50日間子供を放置してホスト遊び・・大阪2児餓死事件の全貌

2019年06月13日 21時32分31秒 | 社会・文化・政治・経済

2010年に発生した大阪市西区のマンションで2児(3歳女児と1歳9ヶ月男児)が母親の育児放棄によって餓死した事件。
下村早苗は、1987年、三重県四日市市で高校教師の父と主婦の母親との間に三姉妹の長女として生まれた。
父親は高校で名門ラグビー部を育て上げた有名監督だった。母親は父親の教え子の一人で、両親ともに夜遊びや不倫を繰り返すような家庭だった。
5歳の頃に両親が別居し、2人の妹とともに母親に引き取られた。
「お母さんがいない」と電話があり、駆けつけた父親が目にしたのは、飼い犬の排せつ物の臭いが充満する部屋で、汚れた服を着た娘たちの姿だった。母親は、頻繁に子供を置いて外出していたようだった。
両親は小学1年の時に正式に離婚、父親が娘たちを引き取った。父親は下村が小学3年の時に別の女性と再婚したが、3年ほど後に再び離婚した。
14歳で友人の男子たちに集団レイプされた。父親には言えず、相談を受けた中学担任が妊娠の確認を手伝った。
高校卒業の頃には落ち着き家事や礼儀作法を身につけていたという。
下村は地元に戻り、割烹店に就職。そこで当時大学生だった男性と出会い妊娠・結婚する。
しかし2008年に二人目の子供が生まれた直後、下村は人間関係に問題を抱えるようになった。
しかし2008年に二人目の子供が生まれた直後、下村は人間関係に問題を抱えるようになった。
名古屋でキャバクラ嬢として勤めながらの子育ては大変だったという。子どもたちは次々に熱を出し、医者には「お母さんと離れたくないイヤイヤ病ではないか」と言われた。仕事を休めば収入が下がる。
子どもたちは夜は託児所に預ける。昼間は一緒にいる。公園で一緒に遊んでいる。子ども中心に生活していると、「良いママ」を振る舞い、父に写メールを送った。
2009年10月に下村は新型インフルエンザに罹患する。元夫と実父にそれぞれ子どもを預かって欲しいと助けを求めたが、どちらからも仕事があると断わられた。
同じ頃、楓ちゃんの1歳の誕生日を祝いたいと元夫を動物園に誘ったが、これも断わられる。当日は誰からもお祝いのメールや電話がなかった。
約1週間後、新しく恋人ができた。月末には職場を変わった。借金が返せなくなり、子どもを見てくれた友人とも疎遠になる。下村の中で何かが壊れた。
2010年1月頃、桜子ちゃんが水道の蛇口をひねり部屋の床を水浸しにした為、謝罪や修繕はおろか、家賃も払わないまま名古屋から大阪へ“夜逃げ”した。
2歳8か月になった桜子ちゃんの手を引き、1歳3か月の楓ちゃんをベビーカーに乗せて、大きな荷物を持って、大阪ミナミの老舗風俗店に面接に行った。
店は単身者向けマンションを寮として提供し、子どもたちのために託児所を探した。
深夜12時に仕事が終わり、託児所まで迎えにいった。桜子ちゃんが泣きながら駆け寄ってくる。泣いている子を放置している職員。二度と子どもたちを預けなかった。
それからは、子どもたちは託児施設に預けず、部屋に置いたままだった。10代で性暴力を体験していた下村は、客から本番を求められると受け入れた。
月に入って、客としてきたホストと恋仲になった。子供らを自宅リビングに放置したまま、男の家に連日外泊するようになる。
