茨城一家殺傷、自ら通報の妻「痛い」と5回連呼

2019年09月25日 17時56分55秒 | 社会・文化・政治・経済

9/25(水) TBS系(JNN)

茨城県境町の住宅で夫婦が殺害され長男と次女も重軽傷を負った事件で、殺害された妻が「痛い」と5回にわたって連呼しながら通報していたことが新たに分かりました。今月23日未明、茨城県境町の住宅で小林光則さん(48)とともに、殺害されて見つかった妻の美和さん(50)は、犯人に襲われた際、自ら「助けて」と言って110番通報していたことが分かっています。その後の捜査関係者への取材で、美和さんは通報の際、「痛い」と5回にわたって連呼していたことが新たに分かりました。

また、電話口では物が落ちる音も聞こえ、美和さんは自分の名前をかろうじて答えられるような取り乱した様子だったということです。警察は、美和さんが通報中にも襲われていた可能性が高いとみています。
一方で、警察官が「救急車を呼びますか」と問いかけると、いったんは「いらない」と返答。しかしその後、「やっぱりいる」と答えたということです。一方、夫の光則さんの傷は肺に達するほどの深い傷で、警察は犯人が強い殺意をもって美和さんらに襲いかかったとみて、調べを進めています。

 

 


阪神・高橋聡引退会見に福留が志願のサプライズ登場 中日、阪神で共にプレー

2019年09月25日 17時23分15秒 | 野球

 阪神の高橋聡文投手(36)が25日、西宮市内の球団事務所で引退会見を行い、福留孝介外野手(42)がサプライズ登場した。花束を持って現れると、笑顔で対面。中日、阪神と共にプレーした先輩から、温かいエールが送られた。

これぞ文字通りの“晴れ晴れ”した表情!高橋聡、涙なしの引退会見

 志願の登場だったという。24日の夜のことだった。福留自ら、「明日の引退会見は何時?花束を渡す人は決まっているの?」と提案。FAで阪神入りを決断する左腕の相談を何度も受けていた福留が、高橋聡プロ18年間の“最後”に花を添えた。

 だがそのサプライズに笑いを添えたのは、高橋聡の方だった。「朝球場に向かうときに、前を走る車が福留さんだった。休日返上の練習かな、と思っていました。驚きましたね」。会場での“初対面”のはずが…。それでも笑顔で並んだ福留と高橋聡。「楽しみながら(18年)、野球ができました」と表情は晴れやかだった。

 
 

 


「知恵の目」を開くかに尽きる

2019年09月25日 16時57分37秒 | 沼田利根の言いたい放題

<知識>のみでは足りない。
<知恵>と両方あって、初めて人生の勝利もある。
知恵がなければ、善人か悪人かも見ぬけない。
結局、自分がどう「知恵の目」を開くかに尽きるのである。
世界観、社会観、人生観を磨くことだ。
現実社会の中で<良き人>と結びつきながら、<良き事業> <良き仕事>を選びながら、賢明に戦っていくのだ。
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人間、詐欺被害に遇うような<愚かな人間>であってはならない。
厳しいことを言うが、愚かな人間は、結果として、悪に加担したことになるのだ!
騙されないためには、<賢明>になることだ!


文明的なつながりが重要だ

2019年09月25日 11時41分36秒 | 社会・文化・政治・経済

▽自分自身が環境をつくるのだ―ナポレオン 逆境の時こそ勝機(チャンス)だ。
▽一生空しく過ごして、 非常に長い年月を悔いることがないようにしたいものだ。
▽音楽で世界中の人々の心を結び、平和を築く。
▽形のない音楽文化を守り広げるためには、人を育てていく以外にない。
▽すぐに結果が出なくても、決して焦らないことだ。
努力の根を張れば、一切の行動が糧となり必ず花が咲く。
▽文明的なつながりが重要だ。人々の交流や文化活動などの草の根の取り組みは、互いの理解を深め、文明的なつながりを強くする。
▽慈悲・非暴力といった価値は世界が分断する現代において、ますます必要とされる。


ヒロシマの『河』 〔劇作家・土屋清の青春群像劇〕

2019年09月25日 11時28分52秒 | 社会・文化・政治・経済
 
 土屋 時子 (編集), 八木 良広 (編集)

原爆は絶対悪!

