裁判所の「正義」とは?~「大崎事件」最高裁決定の異常
「再審」は、冤罪を訴える人を救済する、最後の手段である。ただ、そこに至る扉は限りなく重く、容易には開かない。
この困難な手続きで、地裁、高裁が続けて「再審開始」を認めた「大崎事件」第3次再審請求審。ところが最高裁は、これらの決定を取り消し、再審請求を棄却した。高裁に差し戻すわけでもなく、最後の最後に、自ら再審の扉をぴしゃりと閉めたのだ。地裁、高裁が認めた再審への道を、最高裁が破棄自判という形で道を閉ざしたのは過去に例を聞かない。前代未聞の異常な決定と言わざるをえない。
最近、再審を巡っては、在野で大きな動きが出て来ている。いくつもの冤罪事件を通して明らかになった再審に関する法律の不備を訴える「再審法改正をめざす市民の会」が設立され、日本弁護士連合会も秋の人権大会で「今こそ再審法の改正を」をテーマの1つに掲げる。冤罪被害者を救済しようという声が広がる中、この最高裁決定はそれに冷や水を浴びせた。地裁などの下級審が再審開始を決定するのをためらう萎縮効果も懸念される。法改正の動きが本格化し、過去の裁判の見直しが積極的に行われる前に、それに抵抗したい最高裁が機先を制した格好とも言えるのではないか。
大崎事件とは
事件に登場する人物の関係はこの図の通り(原口アヤ子さん以外は仮名)。1979年10月、鹿児島県曽於郡大崎町の牛小屋堆肥置き場で四郎さんの遺体が発見された。アヤ子さんは、夫と義弟、及び甥に持ちかけて、四郎さんを殺害したとして、懲役10年の判決を受けた。控訴、上告して争ったが、この有罪判決は確定し、アヤ子さんは服役した。
今年3月に再審無罪が確定した熊本・松橋事件など、冤罪事件では密室の取り調べの中で、虚偽の「自白」に追い込まれているケースが多いが、本件でアヤ子さんは、捜査・裁判を通して一度も「自白」していない。
刑務所では模範囚だった。刑期満了を待たずに仮出所できるように、職員が反省文を書くように勧めたが、アヤ子さんは「やっていないから」と言って応じなかった。そのために仮釈放はされず、満期出所した後の1995年4月に最初の再審請求を行った。鹿児島地裁は再審開始決定を出したが、検察の異議申立を受けた福岡高裁宮崎支部が取り消した。今回の第3次請求は2015年7月に起こされ、17年6月に鹿児島地裁が、18年3月に福岡高裁宮崎支部が再審開始決定を出した。すでに3つの裁判体で再審開始決定を出している事件だ。
高裁の決定に対して、検察側が特別抗告。しかし、今回の最高裁は、決定の冒頭で「単なる法令違反、事実誤認の主張」として、検察側の主張を退けた。そのうえで、「職権をもって調査」し、今回の結論を出している。
大崎事件の現場。3家族が同じ敷地に家を構えていたが、今では物置1つが残るだけで木や草が生い茂っている確定判決を否定する鑑定を「尊重すべき」としながら…
最高裁が問題にしたのは、四郎さんの死因についての鑑定だった。
確定判決が認定した死因は、アヤ子さんが手渡した「西洋タオル」を一郎さんが四郎さんの頸部に巻いて「その両端を力一杯引いて絞めつけ」ための「窒息死」だった。
その最大の根拠となった鑑定を行った城哲男・鹿児島大教授(法医学)は、被害者に「頸椎前面の組織間出血」があったことから、死因は頚部圧迫による窒息死と判断していた。ところがこの城教授は、四郎さんに関する重要な事実を警察から聞かされていなかった。
遺体発見の数日前、酒に酔って自転車に乗っていた四郎さんは、側溝に落ち、前後不覚の状態になっているのを地元の人に発見されていた。近くの男性2人が、意識のない四郎さんを、軽トラックの荷台に載せて自宅まで運んでいた。
四郎さんが落ちた側溝事情を知った城教授は、再度鑑定資料を検討し、他殺の判断を撤回。「頸椎前面の組織間出血」の原因は、首の「過伸展(むち打ち症などのような力が加わること)」などによるものと修正し、この出血のほかは頚部圧迫の痕跡はなかったことを明らかにした。そして、側溝に転落した状況によっては、このような出血を伴う頸椎や頸髄損傷によって死亡することもある、とした。
