教育の目的は、<より良き人間を育成する>ことでもある。
一人の「人間」の尊厳と無限の可能性に光を当てた、崇高なる教育の理念と、革新的ビジョンを掲げ、社会の反映にも貢献する。
創造性豊かな知性と人格のリーダーを育む教育機関。
民衆の心に優れた道徳や価値観を育み、豊かな人間教育の大地を耕す。
人間は生命尊厳の哲理に浴し、慈愛の励ましを受けることで、それぞれの個性を存分に発揮しながら、それぞれの花を咲かせ薫らせるていくことができる。
ここには誰一人として置き去りにされることのない、平等にして、多彩に生命を慈しみ育む人間教育の真髄が示されるのではないだろうか。
教育の究極の目的は、一人一人の成長と幸福であり、人間は人間によって、生命は生命によってしか磨かれない。
9/26(木) AbemaTIMES
ソ連兵の相手に差し出され、戦後”キズもの”と誹謗中傷を受けた…“戦争と性暴力”を勇気と覚悟をもって告白した日本人女性と、その負の史実を刻んだ遺族たち
佐藤ハルエさん
「黒川開拓団のようなことは二度と繰り返してはいけない。次の世代のみんなに伝えていきたい」。終戦直後の中国・満州でソ連兵の性の相手を強いられた女性たちがいた。その歴史に真正面から向き合い、封印されてきた史実を刻んだ人たちがいます、二度と戦争を繰り返さないために、後世に伝えるために。
【映像】史実を刻む~語り継ぐ”戦争と性暴力“~
ソ連兵の相手に差し出され、戦後”キズもの”と誹謗中傷を受けた…“戦争と性暴力”を勇気と覚悟をもって告白した日本人女性と、その負の史実を刻んだ遺族たち
満州国
■「既婚女性は差し出せない」数えで18歳以上の未婚の女性を…
1931年の満州事変後、中国東北部を占領し、満州国を建国した日本政府。「100万戸移住計画」を閣議決定、村に補助金を出すなどして積極的に推し進めた。結果、全国各地から800以上の開拓団、およそ27万人が入植した。しかし“開拓“とは名ばかりで、多くは中国人が開墾した土地を安い値段で立ち退かせていた。そして岐阜県・旧黒川村から渡った600人余りが暮らしたのが、満州国の首都・新京とハルビンの間にある陶頼昭だった。
しかし日本の敗戦間際、ソ連軍が満州に侵攻。敗走する関東軍に置き去りにされた開拓団は、ソ連兵や現地住民の略奪に遭った。
ソ連兵の相手に差し出され、戦後”キズもの”と誹謗中傷を受けた…“戦争と性暴力”を勇気と覚悟をもって告白した日本人女性と、その負の史実を刻んだ遺族たち
安江菊美さん
小学6年まで現地にいた安江菊美さん(85、当時7)の記憶に焼き付いているのは、当時の緊迫した状況だ。「終戦で国が無くなっちゃったから、守ってくれる人は一人もいませんよ。ましてや関東軍はみな逃げちゃってるから」。
戦況の悪化で、開拓団の働き手の男性は関東軍に根こそぎ召集され、残されたのは女性や子供、老人ばかり。敗戦によって、支配を受けた現地の人たちから襲撃を受け、隣の開拓団は集団自決に追い込まれていた。黒川開拓団でも、ある一家が刃向ったことで殺されたことを機に、一時は集団自決に傾いたという。「自決するなら黒川開拓団で一緒に死ぬからと言うことで、白鉢巻してその人たちが(避難場所に)引き揚げて来られた。そりゃもう異様だよ。今日死ぬか明日死ぬかという時の。その日から着の身着のままで寝た。私たちのお母さんも刀を持って、“小さい子から殺して自分も死ぬから、お前は大きいから自分で死になさい“と」(菊美さん)
黒川開拓団は極限状態の中、生き延びるために警護と食料の提供をソ連将校に依頼。そこで求められた見返りが、女性を差し出すことだった。開拓団の幹部は、兵役に出ている夫に配慮、既婚女性は差し出せないと判断。その代わりに、数えで18歳以上の未婚の女性を差し出すことにしたのだ。
■「喋るのは恥ずかしいとは全く思いません」声を上げ始めた女性たち