内容紹介

リアリズム演劇の隠れた名作は、今、私たちに何を問いかけるのか
米占領下の広島を舞台に、芸術と政治との相克に苦しみながら、理想社会の実現へと疾走する、「原爆詩人」峠三吉(1917~53)らを描いた戯曲『河』は、改稿を重ねながら、60~70年代に全国各都市で上演された。初演後55年を経て復活上演され、新しい世代の出演者・観客にも大きな感銘を残した本作は、再び「核」の危機が迫る今、我々に何を訴えるのか?
土屋清とは、戯曲『河』とは、そして復活公演の意味とは何か、その全体像に迫る論集、遂に刊行! 
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土屋時子 まえがき

第I部 土屋清とはどのような人物か
土屋時子 土屋清――昭和の闇と光を生きた劇作家
土屋 清 『河』と私(1972年)/峠三吉のこと、『河』への思い(1974年)/尊大なリアリズムから土深いリアリズムへ(1984年)
〈資料1〉土屋清年譜

第II部 『河』とはなにか
八木良広 『河』とはなにか、その軌跡
池田正彦 歴史の進路へ凜と響け――土屋清の青春
〈資料2〉『河』上演記録
池辺晋一郎 土屋さんの怒鳴り声(1978年)
広渡常敏 土屋清の頑固なナィーブ(1988年)/土屋清の闇の深さについて(1988年)
林田時夫 “風のように、炎のように"生きた原爆詩人・峠三吉の姿を通して……(2015年)

第III部 土屋清の語り部たち――『河』を再生・生成すること
水島裕雅 土屋清の時代と『河』の変遷、そして今
笹岡敏紀 今、私の中に蘇る『河』――労働者として生きた時代と重ねて
三輪泰史 『河』京都公演に思う――半世紀の時をこえて
永田浩三 『河』、そのこころはどう引き継がれたのか――占領期のヒロシマを振り返って
四國 光 『河』と詩画人・四國五郎
大牟田聡 『河』、もうひとつの流れ――峠三吉とともに歩んだ人びと
趙 博 今日も流れる「川」と『河』――被爆のサブカル化に抗して
中山涼子 林幸子の「ヒロシマの空」にこめられたもの

第IV部 『河』上演台本(2017年)

池田正彦 あとがき

出版社からのコメント

【土屋清とは】
土屋 清(つちや・きよし) 1930~87。劇作家・演出家。
1930年10月1日広島生まれ。10歳で九州に転居し、14歳、中学3年生で海軍予科練習生になる。戦後、新制の大分県立別府第一高校を卒業後、共産党に入党、労組活動に従事。朝鮮戦争のころには反戦運動に関わり、逮捕状が出され、炭坑夫、豆腐屋、漁師などを転々としながら、約3年間の地下活動に入る。
1954年広島に戻り、演劇熱が活発ななか、1955年、地域劇団「広島民衆劇場」の研究生となる。

1959年「劇団月曜会」を結成、代表となる。詩人の峠三吉を敬愛し、没10年の1963年、第9回原水爆禁止世界大会を機に、峠三吉をモデルに広島の平和運動の闘いと苦悩を描く創作劇『河』を上演する。

代表作となった『河』は改稿を重ね、東京演劇アンサンブル、劇団民藝が上演した他、全国23都市で20劇団が上演し、1973年には、小野宮吉戯曲平和賞を受賞した。他に、『星をみつめて』『万灯のうた』『拳よ火を噴け』など。創作のかたわら、地域の文化運動、演劇運動に情熱を燃やした。
1987年11月8日、がんのため死去。没後の1988年、三滝寺(広島市西区三滝山)境内に詩碑が建立された。

内容(「BOOK」データベースより)

米占領下の広島を舞台に、芸術と政治との相克に苦しみながら、理想社会の実現へと疾走する、「原爆詩人」峠三吉(1917~53)らを描いた戯曲『河』は、改稿を重ねながら、60~70年代に全国各都市で上演された。初演後55年を経て復活上演され、新しい世代の出演者・観客にも大きな感銘を残した本作は、再び「核」の危機が迫る今、我々に何を訴えるのか?

