ナショナル ジオグラフィックで観た(午前3時~放映)
番組内容
数多くの独裁者が形作った世界。
それは、なぜ実現可能だったのか。権力をつかみ、そして握り続けるために、彼らはどのような方法を使ったのか。対抗する勢力をどのように抑えたのか。そして彼らの政権に転落と終わりをもたらしたものは何か。
20世紀の独裁者6人の策略を検証し、これらの重大な問いに答える。
「 永遠の指導者 金日成 」
北朝鮮を世界有数の統制社会に変貌させた金日成(キム・イルソン)の策略を検証する。1950年頃に権力を握って以来、金日成の政権は民衆の生活のあらゆる面だけでなく、人々の現実の受け止め方まで、型にはめようとしてきた。現在では、金日成の孫である金正恩(キム・ジョンウン)が、家族の伝統にならい絶対的な権力を振るっている。金ファミリーは神であり、北朝鮮は地上の楽園だと民衆に信じさせているのだ。
「 冷酷な指導者 サッダーム・フセイン 」
暴力、脅迫、拷問などの残虐な手段を利用してイラクを約四半世紀支配した指導者サッダーム・フセイン。なぜ彼はこれほど長い間、支配者の座につくことができたのか。若い頃から独裁的指導者としての本能を培ってきた彼の行動は、徐々に過激さを増していく。イラン・イラク戦争、クルド人への攻撃、湾岸戦争、イラク戦争。様々な戦いを生みだしてきた彼が、どのようにして人々を支配してきたのか。その策略を検証する。
「 独裁の先駆者 ベニート・ムッソリーニ 」
極右勢力が台頭する現代は、ムッソリーニの時代に重なる。ファシズムの生みの親ムッソリーニは、忘れられがちだったが、今また存在感を増している。ファシズムはどのように生まれ、巨大に育ったのか。祖国イタリアを思う社会主義ジャーナリストだったムッソリーニは、どのような策略をめぐらせて権力の座に就いたのか。独裁政権の先駆けであり、ヒトラーに尊敬されていたというムッソリーニの、失脚や壮絶な最期も検証する。
「 スペイン内戦の覇者 フランコ将軍 」
ヨーロッパ史上最長となる35年間の独裁政権を維持したフランシスコ・フランコ。いじめられっ子の小柄な少年であったフランコは、没落したスペイン帝国の復活を夢見て陸軍将校となり、いつしかカリスマを身につけ、スペイン内戦を勝ち残り独裁者への階段を上り詰めてゆく。社会主義と伝統主義に二分されたスペインを戦乱の渦に巻き込みながら、フランコはどのように人民を支配し、長期政権を実現させたのか。その戦術を紹介する。
人道に対する罪
2008年10月16日、当時の予審判事バルタサール・ガルソンによって、独裁政権時の他の幹部とともにフランコは「人道に対する罪、理由なき違法拘禁の恒久的犯罪」の咎で起訴された。
この予審決定(予審判決)書で判事は「市民戦争から戦後にかけて、政治的、イデオロギー的、宗教的、またはその他の所属に関係なく、激しい暴力行為、虐殺、重大な権利侵害を被った全ての被害者に最大限の敬意を払う」とした上で、裁判の任務は「内戦の司法審査を行うこと」ではないと述べた。 決定事項書は以下のように続いた。
1936年7月18日以降実際に行なわれた武装蜂起または反乱、それは完全に計画された決定であり、当時のスペイン政府を終結させ、国家組織に責任を負う被害者の逮捕、拘留、拷問、強制的な失踪、政治的、イデオロギー的理由による何千人もの人々の身体的排除、また何千人もの人々の亡命と追放を促進するための手段として、あるいは少なくともその不可欠なステップとして、内戦終了後の数年に渡り、国内外、大規模または小規模に続いた状況をこの調査で具体化させようと試みる。
そしてそれぞれの事件で行為者と責任者を個別化し、すでに死亡した被告に対する刑事責任の可能性を解決する。 人道に対する犯罪のカテゴリーは、基本的かつ基礎的な原則から始まる。
これらの行動は、生命、完全性、尊厳、自由など市民社会が構成されている柱や法治国家そのもの、最も基本的な権利において人間に属するものを最も残忍な形で攻撃する。
独裁者フランコ
、戦後の東西冷戦の激化により、イギリスやアメリカをはじめとする西側諸国は反共主義という政治的共通点と、地中海の入り口という地政学的・戦略的に重要な位置にあり、さらにイギリス領ジブラルタルの地位を尊重しているという理由で、スペインとの関係の修復を模索し始めた。
フランコ政権は、彼が内戦中に組織したファランヘ党の一党独裁の政権であり、その成立時からドイツとイタリアの支援を受け、軍と国家憲兵隊による厳しい支配を行った。
そのため、大戦後に成立した国際連合は、1946年12月の国連総会で、ファシズムの影響下にあるスペインを国連から排除する決議を採択した。