ホスト遊びに手を出し、金が返せなくなる。SNSの中ではおしゃれで楽しげな生活を表現する一方で、借金の取り立てから逃げた。
自宅に子供を放置し、たまにコンビニで買った飲食物を与えるために短時間だけ自宅に帰るという生活に徐々になっていく。
元夫からの養育費などはなく、両親の援助も得られない。彼女自身が行政に相談したこともあったし、近隣からの児童相談所への通報もあった。しかし、結局親子を救う者はなかった。
周囲には「子供は他の人に預けている」と、うそをつき続けた。
5月、子供の誕生日に交際男性の家に子供らを連れて行った。しかし、誕生日を祝うことなく過ごし、祝ってやれなかった、離婚しなければよかったなどと思う一方、そういう現実を考えること自体嫌だ気持ちが一層強くなる。
この日から、帰宅しない期間が長くなる。風呂に入れるなどの世話もしなくなった。
6月初旬、子どもたちを自宅に残して、1人で外出。部屋にわずかな食料を残した。
この際、桜子ちゃんと楓ちゃんは下村に激しく追いすがって止めようとしたが、振り切った。
「ほんとは家に帰らなくてはいけないとか、2人のところにいなくてはいけないという、頭の中にある考えを塗り潰す感覚だった。」
約1週間後の6月9日に帰宅した際、「子供はいつものハイタッチにも応じなかった」。
2食分の蒸しパン、おにぎり、手巻き寿司とジュースを開封して置き、玄関側からリビングのドアに粘着テープを貼り、鍵を掛けて立ち去った。
そこから約50日間、帰宅しなかった。
6月下旬頃から妹や友人宅などを転々、7月上旬頃には元夫に電話をかけ「仕事をしながら子育てするのは大変でしんどい」と訴えていた。
7月29日、同じ階のマンション住民から異臭の苦情で、管理人が「部屋を見たい」と店側に連絡。24日の勤務を最後に欠勤していた彼女に、店の上司が電話し、帰宅するしかなくなった。
18時半頃に部屋に戻り、子どもたちの変わり果てた姿を見て、早々に部屋を出た。
上司に「ゴミだらけやから見にいかんといて。子どもらも放ったらかしにしてるから… 。どうしたらいいかわからない。もう死にたい」と、メールを送信した。
その後はそのまま交際相手と遊びに出かけてホテルに宿泊した
7月30日午前1時40分頃、3階の部屋のベランダにハシゴでレスキュー隊員二人が登り、真っ暗な部屋を懐中電灯で照らした。
ゴミが積み重なった部屋の真ん中だけ床が見えていた。そこに、一部白骨化した全裸の幼児二人が、仰向けでT字形に寄り添うようにして倒れていた。
検死の結果、桜子ちゃんは辛子やマヨネーズ、そうめん出汁、製氷庫の氷の結晶まで舐め、楓ちゃんにも分け与えていた。
食べものがなくなり、ゴミ溜めの残飯を漁り、カップ麺の容器も綺麗に舐めた跡が。姉はゴミを漁って食べているうちに食中毒を起こし、弟より10時間以上前に死亡したとみられた。
おそらく汗をなめ、尿を飲み、便を食べていたと推察できる。飢餓の苦しみは大量虐殺と同じ程度である、と裁判で専門家が証言した。
法廷で下村は「今でも愛している」と何度も子への愛情を口にした。
涙を流し「もう一度2人を抱きしめたい。こんなひどい母親ですが、私はこれからも2人の母親でいます。一生2人を背負って、罪を償って生きていきます」とも述べた。
2012年、西田真基裁判長は下村被告には殺意があったと認定。
「幼児は空腹にさいなまれながら命を絶たれた。むごいの一言に尽きる」として、有期では最高刑となる懲役30年(求刑無期懲役)の判決を言い渡した。

