生命の歓喜 笑いの力は無限大

2019年09月01日 19時31分15秒 | 社会・文化・政治・経済

▽生命の歓喜こそ幸福の源泉力。

▽何かをする時は、一過性の取り組みではなく、持続していくことが大切だ。
▽笑いが人を前向きにし、病気に立ち向かう原動力になる。
▽つらいことがあるから、成長できるし、笑顔の大切さも、身に染みて実感できる。
▽笑顔って、連鎖していくものなんですよね。
▽笑顔は幸福の結果というよりも、むしら幸福の原因だといえるだろう。
▽たとえ道化師の存在がいなくとも、皆が笑っていられる社会を築きたい。
日本ホスピタル・クラウン協会の大棟耕介理事長の言葉


地区の会合 夏季友好期間の一言

2019年09月01日 17時22分33秒 | 日記・断片

午後1時過ぎの八重洲地区の会合へ行く。
途中、掘さんに出会う。
当然、中田宅へ一緒に行くものと思って肩を並べて歩き出したら、「昼の食事を買いに行く」とミスターマックスへ向かう。
15分前なので掘さんは後から来るものと考えたが、姿を見せない。
「会合へ誘ったのに、忘れているんだ」と竹内さんは呆れていた。
金田さんが久しぶりに参加した。
60歳となったので、札幌に帰ったら同期生たちに還暦祝いに誘われたと言っていた。
当方は、同期生たちとは無縁となっているので、「還暦祝いでの集いか。いいな」と羨む。
また、富田さんが65歳で定年となり、「継続雇用で給料が減り、10月から年金をもらうが、介護保険は年金から天引きとなる」と語っていた。
肥田さんは、九州に帰り、90代の伯父や伯母に会ってきたと言う。
福岡の父親の家へ一泊、伯母の家に5泊したと言うが、認知症が進み被害妄想の伯母のことで疲れたそうだ。久留米の山の中の一軒屋で、「一緒に住まないか」と伯母に誘われが、「とてもじゃないが無理」と無視したと笑う。

中田さんは娘さん、息子と孫の話をした後に、「心配な妹がいる」と述べていた。
また、甥と姪の話をしていた。
竹内さんは孫二人を預かり疲れたと言っていた。
また、テンカンとなった犬のことも話していた。
1日に3回もテンカンの発作を起こすそうだ。
「あのワン君が」と驚く。
「犬の病気も人間の病気も同じ」と肥田さんが言う。
大野さんの奥さんは金曜日にご主人から聞いたが「初めて日光へ行ってきました」と述べる。
「暑いので、行く気がなかったけど、息子が喜んでいて、良かったですね。景色も良くて、息子は歴史好きなので東照宮に興味を持っていた」と語る。
鈴村さんは、認知症が少し進んだご主人のことを述べる。
「ミスターマックスへ買い物へ行って帰りが遅いので見に言ったら、品物が何処にあるかわからない。疲れたとベンチに座っていたの。今度はトイレへ行くと言ったの待っていたら、そのトイレでも迷って、またベンチに座ったいた」と苦笑していた。
丸田さんは「体があちこち痛くて、何処へも行けなかった」と述べていた。
聞くとリューマチの初期症状と言う。
また、腰痛もあるようだ。
エリちゃは、休みをずらして、9月中旬からスペインへ行くと言っていた。
海外旅行に何回も言っている竹内さんは「もう、年だから長時間も乗る飛行機はもう乗る気になれない」と言う。
当方はまつりへ行ったことと、カラオケ大会の話をした。
会合後のお茶会では、大分のお菓子(富田さんのお土産)、エリちゃんが持参した山梨のお菓子、ナシなどをいただきながら歓談した。


ハードワーク 勝つためのマインド・セッティング

2019年09月01日 10時48分22秒 | 社会・文化・政治・経済
 

内容紹介
短所は<マイナス>ではなく、<人にはない強み>と捉えれば、新しい可能性が見えてくる。

今回のエディー流「ハードワーク」のキーワードは「ジャパン・ウェイ」。

日本人の長所を最大限に活かし、短所を長所に変えることで、実力以上の力を発揮させる、エディー流の必勝法だ。「マイナス思考を捨てれば、誰でも成功できる」「向上心のない努力は無意味」「“完璧”にとらわれるな」「戦いに興奮はいらない」など、彼のメッセージはビジネスにも役に立つものばかり。

W杯で日本に歴史的な勝利をもたらし、日本中を熱狂させたラグビー元日本代表ヘッドコーチのエディー・ジョーンズ氏が、チームを勝利に導くための方法論を自らの言葉で語った1冊。

これを読めば、エディー流の「勝つための」マインドセッティング(心構え)が必ず身に付く!

