創作欄 徳山家の悲劇 35)

2019年06月20日 23時00分59秒 | 創作欄

20132 26 (火曜日)

斉藤貞雄は顔が端正で優しい男であった。

俳優の誰かに似ていた。
徳子が「取手の佐田啓二だね」と言った。
身長は178㎝、長身であった。
「みどり、貞雄さんに惚れてもいいけど、棄てられないようにしな」
徳子はみどりに忠告した。
「酒は人を狂わせるのね」みどりは貞雄のアパートに泊った日に弁解するように言った。
その日、みどりは居酒屋へ誘われて、貞雄に勧められるままに日本酒を飲む。
飲んだのは取手地元の地酒「君萬代 」であった。
「俺、土浦へ行くんだ。みどりさんに惚れたんだ。俺に着いてくるかい」貞雄はみどりに決断を迫った。
恋の経験がないみどりは、「これが恋なの」と貞雄に問いかけた。
「みどりさんが、銀次さんの米屋から突然、居なくなって探し回った。何故、あんなに必死になったみどりさんを深川中の街を探し回ったのか、自分でも変だな思ったんだ」
貞雄の言葉がみどりの心を根底から揺さぶった。
東京・深川での17歳のあの忌まわしい日が、蘇った。
育ての親だった銀次じいさんの甥から強姦された日のことを、みどりは頭から払い去りたかった。
貞雄に助けを求めようとしたが、口に手拭いを押し込まれ、声がまったく出せなかった。
貞雄は2階の部屋で寝ていた。
みどりの部屋は1階であった。
あのような忌わしいことがなければ、銀二じいさんの故郷の取手にも来ることはなかったとみどりは思った。
人の運命は本当に分からないものだ。
また、取手に来なければ、取手育ちの貞雄と再会もしなかったどろう。
「これは、恋なのだ」みどりは貞雄に身を委ねた。
そしてみどりは、夫と子ども2人を置いて貞雄に着いて行く。
言わば恋の逃避行であった。

20132 24 (日曜日)

創作欄 徳山家の悲劇 34)

 

蛍の季節、東京・深川育ちのみどりは、取手の蛍に感嘆した。
青田が何処までも広がる井野地区から青柳地区。
22歳で結婚したみどりと佐吉は手をつないで井野地区の田圃道を散策していた。
月の光が明るく、畦道に二人の姿がクッキリと影を落としていた。
「月がとっても青いから、遠周りして帰ろ」と菅原都々子の歌った『月がとっても青いから』(昭和30年)を佐吉が歌った。
みどりはロマンチックな気分となった。
「佐吉さんは歌が上手いのね」とみどりが言う。
「みどりも歌ってごらん」と促し佐吉は再び歌った。

 

月がとっても青いから
遠回りして帰ろう
あの鈴懸の並木路は
想い出の小径よ
腕をやさしく組み合って
二人っきりで サ帰ろう

 

みどりは蛍を両手で包むよにとらえた。
「蛍が光るので温かいと思ったら、蛍は温かくないのね。不思議ね」みどりは両手の間から蛍を覗きみた。
佐吉は蛍の季節に2人の息子を連れてあの日のように田圃の畦道を歩いていた。
みどりは男と駆け落ちしたのに、「戻ってきてくれないか」と佐吉は月を仰ぎ見て願った。
みどりを憎んだり恨んだりする気持ちが希薄になっていた。

 

月の雫に濡れながら
遠回りして帰ろう
ふと行きずりに知り合った
想い出のこの径
夢をいとしく抱きしめて
二人っきりで サ帰ろう

 

佐吉は『月がとっても青いから』を歌った。
2人の息子たちは、畦道を蛍を追いながら駆け出した。

 

佐吉はみどりが好んで歌っていた『津軽のふるさと』や『未練ごころ』を口ずさんでみた。

 

みどりは『津軽のふるさと』を歌うと銀次じいさんを思い出したのだ。

 

2人が結婚した昭和37年に、こまどり姉妹の未練ごころが発売された。

 

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<参考>

 

ホタルの発光物質はルシフェリンと呼ばれ、ルシフェラーゼという酵素とATPがはたらくことで発光する。

 

発光は表皮近くの発光層でおこなわれ、発光層の下には光を反射する反射層もある。

 

ホタルに限らず、生物の発光は電気による光源と比較すると効率が非常に高く、熱をほとんど出さない。このため「冷光」とよばれる。

 

http://www.youtube.com/watch?v=teLiB68iA_s

 

 2013年2 月24日 (日曜日)

 

創作欄 徳山家の悲劇 33)

 

子どものことで悩む。
親にとって、非常に辛いことだ。
妻のみどりが2人の息子を置いて突然、居なくなったのだ。
「多少ヤンチャでも健康であればいい」と佐吉は子どもの涙の痕跡がある寝顔を見て思った。
特に下の息子は母親が居なくなったことにショックを受け、食事をしない。
そして夜泣きもした。
2歳なのに赤ちゃんがえりのような状態となる。
服が着られないなど、今まで出来ていたことを出来ないと主張したりする。
情緒がきわめて不安定になり、神経が異常に過敏だった。
さらにはお腹が痛など原因不明の体の不調を訴えたりする。
一方、4歳の長男は自閉症であり、知恵遅れとも思われた。
怒りを弟に向けていじめる。
佐吉の母親は孫のために心労が重なる。
「水商売の女は身勝手なんだよ。息子が2人もおるのに、男をこさえて出ていく。だから、かあちゃんはお前たちの結婚に反対したんだよ」
佐吉はそれを聞きくのが辛いので、居間を出て自室へ隠るようにした。
従姉の徳子から妻のみどりが小料理屋「深川」に客として来ていた斎藤貞雄と駆け落ちしたことを知らされた時は、佐吉は心外な思いがした。
妻のみどりがそのような不貞を働く女とは思いもよらなかったのだ。
「人間には見えない部分があるのだ」と改めて気づかされた。
いずれにして、もみどりが夫を裏切るような不誠実な女には到底思われなかった。
戦災孤児のみどりは可哀想な女と思っていた。
みどりにはどのような過去があったのか?
寡黙なみどりは過去の話をほとんどしなかった。
ただ、育てられた銀次じいさんのことだけを話していた。
14歳の時に銀次じいさんが死んだ時の深い悲しみを語っただけだった。
だから、取手の中学を卒業した斎藤貞雄が、銀次じいさんの米屋で働いていたことはまったく知らなかった。
孤児になったみどりは、その大きな悲しを深く胸にしまい込み寡黙になったと思われる。

 

 2013年2 月21日 (木曜日)

 

創作欄 徳山家の悲劇 32)

 

徳子の母親と佐吉の母親が2人の関係に気付き、反対したのにはそれなりの理由があった。
従姉と従弟の結婚では血が濃いので、障害児が生まれることを懸念したのだ。
事実、聾唖者の姉妹が徳山家の親類に居た。
従兄と従妹の関係で結婚した。
「2人も聾唖者が生まれるなんて、おかしい」と身内で問題にした。
ライオンなど動物の群れでもオスは群れ出て行き、交尾の相手となるメスを自ら探しに行く。
それが自然の摂理である。
濃すぎる血は弊害となるのだ。
徳子は佐吉との性交で身ごもってしまった。
「徳子妊娠したんだね。相手は佐吉なんだね。おろせ」と母親は説得した。
「嫌だ!私は絶対産む!」と頑固な性格の徳子は応じない。
怒った母親は乱暴にも2階の階段から徳子を突き落とした。
背後から背中をいきなり押されて、徳子は腹部を強打し両手で身を支えながら階段を転げ落ちた。
徳子はそれで流産してしまった。
「乱暴なことして、本当にすまない。許しておくれ徳子」」
母親は両手を畳についてわびたが、徳子は怒りがおさまらない。
「鬼! 一生怨むからね」
結局、徳子は家を出てアパートの部屋を借りた。
偶然、そのアパートの隣の部屋に住んでいたのがみどりであった。
徳子はみどりと同じ料亭の「滝沢」で働いていた。
みどりは佐吉との関係を断つために、みどりを佐吉に紹介したのだ。
ふたりは昭和15年生まれであり、22歳同士の結婚であった。
佐吉の母親は結婚に反対した。
みどりを性悪女の姪の同類と見なしていたのだ。
「佐吉、みどりという女は徳子と同じ駅前の店の女じゃないか。母ちゃんはこの結婚には反対だね。水商売ではない、普通の娘を嫁にしな」
佐吉はみどりのアパートの部屋に泊って、すでに深い関係になっていた。
みどりは徳子と佐吉の深い関係を知るよしもなかった。
人生は実に皮肉である。

 

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<参考>

 

いとこ結婚の場合、医学的には近親婚といいます。

 

近親婚の場合、遺伝病の子供がうまれる危険性が高くなります。

 

常染色体劣性遺伝病が問題になるのでこの話をします。

 

子供が両親から病気になる遺伝子を同時に受け継いで起こる遺伝病を常染色体劣性遺伝病といいます。

 

いろいろな病気がありますがどれも非常にめずらしいものです。

 

たとえば4万人に1人の確率で起こるある常染色体劣性遺伝病を考えてみます。

 

誰でも100人に1人はこの病気の遺伝子をもっていますが、夫婦そろってこの遺伝子をもつ確率は1万分の1で、その夫婦からこの病気の子供が産まれる確率は4万分の1になります。

 

いとこ結婚の場合は、この病気の遺伝子をもつ確率は一般と同じ100分の1ですが、相手の方が同じ遺伝子をもつ確率は8分の1になり結局この病気の子供が産まれる確率は3,200分の1になります。
 1万人に1人の病気がいとこ結婚では1,500人に1人、10万人に1人の病気が5,000人に1人、100万人に1人の病気が1万5,000人に1人位うまれると考えて下さい。

 

めずらしい遺伝病ほどご両親がいとこ結婚の場合が多いのです。

 

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人間も動物も近親交配はします。

ただ、野生の動物はそれをできるだけ避けるための工夫があり、仔供が育ったら、母親の縄張りから追い出してしまいます。

ライオンやニホンザルなどは有名ですが、メスの仔供は群れに残りますが、オスの仔供は群れから出て行きます(追い出されます)。
そして、他の群れに加わるとか単独で生活をし、他の群れのボスを倒して初めてその群れのメスと交尾ができます。
こうやって、場所的に離れることにより、兄弟との交わりがないように工夫されています。

また、メスの仔供は若いうちから交尾をし、オスの仔供はボスになってからでないと交尾をしない(出来ない)ようになていて、時間的にも兄弟とは交わらないようになっています。
(それでも確率は0%ではないですが、可能性がこれだけ低ければ大丈夫なのでしょう。)

 

 2013年2 月20日 (水曜日)

 

創作欄 徳山家の悲劇 31)

 

 徳山徳子には意外な一面があった。
文学少女だったのだ。
戦死した徳子の父親の次郎は農家の次男に生まれ、学業もできたので師範学校へ進学し、旧制中学の国語教師となった。
早熟だった徳子は小学校時代から父親が遺した蔵書に興味をもった。
特に与謝野晶子の歌集「みだれ髪」の表紙に興味を抱いた。
ハートの形の中に女の横顔が描かれ、左上に弓矢が刺さっていた。
それは明治時代としては斬新な絵柄だった。
短歌の内容は理解できなかったが歌人の晶子に興味が湧いた。
島崎藤村の詩集『若菜集』もあった。
そして中学生になった徳子は、藤村が姪との近親姦を告白した小説『新生』を読んでみた。
石川啄木の「歌集」の初恋にも感動した。
だが、徳子は中学を卒業し就職をして文学少女であることも卒業した。

 

かつぎのおばさんとして働いている母親の労苦の姿を見て育った徳子は高校進学をあきらめた。
ノートに短歌や詩らしきものを書きためていたが、それは少女の単なる感傷に過ぎないと放り出した。
高校生の宮坂寅之助との出会いから、性に目覚めた徳子は奔放な女に変貌を遂げた。
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<参考>
石川啄木の「初恋」
函館の大森浜に腹這い、遠い昔の妻節子との初恋のときを思い出して歌った歌と解釈されています。

 

遠い昔と言っても、函館時代の啄木は26歳、後に妻となった節子との初恋は14歳のころでした。

 

初恋の「いたみ」は痛みや傷みではありませんね。
胸が疼くようなせつなさ、その切なさに身を沈める幸せ。

 

そのいたみを思い出し、今の自分をじっとみつめている啄木の心と姿が目に浮かびます。http://www.youtube.com/watch?v=nyvxo-qpIN0

 

http://www.youtube.com/watch?v=XwV2pCEgo_U

 

2013年2 月20日 (水曜日)

 

創作欄 徳山家の悲劇 30)

 

徳山徳子は中学2年の時に、取手二高3年生の番長の宮坂寅之助と親しくなった。
徳子は不良少女のレッテルを貼られていた。
同級生を脅して小遣いをせしめたりしていたのだ。
同級生たちが徳子を恐れたのは背後に宮坂寅之助の影があったからだ。
寅之助は身長163㎝、小柄な方であるが、胆力があり頭が切れた。
普通に勉強していたら学年でもトップクラスの成績をおさめていやだろうが、当時の愚連隊の一員になっていた。
学校をさぼり、取手競輪にも行っていた。
そこで東京方面から来ていた愚連隊仲間と親しくなったのだ。
土曜日や日曜日には上野、渋谷、浅草などで遊び回って、違法な賭博も覚えていた。
高校を卒業した寅之助は、ヤクザ組織に加わった。
そして次第に胆力と頭脳で頭角を表していく。
組のシノギはみかじめ1本であったが、寅之助が提案して競輪のノミ屋を始めた。
寅之助は徳山徳子の弟の勝利(かつとし)を組織に引き入れた。
「お前の名前がいいんだよ」と説得したのだ。
寅之助は勝利と徳子が近親相姦の関係であったことは知らなかった。
男好きの徳子は従弟の徳山佐吉と肉体関係をもったばかりではなく、2歳年したの勝利が中学3年の時に肉体関係をもってしまったのだ。
徳子は異常な性癖の持ち主だったのだ。

 

「勝利、ねいちゃんが、筆おろしてやるよ」

 

「筆おろし?」勝利は湯あがりの寝間着姿の姉を寝床から見上げた。
勝子が突然、勝利の布団に入ってきたのだ。
性に目覚め自慰で紛らわせていた勝利は思わず姉の体に武者ぶりついた。
寝間着の姉はパンツをはいていなかった。
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筆おろしとは?
男性が初めてのセックスすること。童貞喪失。

 

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<参考>

 

戦後の愚連隊は、既存の非公認武力機構を持つ集団である博徒集団(本来は非公認ギャンブル経営組織)や的屋組織(本来は社寺における祭礼の場を中心とした露店経営者の自治・自衛的調整組織)とも対立し、抗争を繰り返した。

 

昭和30年代以降の暴力団再編の中、これらさまざまな古典的な非公認武力機構を持つ集団は、愚連隊組織を吸収したり融合するとともに多角的な暴力機構の中に組み込まれ、古典的な博徒集団(ヤクザ)や的屋組織から、今日的な暴力団に変質していった。

 

逆に、的屋組織やその構成露天商の中には、既存の非公認武力機構から離脱して、現代型の暴力団と距離を置くものも出てくるという変化も生じている。

親分と子分の間柄について、ヤクザ組織が親子関係としたら、愚連隊は兄弟関係(子分は親分を「兄貴」と呼ぶ)と言える。
ヤクザにおける舎弟(兄弟分の弟格)が、愚連隊における子分に多くの部分で当てはまり、比較的、主従関係は緩やかであった。
かつての愚連隊は地域の治安を保つために結成された集団でもった。
愚連隊とは不良になるという意味の「ぐれる」と「連帯」の合成語である。
戦後、暴力行為やゆすり、たかりといった不正行為をしていた不良少年の一団。
後にテキヤや博徒と並び、暴力団(ヤクザ)の起源のひとつとなる。
日常会話で繁華街をうろつき、暴力行為や犯罪行為をする不良集団を愚連隊と呼んだ。


創作欄 徳山家の悲劇 29)

2019年06月20日 22時55分52秒 | 創作欄

2013年2 月18日 (月曜日)

徳山佐吉は15歳の秋、19歳の従姉の徳子に誘惑された。

「佐吉、東京の就職が決まったそだね、叔母さんも喜んでいたよ。良かったね。佐吉は真面目だから勤まるよ。私なんか2年で取手に戻ってきたからね」と自嘲気味に言う徳子はバックから煙草を取り出してマッチで火つけた。

「徳子さん、煙草吸うだね」女が煙草を吸うのは不良だと言われた時代であるので佐吉は驚いた。
「煙草はおいしくなんかないさ。止められないだけなんだよ」徳子は目に入った煙草の煙に眉をひそめた。
徳子は中学を卒業して、東京・大田区の縫製工場に勤めたが2年で取手に戻ってきたので母親のまつをがっかりさせた。
それから地元の料亭「滝沢」で働きだした。
徳子は料亭で働きだしてから煙草を吸っていた。
佐吉は居間で腹這いになって漫画を読んでいた。
徳子は漫画を読む佐吉に顔を近づけながら「佐吉は、大人の漫画を読んだことあるの?」と問いかけた。
「大人の漫画?」佐吉は怪訝な顔をした。
「佐吉うちに、おいでよ大人の漫画を読ませてあげるよ」
佐吉は子供のころから遊びに行っている徳子の家へ気軽な気持ちで着いて行く。
徳子の部屋の本棚には文学書の他、幾冊かの大人の漫画があった。
佐吉は初めて見る大人の漫画や春画に仰天した。
徳子は初めから佐吉を誘惑する算段であったのだ。
それが日曜日のことで、月曜日中学に登校した佐吉は「もう、俺はみんなと違うんだ」と後ろめたい気持ちに襲われた。
性体験をしたことで、自分だけが全く中学生の同級生たちとは別世界の人間になったように思われた。
徳子に挑まれて、抵抗できないかった自分を佐吉は恥じた。
徳子は東京での2年間の生活を含め、すでに何人かの男との性体験をいていた。

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<参考>

集団就職

昭和30年代若年の労働者は、将来性が高いという意味と、安い給料で雇えるという意味から金の卵と呼ばれてもてはやされた。

就職希望者数に比べて求人数が著しく多くなった時期には、職種としてはブルーカラー(特に製造業)やサービス業(特に商店や飲食店)での単純労働が主体であり、殆どが労働組合のない京浜工業地帯等の中小零細企業だったため、雇用条件や作業環境もかなり厳しく、離職者も多かった。

各種の理由から勤続後の独立開業が困難であったため、戦前のいわゆる丁稚よりも厳しい環境だったとも言われる。

1960年代後半以降は経済が安定し、各家庭の収入も増加したことから、高校進学率が上昇し、高卒労働者が中卒労働者を上回った。

2013年2 月18日 (月曜日)

創作欄 徳山家の悲劇 28)