 ・映画化

2013年に同事件を基にした映画『子宮に沈める』が緒方貴臣監督によって制作された。母親を伊澤恵美子が演じた。この映画は現在も不定期で上映されている。


大阪2児餓死事件

2019年06月13日 20時31分10秒 | 社会・文化・政治・経済

大阪2児餓死事件とは、2010年に発生した大阪市西区のマンションで2児(3歳女児と1歳9ヶ月男児)が母親の育児放棄によって餓死した事件。
2010年7月30日、「部屋から異臭がする」との通報で駆け付けた警察が2児の遺体を発見。死後1ヶ月ほど経っていた。
なお遺体が発見されるまで「子供の泣き声がする」と虐待を疑う通報が児童相談所に何度かあったが発覚しなかった。
同日に風俗店に勤務していた2児の母親(当時23歳)を死体遺棄容疑で逮捕し、後に殺人容疑で再逮捕した。
被疑者
生い立ち
逮捕された母親は三重県四日市市に生まれた。両親の離婚などで中学生時代は家出を何度も繰り返していた。
この頃、逮捕された母親の父が、高校スポーツの指導者としてニュースの特集に出たことがあり、その当時中学生だった逮捕された母親に対して、福澤朗が家に帰るよう促したことがある。
2006年12月、当時大学生だった男性(その後大学を辞め就職する)と結婚。2007年5月、20歳になった直後に長女を出産。
2008年10月に長男を出産し、2009年5月に離婚した。
事件発覚まで
母親は離婚後大阪市西区のマンション(母親の勤務先である風俗店が賃借していた物件、投資用ワンルームマンション)に移ったが、子供の世話をしなくなっていた。
この時子供を残し、わずかな食料を置き交際相手と過ごすようになり長期間家を空けることもあった。
2010年6月9日頃、居間の扉に粘着テープを張った上に玄関に鍵をかけて2児を自宅に閉じ込めて放置し、同月下旬ごろに餓死させた。
7月29日、勤務先の上司から「異臭がする」との連絡を受け、約50日ぶりに帰宅した際に子供の死亡を確認した。
死亡を確認した母親は「子供たちほったらかしで地元に帰ったんだ。それから怖くなって帰ってなかったの。今日1ヶ月ぶりに帰ったら、当然の結果だった」と上司にメールを送信するも、その後はそのまま交際相手と遊びに出かけてホテルに宿泊し、翌7月30日に逮捕されるまで過ごしていた。
裁判[編集]
母親は逮捕後、約5か月間の鑑定留置期間に精神鑑定を受け、刑事責任能力には問題無いとの結果が出たため、大阪地検に殺人罪で起訴された。なお、死体遺棄容疑は不起訴処分となった。
検察側は、母親が最後に家を出た際「冷蔵庫に食事がなかった」「子ども2人の衰弱を目の当たりにしていた」などの点を挙げ、母親に殺意があったとして、無期懲役を求刑した[7]。弁護側は「被告も育児放棄を受けた影響があった」とし子供に対する殺意はなく保護責任者遺棄致死罪にとどまるとした[7][8]。母親は「子供のことを今でも愛している」と話した。
2012年3月16日、大阪地裁は母親は子供に対する「未必の殺意」があったと認定し、懲役30年の実刑判決を言い渡した。
2012年12月5日、大阪高裁も「生命が危険な状況で、放置すれば死亡すると認識できた」として一審判決を支持し、被告側の控訴を棄却した。
裁判は最高裁まで争われ、2013年3月に懲役30年が確定した。
その後、事件のあったマンションでは毎月一度、住人交流会が行われている。
その他[編集]
2013年に同事件を基にした映画『子宮に沈める』が緒方貴臣監督によって制作された。母親を伊澤恵美子が演じた。この映画は現在も不定期で上映されている。
2019年5月には、山田詠美によって同じく同事件を基にした376ページに及ぶ書籍『つみびと』が発行された。


2歳児を救う網、機能せず 関係機関、甘い認識や連携不足

2019年06月13日 20時14分22秒 | 投稿欄

6/13(木)

多くの「穴」 機会を逃す

 札幌市の池田詩梨(ことり)ちゃん(2)が衰弱死した事件の発覚から13日で1週間。全国で相次ぐ虐待事件を受け、張り巡らされたはずの子供を救済する「網」には多くの「穴」があった。関係機関の情報共有不足や認識の甘さ、待ちの姿勢。いくつもが重なり、幼い命を救うチャンスを逃した。

容疑の母 浮かび上がる孤立 札幌2歳衰弱死

「信頼関係がなければ、救える命も救えない」

 「なぜ連絡がなかったのか、本当に分からない」。札幌市児童相談所から夜間と休日の虐待通告について、子供の安全確認を委託されている「札幌南こども家庭支援センター」の施設長は児相の対応をいぶかった。

 同センターは、詩梨ちゃん宅がある中央区と南区を受け持つ。だが5月13日夜、道警から母親の池田莉菜(りな)容疑者(21)との面会に同行を求められた際、児相は「職員到着に時間がかかる」として同センターに連絡しないまま、対応を警察に委ねた。

 同センターは計15人が交代で夜間や休日に児相の依頼に対応する。依頼は年4、5回だが「いつもは『なるべく早く行って』と言われた。安全確認は絶対逃してはいけないのに」と施設長。児相から同じ業務を委託される市内の別のセンター幹部は「児相とセンターの信頼関係がなければ、救える命も救えない」と話す。