著者について

【編者紹介】
●土屋時子(つちや・ときこ)
1948年生。1971年4月~2009年3月、広島女学院大学図書館司書として勤務しながら、劇団活動。『河』(1983、88年)、中国残留孤児のひとり芝居『花いちもんめ』(1996~2009年)、創作劇『ばらっく』(2000、2011年)など多数の舞台に出演。2008年、同館に「栗原貞子記念平和文庫」を開設。2013年より広島文学資料保全の会・代表として、現在に至る。

八木良広(やぎ・よしひろ)
1979年生。愛媛大学教育学部助教。社会学・オーラルヒストリー研究。主な著作に、「原爆問題について自由に思考をめぐらすことの困難」(『排除と差別の社会学(新版)』有斐閣、2016年)、「ライフストーリー研究としての語り継ぐこと――「被爆体験の継承」をめぐって」(『ライフストーリー研究に何ができるか――対話的構築主義の批判的継承』新曜社、2015年)など。



 
 
 
 
 

世界コスプレサミット

2019年09月25日 10時48分26秒 | 社会・文化・政治・経済

世界コスプレサミット(World Cosplay Summit、WCS)とは世界コスプレサミット実行委員会が開催しているコスプレの世界最大のイベントである。日本と世界各国のコスプレイヤーとの交流、および日本漫画人気認識することを目的とする。開催を重ねるごとに参加国が増え、世界各国からの取材がある。

約30万人動員する世界最大級のコスプレイイベントである。

2003年にテレビ愛知が初開催、2006年から日本の外務省が後援し、2009年度からは主催者である実行委員会の構成員となった。2006年からは外務大臣賞が授与されている。

2007年国土交通省が所管するビジット・ジャパン・キャンペーンの一環として認められた。2009年には外務省名古屋市名古屋観光コンベンションビューロー、テレビ愛知、中部国際空港大須商店街で構成される世界コスプレサミット実行委員会を設立した。2012年より実行委員会に株式会社WCSが加わり、2013年からは株式会社WCSが主体となりイベント運営を行っている。

現実行委員長は2003年にこのイベントを立ち上げた小栗徳丸さんである。

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世界コスプレサミットとは世界コスプレサミット実行委員会が開催しているコスプレの世界最大のイベントである。

日本と世界各国のコスプレイヤーとの交流、および日本漫画の人気を認識することを目的とする。

会場名 オアシス21や大須商店街など名古屋市中区中心に各所で開催
イベント内容

世界42か国・地域のコスプレイヤーが名古屋に集結。各種イベントのゲスト出演やパレード・撮影会などを開催。

 
世界コスプレサミット2018 画像

Ⓒ2018WCS

 
世界コスプレサミット2018 画像

ナショジオTV 独裁者のルール

2019年09月25日 10時05分36秒 | 社会・文化・政治・経済

ナショナル ジオグラフィックで観た(午前3時~放映)

番組内容
数多くの独裁者が形作った世界。

それは、なぜ実現可能だったのか。権力をつかみ、そして握り続けるために、彼らはどのような方法を使ったのか。対抗する勢力をどのように抑えたのか。そして彼らの政権に転落と終わりをもたらしたものは何か。
20世紀の独裁者6人の策略を検証し、これらの重大な問いに答える。

「 永遠の指導者 金日成 」
北朝鮮を世界有数の統制社会に変貌させた金日成(キム・イルソン)の策略を検証する。1950年頃に権力を握って以来、金日成の政権は民衆の生活のあらゆる面だけでなく、人々の現実の受け止め方まで、型にはめようとしてきた。現在では、金日成の孫である金正恩(キム・ジョンウン)が、家族の伝統にならい絶対的な権力を振るっている。金ファミリーは神であり、北朝鮮は地上の楽園だと民衆に信じさせているのだ。

「 冷酷な指導者 サッダーム・フセイン 」
暴力、脅迫、拷問などの残虐な手段を利用してイラクを約四半世紀支配した指導者サッダーム・フセイン。なぜ彼はこれほど長い間、支配者の座につくことができたのか。若い頃から独裁的指導者としての本能を培ってきた彼の行動は、徐々に過激さを増していく。イラン・イラク戦争、クルド人への攻撃、湾岸戦争、イラク戦争。様々な戦いを生みだしてきた彼が、どのようにして人々を支配してきたのか。その策略を検証する。