徳山佐吉は取手1中を卒業して、東京・新橋の印刷屋に就職した。
そして、22歳の時に取手に戻って来た。
いわゆるUタウンであった。
競輪競輪が開催されている日は、タクシー運転手として結構稼ぐことができた。
母親のサチから従姉の徳子が小料理屋の「深川」をやっていることを聞いていた。
何時かその店を覗いてみようかと思っていた。
取手競輪場から客を乗せて、「深川」店の前で降ろしたこともあった。
勤務中なので店の中に入るることはできないが、酒が好きな佐吉は「深川」に心を留めていた。
ある日、佐吉は深夜勤務を終え寝ていた。
昼過ぎに目を覚ますと居間で、母親が誰かと話しているのが聞こえた。
相手は若い女の声である。
耳をそばだてて、話声を聞く。
ハスキーな声であり、よくケラケラ笑うので、それが従姉の徳子であることが分かった。
徳子は中学生の頃から男好きで、高校生の男子生徒と交際していた。
思い返せば思春期の佐吉にとって、従姉の徳子は刺激的な女であった。
母親のサチは佐吉の様子を敏感に察知して、「佐吉、来年春には中学を卒業して、東京へ就職だ。確りとするんんだよ。父さんは戦死して私はお前が頼りなんだよ」と諭した。
男好きの徳子は従弟の佐吉にも色目を使っていた。
石原慎太郎の短編小説『太陽の季節』・1955年(昭和30年)は、地方都市の取手の思春期の若者たちをも大いに刺激していた。
本好きで性に早熟な徳子も独自な観点から「童貞破り」に興味を抱いていた。

2013年2 月20日 (水曜日)

創作欄 徳山家の悲劇 31)

 徳山徳子には意外な一面があった。
文学少女だったのだ。
戦死した徳子の父親の次郎は農家の次男に生まれ、学業もできたので師範学校へ進学し、旧制中学の国語教師となった。
早熟だった徳子は小学校時代から父親が遺した蔵書に興味をもった。
特に与謝野晶子の歌集「みだれ髪」の表紙に興味を抱いた。
ハートの形の中に女の横顔が描かれ、左上に弓矢が刺さっていた。
それは明治時代としては斬新な絵柄だった。
短歌の内容は理解できなかったが歌人の晶子に興味が湧いた。
島崎藤村の詩集『若菜集』もあった。
そして中学生になった徳子は、藤村が姪との近親姦を告白した小説『新生』を読んでみた。
石川啄木の「歌集」の初恋にも感動した。
だが、徳子は中学を卒業し就職をして文学少女であることも卒業した。

かつぎのおばさんとして働いている母親の労苦の姿を見て育った徳子は高校進学をあきらめた。
ノートに短歌や詩らしきものを書きためていたが、それは少女の単なる感傷に過ぎないと放り出した。
高校生の宮坂寅之助との出会いから、性に目覚めた徳子は奔放な女に変貌を遂げた。
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<参考>
石川啄木の「初恋」
函館の大森浜に腹這い、遠い昔の妻節子との初恋のときを思い出して歌った歌と解釈されています。

遠い昔と言っても、函館時代の啄木は26歳、後に妻となった節子との初恋は14歳のころでした。

初恋の「いたみ」は痛みや傷みではありませんね。
胸が疼くようなせつなさ、その切なさに身を沈める幸せ。

そのいたみを思い出し、今の自分をじっとみつめている啄木の心と姿が目に浮かびます。http://www.youtube.com/watch?v=nyvxo-qpIN0

http://www.youtube.com/watch?v=XwV2pCEgo_U

2013年2 月17日 (日曜日)

創作欄 徳山家の悲劇 27)

徳山佐吉は恋人の野田千代を交通事故で失ってから、悲観的になった。

思えばわずか半年の交情であった。
元々明るい性格ではない。
勤め先では上司のイジメに合っていた。
「おい、徳山、お前何度言ったら分かるんだ! やっぱり、中卒はダメだな!」何時ものように上司の小寺憲がネチネチと絡んできた。
冷笑を浮かべたことが屈辱感に火をつけた。
それでカットと頭が混乱し、怒りや鬱屈した気持ちが佐吉を暴走させた。
左の拳骨で佐吉は小寺の顎を突き上げた。
まさか佐吉が反撃に出るとは思っていなかった小寺は、意表を突かれ腰を抜かすように倒れ込んだ。
怒りが爆発して自制心を完全に失った佐吉は倒れた小寺の腹部を3度も蹴った。
佐吉は冷静さを取り戻せなかった。
「人をなめるなよ。男なら反撃してみな」といいながら、唾を小寺の顔に浴びせた。
実は小寺は大学時代空手をやっていたのだ。
起き上がった小寺が素早く反撃に出た。
佐吉にとって空手技は想定外であり防御できなかった。
小寺の右手の正拳が佐吉の肋骨を折った。
「馬鹿野郎が!この田舎者、思い知ったか!」小寺が罵声を浴びせる。
胸を抑え苦痛に耐え兼ねて倒れ込んでいる佐吉の顔に小寺も唾を吐きかけた。
佐吉は職場の傍にあった慈恵大学病院で骨折の治療を受けた。
部長の指示で同僚の野村茂樹が病院に付き添った。
「部長が喧嘩両成敗だから、このことを公にするなと言っていた」と佐吉を諭すように言った。
「公?」佐吉は意味が分からなかった。
「つまり、警察に被害届を出したりしないことだね」
茂樹は佐吉の顔を見つめながら内心「この男は本当に教養がないんだな」と思った。
結局、佐吉は自ら職場を去った。

 

2013年2 月16日 (土曜日)

創作欄 徳山家の悲劇 25)

高度成長時代の昭和40年代になって、取手に大手企業が進出し工場を建てた。
取手駅の隣の天王台駅の東側の利根川に近い場合に進出した大手企業もあった。
このためいわゆるUタウンした若者たちもいた。
昭和30年代、中学卒業生たちは金の卵とされ、地方都市から東京へ続々と就職列車に乗って就職地へ向かった。
だが、都会で夢敗れた金の卵の若者も居た。
昭和15生まれの徳山佐吉もその一人であった。
佐吉は中卒であったことから、東京・新橋の職場で引け目を感じていた。
「だから、中卒はダメなんだ」
上司は露骨に佐吉の仕事ぶりに難癖をつけた。
職場でのイジメだった。
佐吉は親しくなった先輩に誘われ、新橋駅前のパチンコ屋へ毎晩のように仕事後に行く。
人間には思わぬ才能があるもので、佐吉はパチンコで負けることは殆どなかった。
職場で受けたストレスをパチンコで解消するようになる。
そして18歳で酒を飲みだした。
居酒屋「山形」で佐吉は思わぬ出逢いがあった。

山形から上京し店で働く野田千代と親しくなったのだ。
佐吉は注文を取りにきた千代に声をかけた。
「よければ、休みの日に映画を一緒に観にいかない?」
千代は佐吉に好印象をもっていたので、「いいわよ」と応じた。
佐吉に茨城訛りがあり、千代に山形訛りがあり、個人的な付き合いの中なので、2人の間では素朴な語らいがあった。

田舎育ちの2人にとって銀座は、高度成長時代を迎えつつある日本の象徴であり、華やかで特別な街だと思われた。
特に銀座のネオンの華やかさが2人を圧倒し胸を高鳴らせた。
多くのアベックに習って2人は銀座の街を腕を組んで歩いた。
佐吉も千代もこれが恋なのだと思っていた。

神戸一郎の「銀座九丁目水の上」の歌に2人は恋心を高かなされた。
だが、この恋も千代の交通事故死で閉ざされた。
2人は数寄屋橋で待ち合わせをしていたが、銀座5丁目の交差点で起こった交通事故であった。

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<参考>

数寄屋橋:
北側には近代的かつ個性的な外観の旧日劇ビル・朝日新聞社東京本社ビルが立ち並び[1]、また南側にはマツダビルディング[2]があって独自の景観を見せたことから、銀座地区の中でも特に知られる地点となった。1958年(昭和33年)、外堀が東京高速道路の建設により埋め立てられ、取り壊された。数寄屋橋があった場所を跨ぐ東京高速道路の橋は新数寄屋橋と名付けられている。
 
現在は数寄屋橋公園(東京都中央区銀座5-1-1)に橋の存在を示す碑が立ち、晴海通り・外堀通り交点の交差点名として残っているほか、周辺の建物に数寄屋橋の名を付しているものが多い。また、銀座四丁目交差点(銀座三越・和光前)と並んで東京都銀座地区の代表的な地名として認知され、待合わせや道案内の基準点として用いられる。

 

 なお、神戸一郎の1958年(昭和33年)5月発売の「銀座九丁目水の上」がヒットした。

 2013年2 月15日 (金曜日)

創作欄 徳山家の悲劇 24)

1967年(昭和42年)冤罪事件とされ話題となった「布川事件」が起きた。
茨城県北相馬郡利根町布川は取手町から遠かったが、小料理屋「深川」でも連日、お客がこの事件を話題としていた。
大きな犯罪とは無縁の土地柄だったからだ。

だが、取手競輪に狂って家屋敷や田圃、畑などを失った人間も少なくなかったのだ。

布川事件の犯人も競輪に狂った人間の犯行のようにも思われた。
ちなみに徳山徳子の旦那はヤクザであり、高崎連合の傘下の長田組に属していた。
高崎連合は東京・赤坂に本拠を置く広域暴力団の二次組織だった。
そして徳子の旦那は取手競輪のノミ屋であった。
徳子は競輪好きの客が来ると「うちの旦那から車券を買ってよ」と頼み込んでいた。
ところが、店に来た相手が警察の刑事であったのだ。
それで旦那は警察に逮捕された。
徳子は取手から身を隠した。
小料理屋の「深川」はそれ以降、別のヤクザの女が経営することとなった。
みどりは斉藤貞雄に着いて土浦に行ってしまったので、徳子に託した自分の店がその後どうなったかを後年に知った。
みどりは母親の立場を棄て、1人の女となったのだ。
だが、皮肉にも恋をした貞雄は、みどりにとってふさわしい男ではなかった。
女好きでかなりの浮気性だったのだ。
みどりが長女を産んだ時から、度々外泊するようになっていた。
「昨日は、どうしたの?」と娘のさつきに母乳をやりながらみどりは聞いた。
「徹夜マージャンだよ」と貞雄を不機嫌な顔をした。
それから、2年後に次女のななが生まれた日も貞夫は外泊し、みどりの傍に着いていなかった。
みどりは「思い遣りのない薄情な男だ」とせつない気持ちになっていた。
みどりは200万円ほど貯蓄をしていたが、貞雄は勝手にそれを引き出していた。
「私の大事なお金よ。娘の将来の教育費なのよ。もうお金を勝手下ろすのは止めてね」と懇願した。
だが、貞雄は横暴にも「オレに向かって文句をいうんじゃねいよ」とみどりの頬や頭をしたたかなぐりつけた。
貞雄はその時期、パチンコ屋から納豆屋に職を変えていた。
みどりは夫の佐吉を裏切り、息子2人を置いてまで、恋をした貞雄に着いてきたことを深く後悔した。
そして自暴自棄になり、遣り切れない気持ちからパチンコ屋に通う日々となる。
初めは買い物帰りに娘2人を連れて、パチンコに入ってみた。
ところが偶然、玉が大量に出たのだ。
「世の中にこんなに、面白い娯楽があったのか」とみどり子どものように歓喜した。
そしてパチンコにのめり込んでい行く。

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<参考>

ノミ屋とは?

具体的には、ノミ屋は客より、正規の車券の額面の90%(100円車券なら90円)で申し込みを受ける。

的中者には正規(公式)の金額が払い戻されるケースが多いようだ。
つまり、客としては、車券が的中すれば払戻金に加えて10%のキャッシュバックがあるわけでだ。

正規の窓口で購入するより利益率が良いという案配。
ただし万車券が出現した時は、払戻金の最高額を1万円とするなど『天井』が設定されているケースが多い。

(正規の総売上票数と正規の的中票数の比率と、ノミ屋における総売上票数とノミ屋における的中票数の比率は異なるため、万馬券の際に正規の払戻金を適用するとノミ屋にとっては損失を被る蓋然性が高いため)。

また、ノミ屋はハズレた客に弁当を出したりタクシー代を出したりして、便宜を図るところが多いようだ。
ハズレ客に対する便宜を図ることによって、客をつなぎとめるとともに、警察に通報されないよう客に恩を着せている構図。

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布川事件の概要
1967年8月30日の朝、茨城県北相馬郡利根町布川で、独り暮らしだった大工の男性(当時62歳)が、仕事を依頼しに来た近所の人によって自宅8畳間で他殺体で発見された。

茨城県警取手警察署による死体検視と現場検証によれば、男性の死亡推定時間は8月28日の午後7時から11時頃であるとされた。
男性は両足をタオルとワイシャツで縛られており首にはパンツが巻きつけられた上、口にパンツが押し込まれていた。
死因は絞殺による窒息死であると判明した。
現場の状況は玄関と窓は施錠されていたが、勝手口はわずかに開いていた。室内は物色した形跡が認められたが、何を盗まれたかは判明しなかった。

ただし、男性は個人的に金貸しを行っており、現金や借用書などが盗まれた可能性があった。

唯一判明したのは男性が普段使用していた「白い財布」が発見されなかったことである。

また、現場からは指紋43点が採集された。

男性の自宅付近で午後8時ごろに不審な2人組の男性の目撃情報があり、その情報から1967年10月10日に桜井昌司(当時20歳)と杉山卓男(同・21歳)の2人が別件逮捕され、2ヵ月後に起訴された。
公判で両人は「自白は取手警察署刑事課刑事に強要されたものである」として全面否認したが、1970年10月6日に第一審の水戸地裁土浦支部は無期懲役とし、1973年12月20日の第二審の東京高裁では「ほかに犯人がいるのではないかと疑わせるものはない」として控訴を棄却し、1978年7月3日に最高裁で上告が棄却され、2人とも無期懲役が確定した。

疑問点
この事件では、犯行を実証する物的証拠が少なく、桜井・杉山の自白と現場の目撃証言が有罪の証拠であった。
しかし、その自白は取調官による誘導の結果なされたと主張する。

金銭目的の強盗殺人とされているが、何が実際に盗まれたのかを明確にしていない。
被害者の白い財布の件も供述調書で変遷しており、犯行後どのようになったかが明確になっていない。
43点の指紋が採集されたが、桜井・杉山の指紋が現場から出ていない。
裁判では指紋は拭き取ったとしているが、物色されたはずの金庫や机から多くの指紋が検出されている矛盾点については説明がなされていない。
なお、現場では毛髪が8本発見され、この毛髪の鑑定書については検察側が存在を否定していたが、2005年に検察側から弁護側に鑑定書が開示された。

これによると、3本は被害者のものだったが、残り5本の中に被疑者とされた桜井・杉山の毛髪はない。
裁判所はこれらの証拠が裁判時に提出されていたら無罪になっていた可能性を指摘した。

2013年2 月14日 (木曜日)

創作欄 徳山家の悲劇 23)

みどりは恋愛を知らなかった。
テレビで岸洋子が歌う「恋心」を何気なく聞いて居る時に、斎藤貞雄の顔が浮かんだ。
「かあちゃん」と2歳の次郎が体にまとわりついてきた。
長男の幸吉は夫の佐吉似であり、次郎はみどり似であり可愛いと思っていたが、母性本能より女の情念が内奥から湧きあがってくる思いがしていた。
「恋は不思議ね。消えたはずの灰のなかから、何故に燃える・・・」
みどりは14歳の時、銀次じいさんの米屋に住み込みで働く16歳の貞雄と同じ屋根の下で寝ることになった。
みどりの部屋は1階の6畳間であり、貞雄は2階の4畳間に寝ていた。
みどりは、初めて貞雄を見た時、端正な顔立ちの貞雄を「ハンサムね」と意識した。
貞雄は銀次じいさんの実家がある茨城県北相馬郡取手町の隣家の斎藤家の三男であり、取手の中学を卒業すると米屋に住み込みでやってきた。
実は銀次じいさんには、将来、養女のみどりと貞雄を夫婦にする心づもりであった。
だが、銀次じいさんはみどりが14歳の時に脳出で急死していまった。
みどりと貞雄はそれをまったく知らなかった。
銀次じいさんは2人の将来のために、300万円の郵便貯金を残していた。
まさか貞雄と取手で再会するとは、2人は見えない糸で結ばれたいたようにも思われた。
「みどりさのことを、深川中探した」と貞雄が言ってことが、みどりの心を突き動かした。
「私のことを、そんなに思っていてくれたんだ」
みどりは銀次じいさんの甥の作治に強姦されて、その忌まわしさから銀次じいさんの米屋から逃げ出した。
そして銀次じいさんとの思い出が深い場所でった浅草へ向かったのだった。
実に運命は皮肉であった。
「私を連れて行って、お願いだから・・・」みどりは自分から大胆にも切り出した。
みどりには夫と二人の息子が居たので貞雄は戸惑った。
貞雄は土浦に新規オープンするパチンコ店の店長として行く予定であった。http://www.youtube.com/watch?v=QfxO9ZmNCwU  

http://www.youtube.com/watch?v=OU5AdQuSemI

2013年2 月14日 (木曜日)

創作欄 徳山家の悲劇 22)

不世出の力士大鵬が横綱の座を占めていた昭和36年から昭和44年までは、まさに日本の高度成長期だった。
それはみどりが21歳から29歳までの時期であった。
東京の下町江東区深川に育ったみどりが、「巨人、大鵬、卵焼き」と形容されたあの時代を取手の住民の一人として過ごした。
思い返せば、見知らぬ土地である取手にやって来たのは、銀次じいさんの魂の導きであったようにもみどりには思われた。
徳山徳子と出会わなければ、徳山佐吉とみどりは結婚しなかっただろう。
さらに、小料理屋「深川」を経営していなかったら斎藤貞雄をも再会しなかったどう。
人生の節目、節目には想わないことが起きるものだ。
歴史にもしもがないが、原点を辿れば東京大空襲がなかったら、みどりは戦災孤児にはならなかった。
みどりは夫を裏切り2人の息子を置いて、斎藤貞雄に着いて行ったのだ。
みどりを突き動かしたものは何であったのだろうか?
「みどりさんが突然居なくなってから、深川中を探し回っただ」と貞雄が打ち開けた。
銀次じいさんの米屋を飛び出した理由については、「死んでも貞雄さには言えない」とみどりはその経緯については心の奥底に封印した。
銀次じいさの甥の作治に17歳の時に強姦されたことは、実に忌まわし出来事だった。
作治のことが夢にも繰り返し出てきた。
「作治の奴、遊び人で後楽園競輪に入り浸りで、私たち2人はいつもこき使われるように働かされて、利用されるだけ利用されたのよ」みどりは吐き捨てるように言った。
「俺も作治には嫌気がさして、みどりさんが居なくなって1か月後に店を飛び出した。退職金代わりに店の金5万円をくすねてやった」と貞雄は苦笑を浮かべながら首をすくめた。
「それくいは、当然よ」みどりは真剣な目をしてうなずいた。
それから、貞雄は錦糸町のパチンコで働いたことや渋谷、新宿のキャバレーのボーイとして働いてきたことを話した。
「俺は中卒だからね。まともな仕事はできなかった」貞雄は自嘲気味に言う。
実は貞雄は取手へ帰省した時、「深川」の店の看板に特別なものを感じたが、懐が寂しかったので店へ入ることができなかったのだ。

 

2013年2 月13日 (水曜日)

創作欄 徳山家の悲劇 21)