「道警との情報共有、現実は難しい」

 児相には昨年9月以降、計3回通告が届き、「救うチャンス」があった。だが4月5日の2回目の通告で、児相は国が徹底を求める「通告受理後、48時間以内に安全確認できなかった場合、立ち入り調査する」とのルールを守れなかった。

 国は48時間以内に安全確認できない事案は「必ず警察と情報共有する」とも指示。だが児相は48時間を過ぎても道警に情報提供しなかった。児相の高橋誠所長は「道警とすべてで情報共有できるかというと、現実は難しい」とだけ話した。

 「そこまでの危機感を持っていなかった」。6日の事件発覚後、児相は記者会見などで何度も、詩梨ちゃんの状況についてこう語った。高橋所長も12日、「通告は、どう見ても虐待と言えるものから、単なる子供がぐずって泣いたものまで、ピンからキリまでいろんな情報が来る」と話した。

通告の6割近くで虐待を確認

 だが札幌市児相が2018年度に受けた通告1497件のうち、虐待と認定されたのは839件に上る。通告の6割近くで虐待が確認されているのが現実だ。

 詩梨ちゃんを救う最後のチャンスだった5月15日、札幌南署員は池田容疑者宅を訪問後、「虐待の状況はなく緊急に保護の必要はない」と児相に伝えていた。

 捜査関係者は「警察だけで虐待を見抜くのには、限界がある」と漏らした。

 「『ただ待っていた』という区の保健センターの姿勢が今後検証されるだろう」と市保健所幹部は言う。

 今年3月、池田容疑者は詩梨ちゃんとともに、東区から中央区に転居。だが通常、元の区の保健センターから転居先の区へ移されるはずの乳幼児健診の未受診データや相談記録などは、引き継がれていなかった。

北海道新聞社


2歳女児衰弱死の背景…逮捕の母親の元同僚が語る

2019年06月13日 20時10分31秒 | 投稿欄

 札幌市(北海道)

6/11(火) 

札幌で2歳の女の子が暴行を受け、その後衰弱死した事件。その背景には家庭の問題もあったのでしょうか。逮捕された母親の元同僚が母親の様子を語りました。

今月、札幌市内の各家庭に配られた広報誌です。特集は、見逃さないで「助けて」のサイン。児童相談所の活動を紹介する記事の中には、このような一文も。「まずは子どもの安全を確認することが最優先です」。奇しくもこの広報誌が配られた時期と一致して、2歳の女の子が命を落としました。
(池田容疑者の元同僚)
「僕たちは朝まで預かってもらえる保育園だと思っていた。毎日飲む。帰らないのはだいたい毎回」
我が子を保育園に預けたまま飲み歩いていたという母、池田莉菜容疑者。同じ飲食店に勤めていた元同僚が語りました。
(池田容疑者の元同僚)
「育児放棄気味っていうのは、みんな知っていた。すすきのに出れば朝まで」
交際相手の藤原一弥容疑者とともに、池田容疑者の娘の詩梨ちゃん2歳に暴行を加え、けがをさせたとして逮捕されました。
(宇佐見記者リポート)
「午前10時前です。鑑識が池田容疑者の自宅に入ります」
詩梨ちゃんは搬送先の病院で死亡。死因は衰弱死で、死亡する前のおよそ2週間、何も食べていなかった可能性があるとみられています。
(札幌市児童相談所 高橋誠所長)
「『警察の訪問が終わるまでは児童相談所からの連絡も控えて欲しい』と要請された」
10日、会見を開いた児童相談所。先月15日の警察の同行要請を断っていたことについては、警察から「遠慮してほしい」と言われたと主張しています。一方、警察は「同行を依頼したが断られた」と、両者の意見に食い違いが。結局、児童相談所は一度も詩梨ちゃんに面会しないまま、最悪の結末を迎えました。池田容疑者が、おととし12月頃から、およそ4か月間、詩梨ちゃんを預けていた保育園の元園長の証言です。
「連絡もなしに、迎えに来ないことが何回かありました」
池田容疑者は保育料の滞納が続き、去年5月以降、連絡が取れなくなったと言います。育児放棄が続いていた可能性がある一方で、こんな証言も。
(池田容疑者の元同僚)
「(池田容疑者に)去年の冬に会っている。そのときも子どもの話をしていた。最近生意気になってきたけど、かわいいと言っていた。そのときは今ニュースで見る彼氏(藤原容疑者)ではなかったと思う」
この事件を受けて鈴木知事は。
(鈴木直道知事)
「札幌市としっかり、これまで以上に連携しながら、そういった事態にならない取り組みを進めることが重要」
失われた幼い命。この命を守ることは、できなかったのでしょうか。助けてのサインは確かに出ていたはずです。