1953年9月、アメリカはスペインと米西防衛協定(英語版、スペイン語版)を締結した。この協定によるアメリカの軍事援助と、国際的孤立から抜け出したことによる観光収入の増大で、国際収支は黒字に転じ、遅れていた主要産業も発展し始めた。こうして、スペイン史上初めて中産階級と呼べる層が出現した。
フランコは、中産階級をバックに高まる自由主義運動を厳しく抑圧する一方、メキシコやスイスなどからの亡命者の帰国を認めるなど(1958年)、アメとムチを使い分けた政策をとった。
また、1959年12月には、アメリカのドワイト・D・アイゼンハワー大統領と会見する。戦中は「中立国の指導者」という立場ながら、枢軸国が劣勢になる1944年ころまでは一貫して親ドイツの立場を保っていたフランコと、そのドイツを敵に連合軍の最高司令官として戦っていたアイゼンハワーの会見は、序盤こそぎこちなかったものの、お互い軍人出身という出自や、上記のようなアメリカ側の事情もあり、最終的には2人とも打ち解け、別れの際には抱擁をかわした程だった。これにより、両国の関係は飛躍的に改善される。
その後、独裁を続けるフランコを支援することに対する国内世論からの批判を受けたアメリカなどの意向に配慮して、任命制の議員の一部を選挙制に切り替えるなど(1966年)、冷戦の影響をうけて左右に揺れ動く国内の社会不安の緩和に努めた。しかし、カタルーニャやバスク地方における独立意識を削ぐために、公の場(家の中以外のすべての場所)でのカタルーニャ語やバスク語の使用を禁止するなど、一部では強硬な姿勢を取っており、この様なフランコの姿勢に対してバスク祖国と自由(ETA)によるテロなどが活発化した。
後継者指名と王政の復活
フランコは政権のあり方について、最終的には王制に移行するべきだと考えていた。これは、フランコ政権が「個人的独裁制」なので、フランコ没後、政権の枠組みをそのままの形で継承することはあり得ないからである。議会制民主主義はこの当時のスペインでは失敗を続けてきたので採用はできず、王制が最良だとしたのである[18]。ただし、新たな王家を迎えるのかボルボーン王朝による王政復古とするのかはフランコも決めかねていた。かつてスペインを治めていたアブスブルゴ家などへの接触もあったといわれる。
1947年に、フランコは「王位継承法」を制定し、スペインを「王国」とすること、フランコが国家元首として王国の「終身摂政」となること、後継の国王の指名権が付与されることなどを定めた。王位継承法は7月16日の国民投票で成立し、彼は終身元首の地位を得た。
70歳を越え健康状態が悪化すると、フランコの後継者問題が表面化した。フランコの支持基盤であった陸軍内部には王の帰還を求める声も強く、前国王アルフォンソ13世の息子で、イタリアへ亡命しているフアン・デ・ボルボン・イ・バッテンベルグ(バルセロナ伯爵)を呼び戻し次期国王とするのが自然であったが、フランコは「考え方が容共的すぎる」としてこれを避けた。さらに一部にはフランコの娘マリアに自らの地位を継がせ、腹心のルイス・カレーロ・ブランコをその下につけるという意見もあったが[要出典]、王制移行を希望する彼により否定された上、1973年にカレーロ・ブランコがETAによるテロで乗っていた自動車ごと爆殺された(英語版)ため、この計画は頓挫した。
最終的にフランコは、1969年にアルフォンソ13世の孫であるフアン・カルロスを自らの後継者に指名し、将来の国王としての教育を受けさせる一方、その後自らは公の場に出ることを差し控えるようになった。1975年、長い闘病生活の末にに83歳で没した。
「 諜報の策士 マヌエル・ノリエガ 」
1980年代にパナマ軍のトップに立ち、事実上の独裁者となったマヌエル・ノリエガ将軍。同じく軍人としてパナマを実質的に支配したトリホスのもと、軍諜報部の責任者として活躍し、権力の座に近づいたノリエガには、政敵の暗殺や麻薬の密売など、黒い噂が絶えなかった。パナマ運河をめぐるアメリカとの確執や中南米に広がりつつあった革命運動との関係など、スラム街出身の少年が国家の最高権力者に上り詰めた背景を幅広く検証する。
残虐な独裁者 イディ・アミン
番組内容
数多くの独裁者が形作った世界。それは、なぜ実現可能だったのか。権力をつかみ、そして握り続けるために、彼らはどのような方法を使ったのか。対抗する勢力をどのように抑えたのか。そして彼らの政権に転落と終わりをもたらしたものは何か。
20世紀の独裁者6人の策略を検証し、これらの重大な問いに答える。