「みどり、店は辞められなのかい。佐吉は性格がおとなしいので、お前さんに面と向かって言えないんだ。まだ、幸吉は4歳、次郎は2歳だよ。育児が大事な時期なんだよ」

深夜に帰宅し風呂へ入って、居間に戻って来たみどりに義母のサチが言う。

みどりは深い溜息をつき沈黙して聞いていた。
「深川は徳子に任せて、主婦に専念すべきだと私は思うけどね」

みどりにとって小料理の深川は女として自立して生きるための拠り所となっていた。
銀次じいさんのお金を投じて今日まで維持してきていた。
「ハイ、そうですか」と簡単に手放せなかった。
共同経営者の徳子が店の売上金を誤魔化かしていることも薄々気付いていた。
夫の従妹の徳子にはヤクザな男が居て、店を食い物にしていたのだ。
みどりが店から完全に手を引いたら、深川はどうなるか分からない。
みどりは深川を何としても守っていきたいと決意していた。
「おかあさん(義母)の言うことも分かりますが、私にとって深川は命のように大事なものです。辞めることはできません」
みどりはキッパリと断言した。
「そうかい。それなら、勝手にしな。佐吉と次郎の面倒は一切みないからね」
祖母は青筋を立て、感情を露わにした。
そして襖を荒々しく開け自分の部屋へ戻って行った。
夫の佐吉はタクシーの運転手でこの日は深夜の勤務であった。
早朝に戻ってくる予定であった。
取手競輪の客を東京方面まで送って行くこともあった。
あるいは土浦や筑波方面まで客を乗せて行っていた。
宅地ブームで土地成金になった農家の主人たちは競輪に大金を注ぎ込んでいた。
そして帰りは繁華街へ散財をしに出向いていた。
深夜なのでタクシー運転手にチップをはずむ客も居た。
学生運動の激化で都会は騒然としていたが、昭和43年度、日本の国民総生産(GNP)が世界第2位になった。
高度成長へ向かっていた。
ある日、1人の男が小料理屋「深川」へやってきた。
斎藤貞雄は29歳になっていたが、少年時代の面影を残していた。
「貞雄さんでしょ!?」みどりは大きな目を見開いて問いかけた。
「あぁ! みどりさんでは!?」貞雄も偶然の再会に半信半疑の表情を浮かべた。
貞雄は銀次じいさんの実家の隣人の斎藤家の3男であった。
17歳の時に茨城県の取手の中学を卒業すると米屋の住み込み店員になっていた。
2人の再会まで実に12年の歳月が流れていた。

 


創作欄 徳山家の悲劇 20)

2019年06月20日 22時51分28秒 | 創作欄

20132 12 (火曜日)

みどりは結局、22歳になった年に徳山徳子の従弟の徳山佐吉と結婚した。

みどりは小料理屋を経営していたのでいわゆる水商売であり、佐吉の母親サチはみどりを心よく思っていなかった。
23
歳で長男が幸吉が生まれ、25歳で次男の次郎を産んだ。
みどりは義理の母親サチに2人の息子を預け、夜は小料理屋「深川」を切り盛りしていた。
長男幸吉は4歳の時、言葉の遅れや、強いこだわり、激しい行動があったので、中程度の自閉症と思われた。

激しい行動で片時も目がはなせなくなった。
深夜に部屋中を飛び跳ねたりする。
あるいは庭に飛び出して大声で叫ぶ。
そして夜が明けるころになって疲れて眠りにつく。
そのような毎日が続いた。
いきなり手叩いたり、大声で叫んだりするのだから、周りの人から見ると、幸吉の行動は奇異である。
幸吉は自分の気持ちを上手に母親のみどりに伝えられないもどかしさもあったと思われた。
いわゆる発達障害であったのだ。
みどりは長男幸吉に対する愛情がわかず、むしろその存在に辟易した。
昭和40年代は大きな転機になったのだ。27歳のみどりにも大きな変化があった。

 

昭和40年代に入ると、取手町内で住宅開発が盛んに行われ、ベットタウンとして人口が急増した。

大手企業の工場進出もあった。

日本住宅公団のみならず民間の宅地開発で、取手町内の台宿や井野地区などの広大な田圃や畑が瞬く間に消えた。

そして人口が急増し、同4510月、取手町は県内17番目の市制を施行した。

小料理屋「深川」も忙しくなった。

特に取手競輪が開催されると店は常に満席となった。
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<参考>

 取手競輪は、かつては取手競馬場として競馬の開催を行っていたが、昭和20年代の競輪ブームで、第2次世界大戦により荒廃した街の復興、破産寸前の市財政の健全化をはかるために、この事業に取り組んだのであった。

戦後、台所事情はどこの自治体も同じであったため、全国的な競輪場建設ブームが起きた。財政再建の救世主となるべく競輪はその役割を果たしていた。

また、マスコミ各紙が毎日のようにこぞって紙面を賑わせていた。

競輪は戦後の厳しい市財政にとっては貴重な資金源であった。

売上の75パーセントは配当金にあてられ、残りの25パーセントから事業経費を差し引いた余剰金が、市の一般会計に計上され、収益となった。

このように競輪が自治体の財政に寄与する反面、ギャンブル性を問題にする声も当初からつきまとった。

昭和23年から5年間で全国に63の競輪場ができたが競輪ファンといえば、スタンドに陣取って一喜一憂し、時には判定をめぐって騒乱状態になった時代があった。

実は自転車ブームと競輪人気は常に連動していた。
自転車の販売台数もサイクリング人口も戦後から増え続けていた。

しかし昭和40年代の終わりをピークにして昭和50年以降は減少していきた。

競輪の入場者数もこれにならうように減少しした。

<後楽園競輪>

19581月の開催では、一開催の入場者数が約27万人を記録するなど、全国一の売り上げを誇った。
しかし1967年に東京都知事に当選した美濃部亮吉が、「東京都営のギャンブルは全面的に廃止する」方針を固めることを明らかにし、それに則って19721026日に開催されたレースを最後に競輪の開催が廃止された(法的には休止扱いとなっている)

なお、増村保造監督の「くちづけ」(1957大映)では後楽園競輪場が映像に現われる。

20132 11 (月曜日)

創作欄 徳山家の悲劇 19)

取手市は地域の中央部を南北に水戸街道(国道6号)が通る。
そこから分岐する国道294号の事実上の始点があり、茨城県南地域の交通の要衝として機能している。
利根川の水運とあいまって、古くは水戸街道の宿場町だった。
それに関連した史跡・文化財が多数見られる。
関東平野に位置し、利根川と小貝川に面していることから、かつては水害が多かった。
市内を流れる河川は利根川、小貝川、北浦川、相野谷川、谷田川、西浦川、大野川などである。
1970
年代から1980年代にかけて東京都心のベッドタウンとして開発され人口が増加した。
それ以降、いわゆる「茨城都民」と呼ばれる住民が多くなった。

1911年(明治44年)から1920年(大正9年)の利根川河川改修によりできた、利根川を挟んだ千葉県側に「取手市小堀(おおほり)」と呼ばれる、いわゆる対岸飛地があり、市営渡し船である小堀の渡しによって結ばれている。
この地区は古利根沼が千葉県我孫子市との境である。

昭和35年(1969年)の取手町は、舗装されていない道路が多く、砂利道はどこもかしこも雨が降ると泥濘んだ。
このため長靴で通勤する人が多く見られた。
町内にはまだバスが走っていなかった。
起伏が多い町内は雑木林の間に幅2㍍~3㍍ほどの狭い道があり、左右に家が点在していた。
船の形をしていた舟山はその後、造成されたが、その下の一帯は沼地であり、東側一面に畑や田圃が何処までも広がっていた。
舟山から井野、青柳、小文間、藤代方面が一望できた。
東京下町の深川育ちのみどりには、舟山から見る青々とした広大な田圃の光景は新鮮であった。
地元産のお米がとても美味しかった。
銀次じいさんはお米が好きであったが、「取手出身あったからだ」とみどりは改めて納得できた。
みどりが50万円を出して、居抜きの小料理屋「小菊」を買い取った。
20
歳のみどりと24歳の徳山徳子と共同経営となる。
みどりは提案して「小菊」は小料理「深川」に変更された。
22
歳の年にみどりは徳山徳子の従弟の徳山佐吉を紹介された。
「みどりさん、結婚しない? 私の従弟にいい男がいるの。従弟でなければ私が結婚したくらいの男なのよ」
「結婚ですか?」
みどりは17歳の夏、銀次じいさんの甥の作治に寝ているところを強姦された。
それは深い心の傷となっていた。
このため、「結婚はまだ先のことよ。徳子さんだってまだ結婚していないじゃなの」と断った。
だが、徳子には結婚していないが男が居たのだ。
相手は地元のヤクザであり、男には妻がいた。
みどりはそれを知らなかった。
やがて徳子の従兄の徳山佐吉が小料理屋「深川」の常連客となった。

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<参考>

 昭和35の主な出来事

雅樹ちゃん誘拐殺人事件

(昭和35)年5月16目朝、東京銀座の天地堂カバン総本店社長で世田谷区に住む尾関進さんの長男雅樹ちゃん(7歳、慶応幼稚舎2年生)が登校途中で誘拐され、殺害された事件。犯人から数回にわたり身代金300万円を要求する電話があり、家人が犯人の指定場所に金をもっていったが犯人はあらわれず、19日杉並区上高井戸の路上に乗り捨ててあった自動車の中で死体で発見された。死因はガスによる毒殺。

 自動車の持ち主で同区上荻窪に住む歯科医師本山茂久(32歳)が指名手配され、7月17日大阪・布施市で逮捕された。妻への別居慰謝料や家賃の支払いなど金に困った末の犯行とわかった。

昭和35年(1960年)の取手08/11 NHKのテレビ受信契約が五百万件を突破.
09/10
 NHKなど六局がカラーテレビの本放送を開始.
06/18
 安保阻止統一行動,33万人が国会デモ.徹夜で国会を包囲.06/15 全学連主流派4000人国会に突入,警官隊と衡突.東大生の樺美智子さん(22歳が死亡.
10/12
 社会党委員長・浅沼稲次郎,立会演説中に右翼少年山口二矢に刺殺される.

20132 9 (土曜日)

創作欄 徳山家の悲劇 18)

みどりは幸運であったのか、それが不運であったのか、料亭「滝沢」で働くこととなった。
取手駅前の食堂「加福」の海老原まつから「滝本」で人を募集しているので「みどりさんを紹介するよ、女将さんの滝沢恒子さんは私の小学校時代の同級生で銀ちゃんの養女だと言ったら、是非にと言うんだよ」
「そうですか、これからどうしようかと思っていたので、ありがたいです。よろしくお願いします」と頭を下げた。
「よかったね。無職じゃ、どうしょうもないからね。がんばりなさいね」
人が良いまつには孫がいないので、みどりを孫娘のように思い優しく接した。
息子夫婦にはどうしても子どもができなかった。
昭和34年は不妊治療などない時代であり、どうにもならないと諦めていた。
実はまつにも子どもができず、38歳の時にやっと生まれたのが息子の賢一であった。
夫の恭平は中国の上海で戦死していた。
恭平は兵士ではなく、軍需物資の補給・輸送業務をしていた軍属であった。
みどりは料亭「滝沢」で3歳年上の徳山徳子と出会った。
「変な名前でしょ」と徳子は自嘲気味に言った。
みどりは笑いを堪えた。
「あんたの名前はみどりさんか、いい名前だね。平仮名なのね。書きやすいよね。だからいいよね」
徳子は真剣な面持ちで言う。
「そうかしら、私は漢字の名前の方がよかったと思っているの」
みどりはしゃれた名前の「美登里」であったらよかったと中学生のころ思っていた。
働き出して徳子と親しくなったので、2人は朝の散歩に利根川へ行くようになった。

料亭「滝沢」で働きだして2年が経過していた。
みどりは20歳になっていた。
「みどりさんの夢は何なの?」徳子は歩をとめて聞く。
「夢?」みどりは戸惑った。
利根川の河川敷で雲雀がさえずっていた。
みどりは空を見上げて、「夢か」とつぶやいた。
雲一つなく吸い込まれるような青空が広がっていた。
「私の夢はね、お店を持つことなの」徳子は言葉に力を込めて言う。
「お店?」みどりは徳子の横顔を見つめた。
4歳年上の徳子であるので、「自分とは違う大人の考えを持っているんだ」とみどりは思った。
「みどりさん、小菊という店知っている?」
「小菊?」
「祇園横丁にある店なの。そこ店の小菊さんが67歳で痛風になって、店を手放すのよ。居抜きで50万円なの。大金よね」
徳子は悔しそうな表情をした。
50万円?」みどりは心が動かされた。
50万円あったらな」
徳子は利根川の渡し舟を見つめた。
徳子は大堀の出身であり小学校、中学校も渡し舟で通学していた。

 20132 8 (金曜日)

創作欄 徳山家の悲劇 17)

みどりは早朝起き出すと、麹屋旅館へ向かった。
昨夜の夕食のお礼を述べるとともに、里美たちを見送るためであった。
午前6時、里美たちはすでに起きていた。
みんなは白装束姿ではなく普段着姿であった。
里美が疲れを訴えていたので、お遍路は止めて東京へ戻ることになっていた。
みどりは取手駅で里美たちを見送った。
みんなが風呂敷包を手にしていた。
里美は唐草模様の風呂敷包を手に下げていた。
「みどり、手紙お願いね。待っているわ」
里美はタラップに乗り込む時に振り返って笑顔で言う。
里美は美しく可憐で、小説「野菊の墓」の民子のように映じた。
汽笛が鳴ってゆっくりと滑るように列車が取手駅のホームを出て行く。
ホームを出ると列車は直ぐに利根川の鉄橋を渡る。
汽笛が再びなり、白い煙が尾を引くように流れた。
「また、元気な姿の里美に会えるだろうか?」みどりは心に不安を覚えながら走り去る汽車を見送っていた。
取手駅を出たみどりは、駅前の食堂「加福」へ向かった。
布団を譲り受けたお礼を述べるためである。
「みどりさん、昨日はどうしたんだい?」海老原まつは怪訝は表情を浮かべた


「昨日ですか? 偶然、中学の同級生に会って一緒に過ごしました」

「そうかい。午後になって、みどりさんがどうしているかと思って、アポートへ行ったのさ」
みどりはお遍路に来た里美たちのことを手短に話した。
「それは、奇遇だね。東京の深川からお遍路に来たんだね。お遍路さんはうちの店で食事もするよ。これから温かくなるんで、お遍路さんが増えるよ」
みどりは朝食を注文した。
昨夜は旅館で鰻重を食べ川魚や天ぷらもご馳走になっていたので、かけソバにした。
「実はね、みどりさに働く場所を紹介したいんだよ」
お茶を入れながらは海老原まつは切り出した。
「働く場所があるんですか?」みどりは目を輝かせた。
「みどりさんは銀ちゃんの養女だもの。放っておけないのさ」
「そこまで、親切にされて、私とっても嬉しいです」
みどりは思わず涙ぐんだ。
「銀ちゃんは人柄がよくてね。地元でも仕事があったんだよ。ところがどしても東京へ働きに出るって、行ってしまった。でも、結果的に良かったんだね。勤めに出た深川の米屋の主人に気にいられ、その店娘さんと結婚したんだからね」
みどりは銀次じいさんの経緯を初めて聞かされた。
「そうだったのか」とみどりは納得した。
「あれは昭和13年ころ正月だったかね。銀ちゃんが羽織・袴姿で取手に帰ってきてね。小学校の同期が集まってね。料亭の滝沢で宴会になったんだよ。それで気風がいい銀ちゃんはみんなをご馳走したんだ」
「そうですか」みどりは聞きながら銀次じいさんの若いころの姿を想像してみた。
「銀ちゃはいい男だったからね。私は銀ちゃんに惚れなおしたよ」
海老原まつは朗らかな笑顔で声を立てて笑った。

 


創作欄 徳山家の悲劇 16)

2019年06月20日 22時49分01秒 | 創作欄

2013年2 月 8日 (金曜日)

里美は高校で演劇部に所属していた。
「みどりね、私は高校で演劇をしていたのよ」
「えぇ!里美が演劇を」
みどりが見知っていた中学生時代の里美は内気で、とてもはにかみ屋であった。
ただ、里美の美しい容貌にみどりは嫉妬心さえ覚えていた。
「舞台に立つ時には、何時も足が震えてセリフも上手に言えなかったの」
みどりは里美には演劇は到底無理だろうと思われた。
だが、里美には伊藤左千夫の「野菊の墓」の民子の役柄が回ってきたそうだ。
その喜びもつかの間、皮肉にも里美に子宮頸がん見つかったのだ。
生理ではないときに原因不明の出血があった。
そして進行してくると、おりものが増え腰や腹部に痛みを感じた。
さらに排尿が困難となり、全身の倦怠感などが出てきた。
やがて尿に血が混じり排便障害とともに血便が出た。
発熱や寒気、陣痛のような強い痛みなどがあった。
がんの痛みとは、がんの病巣が固くなり周りを刺激することだと言われている。
だが、取手のお遍路の時、里美を苛んでいた痛みが奇跡的が出なかった。
みどりは午後9時まで里美たちと旅館で過ごして、アパートへ帰宅した。
「手紙を待っているわ」
別れ際に里美は、哀願するような涙目でみどりの手を確りと握った。
実は里美は東京・墨田区の錦糸町駅の近郊にある歯科機械の企業に就職が内定していたが、病のため断念していた。
「本当に、里美は死ぬのだろうか?」 想いを巡らせるみどりは眠れなくなった。
取手に突然やってきて、取手の地で初めて眠ることに複雑な感慨もあった。
里美は自分と同じ18歳であり、里美の命の儚さに涙が溢れてきた。
譲り受けた布団は羽根布団であり、軽くて温もりが全身を包んでくれた。
みどりは部屋の裸電球を消さずに天井を見つめながら、明日からどうすべきかを考えた。
生きていくためには、まず職をさが探さなければならなかった。
救いなのは銀次じいいさんから譲り受けた100万円近い郵便貯金が手元にあることだった。
昭和34年、取手の6畳のアパートの家賃は5000円であった。
2013年2 月 7日 (木曜日)
創作欄 徳山家の悲劇 15)
昭和34年、取手の旧水戸街道面した麹屋旅館はお遍路さんの常泊宿の一だった。
旅の芸人、成田や富山の薬売りなどの行商人、競輪の選手も泊まっていた。
旅館の斜め前に火の見櫓があって、突然、激しく半鐘が鳴った。
「火事だ! 何処だ?」
行商人の1人が叫んだ。
2階の窓から赤々と炎が上がっているのが見えた。
「青柳の方だな」と興奮した声が下の道から聞こえた。
近隣の人たちが家から飛び出して炎の方角を眺めていた。
消防団員が急遽駆け付けきて小さな消防車に飛び乗ると車庫からサイレンを鳴らして走り出て行った。
「火事は怖いね。東京大空襲を思いだすよ」里美の祖母が眉を潜めた。
夜空を赤々と染める炎は実に不気味であった。
祖母は関東大震災も経験していた。
食事をしながら、関東大震災の話となった。
日本で最大の想像を絶する壊滅的な被災であった。
食事の場が重く沈んできたことに気づいた祖母は、みんなの気持ちを気遣って、「旅芸人でも呼ぼうか」と言う。
旅館の人に頼むと蝦蟇(ガマ)の油売りがやってきた。
その巧みな口上にみんなが感嘆し拍手を送った。 また、役者に憧れていた旅館の主人が座を盛り上げるために、駒形茂兵衛 に成りきって演技をした。
宿泊客に評判の演技であった。
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<参考>
駒形茂兵衛
長谷川伸の戯曲「一本刀土俵入」の主人公。
横綱をめざすが挫折、下総(しもうさ)取手宿(茨城県)の酌婦(しゃくふ)お蔦(つた)にすくわれる。
10年後,いまは渡世人となった主人公がお蔦一家の危機をすくい恩返しをする。
昭和6年歌舞伎での初演以来、舞台や映画で親しまれた。
1931年6月東京劇場初演。
配役は駒形茂兵衛を6世尾上菊五郎,辰三郎を13世守田勘弥,お蔦を5世中村福助ほか。http://www.youtube.com/watch?v=gtZCjSbmdi0
http://www.youtube.com/watch?feature=endscreen&v=sq-P0UOjCe0&NR=1

