児童虐待の発生予防

2019年09月08日 17時38分58秒 | 社会・文化・政治・経済

児童福祉法等の一部を改正する法律(平成28年法律第63号)の概要

国・地⽅公共団体は、⺟⼦保健施策が児童虐待の発⽣予防・早期発⾒に資することに留意すべきことを明確化する。
児童虐待発生時の迅速・的確な対応

児童虐待から子どもを守る議員の - 中核市市長会

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2019年2月15日 - 施⾏後5年を⽬途として、中核市・特別区が児童相談所を設置できるよう、その設置に係る⽀援等の必要な措置を講ずる。 ....


14年間で727人の子供が虐待死によって亡くなっている

2019年09月08日 17時32分54秒 | 社会・文化・政治・経済

児童虐待 政治家に何ができるのか

虐待による死亡の状況

厚生労働省が、各都道府県、指定都市及び児童相談所設置市(以下「都道府県等」という。)に対する調査により把握した、平成 28 年4月から平成 29年3月までの1年間(第 14 次報告の対象期間)に発生又は表面化した子ども虐待死事例は、心中以外の虐待死事例では 49 例(49 人)、心中による虐待死事例(未遂により親は生存したが子どもは死亡したものを含む。)では18 例(28 人)であり、総数は 67 例(77 人)であった。

また、前回の第 13次報告に引き続き、第 14 次報告においても、都道府県等が虐待による死亡と断定できないと報告があった事例について、本委員会にて検証を行い、虐待による死亡事例として取り扱うと判断された事例(以下「疑義事例」という。)についても合わせて計上することとした。

(疑義事例は、各表において( )で内数として示す。)第 14 次報告の死亡事例数及び人数を第 13 次報告
(平成 27 年4月から平成 28 年3月まで)と比較すると、心中以外の虐待死事例では、事例数は1例の増加、死亡した人数は3人減少した。心中による
虐待死事例では6例の減少、死亡した人数は4人減少した。
また、第1次報告から第 14 次報告までの期間中に把握した子ども虐待による死亡事例数及び死亡人数は、心中以外の虐待死事例では 685 例(727 人)、心中による虐待死事例では 372 例(514 人)であった。
子どもの年齢
死亡時点における子どもの年齢について、平成 28 年度に把握した心中以外の虐待死事例では、「0歳」が 32 人(65.3%)で最も多く、3歳未満は 40 人(81.6%)と8割を超える状況であった。第1次報告から第 14 次報告までの推移をみると、第 14 次報告までの全てで「0歳」が最も多く、第 14 次報告では最も高い割合となった。
また、平成 28 年度に把握した心中による虐待死事例では、3歳未満は計3人(10.7%)であり、第2次報告から第 13 次報告までの傾向と同様、子どもの年齢にばらつきがみられた。
さらに、死亡した0歳児を月齢別にみると、平成 28 年度に把握した心中以外の虐待死事例では、月齢「0か月」が 16 人(50.0%)であり、0歳児において最も高い割合を占め、第 13 次報告と比較すると人数、割合ともに増加した。

 

 


浮浪児1945‐: 戦争が生んだ子供たち

2019年09月08日 16時31分38秒 | 社会・文化・政治・経済
 
石井 光太  (著)

内容紹介

1945年の終戦直後、焦土と化した東京では、家も家族もなくした浮浪児が野に放り出されていた。その数、全国で 3 万以上。金もなければ食べ物もない。物乞い、窃盗、スリ……生きるためにあらゆることをした。時に野良犬を殺して食べ、握り飯一個と引き換えに体を売ってまで――。残された資料と当事者の証言から、元浮浪児の十字架を背負った者たちの人生を追う。戦後裏面史に切り込む問題作。

内容(「BOOK」データベースより)

1945年の終戦直後、焦土と化した東京では、家も家族もなくした浮浪児が野に放り出されていた。その数、全国で3万以上。金もなければ食べ物もない。物乞い、窃盗、スリ…生きるためにあらゆることをした。時に野良犬を殺して食べ、握り飯一個と引き換えに体を売ってまで―。残された資料と当事者の証言から、元浮浪児の十字架を背負った者たちの人生を追う。戦後裏面史に切り込む問題作。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