第3次再審請求で弁護側が新規証拠として提出した鑑定を行った吉田謙一・東京医科大教授(法医学)も、出血の原因は「過伸展」によるものとし、死因は「低体温を伴う失血」である可能性が高いとした。自転車ごと溝に落ちた事故による出血のため、自宅に届けられた時にはすでに死亡していた可能性も指摘した。高裁決定は、吉田鑑定を踏まえ、他の証拠を総合評価して、再審開始を決めている。
今回の最高裁も、吉田鑑定について、「死因に関して、科学的推論に基づく1つの仮説的見解を示すものとして尊重すべきである」と評価した。ところが、その一方で、吉田教授自身が解剖を行ったわけではないとか、「死亡するに至るまでの具体的な時間経過については明確な判断を示していない」とかの「問題点」を挙げ、こう結論づけた。
出典:最高裁決定より〈前記のような問題点を考慮すると、同人(=四郎)の死因又は死亡時期に関する認定に決定的な証明力を有するものとまではいえない〉
そのうえで、アヤ子さんとの共犯関係を認めた一郎さんらの自白は「相互に支え合っている」などとして信用性を高く評価した。
実は、この男性3人は、いずれも知的障害があり、誘導に乗りやすく、強圧的な者に迎合的な傾向があった。アヤ子さんが出所後、元夫の一郎さんになぜ「自白」したのかを問いただすと、「警察の取り調べが厳しくて言ってしまった」と謝られたという。
こうした特性のある知的障害者は、取り調べで捜査官に迎合した供述をすることも多く、虚偽供述によって冤罪が起きるのを防ぐために、現在は警察が取り調べの可視化を行うように努めている。警察庁のまとめでは昨年度中には「知的障害等を有する被疑者」の取り調べ4,978件で録音・録画を実施した。しかし、大崎事件が起きた頃は、そうした配慮などはまったくない。
それでも、最高裁は3人の供述について、こう結論づけた。
出典:最高裁決定より〈一郎、二郎及び太郎の知的能力や供述の変遷等に関して問題があることを考慮しても、それらの信用性は相当に強固なものであるということができる〉
そのうえで、地裁、高裁の再審開始決定について、次のように認定した。
出典:最高裁決定〈これらを取り消さなければ著しく正義に反するものと認められる〉
最高裁はかつて、再審請求審においても「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の原則が適用される、とする判断(白鳥決定)を示した。しかし、最高裁自身も「科学的推論に基づく1つの仮説的見解を示すものとして尊重すべき」とする吉田鑑定が、「絞殺」とした確定判決の死因鑑定に大きな疑問を呈しているのに、再審の道を閉ざした。この決定は、弁護側に完全なる無罪の証明を求めるに等しい。
吉田鑑定に「問題点」があるなら、最高裁は高裁に差し戻して、疑問点をきちんと明らかにするように命じる道もあった。高裁の判断より被告人や再審請求人に不利な判断をするなら、むしろ、それがこれまでの最高裁の常道だった。なのに今回、敢えてその道を採らず、自判して弁護側の反論や補足の立証を一切シャットアウトしたところに、今回の決定の異常さがある。
最高裁決定に憤る鴨志田弁護士弁護団事務局長の鴨志田祐美弁護士は、「あなた方の『正義』とは何か、と裁判官たちに問いたい。あなた方は何のために裁判官になったのか、と」と憤った。
冤罪救済の法整備を求める声が高まる中で
最高裁決定を受けて記者会見する弁護団
大崎事件の再審請求の過程では、検察の証拠隠しが次々に明らかになった。裁判所が証拠開示を勧告し、五月雨式に不提出証拠を開示し、検察官が「大崎事件に関する証拠はもはや存在しない」と言い切った後に、裁判所がさらに強い姿勢で開示を求めたところ、新たにフィルムが何本も出て来た、というようなこともあった。
現在、再審に関する法整備を求めるムーブメントの中で、再審請求審での証拠開示は最も大きなテーマだ。通常の裁判では、公判が始まる前に検察側の証拠がかなり開示されたり、検察側の手持ち証拠の標目が示されたりするようになったが、再審請求審では裁判官の姿勢次第で対応の差が大きい。それをルール化しようという主張が出ている。