写真:昭和30年代の取手駅
2013年2 月 7日 (木曜日)
創作欄 徳山家の悲劇 14)
中学時代の親友の里美が白装束に身を包んでいた。
まさか里美と取手で再会するとは、それはまさに奇遇であった。
白装束のお遍路姿は、取手の土地柄をみどりに強く印象づけた。
かつての取手は「取手の春はお遍路さんの鈴の音とともにやってくる」と言われ家内安全、無病息災、五穀豊穣を祈るお遍路さんが訪れ春の風物詩でもあった。
札所は我孫子市26・柏市4・取手市58の合計88か所である。
88は、人間の煩悩の数88、「米」の字を分解した「八十八」、厄年(13歳・33歳・42歳)の合計88もいわれている。
布佐新田の浅間神社は番外札所で第89番となっている。
四国の八十八カ所霊場は全て巡礼すると1200kmほどもあるが、相馬八十八箇所霊場は60kmほどであり、省略すれば1日か2日。
全行程なら3日か4日ほどで何とか巡礼できる道程だ。
満願の88番は1番、5番と同じ、取手の長禅寺である。
取手駅に近い長禅寺の階段を登ると目の前に利根川のゆったりとした流れが見えた。
坂東太郎の異名がある川だ。
坂東(関東)にある長男格(日本で一番大きい)の川という意味である。
里美は「川はいいわね」と笑顔を見せた。
死の病に取り憑かれた様子が窺い知れないほど瑞々しい横顔をしていた。
みどりは、生まれ育った深川の横十間川(東京都墨田区と江東区を流れる運河)を思い出した。
「みどり、私の分まで長生きしてね」
里美がみどりの手をとると里美の母親と祖母がハンカチで目頭を押さえた。
みどりは慰める言葉が見つからず、手を固く握り返した。
「私が代わってやれるものなら代わってやりたい」祖母は里美の肩に手を添えた。
横十間川沿いを里美と度々散策したことが思い出された。
あれがみどりにとっては青春であった。
桜の季節、横十間を歩いていた時、里美が同じ陸上部の先輩に恋心を抱いたことを告白した。
温暖な春は胸が弾む季節であった。
だが、銀次じいさんが突然亡くなったことで、みどりの生活は一変してしまった。
米屋の店を手伝うようになり、高校へ進学した里美と疎遠になった。
同期生との誰とも会えないこととなった。
里美が長禅寺の桜の枝の先が膨らんでいるのに目をとめていた。
「桜が早く咲くといいいのだけれど・・・」里美が独り言のように言った。
「今年は暖かいから直に咲くよ」と祖母が慰めるように桜を見上げた。
「桜の咲く季節にまた取手に来ようね」と母親が声に力を込めた。
みどりは銀次じいさんからもらった「おねがい深川不動お守り」を首から外すと里美の首に願いを込めてかけた。
境内には俳人の小林一茶の句碑 「下総の四国巡りや閑古鳥」があった。
閑古鳥は、カッコー鳥と詠む、「閑古鳥が鳴く」と言うと、お客の少ない寂しい情景を表すが、この句は、閑古鳥が夏の季語として使われている。
夏、カッコーが鳴く境内でお遍路さんを見かけてことを詠んだ句である。
長禅寺境内の第1番・第5番・第88番の札所で祈念し、一行は第3番の八坂神社、第2番の念仏院、第6番の薬師堂を巡った。
右の方向が吉田地区である。
台宿坂から見渡すと視野一面に田圃が広がっていた。
その井野地区の田圃に囲またように取手一中が見え右脇に本願寺があった。
参道右側に本多作左衛門重次の有名な手紙「一筆啓上」の碑がある。
「火の用心、おせん泣かすな馬肥やせ」
必要な用件だけを、最も手短に述べた手紙の例として有名だ。
本多重次が戦地から妻に出したものだ。
重次の名より、通称の作左衛門とその勇猛果敢で剛毅な性格に由来する「鬼作左」の通称で知られた。
天野康景、高力清長と共に徳川家康三河時代からの三河三奉行の一人だ。
一行は吉田地区を経て取手市東部の小文間地区の札所へ向かった。
昭和10 年6月、小貝川河口近くに戸田井橋が開通して、小文間と利根町間は歩いて往来出来るようになった。
しかし、お遍路さんは、橋を渡らず「お遍路の渡し」で布佐へ向かったそうだ。
「取手へ戻ろうね」と祖母が切り出したので、布佐の札所巡りは省略された。
そして一行は旧水戸街道沿いの麹屋旅館に投宿した。
みどりは誘われるまま旅館で夕食をともにした。
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<参考>
取手宿(茨城県取手市)
江戸時代、利根川に並行するように町並が形成され、船頭、船大工、鍛冶屋など船に関る職人たちも暮らしていた。
米・雑穀商、醤油醸造、造酒(つくりざかや)屋、旅籠(はたご)、茶屋、川魚料理屋、蕎麦屋、干鰯(ほしか)屋、油屋、豆腐屋、呉服屋、髪結(かみゆい)、草履(ぞうり)屋など、江戸の後期には二百近くの商店が軒を連ねていたとされる。
2013年2 月 5日 (火曜日)
創作欄 徳山家の悲劇 13)
取手駅前食堂「加福」の人たちの親切、好意にみどりは感謝した。
「おふくろに言われたので、布団を届けに来た」と賢一が自動車から布団を降ろした。
布団の間から枕が路上に転げ落ちたので、みどりは慌ててそれを拾った。
みどりが紹介されたアパートの部屋は1階で、部屋が3つ並んだ真ん中の6畳一間であった。
小さな炊事場が付いていた。
トイレはあったが風呂はない。
「近くに銭湯もあるが、うちの風呂に入りに来ればいいとおふくろが言っていた」
賢一は笑顔で帰り際に言う。
「本当にありがとうございます」みどりには涙が出るほど嬉しかった。
東京下町の人情と言うが、茨城県民の素朴で人の良さがにじみ出た人情であった。
みどりはしばらく部屋でぼんやり座っていたが、着の身着のままでは居られないと思い服を買いに行くことにした。
みどりは大師通りで白装束の人たちを見かけた。
「この人たちは何だろう?」
みどりは自分と同世代と思われる女性の一人に目を奪われた。
みどりの視線を感じたのだろう相手もみどりに視線を注いだ。
「みどりじゃない?!」相手は高い声を発した。
「里美ね」みどりは目を見張った。
里美はみどりの中学時代の親友であった。
2人は歩み寄って思わず手を取りあった。
白装束の人たちは里美の祖母と母、叔母や近所の人たち8人連れであった。
「私ね、がんなの。もう長く生きられそうもないの」里美は涙を流した。
「がん?」みどりはがんの病気の実態を知っていなかった。
若い自分には全く考える必要もない病気だと思っていた。
がんは死の病?!
みどりは里美が外見上で健常者と変わらないことを感じ複雑な気持ちとなった。
そして、みどりはこの日、里美のお遍路に同行した。
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<参考>
新四国八十八カ所相馬霊場お遍路は、江戸時代の頃、巡礼が流行となり、各地に大小さまざまな巡礼地ができた。
一般に四国の八十八カ所霊場を巡礼することを「遍路」といい、巡礼者を「お遍路さん」と呼んだ。
新四国相馬八十八カ所霊場は、現在の取手市〜我孫子市周辺に現存する250年もの歴史のある巡礼地だ。
この霊場は観覚光音禅師が四国八十八ヶ所を訪れ札所の砂を持ち帰り、利根川の流れに沿った寺院・堂塔にうめて開基したといわれている。
長禅寺住職の弟子となり、余生は琴平神社で送ったといわれている。
(注1)観覚光音禅師(伊勢屋源六)
信濃の国の出身で13歳の時に江戸の呉服商の伊勢屋に奉公後、後に独立して取手宿で商売を始める。
その後、長禅師の幻堂禅師の弟子となり、出家し、四国八十八箇所を巡り、取手に各札所の砂を持ち帰った人物である。
2013年2 月 4日 (月曜日)
創作欄 徳山家の悲劇 12)
取手駅前の食堂「加福 かふく」は母親の海老原まつ、息子の賢一と嫁の絹江の3人で経営していた。
まつは74歳であったが、地元取手駅前商店会の婦人部のまとめ役の立場で取手町の発展に貢献したいと思っていた。
「取手町は将来発展するよ。常磐線の上野駅―取手間の列車が電化されているで東京への通勤圏として大きく変わるよ」とみんなの意識が高まることを期待していた。
そして取手町が取手市となり大きく変貌したのは昭和40年代のことである。
まつはみどりの身を案じた。
「これからどうするのさ?」
みどりはまつの目を見ながら言葉を選んだ。
18歳であるので、自立して生きていく決意をしたが当面どうするかである。
「銀次じいさんの故郷、取手に住もうと思います」
「染野家は台宿にあるけど、行ってみるかい。銀ちゃの兄さんの金蔵さんは亡くなっているけど、息子の虎蔵さんがいるよ」
「いいえ、迷惑をかけたくありません。住むところを探します」
「探す?」まつは改めてみどりの身なりを見た。
みどりが所持しているのは風呂敷包み一つだけで、ジャンパーに長いスカートの着の身着のままだった。
「まずは、住むところだね」まつは溜息をついた。
「お金は多少持っています。ご迷惑だと思いますが、住むところを紹介してください」
みどりは郵便局に100万円近い金を貯蓄していた。
それは銀次じいさんがみどりの将来のために貯蓄した金の一部であった。
みどりはまつと出会ったことが幸運であった。
取手駅に近い取手病院の裏のアパートの空き室を紹介された。
病院の離れの部屋には1940年ころに作家の坂口安吾が住んでした。
アパートはその病院の裏の場所に建っていた。
2013年2 月 2日 (土曜日)
創作欄 徳山家の悲劇 11)
食堂の客たちは朝から食事をしながらビールや日本酒を飲んでいた。
競輪の開催時間が迫っていたのだろう。
「させ、金儲けの時間だ」と鳥打帽をかぶった男が立ちあがった。
それに続いて10人ほどの客が席をたった。
会計を終えて出ていいく男の何人かがみどりに好奇を視線を注いだ。
地下足袋をはいた若い男もいた。
頭に手拭いを巻いている男は、「ねいちゃんかわいいね」とみどりのそばまで来て言う。
みどりは無視した。
「また、会おうぜ」とニヤニヤして店を出て行った。
ガラス戸越しにタクシーに乗る男たちの姿が見えた。
「あんた、家出して来たんじゃないかい」
食堂の70代の女性はみどりの前の席に座った。
みどりは率直にうなずいた。
「どうもそうじゃないかと思ったのさ」
みどりは思わず涙を浮かべうつむいた。
「お茶をもう一杯飲みな」
女性は大きなきゅうすを持参してきた。
「ところで、どうして取手に来たんだい」
みどりは戦災孤児で隣の米屋のおじいさんに育てられたことを話した。
「そうだったのかい。東京大空襲は酷かったそうだね」
「あの時は5歳でした」
「そうかい。5歳で孤児にね。かわいそうに、戦争は悲惨だね」
みどりな涙を浮かべうなずいた。
お茶を一口飲んでから、みどりは育ててくれた銀次じいさんが、取手出身であることを告げた。
「おじいさんは染野銀次です」
「ええ、東京深川の銀ちゃんかい?!」
「はい、深川の米屋です」
「銀ちゃんはわたしとは取手小学校の同期だよ。驚いたね!」相手は目を見張ってまじまじとみどりの顔を見つめた。
みどりはこの偶然の出会いに心が大きく動かされた。
 「銀ちゃんは元気なんだね?」
「いいえ、私が中学2年の時に亡くなりました」
「知らなかったね。亡くなったのかい。最後に銀ちゃんに会ったのは昭和16年に戦争が始まって翌年の年の正月だったからよく覚えているよ」


創作欄 徳山家の悲劇 10)

2019年06月20日 22時40分18秒 | 創作欄

2013年2 月 1日 (金曜日)

銭湯へ行くことを口実に浅草の小料理店から逃げ出したみどりは風呂敷包の中に下着と洗面道具と歯ブラシ、郵便貯金の通帳をだけを入れていた。
ボストンバックに身の回りの物や衣類などがあったが持ち出せなかった。
取手駅前の広場でみどりは幼い男の子をおんぶしている少女を見かけた。

東京の下町では見かけない光景であった。
近くの太い銀杏をみどりは見上げた。
葉が一枚もない銀杏の大木は如何にも寒々と映じた。
澄んだ空気のなか青空が広がっていた。
この日は取手から南に遠く富士山が見え、北には筑波山も望めた。
銀杏の大木の向こうに木製のタクシーの看板が見え、運転手がドアを開け運転手仲間たちと新聞を見ながら声高に何かをしゃべっていた。
2月の取手は実に寒かった。
みどりはジャンパーの襟首に巻いた襟巻を二重巻きにした。
みどりは昭和34年2月18歳を迎えた。
「私も一人前になるのね」と思いながら自立することを念じた。
寒さに耐えかねたみどりはためらわず、駅前の食堂へ入った。
10坪ほどの店は意外と朝から満席であった。
この日、取手競輪が開催されており、競輪ファンたちが腹ごしらえをしていたのだ。
男たちの視線が若いみどりの姿に注がれていた。
注視されたみどりは戸惑いうつむいた。
店に70代の女性が居て、お茶を運んできた。
「あんた見ない顔だね。どこから来たの?」
小声でみどりは、「東京の浅草から来ました」と答えた。
「何にするの?」
みどりは壁に掲示されいたメニューを見上げた。
筆文字は達筆であった。
みどりは親子丼を注文した。
ちなみに34年1月には第3次南極観測隊が前年、基地に置き去りにしたカラフト犬5頭中、タロー、ジローの無事 確認され話題となった。
2月黒部トンネルが開通している。
4月皇太子殿下の成婚式が行われた。
取手の映画館では東宝映画の無法松の一生が放映されていた。
銀次じいさは映画好きでみどりをつれ浅草の映画館へ行っていた。
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<追記>
作家:坂口 安吾(さかぐち あんご、1906年(明治39年)10月20日~1955年(昭和30年)2月 17日)は、 私生活では取手の取手病院の離れに 住み込み、1940年には取手の寒さに悲鳴をあげ、詩人の三好達治の誘いで温暖な気候の小田原に転居。
雪国の新潟(新潟市西大畑町:現・中央区西大畑町)に生まれ育った安吾が取手の寒さに答えたことが奇妙でもあるが、事実なのだ。
<参考>
昭和34年の物価
米(10キロ)870円  かけそば35円  豆腐15円 生ビール特大瓶(2㍑)378円 日本酒(1.8ℓ)505円  はがき5円  新聞購読料(1ヶ月)390円  封切り映画館入場料150円 国鉄初乗り運賃10円
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東宝映画の無法松の一生
【概要】 小倉の人力車夫・松五郎(三船敏郎)は喧嘩っぱやいが人情に厚い名物男。
そんな彼が陸軍大尉の家族と知り合いになり、大尉の戦死後、未亡人よし子(高峰秀子)とその子どもに愛情を持って奉仕し続けていくが…。
東宝時代劇の巨匠稲垣浩監督の1943年度作品をカラー・シネスコサイズ・ノーカット版でリメイクした作品。


2013年1 月31日 (木曜日)

創作欄 徳山家の悲劇 9)
昭和33年、常磐線にはSLが走っていた。
蒸気機関車の汽笛はみどりには物悲しく聞こえた。
「みどりよく聞きな。女はね生きていくためには身を張るんだよ」
千代子の声が脳裏に疼くように残っていた。
みどりは車窓から景色をぼんやりと見ながら頭をふった。
「嫌だ。身を売るなんて、絶対私にはできない」
直接、千代子には言えなかった。
常磐線は、上野駅を出発すると日暮里、松戸、我孫子、取手の順で停車した。
蒸気機関車の常磐線はC62やC57が客車列車を、D51が貨物列車をけん引していた。
柏駅には停車しなかった。
また天王台駅は我孫子駅と取手駅間(6.1㌔)の新駅としては昭和46年に開業された。
みどりが乗った列車は終点は平駅行であった。
「分かっているだろう? 明日からみんなのように、みどりも男をとりな」みどりは千代子から宣告されて一睡もできくなっていた。
着の身着のままのみどりは松戸駅を過ぎて眠りに陥っていた。
利根川の鉄橋を列車が渡る音でみどりは目を覚ました。
取手駅に降り立った時みどりは戸惑った。
木造の取手駅はあまりんも侘びれたローカルな田舎駅であったのだ。
ホームの外れの左前方には常総筑波鉄道の気動車が2両編成で停車していた。
取手駅から東口に出ると、商店街には映画館や銭湯があり、肉屋、魚屋、八百屋と商店が立ち並んでいた。
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<参考>
昭和30年2月には町村合併促進法により、取手町・寺原村・稲戸井村・高井村・小文間村が合併して新しい取手町が誕生した。
昭和40年代の高度経済成長期には、首都圏近郊都市として、県下初の日本住宅公団による住宅団地の開発や民間による宅地開発、及び民間大手企業の進出により人口が急増し、昭和45年10月には県内17番目の市制を施行し取手市が誕生した。
http://www.youtube.com/watch?v=li13bVLSjhc
2013年1 月31日 (木曜日)
創作欄 徳山家の悲劇 8)
17歳のみどりにとって、世の中まだ分からないことばかりであった。
みとりが働いていた小料理屋は「青線地帯」にあった。
青線はもぐりの集団売春地帯を指す俗称。
佐々木千代子には旦那がいた。
旦那には本妻がいて千代子は情婦であった。
旦那の木嶋剛は西浅草に本拠を置くヤクザのT組に所属していた。
T組の前身は博徒系右翼団体だった。
その木嶋がみどりが妊娠していることを聞くと「相手の野郎から金をふんだくってやろう」とい言いだした。
「そうだね。みどりは下(堕胎)ろすんだから、最低でも中絶代は出させないけばね」と千代子は応じた。
銀じいさんの甥の作治はテキ屋であり、ヤクザの木嶋の脅しに簡単に応じるのかと思われたが、木嶋は大型のアメリカ車に子分3人を乗せて作治の米屋に乗り込んだのだ。
この日、作治は後楽園競輪で大当たりして20万円ほど儲けていたので、「これで勘弁してくれ」と顔を歪めながら胴巻きから1万円札を鷲掴みにしてさし出した。
昭和33年に1万円札が発行された。
岩戸景気と呼ばれるものが始まった年で、大卒の初任給1万3000円くらいの時代であり、20万円は大金であったが、木嶋は「これすまのか、ふざけるな!」と怒りの声を発すると、子分の一人が手にしていた短刀を奪うようにして、鞘を抜くとグサリと畳に突き立てた。
「みどりは、死んだじいさんの養女だろうが、遺産を貰う権利もあるんだよ。みどりを強姦しやがって、犯罪だろうが、サツへ訴え出てもいいんだぞ!」 畳み掛けるように言い放った。