解説/持田昌典(ゴールドマン・サックス証券株式会社社長)

著者について

エディー・ジョーンズ
1960年、オーストラリア、タスマニア州生まれ。小学生高学年でラグビーをはじめ、現役時はニューサウスウェールズ州代表として活躍。1996年にプロのコーチに転身。2001年、母国オーストラリア代表のヘッドコーチに就任、ラグビーワールドカップ2003で準優勝を収めた。2007年には南アフリカ代表のテクニカルアドバイザーとして、ラグビーワールドカップで優勝に導いた。2012年に日本代表ヘッドコーチ就任。ラグビーワールドカップ2015では優勝候補の南アフリカを初戦で撃破、日本代表にワールドカップの舞台で24年ぶりの勝利をもたらせた。2015年12月、イングランド代表のヘッドコーチに就任。2016年初頭のヨーロッパ王者を決めるシックスネーションズカップで全勝優勝。翌2017年のシックスネーションズで連覇と手腕を発揮している。『ラグビー元日本代表ヘッドコーチとゴールドマン・サックス社長が教える 勝つための準備』(持田昌典との共著/講談社)他著書数。



 

 
 

 

 
 
 
 

 

支部の会合へ行く

2019年09月01日 10時11分01秒 | 野球

午前8時45分からの支部の会合で小堀(おおほり)へ行く。
参加者は10名。
旅行へ行った人や仕事の人もいた。
午前中(10時30分から)や午後(午後1時から)の地区会合もあるので、早めに会合を終えたが、米川さんが読んだ小説の一説を紹介した。
「人間とは何か?」を認識したアフリカ系の演奏家のことであった。
何時ものお茶会となる。
串団子、果物セット(梨、ブドウ、黄色いスイカなど)、モナカ、チョコレートなどがテーブルに並ぶ。
皆さんの故郷の話題となる。
長野の果物のことや、新潟の海の話となる。
「茨城もいいところあるよ」と林さんんが言うが皆さんの反応はイマイチ。
「小堀の渡し船もあるよ」と赤峰さんが横槍を入れる。
そこで「渡し船で、同級生たちが通学していて。自転車が船から落ちた」と皆を笑わせた。
今が、バスでの通学となっている。
帰りには何時ものようにゴウヤ、オカワカメなご畑で収穫した野菜類をビニール袋にいれて赤嶺さんのおくさんが「みんな、遠慮しないで、持って帰って」と玄関で声をかける。
ちなみに、黄色いスイカも畑で栽培したものであった。


練馬城

2019年09月01日 07時29分47秒 | 社会・文化・政治・経済

練馬城(ねりまじょう)とは、現在の東京都練馬区向山にある遊園地「としまえん」の園内にかつてあった室町時代日本の城である。

歴史・沿革

築城年代は不明であるが、14世紀末頃に豊島氏石神井城の支城として築いたものと考えられている。また、この城にはかつて「矢野将監」という者がいて(時期不明)、「矢野屋敷」「矢野山城」とも呼ばれていたという。

そのほか、「海老名左近」という者がのちにこの地または北側の谷に居を構えた、との伝説も残されている。なお、『豊島名字之書立』(『米良文書』年月日不詳)には豊島一族の者として「ねりまひやうこ(=練馬兵庫)」「ねりま弥次郎」の名が記されているが、この人物と練馬城との関係は詳らかではない。現在ある遊園地「としまえん」は、当初遊具を備えた城址公園として開園されており、その名は豊島氏にちなんで付けられたものである。

豊島氏文明8年(1476年)に勃発した長尾景春の乱において、長尾景春に同調して山内扇谷上杉氏と戦った。この乱において、両上杉方の江戸城河越城の間に位置する練馬城は、近隣の豊島氏の城である石神井城とともに、両城の連絡を遮断する役割を果たした。