「 独裁の先駆者 ベニート・ムッソリーニ 」
極右勢力が台頭する現代は、ムッソリーニの時代に重なる。ファシズムの生みの親ムッソリーニは、忘れられがちだったが、今また存在感を増している。ファシズムはどのように生まれ、巨大に育ったのか。祖国イタリアを思う社会主義ジャーナリストだったムッソリーニは、どのような策略をめぐらせて権力の座に就いたのか。独裁政権の先駆けであり、ヒトラーに尊敬されていたというムッソリーニの、失脚や壮絶な最期も検証する。

「 スペイン内戦の覇者 フランコ将軍 」
ヨーロッパ史上最長となる35年間の独裁政権を維持したフランシスコ・フランコ。いじめられっ子の小柄な少年であったフランコは、没落したスペイン帝国の復活を夢見て陸軍将校となり、いつしかカリスマを身につけ、スペイン内戦を勝ち残り独裁者への階段を上り詰めてゆく。社会主義と伝統主義に二分されたスペインを戦乱の渦に巻き込みながら、フランコはどのように人民を支配し、長期政権を実現させたのか。その戦術を紹介する。

人道に対する罪

2008年10月16日、当時の予審判事バルタサール・ガルソンによって、独裁政権時の他の幹部とともにフランコは「人道に対する罪、理由なき違法拘禁の恒久的犯罪」の咎で起訴された。

この予審決定(予審判決)書で判事は「市民戦争から戦後にかけて、政治的、イデオロギー的、宗教的、またはその他の所属に関係なく、激しい暴力行為、虐殺、重大な権利侵害を被った全ての被害者に最大限の敬意を払う」とした上で、裁判の任務は「内戦の司法審査を行うこと」ではないと述べた。 決定事項書は以下のように続いた。

1936年7月18日以降実際に行なわれた武装蜂起または反乱、それは完全に計画された決定であり、当時のスペイン政府を終結させ、国家組織に責任を負う被害者の逮捕、拘留、拷問、強制的な失踪、政治的、イデオロギー的理由による何千人もの人々の身体的排除、また何千人もの人々の亡命と追放を促進するための手段として、あるいは少なくともその不可欠なステップとして、内戦終了後の数年に渡り、国内外、大規模または小規模に続いた状況をこの調査で具体化させようと試みる。

そしてそれぞれの事件で行為者と責任者を個別化し、すでに死亡した被告に対する刑事責任の可能性を解決する。 人道に対する犯罪のカテゴリーは、基本的かつ基礎的な原則から始まる。

これらの行動は、生命、完全性、尊厳、自由など市民社会が構成されている柱や法治国家そのもの、最も基本的な権利において人間に属するものを最も残忍な形で攻撃する。

独裁者フランコ

、戦後の東西冷戦の激化により、イギリスやアメリカをはじめとする西側諸国は反共主義という政治的共通点と、地中海の入り口という地政学的・戦略的に重要な位置にあり、さらにイギリス領ジブラルタルの地位を尊重しているという理由で、スペインとの関係の修復を模索し始めた。

フランコ政権は、彼が内戦中に組織したファランヘ党の一党独裁の政権であり、その成立時からドイツとイタリアの支援を受け、軍と国家憲兵隊による厳しい支配を行った。

そのため、大戦後に成立した国際連合は、1946年12月の国連総会で、ファシズムの影響下にあるスペインを国連から排除する決議を採択した。

 
アメリカアイゼンハワー大統領とともに(1959年)

1953年9月、アメリカはスペインと米西防衛協定英語版スペイン語版を締結した。この協定によるアメリカの軍事援助と、国際的孤立から抜け出したことによる観光収入の増大で、国際収支は黒字に転じ、遅れていた主要産業も発展し始めた。こうして、スペイン史上初めて中産階級と呼べる層が出現した。

フランコは、中産階級をバックに高まる自由主義運動を厳しく抑圧する一方、メキシコスイスなどからの亡命者の帰国を認めるなど(1958年)、アメとムチを使い分けた政策をとった。