岐阜県・ひるがの高原で酪農を営む、佐藤ハルエさん(94)は、自身の体験について2年前から顔と名前を出して語ってきた。「団を守るためにどうか頼む、と。奥さんは頼めん、兵隊に行かれて一人でおって頼めんで、あんたら娘だけでどうか頼む、と。それは忘れません」「頑張って、どうかして日本に帰りたい、と犠牲にもなりました」「黒川が皆で揃って帰って来れた、その元になれたと思えば、どんな恥ずかしいことであっても、もうそれを公表しようと。もう犠牲者がいないでしょう、亡くなっちゃって。私ら、そういうことを喋るのが恥ずかしいとは全く思いません」。
ソ連兵の相手に差し出され、戦後”キズもの”と誹謗中傷を受けた…“戦争と性暴力”を勇気と覚悟をもって告白した日本人女性と、その負の史実を刻んだ遺族たち
安江善子さん
性暴力の被害を初めて公に明かしたのは、3年あまり前に亡くなった安江善子さん(当時89)だった。6年前、満州の体験談を話す講演会での、突然の告白だった。「本当に悲しかったけども、泣きながらそういう将校の相手をしなければいけない。辱めを受けながら、情けない思いをしながら、人生を無駄にしながら」。
遺族会会長の藤井宏之(67)さんは戦後生まれ。このとき初めて、犠牲の事実と女性たちの苦しみを知る。「自分たちが犠牲になって開拓団を救ったのに、タブーにして、誰一人として口にも出さない状況が続いたのが一番つらかったんじゃないかなと思った」。
田中幸子さん(仮名、91)も、ハルエさんの遺志を継ぎ、語ることを決意した。「(ソ連兵に)銃を背負ってやられるんだもの、怖いじゃない。暴発でもしたらと思って。心臓はバクバク。反抗したら殺される、強姦だと思った。暴力よ。殺されたくない。17歳で、これからの人生なのにね」。
ソ連兵の相手に差し出され、戦後”キズもの”と誹謗中傷を受けた…“戦争と性暴力”を勇気と覚悟をもって告白した日本人女性と、その負の史実を刻んだ遺族たち
田中幸子さん
■「地獄ってこういうものかと」軍隊のうがい薬で洗浄
「接待所」は、400人もの人々が避難していた旧国民学校の裏に設けられた。つまり「接待」は、親や兄弟のいるすぐそばで行われたことになる。
「当番を決めてあったんですね。今夜はこの人、明日はこの人、と回ってきて。皆さん病気になり、順に亡くなって行きましてね」(ハルエさん)。「知らなかった。“接待“って言ったら、お茶を出してお酒を出してと(思った)」「広い板の間にお布団だけ敷いてあって、鉄砲の持つ所で押されて、3、4人、並んだっけ。布団の間の仕切りはない。皆で下の方で手をつないで、頑張りな頑張りな、我慢しな我慢しなって。そうすると、お母さん、お母さんと泣くしね。用が済んだら、慌ててお尻を出して。病気がうつったり、子どもが出来たりしたら大変だから、医務室に逃げ込むの。洗浄してもらうの」。
女性たちを洗浄したのは、数えで17歳だったことで接待の犠牲にはならなかった、鈴村ひさ子さん(90、当時17)だ。「ホースを子宮まで突っ込んで、軍隊のうがい薬で洗浄するのよ。冷たい水で。零下30度、40度下がるとこだしね。私も本当に泣いて洗浄するしね、洗浄を受ける者も泣くしね。本当の地獄ってこういうものかと」。
「病気になった人はいる。凄かったよ。淋病をもらった人を一回見せてもらったけど、後ろが膿でがばがばになってる、一晩中、痛くて寝られないんだって。その人は死んじゃったけどね。あれだけ酷くなれば死んじゃうよ」(幸子さん)。2か月余り続いた接待で、性病や発疹チフスに感染した女性のうち、4人の現地で亡くなった。
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佐藤ハルエさんの長男、茂喜さん
■誹謗中傷を受けた戦後、告白を受け止めた家族