それで驚愕した作治は立ち上がると桐のタンスに仕舞われれいた銀次じいさんが、みどりの将来ために貯めた300万円の郵便貯金通帳を震える手で差し出した。
通帳には印鑑が挟まれていた。
結局、みどりは浅草寺病院で中絶手術を受けた。
浅草寺病院は1910(明治43)年に浅草寺境内念仏堂に設立された「浅草寺診療所」を前身として、1952(昭和27)年に社会福祉法人の病院として設立された 。
木嶋はみどりの郵便貯金300円をおろすと200万円を奪い、100万円をみどりに渡していた。奪った金は組への上納金の一分に流用した。
半年後に千代子から売春を強要されたみどりは銭湯へ行くこと口実にして浅草から逃げ出した。
ヤクザの木嶋が追ってくることを恐れて、みどりは上野駅から常磐線に乗った。
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<参考>
日本には、江戸時代以来の公娼制度が存在していた。
明治5年に、明治政府が太政官布告第295号の芸娼妓解放令により公娼制度を廃止しようと試みた。
しかし、実効性に乏しかったこともあり、1900年(明治33年)に至り公娼制度を認める前提で一定の規制を行っていた(娼妓取締規則)。
1908年(明治41年)には非公認の売淫を取り締まることにした。
売春防止法、1956年(昭和31年)5月24日法律第118号)とは、売春を助長する行為等を処罰するとともに、性行又は環境に照らして売春を行うおそれのある女子に対する補導処分及び保護更生の措置を講ずることによって、売春の防止を図ることを目的とする日本の法律である。この法律の制定に伴い1958年(昭和33年)に赤線が廃止された。

同法は、「売春が人としての尊厳を害し、性道徳に反し、社会の善良の風俗をみだすものである」という基本的視点に立脚している。
1953年(昭和28年)から1955年(昭和30年)にかけて、第15回、第19回、第21回、第22回国会において、神近市子などの女性議員によって、議員立法として同旨の法案が繰り返し提出された。これらは多数決の結果、いずれも廃案となった。
22回国会では連立与党の日本民主党が反対派から賛成派に回り、一時は法案が可決されるものと思われたが、最終的には否決された。
青線 は、1946年1月のGHQによる公娼廃止指令から、1957年4月の売春防止法の一部施行(1958年4月に罰則適用の取締りによる全面実施)までの間に、非合法で売春が行われていた地域である。青線地帯、青線区域ともいわれる。
所轄の警察署では、特殊飲食店として売春行為を許容、黙認する区域を地図に赤い線で囲み、これら特殊飲食店街(特飲街)を俗に「赤線(あかせん)」あるいは「赤線地帯」、「赤線区域」と呼んだ。
これに対して特殊飲食店の営業許可なしに、一般の飲食店の営業許可のままで、非合法に売春行為をさせていた区域を地図に青い線で囲み、俗に「青線(あおせん)」あるいは「青線地帯」、「青線区域」と呼んだとされている。


創作欄 徳山家の悲劇 7)

2019年06月20日 22時38分34秒 | 創作欄

2013年1 月29日 (火曜日)

浅草寺の北に広がる浅草花街は、伝統と格式を誇る東京屈指の花柳界の一つである。

浅草寺病院近くの言問通りの小料理屋の表玄関脇の柱に「住み込み女中(お手伝い)募集」の張り紙があった。
みどりがそれを見つめていると、背後から声をかけられた。
「あんたは、いくつだい?」
気落ちした様子で張り紙を見つめているみどりは、重そうにボストンバックを持っている。
その姿は如何にもわけありの娘の姿であり、家出人のそのものように映じただろう。
振り向くと30代後半と思われる浴衣姿の女性であり、髪方をアップにしていて粋な感じがした。
「家出人だね」相手はまじまじとみどりを見ながら念を押した。
みどりは俯いて肯いた。
「今、銭湯の朝風呂から戻ってきたんだ。ともかく店の中に入りな」と促された。
女は素足に下駄ばきであり、洗面器に化粧品とタオルを入れていた。
「朝飯はまだなんだろう? 一緒に食べよう」
女は佐々木千代子と名乗った。
みどりは戦災孤児で、隣の米屋のおじいさんの養女として育てられたことや中卒で現在17歳であることを告げた。
「あんた今、17歳なのかい。私が福島の会津から出て来た時も17歳だった。実家は子だくさんの貧乏農家でね。私も中卒なんだよ」
みどりは東京の下町育ちであり、東北育ちで少しアクセントに訛りが残る千代子に親しみを感じた。
朝食は卵焼き、海苔、漬物のたくわんとキュウリ、味噌汁であった。
みどりは朝食をべながら涙が溢れてきた。
「家出をしたんだから、辛かったこともあったんだね」千代子も目を潤ませた。
店で働いて2か月後にみどりの体に異変が起こった。
一回の強姦による性交で皮肉にもみどりは妊娠していた。

妊娠2か月の症状は以下。
おりものが増加、便所の回数が増える、下痢や便秘症状になりやすい、胸部や下腹が張る、乳首が黒ずんできくる。

まだ赤ん坊の姿ではなく胎芽 (たいが) といわれる。

妊娠2か月目のおわりの形は、頭でっかちで手や足になる部分の発育がはじまり、外陰部もいちおう識別される。
銭湯で千代子はみどりの裸の様子から「あんた妊娠しているんじゃないかい?」と指摘した。
「妊娠?! そんあことがあるのだろうか?」みどりは言葉を失って、この事態に驚愕した。

 2013年1 月29日 (火曜日)

創作欄 徳山家の悲劇 (6

みどりは銀次じいさんが、毎朝お参りに行っていた深川不動尊に立ち寄って手を合わせた後、思い立って浅草へ向かった。
浅草へは銀次じいさんに毎年連れてもらっていた。
初詣、5月の三社祭、7月の七夕やほうずき市、隅田川の花火、10月の菊花展、12月の歳の市、「羽子板市」
また、酉の市は、11月の酉の日(十二支)を祭日として、浅草の酉の寺(鷲在山長國寺)や各地の鷲神社、大鳥神社で行われる、開運招福・商売繁盛を願う祭りで、江戸時代から続く代表的な年中行事。
江戸時代には「春を待つ 事のはじめや 酉の市」と芭蕉の弟子其角が詠んだように、正月を迎える最初の祭りとされていた。
浅草花やしきも忘れられない。
浅草花やしき東京都台東区浅草二丁目にある遊園地。
1853年(嘉永6年)開園で、日本最古の遊園地とされる。
昭和33年は上野へ出て地下鉄銀座線で浅草へ行っていた。
都営浅草線(浅草橋~押上間)初めて開業したのは昭和35年12月である。
浅草へ向かったのは銀次じいさんの導きとも思われた。
ある意味で、昭和33年(1958年)は17歳のみどりにとって印象に強く残るとしであった。
1月に皇太子明仁殿下と民間人の正田美智子さんの婚約が発表された。
ミッチーブームとなる。
また、この年8月17日、東京都江戸川区の東京都立小松川高等学校定時制に通う女子学生(当時16歳)が行方不明になる。
同月20日に、読売新聞社に同女子学生を殺害したという男から、その遺体遺棄現場を知らせる犯行声明とも取れる電話が来る。
警視庁小松川警察署の捜査員が付近を探すが見あたらず、イタズラ電話として処理される。
翌21日、小松川署に、更に詳しく遺体遺棄現場を知らせる電話が来る。
捜査員が調べたところ、同高校の屋上で被害者の腐乱死体を発見した。
また、銀次じいさんが上るのを楽しみにしていた12月に東京タワーが完成した。
ところで、浅草寺の現本堂は昭和33年に再建さ鉄筋コンクリ-ト造りである。
当時はいたるところで道路工事が行われていた。
そのため道が雨になるとぬかるんで足をとられ実に歩きにくかった。
また、神風タクシーという流行語があった。
運転手たちには1日1万円のノルマ―が課せられていたので、スピード違反承知で路面電車を縫うようにくねくねとフルスピードで走行していた。
かせられていた。
「あと1人にいないかな。銀座方面、誰か乗らないか」
そして強引に客を力ずくで引き込み、4人を詰め込んで走り去っていた。
ノルマ―達成でくたくたになったタクシーの運転手たちは深夜喫茶で休息をとったり寝込んでいた。

2013年1 月27日 (日曜日)

創作欄 徳山家の悲劇 5)

戦災孤児となったみどりは、米屋の銀次じいさんの養女となって育てられた。
銀次じいさんの息子は南方で戦死し、妻子は東京大空襲で亡くなり一人身となってしまった。
戦災孤児と孤老が終戦後を生き抜いた。
だが、みどりが14歳の時に、銀次じいさんは脳出血で倒れ病院へ救急車で搬送されたが、約2か月後に意識が戻らぬまま亡くなってしまった。
突然の別れであり、みどりの運命も大きく変わった。
銀じいさんの甥の作治が葬儀の喪主を務めた。
作治はテキ屋を家業としていた。
いわゆる露店商である。
背中に刺青をしていた。
葬儀から半年後、作治は米屋に転じたのであるが、根が遊人である。
店をみどりや店員の貞雄に任せると競輪に明け暮れる。
「おい、みどり店を頼むぞ、わしは後楽園へ行って来る」
朝から店を出て行った。
そして、夜はテキ屋仲間と麻雀か花札賭博である。
作治の指示でみどりは高校へ行かずに米屋の従業員になっていたのだ。
貞雄はみどりと2歳違いの17歳であり、茨城県の取手の中学を卒業すると米屋の住み込み店員になっていた。
実は銀次じいさんは茨城県の取手出身であった。
貞雄は銀次じいさんの実家の隣人の斎藤家の3男であった。
貞雄はよく働いた。
自転車で米の配達もしていた。
みどりは16歳の年齢としては豊かな胸をしていた。
それを作治は好色な目で見ていたのだ。
みどりが台所で食器を洗っていると背後で作治が、「おいみどり、色っぽくなってきたな」と言う。
振り向くとタバコをくわえた作治の三白眼がみどりの豊か腰に注がれていた。
みどりが17歳の夏、寝ているところを作治に強姦された。
二階の部屋で寝ている貞雄に助けを求めようとしたが、丸めた手ぬぐいを口に押し込まれて声を塞がれた。
豆電球が灯る暗い部屋でのことで、実際何が何だか分からず驚愕して声も出なかったのだ。
タバコのヤニの強い不快な匂いがみどりにとってトラウマとなった。
蹂躙される間、銀次じいさんから貰った深川不動の願いお守りを右手で握り締めていた。
翌日、貞雄と顔を合わせることがみどりには辛かった。
貞雄は午前6時には起きてくる。
みどりは身支度を整え、ブストンバックに衣類を詰めると米屋を出た。
みどりは涙を浮かべて店の外に立ち止り、貞雄が眠る2階の部屋に視線を注いだ。
そして意を決して、駅へ向かって歩き出した。
「これからどうしょう?」
「どこへ行こうか?」
不安が募ってきた。
午前5時夏の朝、閉ざされた商店街は既に明るくなっていた。
薄曇りで太陽は見えなかった。

 

2013年1 月24日 (木曜日)

創作欄 徳山家の悲劇 4)

みどりは戦災孤児であった。
東京府 東京市深川区猿江町に祖父母、母、二人の兄、妹と8人住んでいた。
父は酒店を経営していたが、昭和19年8月に赤紙が来て軍隊に徴兵された。
昭和20年3月9日は午後からすごい北風が吹き荒れ肌寒い日であった。
夜10時半ごろ警戒警報が鳴ったので、まず、祖父が飛び起きてラジオをつけた。
敵機の大編隊が房総沖を来襲中とアナウンサーの甲高い声が聞こえてきた。
家族全員が身支度を整えて防空濠に入る。
 だが、夜中の零時前後であっただろうか、消防団の人が「焼夷弾だ、みんな焼け死ぬぞ!防空濠から出ろ」と緊急事態を告げ大声で叫んでいる。
「焼夷弾だと!アメ公の奴らは民家にも落とすのか!」祖父は目を剥いて怒りをあらわにした。
その時、母は足が悪い祖母の手をとって立ち上がった。

全員が確りと防空頭巾をかぶった。

母親はいったん家へ戻り桐の箪笥から色々なものを取り出していた。
狼狽えていた祖母が、みどりの手を握り締めて立ち上がった。

みどりは妹勝子の手を確りと握り締めた。
防空濠から出ると、西の方角の視野180度の方角で北風にあおられ炎が夜空を真っ赤に染ていた。

炎は渦を巻き、メラメラと揺れ動きながらこちらへ迫ってくるところであった。
昭和15年2月生まれのみどりは5歳になっていた。
逃げながら「あの炎は水天宮辺か」と祖父が振り返った。
みどりの家は酒屋であり、表通りに面していたが、路地裏からたくさんの人が湧き出すとうに出てきた。
「近所にこんなにも人が住んでいたのかい?!」足を引きずる祖母は息せき切って驚きの声をあげた。
落とされた焼夷弾が次々と家々を焼き尽くしていく。

まさに阿鼻叫喚の地獄絵そのものであった。

東京で1日夜で10万人もの東京府民の市民で死んだのだ。

ドラム缶でも爆発したようで、いたるところで爆発音もしていた。

 家並みに次々と火がつき燃え上がる中をさまよい逃げ惑った。

行く手を阻むように刻々火炎地獄が迫り来て人々を飲み込んでいく。

どちらの方角へ迎えば命が助かるのか?
人は逃げ惑い人の流れは混乱し、錯綜するばかりだった。

母と祖母が遅れていく。
重い柳行李を背負う祖父も遅れて行く。
隅田川の方角を目指した兄二人はどうなったのだろうか。
妹勝子の手を確りと握っていたのに、大人の人たちに度々体が激しくぶつかり、倒れたところを踏みつけたれた。

そしてみどりは家族たちとはぐれて一人取り残されてしまった。
気づけば猿江恩賜公園の方へ向かって歩いていた。
北風に火の勢いは増すばかりで逃げ惑う人たちは翻弄されるばかりだった。
幾台もの大八車に火の粉が飛び火して燃え上がった。
進むか退くか、人々はためらっていた。

「焼け死ぬぞ、川へ逃げろ」と叫ぶ人もいた。

みどりは小名木川橋の方角へ向かっていた。
北風が勢いを増し、さらに火災旋風で空気が対流し、立って歩くこともできなくなる。
みどりは這うようにして橋のたもとにあった交番にたどり着いた。
周りは家屋の強制取り壊しで原っぱになっていて、コンクリートの交番だけがほつりと残されている状態だった。
空襲の激化に伴い軍需工場の付近の家屋は、内務省の指令により強制疎開させられたが、それが住宅地にも及んでいたのだ。
防火帯を作って延焼防止のために行われるものだが戦時下では、長年住み慣れた家も「指令」と言う名で取り壊されなければならかった。
みどりが川を見ると、5人乗り、10人乗りぐらいの小舟が後から後から燃えながら漂流しいた。

それは不気味な光景であった。
炎に船が包まれているので、「乗った人たちみんな死んでいるに違いない」とみどりは思った。
交番の小さい窓から外を見ると、錦糸町、深川八幡、木場の方角の家々が火災旋風に勢いを増して燃えていた。
交番で朝を迎えみどりは実家のある猿江町へ戻ったが家族の誰も戻っていなかった。
それから母の実家がある住吉町まで家族を探しに行ったが、そこも焼き尽くされており、誰もみどり待っていなかった。
近所の警察署も燃えていた。
隣の家に住む米屋の銀次じいさんが、近所の人に向かって「酷いもんだ。死体をたくさん見たが、罪人も哀れなもんだな!警察署の拘置所にいた囚人たちが鉄格子にしがみついて死んでいた」とまゆをしそめた。

みどりがが「わっと」と声を発して号泣すると銀次じいさんがみどりを抱きしめてくれた。

奇跡的に銀じいさんの米屋は類焼を免れていた。

深川不動尊で毎朝祈っていた銀次じいさんは、自分の首からお守り外すとそれをみどりの首にかけた。

「これは、不動尊のお願いお守りだよ。家族は直に見つかるさ、心配はいらない」と慰めた。

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<参考>

深川猿江は、東京都江東区の町名である。
1923年(大正12年)9月1日の関東大震災では地区のほとんどが甚大な被害を受けたほか、1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲でも工場地帯であったため、本所区と並んで深川区はアメリカ軍の標的の中心となっており、このような下町特有の町並みがいずれの場合にも膨大な犠牲者を出す要因の一つになったと言われている。



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頭上は低空で300機の爆撃機が飛び交う

4トン積みトラック500台分の焼夷弾が雨霰に降ってきた東京の下町

2時間で広島原爆と同じ10万人が業火のなかで命を奪われた炎の夜を…。

300機以上で2千トン(4トン積みトラック500台相当)、10万発以上の焼夷弾(油脂が入った爆弾)を投下した。

南方の基地からレーダーに写らない海上すれすれの低空で侵入し、大部分が木造住宅であった人口密集地に落としたのだ。
 
 正確な数字は不明であるが、100万を超える人々が逃げまどい、10万人を超える死者と5万人以上の負傷者、27万戸の家が焼きつくされた。

死者のうち朝鮮人は少なくとも1万人を軽く超すとされている。

2013年1 月23日 (水曜日)

創作欄 徳山家の悲劇 3)

人生の途次、この先に何が起こるかわからない。

タクシーの運転手である彼は、私鉄電車の踏切付近をウロウロしている親子連れの様子を不審に思って車を止めた。

そして車内から窓越しに様子を窺っていた。

線路沿いの道の柵越しの鉄路から電車が近づく音がしてきたので悪い予感がした。

 

踏切の鐘は高い警告音を発して不気味に響き渡っていた。

彼は思わず車を飛び出して行く。

母親が二人の娘を引きずるようにして遮断機を潜ろうとしていた。

本能的に危険を察知したのだろう娘たちは母の手を振り払いながら後ずさりをして泣き叫び出した。

電車は約500㍍先のカーブを曲がり初めていた。

5歳くらいの女の子が母親の手を振り払い逃げ出した。

3歳くらいの女の子は手を振り払えず母親の腰にしがみついていた。

逃げた娘は助けを求めるように彼のタクシーの方へ向かって走ってきた。

彼は逃げた娘を呆然と見ている母親の青ざめた顔を見て愕然とした。

それの母親は紛れもなく息子二人を残して男と居なくなった彼の別れた妻であった。

「みどり」と思わず彼は叫んだ。

みどりは呆然自失の状態であったが、大きな瞳を見開き声の主を凝視した。

そして相手を確りと認識したのだろう、顔を引きつらせるようにして驚愕の表情を現わした。

みどりは腰を抜かしたように踏切の脇にしゃがみこんだ。

母親の背中に手を添えるようにして下の娘が泣き叫んでいた。

轟音を立て電車が行き過ぎて行く。

みどりの長い髪が疾走する電車の風圧に大きく揺らいだ。

 2013年1 月22日 (火曜日)

創作欄 徳山家の悲劇 2)

