日本最恐のオカルト事件!
「秀才だったのに…」 2時間で30人の内臓が飛び散った「津山30人殺し事件」とは?
世界の犯罪史上でも類を見ない残虐極まりない大量殺人「津山30人殺し」。
1938年(昭和13年)5月21日、岡山県の農村で発生。犯人・都井睦雄(22歳)は、2時間足らずで村人30人を殺害。いわゆるスプリー・キラー(spree=お祭り騒ぎ、馬鹿騒ぎ)短時間に不特定多数を殺害する殺人者)のパイオニアである。
■犯人像に迫る
犯人の都井睦雄は1917年(大正6年)3月5日、生まれ。幼い頃に両親を亡くし、姉とともに祖母いねに育てられる。学校の成績もよく、秀才であったため、いずれ進学するつもりだった。
しかし、進学すれば寮生活となるため家から離れることになる。いねから「寂しくなるから」と反対された。優しい睦雄は、いねの気持ちを考えて進学を断念。
その後、もともと身体が弱かった睦雄は、肋膜炎を患い、家に引きこもりがちになる。さらに、慕っていた姉も嫁いでしまってから、彼は孤独感をいっそう強めていったようだ。
テレビやパチンコなどといった娯楽のない当時の村では、セックスが唯一の楽しみであり、夜這いの風習が残っていた。
夜這いとは、夜になると女の寝間に男が侵入して、性行為を楽しむこと。昼間でも人目につかない場所で密かに性交することもあった。既婚者も独身も、大いに夜這いの風習を堪能していたのである。
当然、睦雄の村にも夜這いの風習があり、彼も村の女と複数関係を持っていたようだ。
やがて、睦雄は軽度の結核の診断を受ける。今でこそ結核は治せる病気だが、その当時は死病として怖れられていた。それに追い打ちをかけるように徴兵検査で不合格を言い渡される。
お国のために兵役に就くことができないということは、当時の男子にとって最も屈辱的な結果であった。
睦雄は結核ということで村の女たちから忌み嫌われ、やがて村人たちからも陰口を叩かれるようになる。
かつて村の秀才と言われていた睦雄。閉塞的な村での疎外感、屈辱……。村人や女たちに対するどす黒い復讐心が芽生えていき、彼は悪鬼に変わっていった……。
■凶行の日
犯行の前日、睦雄は電線を切り、村を停電にした。夜半に睦雄は起き上がり、支度を始める。黒の詰襟服を着て、地下足袋を履き、足にゲートル(ケガやうっ血を防ぐために軍人が使用する)を巻いた。頭には、懐中電灯を取り付けた鉢巻を装着。頭から突き出た2本の懐中電灯はまるで鬼の角のように見えた。
自転車用ランプを首から吊り下げ、薬きょうや弾薬を入れた袋を肩にかけた。日本刀や短刀、9連発のブローニング猟銃を携え、いざ凶行に向かった。
最初に、自宅のコタツでうたた寝をしていた祖母いねの首を斧ではねた。いねの首は胴体からちぎれ飛び、大量の血が首から脈を打って溢れ出た。
その後、隣家から侵入し村人を次々と襲った。日本刀でメッタ斬りにしながら一人ひとり、血祭りにあげていった。
破壊力が強い猛獣用の弾丸は、人体に大穴を開け、内臓が飛び散ちり、腸がぶよぶよと飛び出す。
恨みが深かった女に対しては、乳房をえぐったり、口の中に刀を突き立てたりした。
被害者のなかには妊婦もおり、胎児もろとも容赦なく殺害している。睦雄は標的にしたのは、関係を持ったり、拒絶したりした女性とその家族が中心だった。
返り血に染まり、銃を乱射し刀を振り回す姿で闇夜をかけめぐる睦雄の姿は地獄の使者のように見えたことだろう。
犯行からわずか二時間足らずで30人の村人を殺害。彼は猟銃や日本刀などを携えた重装備でありながら、山間部の急斜面を駆け上り犯行に及んでいる。怨恨のエネルギーが彼にパワーを与えたのであろうか。
犯行を終えた後、睦雄は村を一望できる山の頂にて遺書を残し猟銃で自決した。
■事件の真相は?