女性たちの犠牲によって、黒川開拓団の多くは日本に帰還することができた。ところが戦後、彼女たちを待ち受けていたのは労いどころか、口さがない身内からの「キズもの」「汚れた」といった誹謗中傷。事実は長い間、封印されて来た。
「ここで乳搾りやりましたけどね。大きな借金して」。故郷を離れざるを得なくなったハルエさんは、別の村の男性と結婚。ひるがのの地を一から開墾し、酪農を始めた。「辛いとも思いましたし、病気にもかかりましたが、それでも主人は分かってくれて。主人だって義勇隊で満州体験して、南方から帰って来て。本当にいい主人でした」。
そうして戦後を生き抜いてきた女性たちの告白は、家族にとっても重たい事実だった。
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安江善子さんの長男・泉さん
ハルエさんの長男、茂喜さん(65)は「いくら母親でも、そういう体験があったことは、子どもとしては嫌だった部分があったと思う。何万人もの人が亡くなったり、集団自決が起こったり。(当時の政治が)日本人を助けていたらまた違った社会になっていたと思う」と話す。接待の事実を初めて明かした善子さんの長男、泉さん(65)も「我々には一言も言わなかったことを表で発表した重要度を感じるんですよね。性暴力は発表するものじゃないと言う思いが、彼女たちを何十年も苦しめたんですよね」。
政治は、誰を守るためにあるのか…。尊厳を踏みにじられた女性たちは、戦後74年たった今も苦しみ続けている。「思い出すと本当に鮮明に、映画を見てるみたいに出てくる。何で私はこの世に生まれてくるのにこんなことがあったんだろうと思い出すと寝れない。泣いたり、胸がどっどっとしたり、今でも、今でもよ」(幸子さん)
■戦後生まれの遺族会会長「寄り添うことは、歴史として残すこと」
隠されてきた犠牲に向き合ったのが、亡き父・三郎さんが黒川開拓団員だった遺族会の現会長、藤井宏之さん(67)だ。これまでも地元の小学校や中学校で、開拓団の体験者の話を聞く授業を進めてきたが、そこでは伝えられてこなかった「性暴力」の史実について、女性たちのもとに何度も足を運び、当時の話を聞き取ってきた。
「本当にハルエさんたちのおかげで僕らは今生きてると思うし。まず話を聞いてあげたり、少しでも気持ちを和らげると言うか、寄り添うと言うか」。しかし、話を聞く中で、自分の父親が、女性たちを接待に差し出す“呼び出し係“を担わされたことを知った。「佐藤ハルエさんから“実はあんたのお父さんが呼び出し係役で、来ると怖かった“という話を聞いて、“うちの親父はそういう役だったのか“と思った」。
家族や遺族にも話を聞いた藤井さんは、彼女たちに寄り添うことは、歴史として残すことだと考え、去年4月、碑文として公に刻むことを遺族会に提案した。「あったことを無かったことのようにしてきたことが、どうしても理解できない。今言ってよいのか分からないけど、黒川開拓団はやってはいけないことをやったと」。
ソ連兵の相手に差し出され、戦後”キズもの”と誹謗中傷を受けた…“戦争と性暴力”を勇気と覚悟をもって告白した日本人女性と、その負の史実を刻んだ遺族たち
藤井拓男さん
遺族会での議論を振り返り、新田貞夫さん(83)は「反対もありましたね。私はよかったと思います」、両親が開拓団だった藤井拓男さん(69)も「自分たち2世と、先人の人たちとの思いも違うところがあって」と話す。
「(犠牲になった)15人の方の親族を回った。どなたも反対する人はいなかったし、喜んで頂いたというか励みになった。歴史の先生とか、そういう人たちにも表現などを見てもらって」(藤井さん)。そんな藤井さんについて、菊美さんは「宏之さんは責任を感じてるわけ。書き直しては“これでいいか、これでいいか“と。何枚紙を貰ったやら」と振り返る。
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「乙女の碑」