長男幸吉の暴力は祖母サチに及んだが、2歳年下の弟の次郎も被害者となった。
このため、弟の次郎は生傷が絶えなくなる。
頭を叩く、腹を蹴る、髪の毛を引っ張り引き倒す。
指や腕にかみつく。
さらに頬や腕に爪を立てた。
あまりに酷いので父親佐吉のは長男を諌めた。
「弟をイジメルのはやめな。父さんが同じ目に合してやる。人の痛みを思い知れ!」
性格が温厚なであったが、その日は激情した。
次男の頬に約10㎝の傷ができていた。
その爪痕は歴然であり頬の肉がえぐられ深い溝をなっており、傷は一生治らないと思われた。
「このガキ、もう許さん!」平手打ちを10発ほどくらわせた。
さらに、箪笥に頭を箪笥にぶつけて昏倒した長男の襟首をつかみ、風呂場へ強引に連れ込み、ホースで水攻めにした。
「とうさん許して!」長男が泣き叫ぶ声がさらに佐吉の怒りに火をつけた。
「もう、許さん、思い知れ!」
「自分に、こんな残忍なことができるのか!」
失神した長男を見降ろしながら、佐吉は震えが止まらなくなった。
性格が温厚と言われていた人が凶悪犯になることがあるが、まさにその時の佐吉の状態そのものであった。
佐吉は自分の行為に愕然とした。
買い物から帰ってきた母親のサチは、ずぶ濡れとなって失神している孫の幸吉の姿を見て驚愕した。
「どうしたの? 何があったの!」
サチは身が固まり買い物籠を絨毯の上に落とした。
長そのような折檻があったのに長男の幸吉は反省しなかった。
相変わらず弟をいじめていた。
思い余って次男に空手を習わせた。
自己防衛をさせるためであった。
だが、次男は2年後、兄に暴力を振るわれると兄に反撃するばかりではなく、年下の者に暴力を振るうようになった。

自分の対応が誤っていたことを佐吉は思い知る。実に皮肉であった。


創作欄 城山家の人々 9

2019年06月20日 21時53分43秒 | 創作欄

2013年7 月29日 (月曜日)

小学校の教師の三田村幸三は、30歳の時に、新前橋に住む伯母の野田菊子から見合い話を持ち込まれた。

それは3度目のことであった。
和服姿がとても凛としていて、顔立ちが実に美しい人の見合い写真もあり、「このような美しい人を妻に迎えいいれることができたら」と密かに期待をした。
だが、見合い話が叔母から持ち込まれて、1週間後には、その女性は前橋の内科医との縁談が進んでいた。
「幸三、あんな美しい人を逃して残念だったね。でも、女の人は容姿ではなく、気立てだよ。まだまだ、見合いの話はあるよ」と菊子を甥の幸三を慰めた。
「姉さん、30歳にもなって幸三が独身で、私は肩身が狭いよ」と母親の稲子が語調を強めた。
「肩身が狭いだなんて稲子、男の30歳はけして、遅くはないよ」
「だって、裏の大島さんの息子は25歳で結婚して、表の佐藤さんの息子だって27歳で結婚して、もう子どもが2人もいるよう。結婚できない幸三には欠陥でもあるんだろうかね?」と眉を曇らせた。
「稲子、人様の家はそれぞれだよ。幸三にけして欠陥があるわけない。結婚は縁だよ」と菊子は妹を諭した。
結局、4度目の伯母菊子の見合い話が進展して、幸三は31歳の春に新前橋の医薬品の卸会社に務めていた27歳の三倉玲子と結婚した。
玲子は3人姉妹の次女で顔立ちは幸三が満足できる範囲の女性であった。
実は幸三はいわゆる面食いであったが、彼の周囲に彼の心を捉える女性が居なかったのだ。
35歳になった幸三には3歳の娘と1歳の息子が居た。
結婚生活に不満があったわけではない。
だが、幸三は恩師戸田恵介の娘の君子の存在を同僚の教師である大塚正子から聞いた。
正子も恵介の教え子であった。
「三田村さん、戸田恵介先生の娘さんが、本校の給食員として勤めているのよ。ご存じ?」
「ええ! 戸田先生の娘さんが?」それは心外であった。
幸三は中学生時代に戸田恵介を影響を強く受け心から尊敬しており、戸田の姿を追うようにして教職の道を目指した。

その戸田恵介の娘は伊勢湾台風の災禍で夫を亡くし、3人の娘を抱え、実家に身を寄せる立場となっていた。
娘を不憫思った父親は、娘の独り立ちを願い君子が小学校の給食員として働けるように尽力したのだった。
夫の浩一が亡くなった時、君子は身重であった。
3女の朝子が2歳になった時に、君子は働きだした。
美形の君子は男好きのするタイプで、甘い顔立ちで癒し系の女であった。
幸三は恩師戸田恵介に顔立ちが似ている君子を初めて観て、「何かを予感した」、それは言い知れぬ感情であった。
一方、君子も亡き夫の浩一のような優しい雰囲気を醸し出し、柔らかい物腰の幸三に好感を抱いた。
幸三には恋愛らしい恋愛の経験がほとんどなかった。
35歳にもなって湧き上がってくる少年のような心のときめきを、むしろ怪しんだ。
「私は、どうかしている。分別を失う年齢ではないはずだ」と邪念を払うように幸三は頭を振った。

2013年7 月28日 (日曜日)

創作欄 城山家の人々 8

「人の出会いは不思議なものだ」と君子は3人の幼い娘たちの寝顔を見て思った。
長女の玲子は顔のえらが張り男の子のような顔立ちであり、一重目蓋で亡くなった夫似であった。
次女の菜々子と三女の朝子は瓜実顔であり、二重目蓋で君子に似ていた。
君子は中学校の教師の娘であったが、中学生2年生の頃から悪い仲間と遊び歩くような女の子であった。
反抗期に口煩い父親の啓介に厳しく育てられ、厳格な父にことごとく反発していた。
思い余った父親は、娘を悪い仲間から引き離すために六合村の恩師の島田節道の寺に預けた。
島田節道は前橋高校の国語教師であったが、僧侶の父親が亡くなると教師を辞して寺を継いだ。
「娘の君子の性根は、私には直すことはできません。先生何とか面倒をお願いします」憔悴した教え子の顔を見て、節道は「親元を離れて暮らすのもいいだろう」と理解を示し君子を預かることにした。
「君子、親孝行が一番だ。人間の基本だよ。今は分からないだろうが、親孝行の娘になりなさい。斯く言う坊主も親孝行の息子とは言えんかったがな」節道はニヤリとして坊主頭を撫で回した。
君子は節道に対して祖父のような親しみを覚えた。
「人間、学問が全てではない。高校へ行きたければ行けばいい。中学を卒業して、働ききに出てもいい。若くして社会に出ても、それはそれで有意義で、何でも学べるものだ」
君子は寺での日々の修行のような生活で素直であった生来の性格を呼び覚ました。
午前5時には起きて、小僧とともに寺の掃除をした。
小僧の幸太郎は13歳であり渋川の親の寺を離れ修行に来て、昼間は六合村の中学校へ通学していた。
結局、君子は転校した六合村の中学を卒業すると六合村の役場に就職した。
そして役場で人生の伴侶となる山城浩一と出会ったのだ。

その浩一が昭和34年の伊勢湾台風の災禍で亡くならなければ、親子4人の平穏な生活を六合村で送っていただろう。
また、実家の下仁田の実家に戻らねば、妻子がある35歳の教師三田村幸三とも出会うことはなかっただろう。

居間に掲げてあるフクロウの柱時計が「ホッホッ」と午前1時の時を告げた。

10歳の誕生日に買ってもらった柱時計が、今も正確に時を刻んでいることが、奇跡のようにも思われた。

君子は娘たちの寝息から背を向けると、突き動かさるような体の衝動を感じ始めた。

三田村幸三によって数年ぶりに女の性を呼び覚まされたのだ。

 2013年7 月21日 (日曜日)

創作欄 城山家の人々 7

軽井沢へのドライブへ誘われた時、24歳の3人の母親である君子は、妻子がある35歳の教師三田村幸三とただならぬ男女の関係になることを予感していた。
「たまには息抜きをしませんか」と言われた時、乾いていた心ばかりではなく、女の体の潤いを呼び戻して欲しいという期待に突き動かされていた。
父親は昭和34年の伊勢湾台風の思わぬ被害者となり夫を亡くした一人娘の君子が、自分のもとへ戻って来たことを歓んでいた。
だが、母親は3人の娘がいるものの24歳の娘が再び良縁に結ばれることを願っていた。
「母さんはお前の娘たちの面倒を見てもいいって思っているんだよ。君子は再婚しなさいね」
「私は古いタイプの女ではないので、亡くなった浩一さんに操を立てる気持ちはないの。でも、私を貰ってくれる男の人なんかこの下仁田にいるのかしら?」
確かに若い男たちの多くは東京へ働きに出て、群馬県の山間地である下仁田も過疎化が進んでいた。
「何時までも寡婦の身なんて惨めだよ」娘の運命を不憫に思っていたので、再婚を真剣に勧めた。
「そうね。寡婦で終わりたくはないわ。こんな自分の立場でも、私に興味を持ってくれる男がどこかに居るはずね」
具体的にその姿が浮かんだのは、小学校の給食員として働き出してから1か月後であった。

給食室を出た時に、廊下で出会った人から声をかけられた。
「戸田恵介先生の娘さんですね。自分は三田村幸三です。実は私は戸田先生の中学時代の教え子なんです。」三田村幸三は20代の青年のような清々しい笑顔であった。
「そうでしたか!私は娘の君子です。三田村さんのこと父に言っておきましょう」君子は三田村に親しみを感じた。
「君子さんは、目の当たりが戸田先生に似ていますね」まじまじと見詰められた。
「そうですか」三田村から注がれる視線に君子は何故か気恥ずかしい思いがした。
父親の恵介は目が大きく二重目蓋である。
母親の信恵は切れ長の一重目蓋であった。
その年の学校の夏休み、下仁田の街中で買い物をしていた時に、三田村から声をかけられ軽井沢へのドライブへ誘われたのだ。
「3人もの娘さんを育てて大変ですね。たまには息抜きをしませんか」

常日頃から“息抜”をどこかで欲していたので君子は二つ返事でドライブに応じた。
だが、運命は思わぬ方向へ向かうものであるが、その時点で死への逃避行までは予見できなかった。

2013年7 月20日 (土曜日)

創作欄 城山家の人々 6

人生に“もしも”はないが、人生はあらゆることにぶつかり、方向すら変えていくものだ。
昭和34年の伊勢湾台風で夫の浩一の命を奪われなかったら、親子4人の平穏な生活は六合村で続いていただろう。
軽井沢へ向かう途次、幸せそうな親子連れの姿を見て、君子は思った。
「何を考えているのですか?」妻子がある35歳の教師三田村幸三は君子の横顔に視線を注いだ。
「いいえ、なにも」君子は前に広がる光景に大きな目を見開きながら微笑んだ。

木立の間に瀟洒な別荘の建物が点在し、見え隠れしていた。
それは西洋風なモダンな建物であったり、日本風な落ち着いた建物であり、ログハウスも多かった。
「軽井沢は人を不思議な感情にするところです」
「不思議な感情?」
「ここは何処か日本であって、日本ではないような風情を感じませんか?」
「私には分かりません」
「実は軽井沢は、人工的なのです」
「人工的?」
「ええ、江戸時代は交通の要所であり宿場街でしたが、明治時代に外国人立ちによって避暑地に造り変えられたのです」
「そうなのですか?」
「軽井沢には太古の昔から、人が住んでいたそうです」
「太古の昔?」
「縄文時代ですが、寒い気候にもかかわらず、鳥獣や果実・球根類が豊富だったようです」
「よく、知っているのですね」
「実は図書館の本で調べました」三田村幸三は朗らかに声を立てて笑った。
「そうなんですね」24歳の君子は心が開放されたような気分となり微笑んだ。
君子は18歳で結婚し家庭に入ったので世間知らずであり、生まれ育った下仁田と六合村しか知らなかった。
そして新婚旅行で行ったのは水上温泉と湯沢温泉だけであった。
また、東京へ1度だけ行ったが上野動物園と浅草しか行ったことがなかった。
だが、今日は思いがけなくも軽井沢へ向かっていた。
「軽井沢には人の心を高揚させる何かがある」君子は言い知れぬ感情に心が高まってきたのを覚えた。

軽井沢は悠久の杜の姿を彷彿させる。

2人は軽井沢を散策しながら新鮮な空気を いっぱい吸い込んで、思いっきり自然の魅力を堪能した。

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<参考>

今から6~7千年前の縄文時代前期のものと思われる土器が茂沢川上流、大勝負沢付近から見つかっている。
同代中期・後期にかけての遺跡と思われる茂沢南石堂の住居跡も残されている。
ここには、住居跡ばかりでなく立派な石組みの墓地が環状にならんでいることで、学会はじめ各方面からも広く注目されている。

この時期に出土した遺物は、茂沢を始めとして、杉瓜・発地付近・千ヶ滝・旧軽井沢・矢ヶ崎川の水源地付近まで広い地域に及んでいる。
また、弥生時代に入ってからの遺物も湯川・杉瓜・茂沢などから発見され、狩猟から農耕牧畜への過渡期にも人々が住んでいた事がうかがわれる。

信濃16牧の一つに長倉の牧があるが、特にこの地は清涼な気侯と豊富な草原に恵まれていて、狩場や牧場に大変適していたことを物語っている。

この土手と思われるものが、現在の旧軽井沢から離山のふもとを通り、南ケ丘・古宿、遠くは追分方面まで広がっている。

浅間山の南麓に位置する軽井沢は、関東地方と信濃を結ぶ交通の要地にあった。
そのため古代から現在に至るまで、主要な道路や鉄道が軽井沢を通っていた。

2013年7 月18日 (木曜日)

創作欄 城山家の人々 5

昭和34年の伊勢湾台風で夫の浩一が亡くなった時、妻の君子は身重であった。
3歳の娘と2の娘がいたので君子は父親の戸田恵介の勧めに従い下仁田の実家に戻った。
下仁田ネギで有名な下仁田町(しもにたまち)は、群馬県の南西部にあり、町面積のうち山林が約84%を占めている。
昭和30年(1955年)下仁田町・小坂村・西牧村・青倉村・馬山村が合併し、下仁田町が誕生した。
 戸田恵介は中学の校長をしており、娘の君子の3女の朝子が2歳になった時に、娘が小学校の給食員として働けるように尽力した。
君子の母信恵は元尋常小学校の代用教員をしていた経験から父親がいない5歳、4歳、2歳の孫娘を不憫に思い預かり、父親代わりの立場で躾けた。
色々な絵本の読み聞かせをしながら、情操教育に努めた。
君子は22歳で未亡人となり、23歳で3児の母親となっていた。
再婚してもいい年齢であったが、田舎町には3児の女と結婚する男は居なかった。
だが、美形の君子は男好きのするタイプでもあった。
君子は甘い顔立ちで癒し系の顔立ちであったのだ。
だが、愛された男には妻子がいたのだ。
35歳の教師三田村幸三は亡くなった夫の浩一を思い出させる優しいタイプの男であった。
夏休みのある日、君子は三田村幸三から軽井沢へのドライブに誘われた。
「3人もの娘さんを育てて大変ですね。たまには息抜きをしませんか」
君子は買い物をしていた時に、下仁田の街中で出会った幸三から声をかけられた。
軽井沢は浩一と住んでいた六合村からも比較的近かったが君子は一度も行ったことがなかった。
浩一の妹の福江が夫の銀次とともに吾妻郡長野原町北軽井沢の浅間牧場の近くで観光客相手の休憩所を経営していたので、浩一と何度か行って浅間牧場の大自然を満喫した。
浅間家畜育成牧場は、浅間山(2569メートル)の東北東山麓の標高約1300メートルに位置し、草津白根山一帯の地域と同じ中央高原型気候(北海道北部に匹敵する気候)で、総面積約800ヘクタールの牧場だ。
牛たちは浅間山の麓で雄大な自然の中で伸び伸びと育てらていた。
浩一と君子は結婚前にも浅間牧場を訪れていた。

そして雄大な景色を見てながら、浩一の妹の福江が運んできた牛乳を飲んでその濃さに感嘆したのだった。
実は性的に早熟な福江は14歳で妊娠して、村人から白い目で見られていたが、17歳の銀次と結婚し幸せな家庭を築いていた。

想えば、村人から生き神様と崇められていた忠平さんの娘の福江のふしだらさに、保守的な村人立ちは納得ができなかったようだ。

2013年7 月17日 (水曜日)

創作欄 城山家の人々 4

生き神様と村人から崇められた忠平は72歳で逝った。
酒を飲まないし、タバコを吸わない健全な生活を送っていたが、祈祷中に脳梗塞で倒れそのまま逝った。
10歳年下の弟の紳助は「兄さんはもう少し長生きすると思ったが」と安らかな死に顔を見て呟いた。
思えば妻のマツが57歳で脳溢血のために死んだ時も、夫の忠平は托鉢の僧侶ように旅に出ていた。
「どうか、お布施をお願いします」
榊を手にして、家々を訪問する。
門前払いに合うばかりであるが、忠平にとってはそれが修行の一貫だった。
全国行脚の途次に全国各地に点在する親類の家も訪ねた。
極論すれば、姪や甥などから1000円、2000円のお布施をもらい受けるために、5000円の旅費、宿泊費を使うのである。
「忠平さんお布施は送るから、わざわざここまで来ることないよ」と岐阜県の中津川に住む甥の浩史は恐縮した。
だが昭和40年の始めに死をもって忠平の全国行脚は終わった。
ところが、姪の娘の一人の陽子は忠平の魂が乗り移ったように信仰にのめり込んで行く。
「陽子はどうしたんだ?」
叔父の紳助は群馬県渋川の姪の正子から陽子を預かっていたので心配した。
陽子は東京の短大へ入学して、東京・大田区雪谷の紳助の家に間借りをしていた。
陽子は短大から宗教団体の会館へ直接向かう。
そして毎日のように深夜まで宗教活動に邁進していた。
「この宗教は絶対よ!忠平さんの宗教とは全然違うわ。おじさんも是非、入信してね」
紳助はそれを聞いて呆れ返った。
紳助は大手企業に務める立場であり、世間体も憚ったので陽子の存在が段々疎ましくなってきた。
また、紳助の妻伸枝はミッション系の女子大学を出ていてクリスチャンであった。
「あなた、陽子に部屋を出て行ってと言ってくださいね。私、陽子が家にいるだけで神経は疲れるの」と露骨に顔をしかめた。

2013年7 月12日 (金曜日)

創作欄 城山家の人々 3

 「コウイチ コス」
配達された電報の短い電文を見て紳助の妻の伸枝は「浩一さんが、実家からどこへ越したかしら」と夫に尋ねた。
「何?浩一が越した?!」
紳助は妻の手から電報を抜き取るようにしてから電文を凝視した。
「“コウイチ コス”か、この電報は何なんだ?電話で確かめよう」紳助は実家に電話をした。
浩一の妻の君子が電話に出た。
「おじさん? 紳助おじさんね!浩一さんが崖崩れで埋まって死んでしまった」
君子が泣き崩れ、電話が途絶えた。
「もしもし、もしもし、君子、君子」紳助は叫ぶように電話で呼びかけた。
「コウイチ コス」は「コウイチ シス」の間違いだった。
伊勢湾台風の被害が群馬県の吾妻郡六合村にまで及ぶんだとは紳助は想像だにしなかった。
まだ、26歳の若さの甥の浩一が死んでしまったのだ。
妻の君子は24歳で身重であった。
しかも、3歳の娘と2の娘がいた。
すでに記したとおり浩一は22歳になった年に、同じ村役場に勤めていた18歳の君子と結婚した。
だが、皮肉なもので結婚生活は4年で終止符を打たれた。
昭和34年の伊勢湾台風の余波は、群馬県吾妻郡六合村の山道にも及んだのだ。
「兄貴は、生き神様と崇められた宗教者だ。それなのに、神の加護はないのか?!」紳助は宗教に不信を募らせた。
思えば城山家の次男(紳助の兄)は関東大震災の時に、住み込みで働いていたが東京の墨田界隈の倒崩した家で死んでいた。
後年、城山家の人々は交通事故で3人が亡くなっている。
さらに、城山家の2人の娘が婦女暴行などを受けて殺されているのだ。
紳助の娘は皮肉にもミシン会社に務めた2年後、夜勤の帰りに襲われて、強姦された後に絞殺された。
浩一が六合村の役場から就職する姪のために送った戸籍謄本のことが、娘を失った紳助の脳裏から消えることはない。

