八紘為宇とは、天下・全世界を一つの家にすること。
『日本書紀』の「八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)にせむ」を、全世界を一つの家のようにすると解釈したもの。
田中智學による国体研究
大正期に日蓮宗から在家宗教団体国柱会を興した日蓮主義者・田中智學が「下則弘皇孫養正之心。然後」(正を養うの心を弘め、然る後)という神武天皇の宣言に着眼して「養正の恢弘」という文化的行動が日本国民の使命であると解釈、その結果「掩八紘而為宇」から「八紘一宇」を道徳価値の表現として造語したとされる。
これについては1913年(大正2年)3月11日に発行された同団体の機関紙・国柱新聞「神武天皇の建国」で言及している。
田中は1922年(大正11年)出版の『日本国体の研究』に、「人種も風俗もノベラに一つにするというのではない、白人黒人東風西俗色とりどりの天地の文、それは其儘で、国家も領土も民族も人種も、各々その所を得て、各自の特色特徴を発揮し、燦然たる天地の大文を織り成して、中心の一大生命に趨帰する、それが爰にいう統一である。」と述べている。
もっとも、田中の国体観は日蓮主義に根ざしたものであり、「日蓮上人によって、日本国体の因縁来歴も内容も始末も、すっかり解った」と述べている。
八紘一宇の提唱者の田中は、その当時から戦争を批判し死刑廃止も訴えており、軍部が宣伝した八紘一宇というプロパガンダに田中自身の思想的文脈が継承されているわけではない。
1936年(昭和11年)に発生した二・二六事件では、反乱部隊が認(したた)めた「蹶起趣意書」に、「謹んで惟るに我が神洲たる所以は万世一系たる天皇陛下御統帥の下に挙国一体生成化育を遂げ遂に八紘一宇を完うするの国体に存す。
此の国体の尊厳秀絶は天祖肇国神武建国より明治維新を経て益々体制を整へ今や方に万邦に向つて開顕進展を遂ぐべきの秋なり」とある。
この事件に参加した皇道派は粛清されたが、日露戦争以降の興亜論から発展したアジア・モンロー主義を推し進める当時の日本政府の政策標語として頻繁に使用されるようになった。
現在、日本の代表的な国語辞典では、八紘一宇は「第二次大戦中、日本の海外侵略を正当化するスローガンとして用いられた」、と説明している。
第二次世界大戦での日本の降伏後、連合国軍最高司令官総司令部によるいわゆる神道指令により国家神道・軍国主義・過激な国家主義を連想させるとして、公文書における八紘一宇の語の使用が禁止された。