また、1959年12月には、アメリカのドワイト・D・アイゼンハワー大統領と会見する。戦中は「中立国の指導者」という立場ながら、枢軸国が劣勢になる1944年ころまでは一貫して親ドイツの立場を保っていたフランコと、そのドイツを敵に連合軍の最高司令官として戦っていたアイゼンハワーの会見は、序盤こそぎこちなかったものの、お互い軍人出身という出自や、上記のようなアメリカ側の事情もあり、最終的には2人とも打ち解け、別れの際には抱擁をかわした程だった。これにより、両国の関係は飛躍的に改善される。

その後、独裁を続けるフランコを支援することに対する国内世論からの批判を受けたアメリカなどの意向に配慮して、任命制の議員の一部を選挙制に切り替えるなど(1966年)、冷戦の影響をうけて左右に揺れ動く国内の社会不安の緩和に努めた。しかし、カタルーニャやバスク地方における独立意識を削ぐために、公の場(家の中以外のすべての場所)でのカタルーニャ語バスク語の使用を禁止するなど、一部では強硬な姿勢を取っており、この様なフランコの姿勢に対してバスク祖国と自由(ETA)によるテロなどが活発化した。

後継者指名と王政の復活

フランコは政権のあり方について、最終的には王制に移行するべきだと考えていた。これは、フランコ政権が「個人的独裁制」なので、フランコ没後、政権の枠組みをそのままの形で継承することはあり得ないからである。議会制民主主義はこの当時のスペインでは失敗を続けてきたので採用はできず、王制が最良だとしたのである[18]。ただし、新たな王家を迎えるのかボルボーン王朝による王政復古とするのかはフランコも決めかねていた。かつてスペインを治めていたアブスブルゴ家などへの接触もあったといわれる。

1947年に、フランコは「王位継承法」を制定し、スペインを「王国」とすること、フランコが国家元首として王国の「終身摂政」となること、後継の国王の指名権が付与されることなどを定めた。王位継承法は7月16日の国民投票で成立し、彼は終身元首の地位を得た。

70歳を越え健康状態が悪化すると、フランコの後継者問題が表面化した。フランコの支持基盤であった陸軍内部には王の帰還を求める声も強く、前国王アルフォンソ13世の息子で、イタリアへ亡命しているフアン・デ・ボルボン・イ・バッテンベルグ(バルセロナ伯爵)を呼び戻し次期国王とするのが自然であったが、フランコは「考え方が容共的すぎる」としてこれを避けた。さらに一部にはフランコの娘マリアに自らの地位を継がせ、腹心のルイス・カレーロ・ブランコをその下につけるという意見もあったが[要出典]、王制移行を希望する彼により否定された上、1973年にカレーロ・ブランコがETAによるテロで乗っていた自動車ごと爆殺された英語版ため、この計画は頓挫した。

最終的にフランコは、1969年にアルフォンソ13世の孫であるフアン・カルロスを自らの後継者に指名し、将来の国王としての教育を受けさせる一方、その後自らは公の場に出ることを差し控えるようになった。1975年、長い闘病生活の末にに83歳で没した。


「 諜報の策士 マヌエル・ノリエガ 」
1980年代にパナマ軍のトップに立ち、事実上の独裁者となったマヌエル・ノリエガ将軍。同じく軍人としてパナマを実質的に支配したトリホスのもと、軍諜報部の責任者として活躍し、権力の座に近づいたノリエガには、政敵の暗殺や麻薬の密売など、黒い噂が絶えなかった。パナマ運河をめぐるアメリカとの確執や中南米に広がりつつあった革命運動との関係など、スラム街出身の少年が国家の最高権力者に上り詰めた背景を幅広く検証する。

残虐な独裁者 イディ・アミン 
番組内容
数多くの独裁者が形作った世界。それは、なぜ実現可能だったのか。権力をつかみ、そして握り続けるために、彼らはどのような方法を使ったのか。対抗する勢力をどのように抑えたのか。そして彼らの政権に転落と終わりをもたらしたものは何か。
20世紀の独裁者6人の策略を検証し、これらの重大な問いに答える。