大崎事件は、その象徴的な存在だった。
松橋事件に続き、湖東記念病院事件でも再審開始が確定し、手続きが始まった。昨年、大津地裁は、無実を訴えながら獄死した男性の遺族が起こした日野町事件で、再審開始決定を出した。布川事件で再審無罪が確定した桜井昌司さんが起こした裁判では、東京地裁が、警察の取り調べだけでなく、証拠開示に応じなかった検察の責任も認めた。
布川事件国賠訴訟一審判決では検察の証拠開示の義務を認めたが(国民救援会提供)冤罪被害者を救う判断がいくつも出ている中での、今回の最高裁決定。
日弁連の再審に関する会議の最中に今回の決定を知ったという鴨志田弁護士は「下級審への萎縮効果が心配だ」と懸念する。
92歳になったばかりのアヤ子さんには、今後、弁護団がこの決定を伝える、という。
「これで諦めるわけにはいかない」(鴨志田弁護士)
今回の決定を出した第1小法廷の裁判官は以下の通り。
小池裕(元東京高裁長官)
池上政幸(元大阪高検検事長)
木澤克之(東京弁護士会出身、元立教大学法科大学院教授、元学校法人加計学園監事)
山口厚(東京大学名誉教授)
深山卓也(前東京高裁長官)
大崎事件(は、1979年10月、鹿児島県曽於郡大崎町で起こった事件。
1981年までに殺人事件として有罪が確定したが、死亡原因は殺人ではなく、転落による事故であり殺人罪は冤罪であるとの主張があり、再審請求が続けられている。
第3次請求審においては、2019年6月に最高裁判所で初めてとなる再審取り消しの決定が5人の裁判官全員一致により下された。
1979年10月15日、大崎町の自宅併設の牛小屋堆肥置き場で家主(農業、当時42歳)の遺体発見。その3日後の10月18日、被害者の隣に住む被害者の長兄(農業、当時52歳)と次兄(農業、当時50歳)が、殺人・死体遺棄容疑で逮捕。
さらに10月27日に甥(次兄の息子)(当時25歳)を死体遺棄容疑、10月30日に長兄の妻(被害者の兄嫁(義理の姉)、農業、当時52歳)を殺人・死体遺棄容疑で逮捕。
長兄の妻を主犯とし、長兄・次兄・甥とともに酒乱の被害者を保険金目的で殺害しようとしたとして起訴した。
1980年3月31日、鹿児島地裁は長兄の妻を主犯として被害者を西洋タオルで絞め殺して牛小屋堆肥置き場に死体を遺棄した殺人・死体遺棄罪で懲役10年、長兄に懲役8年、次兄に懲役7年、甥に懲役1年の判決。
長兄の妻のみ即日控訴するも、同年10月14日、福岡高裁宮崎支部が棄却。
さらに即日上告するも、1981年1月30日、最高裁が棄却して、長兄の妻の懲役10年確定。
1987年4月25日、次兄死亡。
1990年7月17日、長兄の妻が刑期満了で出所。
1993年10月2日、長兄死亡。
1995年4月19日、長兄の妻が鹿児島地裁に再審請求。
1997年9月19日には甥も同地裁に再審請求するも、2001年5月17日、自殺。
2001年8月24日、甥の母親(次兄の元妻)が甥の請求を引き継ぎ再審請求するも、2004年、母親も死亡。
冤罪が疑われる事件で、知的障害・精神障害の傾向がある共犯者らの自白の信用性が問題とされる。
長兄の妻は捜査段階から公判ないし受刑中を含め一貫して現在まで事件への関与を否定し続けている。
共犯者で実行犯とされる長兄・次兄・甥は、捜査段階において自白を獲得され、自らの公判でも否認することがなく、有罪を宣告した地裁判決に対し控訴することなく有罪判決を確定させた。
しかし、彼らは自らの公判手続では罪を争わなかったものの、否認したため分離され、同じ裁判官によって同時進行していた再審請求人の公判審理において、証人として出廷した際、自ら訴追事件には一切関与していない旨を証言した。
しかし、弁護人を含む立会い法曹には、自らの訴追事件に対する否認であると理解されることはなく、証言としても受け入れられなかった。
甥は受刑後、事件への関与をすべて否定し、再審への道を探していたが、その道を得ることなく、将来に悲観して、自死するに至った。
この共犯者とされる者らいずれも知的・精神的障害があるとされる。