翌文明9年(1477年)4月13日、扇谷上杉氏の家宰太田道灌は江戸城を出発し、練馬城に矢を撃ち込むとともに周辺に放火した。これをみた練馬城主の豊島泰明は、石神井城にいる兄・泰経(ただし「泰経」「泰明」の名に関しては、当時の史料には「勘解由左衛門尉」「平右衛門尉」との官途名の記述しかなく、実際にそう呼ばれていたか否かは不明である)に連絡を取り全軍で出撃、道灌もこれを引き返してこれを迎え撃ったため、両者は江古田原で合戦となった(江古田・沼袋原の戦い)。戦いの結果、豊島方は泰明ほか数十名が討ち死にし[2]、生き残った泰経と他の兵は石神井城へと敗走することになった。

この戦いについては、「道灌があらかじめ江古田原付近に伏兵を潜ませた上で、少数で挑発行為を行い、豊島方を平場におびき出した」とする説が有力である[3]。練馬城がその後どのようになったかは明らかとなっていないが、城主の討ち死にや、従兵の石神井城への敗走により無人となり、そのまま廃城に至ったものとも考えられている。なお、以前は道灌が最初に攻めた城は「平塚城」とされていたが、現在は「練馬城」とするのが新たな通説となっている[4]

一部通説の変化



阪神・鳥谷が退団決意 引退勧告受け即答「他球団へ行きます」

2019年09月01日 07時08分25秒 | 野球

9/1(日) サンスポ

 (セ・リーグ、阪神4-2巨人、21回戦、巨人14勝7敗、31日、甲子園)トリよ、さらば! 球団から引退勧告を受けた阪神・鳥谷敬内野手(38)が31日、巨人戦(甲子園)の試合前に、今季限りで退団することを明らかにした。現役続行の意志が強く、今後は移籍先を探す見通しだ。この日は代打で待機していたが、出場機会はなし。試合は中谷将大外野手(26)が七回に決勝ソロを放ち、4-2で勝利した。


 8月最後の日に、4万6788人が詰めかけた伝統の一戦。その試合が始まる前のことだった。29日に揚塩球団社長から引退勧告を受けていた鳥谷が、タテジマを脱ぐことを明言した。

 「タイガースでユニホームを着てやるのは、今シーズンで最後。ファンのみなさんにタイガースのユニホームは脱ぐということを伝えたいなというのが一番の思いです」

 試合前の練習後、球団施設内の控室。約50人の報道陣を前に約5分間、淡々とした口調ながら独白に近い形で言葉をつむいだ。虎ひと筋16年目。前日30日の同戦後にも「自分がどうするのか、まだ全然考えていない」などと語っていたが、改めて“会見”の場を設けたのには理由があった。

 「きのう(30日)も帰るとき、たくさん自分のタオルを広げて、今まで以上にたくさんの方々が広げている姿を見て…」

 虎党に自らの言葉で退団を伝えたい。背番号「1」の誠意だった。

 29日に球団の揚塩社長、谷本副社長兼本部長、嶌村副本部長と行った4者会談の中身も明かした。「『引退してくれないか』と。来年以降のことについては一切なかった。事実上の戦力外という感じ」。年俸4億円の5年契約最終年は、ここまで56試合の出場で打率・208、0本塁打、0打点。来季39歳でもあり、選択肢は引退か、他球団へ移籍しての現役続行か。「いろいろ考えながら決めていきます」と明言を避けたが、決意を固めているもようだ。

 関係者によれば、会談で「他球団へ行きます」と即答し、周囲にもその思いを伝えたという。球団は引退後のポストについてのプランも温めていたが、本人の現役続行の意向が強く、その話し合いまで至らなかった。

 すでに使い慣れたロッカールームを整理して、荷造りを開始。歴代2位の1939試合連続出場に、通算2000安打も達成。輝けるキャリアに加え、球界随一といわれる練習量や野球に取り組む姿勢は、若手の何よりの手本になる。獲得に乗り出す球団が現れても、おかしくはない。

 「クライマックスシリーズに出れば、優勝のチャンスも出てきますし、そこを一番に考えて。しっかりチームに貢献できることを常に考えながら、やっていきたい」

 この日は七回に代打でスタンバイ。走者が出れば打席に立つ予定だったが、出なかったため中谷に譲った。その中谷が決勝弾でヒーローに。試合後は、口を開くことなく引き揚げた。虎でのレギュラーシーズンは、残り21試合。移籍を模索する鳥谷にとっても、他球団に向けた重要なアピールの場になる。

 
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