■孫の世代も連れて現地を訪問
そして、去年11月、性暴力の負の歴史がついに碑文として刻まれた。
「黒川開拓団幹部は、数えで18歳以上の未婚の女性たちを集め、ソ連軍将校に対する「接待役」を強いた。」「女性たちは逃げたかったが、団全体の生死が関わる事態に「嫌だ」とは言えず、交代で相手をさせられた。日本への引き上げ後も恐怖は脳裏に焼き付き、そのうえ中傷もされた。」
「色んな人たちが読んで、やはり戦争をしてはいけないな、 黒川開拓団のような思いをさせてはいけないな、という思いを持って欲しい。平和は当たり前に続かないので」と藤井さん。
泉さんも「戦争と言うのは異常な状態になってしまう。何が起きるか分からないわけでしょ。性接待に行けと言ったのは同じ団員の人なんだから。皆がおかしくなっちゃう。そういう状態に陥らいないように努力するのが大事なことだろうと思うんです」。
藤井さんはこの夏、遺族たちと一緒に、黒川開拓団の入植地「陶頼昭」を墓参に訪れた。藤井さんにとっては12回目の訪問だが、今回は開拓団の孫の世代も連れての訪問だ。
開拓団員だった藤井欽雄さん(82)が「ここや。ここですわ。本部の跡。この中に本部の奥に接待所があって」「女性の方々は馬車に揺られて陶頼昭まで行って、 泣きながら帰ってきたって言ってた。時には駅まで来いということで」。建物は取り壊され、雑草の中に別の廃墟が建っていた。
泉さんは「22歳の女の子がそんなことを決断しないといけないと。本当に壮絶だったと思いますよ」。藤井さんも「自分の生きてる限りは風化させないように、 今回も自分の子供を連れて来たり、次の世代にも自分たちのやれることを。義務に近いような、そんな思いがある。戦後生まれの者だからやれることかもしれない」。
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岐阜大の学生は…
■「伝えていくのが生きとる者の使命じゃないですか」
この夏、岐阜大学の大学生12人が歴史を学びに碑文を訪れた。
「娘さん15人位がソ連兵の性接待に出られて、その見返りに食糧と塩を頂いて生きることができました」と説明する菊美さん。学生たちからは「埋もれさせてはいけないと思いますし、残っていくことはすごく価値があることじゃないかと」(4年男子)、「事実はどんどん表に出して行って欲しいと思います。そうじゃないと、多分都合のいい所だけ残って、(事実は)薄れて消え去ってしまうと思うので」(3年女子)。
ソ連兵の相手に差し出され、戦後”キズもの”と誹謗中傷を受けた…“戦争と性暴力”を勇気と覚悟をもって告白した日本人女性と、その負の史実を刻んだ遺族たち
佐藤ハルエさん
勇気と覚悟をもって告白した女性たちと、それを受け止めた黒川開拓団の遺族たち。その思いは確実に次の世代に伝わっている。
「碑文を書いて貰った方がいいんです。そういう歴史があったことを伝えて行かなきゃならんでしょう。そういう事を伝えていくのが生きとる者の使命じゃないですか。本当にはっきりした碑文になって、死んでも後悔はありません」。ハルエさんはそう訴えていた。(AbemaTV/『テレメンタリー 史実を刻む~語り継ぐ”戦争と性暴力“~』より)
▽勇者とは怖れを知らない人ではなく、克服する人である-ネルソン・マンデラの言葉
まず何よりも、自分に正直でありなさい。自分自身を変えなければ、社会に影響を与えることなど決してできません。偉大なピースメーカーはいずれも、誠実さと正直さ、そして謙遜さを兼ねた人たちです。
成功するために大切なのは、どこから始めるのかではなく、どれだけ高く目標を定めるかである。
生きるうえで最も偉大な栄光は、決して転ばないことにあるのではない。転ぶたびに起き上がり続けることにある。
教育とは、世界を変えるために用いることができる、最も強力な武器である。