石井/光太
1977(昭和52)年、東京生れ。日本大学芸術学部文芸学科卒業。国内外の文化、歴史、医療などをテーマに取材、執筆活動を行っている(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

著者が5年ほどかけて百人近い関係者から取材をしただけあって、かなりの情報量で、読むのにかなりの日数を要した。これまでに読んだり聞いたりした苦労話や不幸体験が何でもないと思えるほど悲惨な話が多く、途中まででレビューを書こうかと思ったこともあったが、最後まで読み通した。

最初は、東京大空襲の描写である。逃げる途中、家族とはぐれ、数日間当てもなく彷徨っていたところ、見知らぬ人から「上野に行ってみな」と声をかけられ、行ってみたところ、炊き出しの食事にありつけた。その後、駅の地下道に行くと大勢の人がいて外よりずっと温かく、「ここにいれば、凍死しないですむ」と感じてそこに住みついた。その時代に浮浪児になった子たちの多くはこうしたケースである。
飢餓は終戦後酷くなった。政府の配給が減り、炊き出しは中止になり、上野を訪れる人々も彼らに食べ物を恵む余裕を失った。終戦の年の11月の新聞に「上野駅で処理された浮浪者の餓死体は多い日には6人を数え、先月の平均は1日2.5人だった」と書かれている。
11~12歳の子なら犬や猫を殺して食べたりもできたが、5~6歳の子だと餓死するケースが多く、仲間の死に立ち会ったという元浮浪児は多い。空腹のあまり精神錯乱に陥り、道端の犬の糞を食べて、口から茶色い泡をぶくぶく出して息絶えた子もいた。約50年後に強盗殺人事件で死刑判決を受け、執行された人物も終戦時7歳の元浮浪児で、仲間の死を経験している。

そんな頃、闇市が上野をはじめ日本の様々な都市に姿を現した。当時、日本人が禁制品を売買すれば逮捕されたが、在日外国人は例外で、在日朝鮮人たちがこの法の抜け道を利用したことで、闇市ができたのだ。闇市は大変な賑わいをみせ、餓死寸前だった浮浪児たちは店の手伝いをして食べ物を分けてもらったり、靴磨きや新聞売りやシケモク(煙草の吸殻を拾い集めて、燃えていない葉だけを集めて紙に巻いて煙草にする)売りなどして稼いだ。
また進駐軍人らと親しくなって基地に出入りするようになり、食堂の片隅にあるゴミ箱に捨てられた残飯をもらって闇市へ持っていって売る浮浪児もいた。闇市では、そうした残飯を巨大な鍋で煮込んだ「残飯シチュー」が人気を博していたが、ゴミ箱の中の物を中身を確認することなく全部鍋にぶち込んだので、ゴキブリや煙草やペンやコンドームや猫の死骸さえ入っていたという。それでも、「あんなにおいしいものを食べたのはあの時だけだ。なんせ、戦後の焼け野原で雑草やらネズミやらを食ってどうにか生きてきた人間が、いきなり肉や野菜がふんだんに入った煮込みを食べるんだぞ。口に入れた途端に感動して涙があふれてくるほどだった」と元浮浪児は言う。
女の子の浮浪児は、12歳くらいで売春を始める子が多かったようである。当時は初潮を向かえる平均年齢が14歳くらいで、彼女らの多くは初潮前に体を売っていたのである。

無賃乗車をして地方に行って物もらいをする浮浪児もいた。農村の方が食糧事情がよく、食いっぱぐれることは少なかったが、浮浪児の多くは上野が恋しくなって戻ってきたという。地方ではお風呂に入れてくれたり、親切にされることもある一方、襲われたり、仲間がさらわれて行方不明になったこともあった。地方の農家や漁師は戦争による人手不足を補うために、身寄りのない子供の売買が行われていたのである。また無賃乗車がばれて、捕まるのを恐れて列車から飛び降りて死んだ子もいたという。

