品なので」
「そうなの、あなたの先輩なのね」
徹はその人の爽やかな笑顔に魅了された。
肩下までかかるストレートの髪である。
徹は髪の長い女性を好ましく思っていた。
「私も、少し彫刻をやった時期があったのだけれで、今は観るだけ」
「僕は絵も描けないし、美術の才能がある人が羨ましい」
「良ければ、一緒にお茶飲まない?」
初対面の女性から喫茶店に誘われたのは初めてだった。
「この人は、どのような人なのだろうか」と徹はその人を見直した。
その人は、自ら「私は、朝賀麻実」と名乗った。
徹は「本名なのだろうか?」と思って聞いてみた。
「実は、芸名。演劇をやっているの」麻実が打ち明ける。
徹は演劇には無縁であった。
「何処に行きましょう?」と麻実が聞く。
徹は上野駅周辺には詳しくない。
「不忍池を歩きましょ」
その人は、行動的な人であった。
不忍池は森鴎外の小説「鴈」に出てくる池だった。
10月の池の周りの桜並木の葉はほとんど落ちていた。
「桜の季節にも池に来ての並木の間を歩いて観たい。一緒に歩かない?」
「そうですね。できればまた来てみたい。この池の中道はそんな雰囲気ですね」
「あの、ボートの二人、恋人同士ね。いいな、楽しそうね」
ボートの二人は、横に並んでオールを漕いでいた。
水しぶきが上がる度に、笑い声が起こった。
ボートを漕ぐことに慣れていに二人の様子だった。
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小説「鴈」
1880年(明治13年)高利貸し末造の妾・お玉が、医学を学ぶ大学生の岡田に慕情を抱き、末造の来ない日に一人で家にいるようにして、散歩に来る岡田を待つ。
ところが、いつも一人で散歩していた岡田は、その日の下宿の夕食が偶然、語り手の「僕」が嫌いなサバの味噌煮だったため、「僕」とともに散歩に出た。
途中不忍池で、たまたま投げた石が雁に当たって死んでしまう。
かれらは無縁坂の中途にあるお玉の家の前を通ったが、岡田が一人ではなかったので、お玉は結局その想いを伝える事が出来ないまま岡田は洋行する。
不運にも命を落とす雁になぞらえ、女性のはかない心理描写を描いた作品である。
ただしそれを、岡田の友人が語り手となって書いており、かれらがその当時は知りえないような、お玉と末造とのなれそめ、末造と妻との諍いなども描かれている。
これは、語り手がその後お玉と知る機会を得て、状況を合わせ鏡のように知ったのだと、語り手の「僕」は作中で弁解している。
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行動美術協会は二科会の解散(昭和19年)後、昭和20年11月、戦後の時代に適合し理想に充ちた新団体として創立された。
会の名称は柏原覚太郎の発案によるものである。
新生日本美術を樹立し世界文化に貢献すると結成の意義を謳った。
自主的かつ独自な在野美術集団として、個性的な芸術とその発表の自由を目指した。

昭和19年の二科会の解散
「美術展覧会取扱要綱」の下では到底自由な美術活動は不可能実情に陥って全会員一致で解散に至る。
文展 (→官展 ) 第2部 (洋画) の二科制設置の建議を文部当局に拒否され,文展を脱退した石井柏亭,坂本繁二郎,梅原龍三郎,小杉放庵ら 11名によって 1914年に結成。
同年 10月の第1回展以来,会員に変動をみせながらも常に新傾向の作家を吸収して,毎年秋季に展覧会を開催。
19年彫刻部を設置,44年戦争のため一時解散したが,翌年東郷青児を中心として再建。

新たに工芸部,写真部,漫画部,商業美術部を設置,多角的な展覧会を開き今日にいたっている。