真の和解はただ単に過去を忘れ去ることではない。
楽観的であるということは、顔を常に太陽へ向け、足を常に前へ踏み出すことである。
生まれたときから、肌の色や育ち、宗教で他人を憎む人などいない。人は憎むことを学ぶのだ。もし憎しみを学べるのなら、愛を教えることもできる。愛は、憎しみに比べ、より自然に人間の心にとどく。
Nelson Mandela
ネルソン・マンデラ(1918年~2013年)
南アフリカ共和国の政治家、弁護士。ノーベル平和賞受賞者
1918年7月18日、現在の東ケープ州東部に位置するトランスカイの村の首長の子として生まれる。
大学在学中の1944年、アフリカ民族会議(ANC)に入党。ANCの青年同盟を創設して反アパルトヘイト運動に取り組む。
1952年に弁護士事務所を開業。
1961年、民族の槍という軍事組織を作り司令官に就任。それらの活動により1962年に逮捕。国家反逆罪終身刑となり、ロベン島に収監される。
1989年、当時の大統領フレデリック・デクラークと会談し、翌年に釈放される。
1991年、ANC議長に就任。デクラークと協力して全人種代表が参加する民主南アフリカ会議や多党交渉フォーラムを開催。
1993年、ネルソン・マンデラはデクラークとともにノーベル平和賞を受賞。
1994年に南アフリカ初の全人種参加選挙が実施され、ANCが勝利。ネルソンは大統領に就任し、民族和解・協調を呼びかけ、アパルトヘイト体制下での白人・黒人との対立や格差の是正、黒人間の対立の解消、経済不況からの回復として復興開発計画などを実施した。
1999年に政治の世界から引退。その後、ユネスコ親善大使に就任。
2013年12月5日、ネルソン・マンデラはヨハネスバーグの自宅で95年の生涯を閉じた。
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◆トピックス1 (P.4) 『勤務先はブラック企業だと思う!』は4人に1人、20代では3人に1人
◆トピックス2 (P.5) 勤務先がブラック企業だと思う理由 1位「長時間労働が当たり前」、2位「仕事に見合わない低賃金」、 3位「有給休暇が取得できない」 勤務先がブラック企業だと思う正規労働者の4割が 「サービス残業が当たり前」をその理由とする!
◆トピックス3 (P.6) 勤務先がブラック企業だと感じるが、誰にも「相談したことはない」4割半
◆トピックス4 (P.7) 国のブラック企業対策に対する評価は? 「しっかり取り組んでいると思う」はわずか2%! 勤務先がブラック企業だと思う人の6割半が国のブラック企業対策を全く評価せず!
◆トピックス5 (P.8) ブラック企業対策として国に進めて欲しい制度や取り組み 1位「ブラック企業の社名公表」、2位「労基法違反の取締を強化」、 3位「相談窓口設置」
◆トピックス6 (P.11,12) “ホワイトカラー・エグゼンプション導入”が議論されていること 認知率 43% ホワイトカラー・エグゼンプション導入の賛否 『反対』が7割
ブラック企業に関する調査 - 連合
(Adobe PDF) - htmlで見るブラック企業に関する調査」を、モバイルリサーチ(携帯電話によるインターネットリサーチ)により、2014年11月1. 日~11月6 ..... い」47.0%の合計)となり、被雇用者の4人に1 人が、自身の勤務先をブラック企業だと思っている実態が明らかにな.
未指定:報告
ブラック企業の実態と対策 目次 - 國學院大學
(Adobe PDF) - htmlで見る織田 肇「ブラック企業の実態と対策」. (2017 年 1 月 .... 最近個別の事例として扱われていた若年層の鬱病・過労死・過労自殺は、ブラック企業によ .... 本章では、既存の調査報告、労働相談統計、学生アルバイトについての既存の調査報告、.