2013年7 月 8日 (月曜日)

創作欄  山城家の人々 2

昭和34年、女子高校を卒業した徹の姉の真紀子は、東京・有楽町にあったミシン会社に就職した。
就職するに際して戸籍謄本を会社側から求められた。
真紀子の父親が甥の浩一が勤めていた群馬県吾妻郡六合村の役場に電話をかけて、戸籍謄本を送ってもらうこととなった。
電話に出た甥の浩一の声は明るく弾んでいた。
「おじさん、真紀子が就職したんですね。おめでとうございます。それで戸籍謄本が必要なんですね。喜んで直ぐに送ります。
おじさん、たまには赤岩に戻って来てください。おじさんが好きな日本酒を用意して待っていますからね」
「浩一、元気そうだね。ところで、兄さんは相変わらずなのかい?」叔父の紳助は尋ねた。
「忠平さんなら、元気そのものです。何たって生き神様ですから、疫病神も一目散に退散です」
浩一は父親を「忠平さん」と呼んでいた。
「大工の三郎はどうだい?」紳助は弟の近況をたずねた。
「三郎おじさんは、草津温泉の旅館の建てかえで忙しんで、息子の朝男も手伝っています」
「朝男はまだ中学生だろう?」紳助が心外なので聞いた。
「朝男は学校は好きでないと、この春で中退しました」
「中退した?馬鹿な、それで三郎は怒らなかったのかい」
「三郎おじさんは、“大工に学問はいらない”と言っていました」
「親子揃って、どうしょうもないな!」紳助は舌打ちをした。
紳助は旧制中学を出てから商業の専門学校へ通いながら働き、さらに夜間の大学を卒業していた。
紳助は叔父の立場から甥の浩一が中学3の年間をトップの成績を修めたことを聞き、高校への進学を助言してきた。
だが、浩一は貧しい家庭を支えるために村の役場に就職をした。
「お前はそれで本当にいいのか?」
正月休みに実家に戻ってきた紳助は浩一に質した。
「俺は、妹や弟も居るから、役場で働くよ。何も悔いないから大丈夫」
浩一はキッパリと言ったので、紳助は黙る他なかった。

 2013年7 月 7日 (日曜日)

創作欄 山城家の人々 1

群馬県吾妻郡六合村(くにむら)大字赤岩の山城徹の伯父の忠平は熱心な宗教者であった。

2人の娘たちは草津温泉の旅館で住み込みとして働いていた。
浩一は気丈な母を常に気遣う親孝行の息子で、生真面目な人柄であり性格は父親に似て温厚だった。
浩一は中学校では3年間トップの成績であったが高校へは進学せず、彼のことを惜しんだ校長の推薦で村役場に就職していた。
そして休みの日は母親の農作業を手伝っていた。
浩一は22歳になった年に、同じ村役場に勤めていた18歳の君子と結婚した。
だが、皮肉なもので結婚生活は4年で終止符を打たれた。
昭和34年の伊勢湾台風の余波は、群馬県吾妻郡六合村の山道にも及んだのだ。
農民の一人が血相を変えて村役場に駆け込んできた。
「俺の家が土砂崩れで、今にも流されそうだ!」
受付に近い席に座っていた浩一が素早く席を立った。
「作造さんの家で土砂崩れだね。直ぐ行くからね」
浩一は倉庫に雨合羽とヘルメットを取りに行く。
同僚で2歳年下の佐藤朝吉も素早い行動に出た。
「浩一さん大変のことになりましたね」
「朝吉、土砂崩れなんか過去に一度も起こっていないんだ。傾斜が急勾配な丘陵地ばかりだが、赤岩は名前のとおり岩盤に覆われた頑強な地盤の村なんだ」
浩一は土砂崩れが起こったことが半信半疑に思われた。
村役場から徒歩20分程の山道で、山の傾斜の太い立ち木が不気味な音を立てて軋んでいた。
見上げると急勾配の切り通しの斜面が雨水を含んで大きく盛り上がっていた。
昨夜の豪雨が止み、小雨が止んだり降ったりで、重なる山々の嶺と嶺の間の雲間に青空さえ見えていた。
朝吉は「明日は台風一過、快晴になりそうですね」と空を見上げた。
その時、山道の真上の山の切り立った傾斜が太い杉の木々などを巻き込みながら一気に崩れたのだ。
浩一は後ろに逃げ、土砂の下に埋まった
朝吉は前に逃れ、幸いにも難を逃れたのだった。

 

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<参考>
伊勢湾台風
昭和34年(1959年) 9月26日~9月27日

死者4,697名、行方不明者401名、負傷者38,921名
住家全壊40,838棟、半壊113,052棟
床上浸水157,858棟、床下浸水205,753棟など
(消防白書より概要
 9月21日にマリアナ諸島の東海上で発生した台風第15号は、中心気圧が1日に91hPa下がるなど猛烈に発達し、非常に広い暴風域を伴った。最盛期を過ぎた後もあまり衰えることなく北上し、26日18時頃和歌山県潮岬の西に上陸した。上陸後6時間余りで本州を縦断、富山市の東から日本海に進み、北陸、東北地方の日本海沿いを北上し、東北地方北部を通って太平洋側に出た。
 勢力が強く暴風域も広かったため、広い範囲で強風が吹き、伊良湖(愛知県渥美町)で最大風速45.4m/s(最大瞬間風速55.3m/s)、名古屋で37.0m/s(同45.7m/s)を観測するなど、九州から北海道にかけてのほぼ全国で20m/sを超える最大風速と30m/sを超える最大瞬間風速を観測した。
 紀伊半島沿岸一帯と伊勢湾沿岸では高潮、強風、河川の氾濫により甚大な被害を受け、特に愛知県では、名古屋市や弥富町、知多半島で激しい暴風雨の下、高潮により短時間のうちに大規模な浸水が起こり、死者・行方不明者が3,300名以上に達する大きな被害となった。また、三重県では桑名市などで同様に高潮の被害を受け、死者・行方不明者が1,200名以上となった。この他、台風が通過した奈良県や岐阜県でも、それぞれ100名前後の死者・行方不明者があった。 

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<参考>

六合村(くにむら)赤岩温泉・長英の隠れ湯(日帰り温泉施設)

重要伝統的建造物群保存地区に指定されている赤岩地区にある温泉です。
つるつるとした肌ざわりの温泉で、日帰り入浴が楽しめる施設が1軒あります。

幕末に赤岩地区に隠れ住んだと伝えられる蘭学者高野長英にちなんで、「長英の隠れ湯」と名付けられました。
 館内は入口から浴槽まで、バリアフリーの安心設計です。
施設へ食べ物を持ち込めるので、入浴後は大広間でゆっくりとくつろげます。  
 アルカリ性単純温泉(アルカリ性低張性高温泉)
 神経痛、筋肉痛、関節痛、五十肩、運動麻痺、関節のこわばり、うちみ、くじき、慢性消化器病、痔疾、冷え性、病後回復期、疲労回復健康増進

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赤岩は数多くの養蚕農家などが残っている集落です。
赤岩は、山村の養蚕集落として平成18年(2006年)に国から群馬県初の重要伝統的建造物保存地区に選定されました。

赤岩では明治時代以前から養蚕が営まれ、養蚕に適した頑丈な農業建築が行われ、「サンカイヤ」と呼ばれる湯本家、関家の3階屋の建物が残っています。

さらに、上の観音堂・毘沙門堂・向城の観音堂・東堂・赤岩神社などの小さな宗教施設が点在し、蔵・小屋や道祖神、石垣や樹木、通り沿いの景色、農地や森林が一体となって、幕末や明治時代の景観を今に伝えています。


いじめ根絶へ語り合う 子どもの生命以上に大切なものはない

2019年06月20日 20時23分30秒 | 社会・文化・政治・経済

いじめ根絶に取り組んだ元小学校長の仲野繁さんが共同代表を務める一般社団法人「ヒューマンラブエイド」。
仲野さんは「現実に起きているいじめに対し、専門家の意見が即していないこともある。一般の方の意見を聞くことが重要だ」と呼び掛けている。
元小学校長が呼び掛け、いじめ問題に詳しい弁護士や臨床心理士らが参加する。

教員を目指す大学生も加わる予定だ。

仲野さんは2012年、足立区立辰沼小学校の校長として児童約200人で組織する「レスキュー隊」が休み時間に教室を巡回することで、いじめをほぼ根絶する仕組みを築いた。

「全校の四割の児童が交代で回り、いじめている子にとって数的にも不利だと見えるようにした」と話す。
「子どもの生命以上に大切なものはない。教師の仕事の優先順位を見直せばいい」と語る。
いじめ解決に向けた新しい方法をテーマに自由に議論することが期待される。
子どもの命を守る制度を整えることは、教職員を守ることでもある。


いじめ防止教育に取り組む

2019年06月20日 20時08分53秒 | 社会・文化・政治・経済

ヒューマンラブエイド(HLA)は、何をするためにつくられたの?
(一般社団法人明るい未来を紡ぐ有意識者の会は 一般社団法人ヒューマンラブエイド(HLA)に改称します)

いじめ防止教育に取り組んできた公立小学校の校長(仲野繁)と、いじめ経験者(刀根麻理子)が、「やり方」の議論から「あり方」の実践を推奨するため、タッグを組むことになりました。活動内容は、以下の通りです。

1.歌舞台「ぼっこ~いじめの復讐は倖せになること!~」(実施中)
学力第一主義の教育現場から、学芸会や演劇鑑賞の時間が激減して久しいですが、歌とダンスと芝居で紡いだ人情劇に、子ども達は瞳を輝かせて大喜びするのです。劇中の台詞にも、そこに誘導する流れもないのに、感想文には、「死ねとか死にたいって、簡単に言ってはいけないと思った」と、多くの子どもが綴っており、子どもの感受性にもっと信頼を寄せても良いのだと、改めて気づかされました。 

2.講演会「いじめ防止教育」(実施中)
HLA共同代表・仲野繁が、足立区立辰沼小学校長在任中に確立した、「子ども主体のいじめ防止活動」
の、普及と啓発を目指しています。尾木直樹先生が、法政大学の教授時代に実施された調査で、従来のい
じめ防止教育に比べ、その効果は顕著であると発表されています。

3.自治体及び関係団体との連携(一部実施中)
いじめ問題に関心のある自治体や学校等と連携し、すでに「ぼっこ」の公演や「子ども主体のいじめ防止
教育」の講演を実施していますが、更に確実な、「いじめ防止教育」の浸透を目指す団体への、具体的な
レクチャー、講習を行なっています。

4.出張いじめ駆け込み寺(一部実施開始)
「解決」まで導くスキルのある相談窓口に辿り着く難しさを鑑み、いじめの相談受付~助言~解決までを
一連の流れとし、各分野の専門家と連携し対応します。現存しない、臨床心理士や弁護士等との連携によ る取り組みを定着させ、当事者の心と命を救う救急部隊としての役割を波及したいと考えます。  

5.生きる力を身につけるための「心の育成」プログラム(近日実施予定)
心理学者と共同で、乳幼児期から感情を耕し、思いやり・感謝・許しといった道徳的な感情を育てるとと
もに、ストレスへのしなやかな心を育成する敎育プログラム(ソーシャルエモーショナルラーニング)を
保護者や教育関係者等に提供します。AI(人工知能)には不可能な「心」を健全に育てます。

6.ひきこもり&いじめ被害者「活躍支援」プロジェクト(実施中)
① いじめ被害や虐待により、自尊感情が不足している人達に向け、エンタテイメントの力を活用し、生きる力や輝きを取り戻す、支援プロジェクトを実施します。

② 同じ経験をした者同士は、年齢や性別の差を超えて、語らずとも通じ合える感覚を共有しています。その感覚を活用し、自分が味わったのと同様の、辛さや苦しさのさなかに居る小さな子ども達のために、そっと寄り添える人材を育成します。

7,「スクールコミュニケーター(感覚の通訳者)」の緊急配備に向けた法整備への提言(嘆願中)
上記6の「活躍支援」の先に、教育者や専門職とは一線を画した位置付けで、「経験者」という立場の専門職を設け、当事者同士にしかわからない「感覚の通訳」により、孤立への暴走を食い止めます。

8.ハブ空港的な役割(一部実施開始)
4と重複する部分もありますが、明るい未来を真剣に願う各分野の専門家と、いじめ関連団体等を連携させ、具体的な問題の解決に臨むと共に「支え合う社会」という、希望ある「風潮」を作ることに努めてまいります。

 
 
 
 
 
 
 

いじめや差別、なぜやめられない?

2019年06月20日 19時35分10秒 | 社会・文化・政治・経済

 香山リカさんが挙げる3つの理由 「他人をいじめる人生」の結末は……
6/20(木) 7:00配信 withnews
いじめや差別、なぜやめられない? 香山リカさんが挙げる3つの理由 「他人をいじめる人生」の結末は……
いじめや差別、あなたにも関係がある3つの理由 香山リカさんに聞く
 職場などで「自分だけが損している」とか、「私は努力しているのにこんなはずじゃなかった」と思うことはありませんか。そんな気持ちが実はいじめや差別につながっている、と精神科医の香山リカさんは指摘します。厳しい競争社会の中、だれもが加害者・被害者になる可能性があるというのです。キーワードは「自己愛の傷つき」「否認」「確証バイアス」といった人間にもともと備わっている性質でした。

「あなたにも関係がある」3つの理由とは……香山リカさんに聞く「いじめや差別」 

なぜいじめや差別はいけないのか
 そもそも、なぜいじめや差別をしてはいけないのでしょうか。香山さんは「人は人を殺さないというルールに厳密な論理も正確な理由もないはず。それと同じように、差別やいじめも仕方ないと認めているといっしょに生きていることができないから、『とにかくそれはやめよう』と考えてここまで生き延びてきました」と著書「『いじめ』や『差別』をなくすためにできること」(ちくまプリマ-新書)で述べています。

 香山さんは、いじめや差別をしたり、「自分は関係ない」と思っていたりすると、「自分で自分の首を絞めることになる」と指摘します。つまり、いつかは自分もいじめや差別を受けることになるかもしれないというのです。

 今年3月、ツイッターで差別的な書き込みをしたとして世田谷年金事務所(東京都)の所長が更迭されました。日本年金機構が、所長のものと確認したアカウントには、特定の国会議員の名前を挙げるなどして、「国賊」「鬼畜」「非日本人」といった投稿を繰り返していました。

《精神科医の香山リカさんは、このアカウントから自分あてに、「反日」とリプライが来たことがあるという。「年金事務所は様々な人のプライバシーを預かるところ。これほどのヘイト発言を繰り返す差別主義者が所長をしていたことはショック。公正に審査されていたのか、疑念を抱かざるを得ない」と話した。――朝日新聞デジタル:ヘイト投稿、リプライ来た香山リカ氏「審査公正か疑念」》

 差別問題では、戦前に発行された地名リストを入手した男性が2016年に書籍として刊行してネット上に掲載。被差別出身者らでつくる運動団体の解放同盟が「差別が助長される」として出版禁止やネット掲載禁止を求めて東京地裁に提訴しました。差別について香山さんは「被差別出身ということでさげすまれたり排除されたりすることはどんなにつらいことか。そこが差別はいけないという大原則だったのにそれが通じなくなっている」と嘆きます。

次ページは:「こんなはずじゃなかった」という気持ち「こんなはずじゃなかった」という気持ち
 それでは人間はなぜ、「自分は関係ない」と思ったり、いじめや差別をしたりしてしまうのでしょうか。「多くの人が『自己愛の傷つき』という問題を抱えている」と香山さんは精神医学的な理由をあげます。

 香山さんによると、「自己愛」というのは「自分で自分のことを大切に思う」心の動きの一つです。この自己愛が大きくなって自分が傷つくと「私はこんなはずじゃなかった」とか「私はもっと輝いていたはずだ」という気持ちが募るというのです。

《「自己愛」というのは、(中略)「自分で自分のことを大切に思う」という人間が生きていく上で基本の心の動きのひとつです。(中略)その「自己愛の傷つき」の状態にある人たちは、「私はいつもバカにされている」「私には才能があるのに、まわりが理解してくれないからすべてが台なしになった」(中略)と思っています。(中略)オーストリアのハインツ・コフートという精神分析学者は、「自己愛の傷つき」が起きたとき、人は「コントロール不能で予想外の怒り」を示すものだ、と述べました。
――香山リカ著「『いじめ』や『差別』をなくすためにできること」(ちくまプリマ-新書)》

 なぜ自己愛が傷ついてしまうのでしょうか。香山さんによると、社会の競争が激しくなり、恵まれた立場の人たちほど「私はがんばった」「ものすごく努力した」と思い、他人に対して見る目が厳しくなっているといいます。

 そして、「こんなはずじゃなかった」という嫉妬心は、同じ会社の人にライバル意識を持って仕事をがんばるという方向ではなく、「こんなところに私が受けるべき特権を享受している人がいる」と思い込んで生活保護受給者といった社会的弱者を攻撃の対象にすると、香山さんは指摘します。

《「誰がひどいヘイトスピーチをしているか」についていくつかの調査があるのですが、「その人たちは決して貧困や無職ではない」という結果も出ています。いちばん多いのは、「大きな都市の郊外に住む30代から40代の会社員」だそうです。(中略)では、なぜその人たちは、自分は恵まれているにもかかわらず、外国人をバカにしたり、追い出そうとしたりするのか。(中略)会社員など恵まれた立場の人たちほど、(中略)他人に対して見る目が厳しくなっているのです。
――香山リカ著「『いじめ』や『差別』をなくすためにできること」(ちくまプリマ-新書)》

次ページは:恐怖や葛藤をみなかったことにして自分を守る
恐怖や葛藤をみなかったことにして自分を守る
 深層心理学で「否認」という、恐怖や葛藤をみなかったことにして自分を守るメカニズムがあります。香山さんによると、いじめや差別をする人にあてはめると、自分の不安や傷つきから自分を守っているというのです。競争の中で生まれる不安に直面するのは勇気がいることなので、それから目をそらしたいというのが「否認」なのです。

 また、「否認」の心のメカニズムは、いじめや差別を受ける側や傍観者にも起こります。これがいじめや差別の発見や解決を遅らせる原因になるというのです。

《私たちの心には、自分が認めたくないこと、認めるのはつらいことがあったときに、”見なかったふり”をする自動装置のようなものがついている(中略)この『打ち消す動き』のことを「否認」と呼びます。
この「否認」は、自分がいじめや差別の被害者のときも、加害者のときも、まわりで見ている人つまり傍観者のときも、同じように起きます。そして、この「否認」には、そのいじめや差別の内容がひどければひどいほど起きやすくなる、という性質もあります。たとえば、親からの虐待でからだにあざができたり骨折したりしている子どもが児童養護施設に保護されても、その子が「これは転んでできたケガなんだよ」と言い張ることがあります。子どもが自分に暴力をふるう親をかばってそう言うときもありますが、「否認」のメカニズムが働いて本当にそう思い込んでいる場合もあるのです」
――香山リカ著「『いじめ』や『差別』をなくすためにできること」(ちくまプリマ-新書)》