睦雄の幼馴染に寺井ゆり子という女性がいた。ゆり子は村でも評判の美人であったため、睦雄がゆり子に一方的に熱を上げていたといわれている。しかしまた一方で、2人は恋仲であったともいわれている。
だが、睦雄が結核だったため、彼女の親族がむりやり引き離し、ゆり子を隣村の男性の元に嫁がせたという説もある。
睦雄が犯行に及んだ日は、ゆり子が嫁ぎ先からちょうど村に里帰りしていた時だった。睦雄はゆり子が帰ってきたタイミングを見計らっていたと思われる。
睦雄はゆり子の家にも侵入し、ゆり子以外の家族を全員殺害している。ただ、ゆり子は素早く隣家に逃げ込み命拾いすることができた。
だが、ゆり子をかくまった隣家は巻き添えをくらい、一人が射殺されている。
いずれにせよ、睦雄がゆり子に対して異様な執着を持っていたことには間違いがない。
2人の間に何があったのか?
睦雄のゆり子に対する一方的なストーカー行為だったのかもしれないが、事件から70年以上も経過した今となっては知るよしもない。
都井睦雄が想いを寄せた女性、ゆり子は2010年の時点で90歳を超えて存命中だった。今も生きているかもしれない……。
家族5人を殺害され、ただ一人生き残った彼女が背負った十字架はどれほど重かったであろうか。その苦難は想像を絶する。
閉鎖的な村社会、因習などが事件の背景とされている「津山三十人殺し」。負のサイクルから抜け出せなくなった時、人は想像を絶する凶行に走ることがある
「津山三十人殺し」をフィーチャーした作品
事件の陰惨な内容や犯行のインパクトの強さから、「津山三十人殺し」にイマジネーションを受けて、数多くの作品が作られている。「たりじゃ~たたりじゃ~八つ墓村のたたりじゃ!」のセリフでおなじみの『八つ墓村』は、映画化やドラマ化もされた横溝正史の傑作ミステリー。なかでも、桜吹雪の中を鬼のような表情で走り抜ける山崎努の狂気極まりない殺害シーンは話題となった。
松本清張は、『闇に駆ける猟銃』でこの事件をルポルタージュしている。もと新聞記者である松本清張の取材能力や情報整理力の高さを物語る作品となっている。
また、漫画家の山岸凉子はこの事件を題材に『負の暗示』という作品を描いている。事件に至るまでの睦雄の狂っていく心理や負のサイクルに堕ちていく様子に恐怖を感じる。
さらに、映画『丑三つの村』は、2003年、自宅で謎の縊死をした古尾谷雅人が主演。実際の殺害の様子を克明に描写しており、古尾谷雅人は三十人殺しの若者を鬼気迫る演技で見せてくれた。
だが、『丑三つの村』は残虐な暴力シーンやエロシーンが多かったため成人指定にされ、興行的には失敗。しかしその後、古尾谷は自殺する直前、『丑三つの村』のリメイクを計画していたという。大量殺人鬼の青年を演じた古尾谷雅人。映画の中で次々と村人を惨殺していく行為は演技とはいえ、彼の生命に暗い影を落としたのだろうか?
今後も第二、第三の睦雄があらわれるかもしれない。また我々自身も何かのきっかけで睦雄になりかねないという恐怖が、70年以上経った今でも事件を色褪せさせることがないのだろう。
※参考文献 『津山三十人殺し 最後の真相』石川 清 (著) ミリオン出版
■白神 じゅりこ
オカルト作家・コラムニスト・ライター。ジャンルを問わず幅広く執筆。世の中の不思議を独自の視点で探求し続けている。
・ブログ「じゅりこ極楽への花道」
・ネットラジオ「ラジオ東京怪奇大学レクチャー7 」にて、「津山三十人殺し」について語っている。ご興味があれば聞いていただきたい。