最終更新:6/11(火) 19:28
STVニュース北海道


飲み歩いていた」札幌2歳女児衰弱死 21歳母親

2019年06月13日 19時52分24秒 | 社会・文化・政治・経済

男性と交際始めるたびに育児放棄か
6/13(木)
UHB 北海道文化放送
 札幌市で母親と交際相手の男に虐待され、2歳の女の子が衰弱死した事件。警察は育児放棄による傷害致死容疑も視野に、調べを進めていることがわかりました。

 「かわいいお嫁さんになりたい」

 小学校の卒業アルバムに、こう書き込んだのは、札幌市中央区の飲食店従業員・池田莉菜容疑者(21)です。

 この6年後、詩梨ちゃんを授かりますが…。

 「子どもの父親が暴力ヤバくて、臨月で別れて1人で産みました」「とりあえず、貯金頑張ります…」
出産を控える知人に、先輩ママとして思いを伝えていました。

 自身のSNSにも、詩梨ちゃんの様子を載せていた池田容疑者。ところが詩梨ちゃんが5か月を過ぎたころから、更新が途絶えました。

 池田容疑者の知人:「飲み歩いていた。出勤終わりに行っていたみたい。深夜1時か2時くらい。(子どもは)誰かが見ていると思っていた」

 知人によりますと、池田容疑者は周囲に「子どもがいるから」と母親の顔をのぞかせる一方で、すすきので夜遅くまで飲み歩くようになったといいます。

 交際相手の藤原一弥容疑者(24)とともに衰弱死した詩梨ちゃんを虐待していたとして、傷害の疑いで逮捕された池田容疑者。

 男性と交際を始めるたびに、育児放棄を繰り返していたとみられています。

 (吹き替え):「藤原と2人でいる姿は見かけたが、子どもはいつもいなかった」

 藤原容疑者との交際は今年に入ってから。出入りするようになった3月ごろから育児放棄などの虐待が、エスカレートしたとみられています。

 死亡した詩梨ちゃんの体重は6キロほどしかなく、かなり衰弱していたことなどから、警察は2人が詩梨ちゃんに食事を与えないなど育児放棄し、死亡させた可能性があるとみて、傷害致死容疑も視野に調べを進めています。

 池田容疑者は「詩梨ちゃんが保護される前日から自宅で育児をしていた」という趣旨の話をしていて、警察は池田容疑者が育児放棄を隠そうとしている可能性もあるとみて、事実関係を調べています。

UHB 北海道文化放送


平和の文化

2019年06月13日 11時02分01秒 | 社会・文化・政治・経済

寛容と共生の社会を築くために必要な視点は?
今年3月に起きたニュージーランド・クライストチャーチのモスク衝撃事件。
尊い命を奪われた51人は、そのほとんどが平和な暮らしを求めて移住したイスラム教徒だった。

移民に対して、差別や偏見を抱いていなかっただろうか。
現実には差別があったのに、見過ごしていたのではないか、と反省を迫られたのです。
一人一人の違いや共通性を認め合う<安全で平和な場所>の大切さを皆で考えたいと願ったからです。
私は、寛容な人、差別を傍観しない人を育てるには、そのたの教育が重要だと考えました。
今、ニュージーランドでは、小さな差別も許さない社会をつくっていこう、「平和の文化」を築いていこう、という挑戦が始まっています。
本当の意味の「安全」とは、人との関係性の中にしかない。
それを理解し、より安全で平和な関係を築くことが「平和の文化」です。
若い人たちは、軍事力などのハードパワーに頼れば自分たちの「安全」が守られると誤解しています。
平和を築くために、必要なことは?
どこまでも人間を信じ抜くことです。
それは出会う人たちに尊敬を持つことから始まります。
相手に恐怖や不信を抱けば、相手もそれを感じます。
反対に、相手に愛情や尊敬の念を抱けば、相手もそれを感じるものです。
「平和の文化」とは、恐れや憎しみを愛に非寛容を慈悲に、悲観主義を希望に変えていくことです。
それが、個人の人間関係も、さらに社会や政治における関係をも変えていくことになるのです。
ケビン・クレメンツさん
平和学者。1946年、ニュージーランド生まれ。国際平和研究学会(IPRA)事務局長をはじめ、アメリカのジョージ・メイソン大学紛争分析・解決研究所所長などを歴任。ニュージーランド、オーストラリア、イギリス、スウェーデン、オランダの各政府の政策顧問も務めた。現在は、ニュージーランドのオタゴ大学教授、同大学国立平和紛争研究所所長。