その後、闇市はヤクザやテキヤや愚連隊やパンパンに支配されるようになり、彼らにかわいがられた浮浪児らは犯罪の片棒を担ぐようになり、警察は浄化作戦に乗り出した。地下道を封鎖して「刈り込み」を行い、浮浪児たちをつかまえ、トラックに乗せて施設に送り込んだ。が、当時の施設は食糧不足に加え、職員たちの体罰もあって、子供たちの逃亡は常習化していた。
施設からの逃亡が続く中、子供たちは徐々に待遇のいい施設を見つけ、施設での生活を受け入れる子供は増えていった。民間人が私財をなげうって浮浪児を集めた孤児院もいくつかあった。そのひとつ「愛児の家」は、一人の女性と彼女の娘たちとで運営されていた。布団や食器などは軍の払い下げで無償でもらえたが、60人以上の子供の食事を用意するのは大変だった。当時の食事は、進駐軍で毎日出たジャガイモの皮とトウモロコシの粉とをまぜて作ったごった煮と、段ボールの破片や藁のまじった「キビ餅」だったが、他の施設を脱走してまで「愛児の家」にやって来る子供は絶えなかった。周りの助けもあった。近所の若い医者が、皮膚病で苦しんでいた子供たちを無料で診てくれ、薬もくれたという。

著者の石井氏は、今は老人になった卒業生らを訪ねて話を聞くが、彼らの多くは配偶者や子供に過去を打ち明けていなかった。(元浮浪児で孤児院出身だということは打ち明けていたが。)そして石井氏に「上野での体験を上手く人に伝えられん。だから、あんたのような人が上手く言ってくれたらいい。今の若い人に、生きることがどういうことか、きちんと伝えてほしい。元浮浪児でそれをできるものなんてほとんどおらんのやから」と言ったという。「あの時代に上野で生きた子供はみんな、生きることへのがむしゃらさを持っていた。そうやって生きていくしかなかった。人が生きるっていうのはしんどいことなんや。次から次に大変なことばかりやってくる。だから、人間はがむしゃらにならなきゃ、それを超えていくことができん。その時に必要なのは、仲間への信頼や、へこたれない心。それが大切なんや」。
「愛児の家」の創設者の娘は、「家庭の愛情でなくてもいい。友人や見知らぬ大人でもいいから、子供時代に多くの愛情をきちんと受けてきた記憶があるということが大切なんです。それが人間としての根っことなり、芯となる」という。戦災孤児として上野に集まった子供たちは、そこで知り合った同じ浮浪児や露天商やヤクザやパンパンたちと助け合って暮らしてきた。彼らの自我はそうした愛情によって支えられて、人間としての芯となっていったに違いない。だからこそ、上野の地下道や闇市といった過酷な環境で生き抜くことができたのだろうし、差別に満ちた社会の中でもめげずに働き続け、家庭を持ち、子供を育てていけたのだろう、と石井氏は述べている。

過酷な人生を生き抜いた浮浪児たちと彼らを支えた人々と、貴重な証言を集めてくれた石井氏に感謝します。

著者の本は、アジアの貧困地帯のルポを読んだことがある。なかなかの力作だった。
本書は二次大戦時の戦災孤児たちのレポートである。浮浪児なんて外国の話だと思っている人が多いかもしれない。
私は1955年生まれだ。直接見たことはないが、話にも聞いたし、子供のころそういうドラマや漫画は普通に存在した。

孤児たちの人生は凄まじい。餓死や自殺は珍しくない。彼らが犯罪に走っても、誰が責められようか。
テキヤに保護されているうちは良かったが、やがてヤクザに取り込まれて使い捨てられるようになる。
本書でも少し触れられているが、力を失った警察は乱暴な朝鮮人に対抗するため、日本の反社会勢力を使ったらしい。
そのことをヤクザが正義だったように言う人がいるが、間違っている。自分の縄張り(利益)を守っただけだろ。