第1章 ブラック企業の概説 『ブラック企業』という言葉はリーマンショック以降、急激に口にされるようになった。 最近個別の事例として扱われていた若年層の鬱病・過労死・過労自殺は、ブラック企業によ る組織的な「若者の使い潰し」という新たな社会問題であることが明らかになっている。
ブ ラック企業に入社する者の中では、激しい選別に伴う集団的なハラスメントや、残業代未払 いの長時間労働に苦しめられ、鬱病や離職に追い込まれる人も少なくない。
第1章第1節 ブラック企業の歴史 ブラック企業の違法行為は、個人の被害にとどまるだけでなく、日本社会と経済全体に悪 影響を及ぼす。若者の将来が奪われることで生産性が低下し、合法な他社の利益が不正な競 争で圧迫される事によって、日本経済はますます苦しくなるだろう。長時間過酷労働や鬱病 織田 肇「ブラック企業の実態と対策」 (2017 年 1 月 10 日提出 ゼミ卒業論文) 2 の罹患により、少子化も更に進展してしまう恐れがある。
ブラック企業の蔓延は、日本社会 全体の縮小へとつながっていく。 ブラック企業という言葉は最近流行した言葉であるが、以前よりブラック企業の定義に 近しい企業は多く存在していた。
バブル崩壊後からこのような体制の企業が急増してきた。1991 年からバブル崩壊が始ま り、企業の収益が激減してきた。そこから 20 年間コストの削減が企業側の重要課題となり 残業時間、休日出勤など違法な労働が増え、働きすぎによる過労死が増加し「karousi」が 国際的な共通語となる程社会的大問題となった。 バブル崩壊後のブラック企業の定義は今とは異なり、徹夜が何日も続き、必要経費自腹で あることや、情緒不安定に陥っている社員が少なくない。など、主として労基法を守らず劣 悪な労働環境で働かせる企業だけを指していた。2011 年頃には「ブラック企業=悪」とい う認識がほぼ定着し、その定義にも変化が見えてくる。大量採用、大量離職。設立されてか ら比較的日が浅いのに、急成長している。利益優先で、若者を使い潰している。セクハラ、 パワハラが横行している。労務管理が機能しておらず、社員の労働時間を把握していないこ とがブラック企業の定義といえる。
結論として、ブラック業の定義は未だ確定しておらず、 毎年のように変化するということである。
第1章第2節 ブラック企業の定義 厚生労働省(更新年不明)は、「ブラック企業」について定義していなく、一般的な特徴と して、① 労働者に対し極端な長時間労働やノルマを課す、② 賃金不払残業やパワーハラ スメントが横行するなど企業全体のコンプライアンス意識が低い、③ このような状況下 で労働者に対し過度の選別を行う、などと紹介した。 今野(2012:180)はブラック企業に定義はないとし、定義を与えることを避けてきた。
日本 ではサービス残業に象徴される違法行為が後を絶たず、違法行為でブラック企業を定義す ると昔から日本企業はブラック企業となってしまい、本質的側面を見落としてしまう。ブラ ック企業の使い捨てを可能にする社会構造と、これによって引き起こされる労使関係の変 化が定義の核心である。
今野(2012:181-3)は、従来から日本の企業の「命令の権利」は諸外国から見て際立って強 いものであり、日本型雇用においては、終身雇用、年功賃金を引き換えに、柔軟に命令を引 き受けるという体質が身についたという。
また、指揮命令は、一方的に課せられてきたので はなく、労働者が長期雇用と引き換えに、積極的に引き受けてきた側面もあり、日本の雇用 契約の場合には、仕事の内容や命令のあり方にほとんど制約がかけられず、たいていのこと が「人事権」として認められているところに特徴がある。
そして、命令の契約内容に制限が ない状態は、世界的に見てもかなり特殊であり、働く者には相当の負担がかかるシステムだ と言ってよい、と指摘した。 今野(2012:184-6)によれば、ブラック企業では、正社員への命令は強く、長期雇用や手 織田 肇「ブラック企業の実態と対策」 (2017 年 1 月 10 日提出 ゼミ卒業論文) 3 厚い企業福祉は削減されてしまっている。
ブラック企業は過剰な命令をする一方で、決し て新卒を「メンバー」として受け入れることはなく、「選別」や「使い捨て」のために、 与えられた命令の権限を悪用するのである。今日私たちが「ブラック」だと感じる理由 は、ブラック企業は将来設計がたたない賃金で私生活が崩壊するような労働時間で、なお かつ若者を「使い捨て」るからである。