胸襟を開いて接していく

2019年06月13日 10時01分47秒 | 社会・文化・政治・経済

「たとえ一瞬でも、心が触れ合えば・・・ただ通り過ぎてしまえば、何も価値は生まれない」
「人と会うこと」「人と語ること」
そこには、勇気があり、知恵があり、慈悲がある。

友と心触れ合う真心の交流
親切といっても、相手が本当に求めていることに応えるのは簡単なことではない。
だからこそ、こちらが胸襟を開いて接していく。
相手の心に耳を傾ける対話に勇んで挑戦していく。


小さな親切運動

2019年06月13日 09時44分51秒 | 社会・文化・政治・経済

初代 茅誠司

1963年(昭和38年)3月の東京大学の卒業式で、茅誠司総長(当時)は卒業生向けて次のような言葉を送りました。

「“小さな親切”を、勇気をもってやっていただきたい。そしてそれが、やがては日本の社会の隅々までを埋めつくすであろう親切というなだれの芽としていただきたい。
大学で学んだ様々な知識や教養を、ただ頭の中に百科事典のように蓄えておくだけでは立派な社会人とはなれません。
その教養を社会人としての生活の中に生かしていくには、やろうとすれば誰でもできる“小さな親切”を絶えず行っていくことが大切です。
“小さな親切”はバラバラな知識を融合させる粘着剤の役目を果たすのです」

「小さな親切」運動は、茅誠司と、この卒業告辞に感銘を受けた人々が提唱者となり、卒業式から3ヶ月後の6月13日にスタートしました。
同時にこの運動を推進する事務局として、「小さな親切」運動本部が発足しました。

現在「小さな親切」運動本部は、「小さな親切」を前提とする社会道義の確立に寄与することを目的に、全国33道府県本部、138市町村支部とともに、次世代を担う青少年をはじめ広く国民の間に「小さな親切」の心を育てる様々な活動を行っています。

東京大学卒業式告辞-1963年(昭和38年)3月

「小さな親切」運動は、中央本部と全国33道府県本部、138市町村支部によって組織、運営されています。
さらに、それを支える各会員やサポーターの皆様一人ひとりの「親切」を尊ぶ心が、すべての活動の原動力となっています。

中央本部

公益社団法人「小さな親切」運動本部の事務局です。
会員とのコミュニケーションや、運動推進のための行事企画、パンフレット・ポスター・作品集等 の作製、実行章受章者決定と表彰状発行などを担当します。
また、地方組織や法人、団体、個人会員の実践活動の支援を行ないます。

地域組織

地域の活動を推進していく核となるのが、各道府県、市町村の「地域組織」です。

団体名 公益社団法人「小さな親切」運動本部
所在地 〒101-0061
東京都千代田区神田三崎町2-20-4
TEL 03-3263-2866 / FAX 03-3263-3838
運動発足日 1963年(昭和38年)6月13日発足
2011年(平成23年)4月1日より公益社団法人「小さな親切」運動本部
代表者 鈴木 恒夫 〔略歴PDFファイルを開く

飽くなき向上心、不断の挑戦。

2019年06月13日 09時36分44秒 | 社会・文化・政治・経済

間断なき闘争の連続。
いかなる状況であれ、自ら決めた目標へ、<まだ動ける>
<まだまだ語れる>と執念を燃やし、対話に打って出る。
こうした不屈の行動。
飽くなき向上心、不断の挑戦。
いま一度、目標を確認し、決意を新たにする。
自分史上最高の歴史を築く。

言葉は人と人を結び付ける―トルストイ