他人をいじめる人生の結末
 「確証バイアス」とは自分の考えに沿う情報しか信じない心理です。香山さんによると、一度いじめや差別を始めるとやめられなくなるのは「いったん『自分たちは正しい』『守られている』という思いを味わうと『確証バイアス』により、異論を受け入れられなくなるからだ」といいます。自分がしているいじめや差別に根拠がなかったという事実を告げられても修正することができないのです。


《心理学でいう「確証バイアス」が働いて、自分のいったん信じたことを強化する情報しか取り入れなくなってしまうので。自分の気持ちにぴたっとはまるデマや陰謀論を聞くと、ほらやっぱりそうなんだ、と信じ込んでしまう。――香山リカ対談集「ヒューマンライツ 人権をめぐる旅へ」(発行:ころから)》

 このように他人をいじめたり差別し続けたりするとどうなるのでしょうか。香山さんは「他人を攻撃することで自分が満たされる錯覚を起こしてしまう」としたうえで「いじめたり差別したりすることでしか自分の安心感を得られない、自信を持てなくなってしまう。いじめや差別に依存した、自分では何も解決できない、やりたいこともできない人生を送ることになる」と訴えます。

 

 


6月20日は国連総会で制定された「世界難民の日」

2019年06月20日 18時03分48秒 | 社会・文化・政治・経済

世界難民の日

近年大きく報道されているロヒンギャ難民危機やシリア危機など、世界には紛争や迫害により故郷を追われた多くの人々がいます。
また、難民の半数が18歳未満の子どもたちだといわれています。
命の危険にさらされている人々や困難な生活を強いられている人々、満足な教育を受けられない子どもたちのために、支援が必要です。みなさまのご支援、ご協力のほどよろしくお願い申し上げます。

国連UNHCR協会
国連難民募金
国連UNHCR協会は国連の難民支援機関であるUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の活動を支える日本の公式支援窓口です。

紛争や迫害により故郷を追われた難民・国内避難民等の保護、水や食糧・毛布といった物資の供給、難民キャンプ等の避難場所の提供、家族とはぐれた子どもの保護等、最前線で難民支援に尽力しています。

[紛争や迫害で故郷を追われた人]約7080万人 難民…約2590万人 国内避難民…約4130万人 庇護申請者…約350万人 

[難民の子どもの割合]難民約2590万人のうち約50%

「知ってもらうこと」も支援になります

6月20日世界難民の日
2000年12月4日、国連総会で、毎年6月20日を 「世界難民の日」(World Refugee Day)とする旨が決議されました。
この日は、もともとOAU(アフリカ統一機構)難民条約の発効を記念する「アフリカ難民の日」(Africa Refugee Day)でしたが、改めて、難民の保護と援助に対する世界的な関心を高め、UNHCRをはじめとする国連機関やNGO(非政府組織)による活動に理解と支援を深める日にするため、制定されました。



「共生社会」構築への試金石

2019年06月20日 17時28分02秒 | 社会・文化・政治・経済

「自分にできること」を真摯に積み重ねれば、それが「私にしか果たせない使命」になる。
充実の人生を築くきっかけに、すぐ目の前にある。

不得意なものに挑む中で自分の価値が発揮

無関心や無慈悲が、人々の苦しみをより深刻なものにする。

難民問題は私たちの人権意識を映す鏡であり、「共生社会」構築への試金石ともいえよう。


阪神「矢野ガッツ」 問われる真価

2019年06月20日 16時56分12秒 | 社会・文化・政治・経済

6/20(木) 東スポ

 好調だった矢野阪神が最大の危機に直面している。19日の楽天戦(甲子園)も延長10回、4―9と敗れ2カード連続の負け越し。今季ワーストの5連敗で最大6あった貯金はついに1に減った。

 試合は大山の10号3ランで先制するも、先発の青柳が5回途中4失点KO。福留が右ふくらはぎ筋挫傷の影響で3試合連続スタメン落ちと戦力を欠き、最後は守屋ら救援陣が力尽きた。矢野燿大監督(50)は「(全体的に得点を)決められるところがあったんだが…。(欠場した)福留は脚の状態もあるから」と苦しい表情だった。

 貯金生活に沸いていた球団内の雰囲気も変わりつつある。この日は藤原崇起オーナー(67)が観戦し、チームの苦しい現状に「これを糧にして。一番は我慢、我慢して次のチャンスを待つ。そういう時期だと思う。まだ(シーズンは)半分もいってませんから」と必死の弁護を展開。そして「今、水が濁っていても我慢すれば(汚れが)沈んで水はまたきれいになる」とのたとえ話まで披露して事なきを強調した。

 また、フロントからも「今年はいける!とか…。そんな簡単なことではない。これまでのウチがうまくいきすぎ。巨人とか他球団と比べると本当の力は足りない。期待はありがたいが、大きすぎるんです」と、周囲の期待を“火消し”する声まで出始めている。

矢野ガッツ」などナインとともに熱く盛り上がるチームカラーはビジネス界からも熱視線を浴びていたが、本物かどうかはこれからか。


日本から「児童虐待」が絶対なくならない理由といま必要な10の対策

2019年06月20日 14時53分24秒 | 社会・文化・政治・経済

結愛ちゃんと家族が求めていたもの

井戸 まさえさん

児童虐待はなぜ解決しないのか

東京都目黒区で虐待を受けたとされる船戸結愛(ゆあ)ちゃん(5)が3月に死亡した事件を受け、東京都の小池知事は6月8日、都内の児童相談所の体制強化を指示。

具体的には都内11ヵ所にある児童相談所の児童福祉司、児童心理司や一時保護所の職員の人数を増やし体制を強化すること、また、東京都が警視庁と共有する虐待情報の範囲を広げる方向で、連携を強化するとの方針を示した。

小池知事だけではなく、国民民主党の玉木雄一郎共同代表は以下の5点を【必要な対応策】として明示している。

1. 児童相談所の人的拡充と機能強化
2. 親権の制限をより容易に
3. 児童相談所と警察の全件情報共有
4. 里親や特別養子縁組の支援
5. 児童養護施設やファミリーホームなど、一時保護施設の拡充

読んで考え込む。これらは虐待事案が起こる度に言われてきたことだからである。

問題は、なぜ今また同じことを言わなければならないか、政治の側の対応の遅滞にある。

一方で長年、子どもたちへの虐待や暴力が行き交う現場で活動している筆者としては、この内容では何年やっても虐待事案は止まないだろうとも思う。

つまり虐待現場は政治の想像を越えるもので、その認識の乖離こそ抜本的な解決策に至らない主因であるとも実感する。
公的機関をさける虐待親たち

まず、虐待家庭のほとんどは公的機関を「敵」だと思っているということを認識しなければならない。

実際に今回の船戸容疑者も「児童相談所がうるさかった」と香川県から東京とへの引っ越しの理由のひとつになったことを示唆している。

行政の目も手も入らない死角で、虐待は深刻化し、死に至る悲劇を生むのである。

ただし、当事者たちは最初から行政を敵視しているわけではない。むしろ助けを求めて市役所や区役所に何度も足を運び、窮状を訴えているケースが多い。

そこで彼らが経験するのは「たらい回し」である。

あちこちの窓口に行かされては何度も同じ話をさせられたあげく、上から目線の言葉を浴びせられ、望む支援は拒絶される。まるで「厄介者」扱い。

「人としての尊厳を傷つけられる」「二度と味わいたくない」屈辱の時間なのだ。

もちろん行政や福祉の現場で働く人々の多くは、相談者の状況を改善しようと努力しようとしていることも重々知っている。

しかし、それはあくまで法律や条例、過去の運用等に照らして一定の基準をクリアした、言わば「一次予選」を通過した人たち。最も助けを必要としている人々はその支援の網からも外れる(無戸籍者はその典型的な事例である)。

危機を目前とした人々でも「助けを求めること」は恥ずかしいことだという意識がある。

それでも勇気を出して役所に出向いたにも関わらず、冷笑され、結局は支援も受けられないとなったならば、その絶望は深い不信感になる。

彼らが二度と行政とは関わりたくないと思うのも無理はないのである。

そうした中で事態が深刻化するのだ。
父親が耐えられなかったこと

「ママ、もうパパとママにいわれなくても しっかりとじぶんからきょうよりか もっとあしたからは できるようにするから。もうおねがいゆるして ゆるしてください。おねがいします。ほんとうにもうおなじことはしません」

結愛ちゃんが残したメモは衝撃をもって受けとめられた。

「きょうよりか もっと あしたからは」……就学前の子どもが書いた内容としては切なすぎる。

しかし船戸容疑者夫妻はなぜこれほどまで執拗に結愛ちゃんに字を教え、勉強させようとしたのか。

児童虐待に詳しいルポライターの杉山春氏は以下のように指摘をしている。

「結愛ちゃんが書いた反省文を読むと、家族から強いコントロールを受けていたと感じます。社会的な力を失った親が、家族の中でも最も弱い者を標的にするという家族病理が現れたように思います。父親は、香川では虐待で通報され、書類送検されています。逮捕当時、無職でした。

そうした状況は、父親にとって、耐えられないほどのマイナス評価だったのではないかと想像します。この家族はそうした評価を下された場所から逃げ出したようにも見えます」(AERA.dot「結愛ちゃん虐待死「ひどい親」と批判しても事件は減らない 「評価」に追い詰められる親たち」)

連れ子がいる女性と再婚することは今ではそう珍しい話ではない。婚姻は人生を新たに出発するという意味ではリセットである。良き父、良き母としての評価は、子どもの振る舞いにかかっている。

これは船戸容疑者だけでなく、たとえばお受験に夢中になる親の中にも垣間見える場合がある。つまり世間の評価と自分の位置に著しい相違を見た場合、それを否定するために子どもを使う。注目すべきはそれが「学力」という点だったということだ。

それはこの夫婦がコミュニティから抜け出てしまうきっかけになったものなのかもしれない。だからこそ、年齢にそぐわない度を越した「しつけ」を行い、それができないと謝らせる。

「親」としての威厳が、彼にとっては最後に残ったプライドを唯一満たすものだったかのように。

欠損した「親」という役割を演じること

結愛ちゃんと船戸雄大容疑者との関係を考える時、昨年12月、拙著『無戸籍の日本人』の文庫化に伴う対談を収めるために行なった是枝裕和監督との対談内容が思い出される。文庫化の中には収められなかった『海街diary』に関してのやりとりである
『海街diary』は脚本等全て手がける是枝作品には珍しく、吉田秋生の漫画を原作とした作品である。

綾瀬はるか、広瀬すず等、人気女優が登場する映画としても注目されたが、実は是枝監督はこの作品で「家族の欠損と、欠損した役割を補うよう変化して行く個人を描きたかったのだ」と言った。

「欠損した役割」とは何か。

『海街diary』の姉妹で言えば、父もいなくなり、母も家を出た後、長女が母の役割を担い、一家の仕切り役となる。また末っ子として甘えて来た三女は、父の再々婚相手との間に生まれた四女が同居することで「姉」を演じるようになる。

四女は異母妹である。通常の物語であれば「シンデレラ」のように確執が起こるはずだが、『海街diary』の登場人物はそれぞれの「役割」を当たり前に受け入れて行く。
そこに衝突や葛藤がない。是枝監督はそれを「豊かだと感じた」と言う。

結愛ちゃんの養育環境について欠損した「父」という役割を船戸雄大容疑者は補おうとしたのであろうか。

母である船戸優里容疑者はそれまでのつらい記憶を封印して、欠損を埋めた新しい「家族」として再生して行くことを願ったのかもしれない。

「母」として空白となっている結愛ちゃんの「父」、家族の欠損を埋めることがまるで役割のように。

その気持ちは、子連れ再婚の経験者として想像に難くない。

しかし、期待された役割を自分の思い描いたようには果たすことができないと知ったとき、どうしたらよいのであろうか。
是枝監督は、自身の体験として、父が死に、自分に子どもができ「父」のポジション、役割を自分が担うことでしか、家族の中での自分の立ち位置が、役割が先へ進まなくなったとも吐露している。

自分の中に全く父性なんてないと思っていたが、子どもが生まれたらそんなこと言ってる場合じゃなくなり、父性があるなしの問題ではなく「そう振る舞わないといけなくなる」。別に自分の中の父性を探さなくても、子に手を引っ張られれば出てくるものだと。

それは「血縁」があるから、あると信じているから、なのだろうか。

血がつながらない子どもと自他ともに自覚し、それでも「父」とし育てる葛藤。手を引っ張られても出てこなかったならば「父」としての振る舞いを単純化し先鋭化させて表さねばならない。それが暴力、虐待として暴走したとしても。

妻であり、母である船戸優里被告も、彼の葛藤に寄り添ったとは言えないだろう。前述の杉山氏の指摘通り、「父」として否定されることへの反証は小さな子どもを傷つけ、謝罪や懇願を得ることで得られないものだったのかと思うと胸が痛む。

家族と社会との接点は「仕事・職場」

結愛ちゃんとこの家族を救うために何ができたのであろうか。

あらためて考える。

政治の現場で出る施策に欠けているのは「雇用」という視点である。
報道でもある通り、船戸雄大容疑者は以前は仕事ぶりも認められ、退職時には慰留される人材でもあった。しかし、事件前後は失業中であった。

是枝監督の最新作『万引き家族』でも描かれたように、行政ともつながりたがらない複雑で深刻な問題を抱えた家族と社会との接点は「仕事」であり「職場」である。

必然的にそれぞれが抱えた「事情」は見え隠れすると同時に、何より経済的な自立は親自身の自己肯定にもつながる。

小さな子どもを抱えた家族が暮らしていくに十分な収入を仕事から得ていくことはとても大事であると思うし、ある程度の将来見通しが得られるか否かで、子育てに向き合う上での精神的な余裕は全く違う。

雇用のマッチングは難しい。しかし、児童手当や就学費援助といった子育て支援策に留まるのではなく、雇用の観点からも子育て中の失業家庭等についてのインセンティブを持たせる他の雇用施策は打てないものだろうか。
船戸雄大容疑者が香川県からの引っ越し先に東京都を選んだのは、東京で大学生活を送っていて土地勘もあったという報道がなされていた。

東京に行けばなんとかなると思っていたかもしれない。しかし、自分の不遇は改善されず、職もなく、明日が見えない暮らしを続けることは、理不尽だと思っていたに違いない。
5点の追加対応策

こうしたことを踏まえながら、私は玉木国民民主党共同代表の5点に加えてさらに5点を提案したい。

6. 役所の窓口の対応に対して対抗できる知見を持った民間団体との連携
7. 子どもを持つ家庭の失業対策
8. 地方自治体が独自で施策を行なうことを国や都道府県が妨げないこと
実は、地方自治体が独自判断で相談者を救おうと思っても、国や都道府県に確認を取った段階で「NO」となるケースがあるのだ。

例えば現在筆者が関わる荒川区に在住する7月で50歳になる無戸籍者のケースはその典型でもある。先般NHKの「おはよう日本」でその姿が放映されたので見た方もいるであろう。

両親が出生届を出さないまま死亡し、49歳に至るまで無戸籍のまま、建設現場等で働きながら生き延びてきた男性に対して、当初相談に行った足立区では区内に空きがなく荒川区の施設を紹介し、男性はそこに住むこととなった。

しかし、荒川区は住民であることを認識しているにもかかわらず男性を住民登録しない。マイナンバーカードが導入され、番号の提示がなければアルバイトさえ難しい現状を踏まえ、住民登録を望む当事者に対して、総務省の回答や東京都が示す問答集にはそうした手続きを可としていないというのが理由である。

総務省に聞けば、区は独自判断して住民登録をしてもなんら違法ではない、と言う。しかし荒川区はそれが明文化されて示されない限り、独自で判断はできないと言う。

総務省は明文化するまでもなく、地方分権一括法が成立以来「通知」は単なる指導的意味があるだけで、あくまで判断は自治体。そもそも法律にそう明記してあると言い張る。
だが、現実には国の通知や、東京都が定めた施行マニュアルを飛び越えて、福祉現場の担い手である地方自治体が動くことはなかなか難しい。

現場の人がいくら手助けをしたくとも、管理職が揃った会議では「前例がない」と言ったことで、支援は見送られるのだ。

そして死亡事故が起こってはじめてこうしたことも可視化される。

逆に、事前に、未然に最悪の事態が回避されていれば、死者が出ていなければ「大したことはない」と問題は見て見ぬ振りをされ、解決策も示されない。

つまりは解決したかったら、「死ね」ということとも取れる。
9. 「個別ケース」こそ大事。この困窮者ひとりをいかに助けられるかを考える

役所は「原則」と「例外」を持ち出し、この人だけの「個別ケース」で対応はできないと言う。しかし、実は「個別ケース」は問題の典型であり、それを解決できれば多くの人が救われることは多い。

10. 「家族」の再生のための周辺縁者をつくる

行政の目から「今日生きるため」に逃れようとする家族。

彼らには「役職」で接する以外の、ある意味濃厚な人間関係を築ける「家族」的存在が必要だったりする。

支援をしていてつくづく感じることだが、相談者と「遠い親戚」的な関係を築けたら、その支援は成功である。つまりは「本当に困った時に至る一歩手前で相談できる」という関係だ。

「家族」の再生は夫婦や親子といった成員だけで可能となるわけではないことを見て来た。ちょっとした距離を持った周辺縁者がいることがポイントでもある。

逆に言えばその周辺縁者がいないと、家族の再生はまず成功しない。

縁者は血縁には閉じていない。ある意味誰でもやろうと思えば関われるとも言える。

つまりはそれこそ「社会」。

結愛ちゃんと家族が求めていたものかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 


児童虐待防げるか

2019年06月20日 14時13分18秒 | 社会・文化・政治・経済

改正法は虐待防げるか 介入と支援、児相職員の担当分離
有料記事 虐待の連鎖を防ぐ
高橋健次郎 2019年6月19日朝日新聞
19日成立した改正児童福祉法などには、児童相談所(児相)の職員がためらいなく一時保護などの「介入」に踏みきれるよう、保護者の「支援」にあたる職員と担当を分けることなどが盛り込まれた。だが、すでに分担している児相では課題ものぞく。専門家は、改正を機に悲しい虐待事件を防ぐ実効性を高めていく上での課題も指摘する。

虐待の防止強化へ、改正関連法が成立 体罰禁止を明記
 「迅速に、躊躇(ちゅうちょ)なく介入できるメリットがある」。2001年度から介入と支援の係を分けている、横浜市中央児童相談所の担当者は話す。同児相では、虐待担当の職員約40人のうち、約4分の1が「介入係」だ。

 「泣き声がする。虐待では」。…

  • 児童虐待防げるか
    虐待の連鎖を防ぐ
    子どもを虐待する事件が後を絶ちません。
    子ども時代の心の傷は大人になっても深く残ります。

    虐待の防止強化へ、改正関連法が成立 体罰禁止を明記

    児童虐待の防止強化に向けた改正児童福祉法などが19日、参院本会議で全会一致で可決され、成立した。虐待の理由に「しつけ」を挙げる親がいる現状を踏まえ、保護者や児童福祉施設の施設長らによる体罰禁止を明記…[続きを読む]

  • 虐待する親が、自分も被害者だったことは少なくありません。「虐待の連鎖」を防ぐ取り組みも探りました。
    2019年6月19日 朝日新聞

  • 写真・図版

    児童虐待の被害、過去最多1394人 うち36人死亡

    昨年1年間に全国の警察が摘発した児童虐待事件は1380件で、被害に遭った18歳未満の子どもは1394人だった。ともに過去最多で、うち36人が亡くなった。夜間など緊急の対応が必要として、警察が一時的に