ブラック企業は社員を「いつでも辞めさせられ る」状態に置き、過酷な選別競争を強いる。そして、「使えない」と決めつけた社員を 「自己都合退職」に追い込むために、パワハラなどの違法行為を戦略的に行う。
従業員は 大量採用、大量離職の為毎年従業員が増加しない。その際に、ブラック企業に荷担する弁 護士や社会保険労務士であるブラック士業はこの「自己都合退職」を選択させるために、 労働者をうつ病に追い込むようなパワハラ行為を積極的に推奨するのである(今野)。
公明新聞:2018年2月16日(金)付
“虚偽求人”に罰則新設
改正法が施行 民間サイト 情報適正に
ハローワークで取り扱った求人票について「記載内容と実際の労働条件が違う」といった求人詐欺などを行うブラック企業。その悪質な行為による被害を防ぐため、ハローワークに虚偽の求人情報を出した企業を罰則の対象とすることなどを柱とする改正職業安定法が先月、施行された。改正法は、公明党の推進で昨年3月に成立した。
虚偽の求人情報を出した企業などへの罰則は、6カ月以下の懲役または30万円以下の罰金となる。行政への是正勧告に従わない場合は企業名の公表なども行う。
ハローワークの求人に関する主な相談と件数
●求人票の内容が実際と異なる 3608件(39%)
●求人者の説明不足 2335件(25%)
●言い分が異なるなどにより要因を特定できないもの 915件(10%)
●求職者の誤解 576件(6%)
●ハローワークの説明不足 116件(1%)
※2016年度の数値
改正法では、求人時に示された労働条件を信じて働き始めたのに、実際の待遇が劣悪だったというような事態を防ぐ規定も設けられる。求人時の「当初の明示」から労働条件に変更などがある場合は、労働契約の締結前に求人側が求職者に書面で変更などの内容を明示するよう義務付けた。
民間の求人情報誌・サイトが提供する求人情報の適正化などに向けた措置も設けた。企業からの求人情報が実際の労働条件と相違する恐れがある場合の対応や個人情報の適正管理など、職業紹介事業者が取り組むべき「必要な措置」を指針として国が示し、実行するよう求める努力義務を事業者に課した。
さらに事業者に対しては、就職者数や就職から6カ月以内に早期離職した人の数、手数料などの公開を義務付ける内容になっている。
公明党はブラック企業の対策強化にいち早く乗り出し、党の青年委員会や学生局などで全国の若者らの声を聞き、政府へ雇用環境の改善を繰り返し要望。求人情報の適正化や求人詐欺防止に向けた法整備についても、国会質問で取り上げるなど、対策拡充を訴えてきた。
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第98回の本部敢闘会の会合へ、中川さんの車で行く。
台風の暴風雨でブロック塀が粉々に倒壊して、業者がトラックで修繕に来ていたので、中村さんの車はミスターマックスの駐車場に停めてあった。
台宿地区が当番なので、折りたたみ椅子を倉庫から運び中村さんと並べる。
直すに佐々田さんと相田さんが来て、椅子を並べるのを手伝ってくれた。
台宿支部の責任者の寺川さんは当番であるこを忘れていた。
取手圏の敢闘会でも当番であることを忘れていて、「来るのが遅いよ」と米田さんに指摘された。
その時は寺川さんは駐車場の担当だった。
当番地区なので、当方が司会を務めた。
椅子は18並べたが、参加したのは10名だった。
前会長の小森さんは30人を目指していたが、参加者が減少するばかりだ。
前回2人が入院していたので、敢闘会の会合の後、とりで医療総合センターまで見舞に行った。
歌の合唱のあと、啓発ビデオを観る。
月刊誌の巻頭言を読む。伊藤さん前半を読んだが、後半は谷口さんが欠席したので、代理で二階さんが読む。
この後、みなさんに発言していただく。
米田さんは、地元の井野公民館でパソコン教室と太極拳を教えていることを語る。
また、米田さんが地元防災の責任者として、防災マップを示しながら、過去の水害を語る。
スーパーのカスミが浸水の被害を受けたことが思い出された。
その日、当方も様子を見に行き、写真に収めている。
ついで、河原さんが日中友好協会の取手支部を結成した経緯を語る。
佐々田さんは、学生時代に東京中野で活動してきたことや、娘さんの活動をサポートしていることなどを語る。
二人を除き、皆さんに発言していただいた。
一人はお前がわからず指名できなかった。
また、敢闘会に入会して浅い中川さんに配慮して指名しなかった。
「話すことが、何もないんで指名されたらどうしょうか、と思ったんだ」と帰りに中川さんが言う。
最後に春川会長が100回の敢闘会に向けて抱負を語る。
最低でも30人を結集したいと述べていた。
また、「100回記念文集を出すの、みなさんに原稿を書いてほしい」と要請した。
その文集は65歳以上の本部の人に配布する予定である。
今は働いている人が大半であるが、職を離れることにより将来の敢闘会メンバーになる人たちなのである。
2008年以後の動向
アメリカ合衆国による一極支配が、リーマン・ショック(9月15日)と第1回G20首脳会談(11月14日)が起こった2008年に終わり、2008年から現在までの世界が多極体制へと変わっていることが、特に2010年代に入ってから指摘されている。
言い換えると、現代の始まりを2008年とする見解である。
これらの根拠としては、2013年に行われる予定であったシリアへの軍事介入の中止、アメリカ政府の財政悪化、親密な関係にある欧州の経済危機などが挙げられている。
一方、シェールガス革命や民主主義に代わる価値観の不在などを理由に、アメリカはこれからも世界をリードする超大国であり続けるという意見もある。
ただ、シェールガス革命はアメリカの救世主とはなりえないという意見もある。
子ブッシュ政権下で活発だったネオコンの衰退は事実であり、2009年に発足したバラク・オバマ政権下のアメリカ政府の外交政策も、子ブッシュ政権から大きく変化していることは確かである。
アメリカの2015年会計年度国防予算は、緊縮財政と国内の厭戦気運を反映し、大幅に予算が削減され、部隊も削減されることとなった。
また、2016年アメリカ合衆国大統領選挙でも、ネオコンや新自由主義に否定的なバーニー・サンダースやドナルド・トランプが躍進を見せ、結果として排外的で保護主義を主張するドナルド・トランプが当選した。
日本では、産経新聞など親米保守メディアを中心にオバマ政権をかねてから「内向き」などと批判しているが、今までのアメリカのやりたい放題がようやく終わり、新しい世界体制がやってくる第一歩という逆の見方もある。
戦争で真っ先に死んでいくのは青年であり、最大の犠牲者となるのは罪もない民衆である。
ベトナム戦争は1966年(昭和41年)には<泥沼>の様相をていしてしまった。
ベトナム反戦運動は,質的にも量的にも,はるかに際だったものであった。
とくに戦争当事国アメリカの中で,自国の戦争政策に反対して行われた運動は,軍隊内部での抵抗をも含めて,第1次世界大戦末期の帝政ロシアでのそれを除いては前例のない規模であったし,また侵略と戦うベトナム人民に対する各国人民の連帯・支援の行動も,義勇軍派遣こそなかったが,スペイン内乱への国際的支援の規模をはるかに上回った。
ベトナム反戦運動は,質的にも量的にも,はるかに際だったものであった。とくに戦争当事国アメリカの中で,自国の戦争政策に反対して行われた運動は,軍隊内部での抵抗をも含めて,第1次世界大戦末期の帝政ロシアでのそれを除いては前例のない規模であったし,また侵略と戦うベトナム人民に対する各国人民の連帯・支援の行動も,義勇軍派遣こそなかったが,スペイン内乱への国際的支援の規模をはるかに上回った。
ベトナム戦争が激化するとともに、これに反対して世界各国に繰り広げられた反戦・平和の広範な市民運動。
アメリカのベトナム介入は、共産主義を不道徳、邪悪なものとして、その脅威からアメリカ的民主主義やアメリカ的生活様式を守らなければならないと決意したときに始まった。しかし、そうした行動は、アメリカの憲法、国連憲章、国際法、国際条約に違反し、アメリカの歴史的・伝統的精神にもとるのではないかという疑問が生じ、それはアメリカの兵力派遣が加速され、戦闘が激化するに伴って高まった。
疑問はさまざまの形をとって現れた。学者や知識人らはいち早くアメリカのベトナム介入の合法性について調査し、分析する委員会を組織した。1965年春、プリンストン大学教授リチャード・A・フォーク博士を委員長として設置された「アメリカのベトナム政策に関する法律家委員会」などである。委員会はアメリカのベトナム介入はいくつかの基本点で国際法に違反しているとの結論を出し、それを公表した。議会では政府のベトナム政策に関する公聴会が開かれ、またテレビ、ラジオ、その他の場でもさまざまの公開討議がなされた。