売春婦と浮浪児の交流は泣かせる。美談ばかりでなく、生臭い顛末になることもあるが、
それも含めて弱者同士が寄り添う姿には胸を打たれる。
孤児の養育に生涯を捧げた人たちには頭の下がる思いがする。
しかし日本政府というのは、自国民にとことん冷酷なんだなあ。
勝手に始めた戦争でボロ負けして、両親が死んで泣いてる子供に、なんのケアもなし。国に奉じて死んだ人たちは浮かばれないわ。
事実を忘れてはいけない。価値のある記録である。

垢まみれの浮浪児の悪臭を嫌い、近くを通りがかっただけで怒鳴り、石を投げつける大人。
栄養失調の最中犬の糞を口にし、泡を吹いて死んでいくこども。
金を稼ぐためにヤクザに使われ、あるいはヤクザに取り入るこども。
浮浪児を不憫に思う心から、見つからぬわが子のための食糧を泣きながら与えてくれる大人。
養護施設でこどものための食糧をわが胃袋に詰め込む大人。
戦争で障碍者となった大人になけなしの食糧を与えるこども。
何度浮浪児が脱走しても、愛情を持って浮浪児たちを探し続けた施設従業員の大人。
浮浪児を一人頭4~5万円(現在の価値にして50万円ほど)で売るため誘拐する大人。
家族の反対も押し切り、誰とも知らぬ浮浪児を自宅に上げて面倒をみてくれる大人。
売春婦グループのいざこざの中で性器を焼かれる女性。
元浮浪児というだけで、「野良犬」「梅毒」とあだ名をつけて差別する大人。
善意から里親となってくれた大人の家から有り金を盗んで逃げだすこども。
自身の利益のため、浮浪児にスリを教えて、上前をはねて私服を肥やそうとする大人。
何の補助金等の補償もない中、私財を投げ打ち120人もの子供を引き取って育てることを決意した大人。

私自身恥ずかしながらこうした事実を本書を読んで初めて知ったのだが、日本にこうした歴史があったことを忘れるべきではない。著者の石井氏が100人を超える元浮浪児たちから丁寧な聞き取りを行ったのであろうこと、相手の言葉をいかに大切にしているか、が文章の端々から感じ取れる、素晴らしい一冊。
25人のお客様がこれが役に立ったと考えています

 戦後を私は知らない。
いや、うっすらと覚えているのだが。
上野の動物園の所で白装束の手足の無い方達が鉄製のヘルメットを入れ物としながら音楽を奏で、歩く人たちにカンパをして貰っていた。
空き缶を前に「右や左りの旦那さまー」と歌い寄付を乞うもの。
腹巻きに包丁を差して肩に刺青をしてる人。
真っ赤な口紅にブルーのアイシャドウのお姉さん
いつの頃からか見なくなった。
うん。確かに皆、がむしゃらに生きていた。

この本が朝ドラになれば良いのに。
この本の誰でも主人公になれるはず。
個人的には裕さんが良いけど。
戦後の子供達と現在の子供達。
保護施設の移り変わり。
今、なんじゃないかな。

 

 
 

旅人―湯川秀樹自伝

2019年09月08日 11時38分10秒 | 社会・文化・政治・経済
 
 

毎日新聞 文学逍遥
湯川秀樹「旅人」

新連載「文学逍遥」 7日・土曜日から 文化面. 文学作品を読み直す魅力を、エッセーで紹介する新連載。
毎月1回、作家・翻訳家の松田青子さんと脚本家の大野裕之さんが、 隔月で担当します。

「旅人」を読んで驚くのは、文学者の回想かと見紛うほど、かれが古今東西の書物に親しんでいるところだ。
幼少より祖父に漢籍を叩き込まれ、論語には親しまなかったものの、荘子の思想に共感した。
また、父の書斎の本を片っ端から読み、ドストエフスキーの虜となった。
むろん、当時最先端の物理理論を洋書で読み漁った。
欧米の物理学の原書から、文学全集、西洋哲学、四書五経、歴史書、美術書に至るまであらゆるジャンルの書物が京都大学基礎物理学研究所の湯川記念室に残る蔵書。
懐かしい少年時代を生き生きと描く「旅人」の前半。
優れた科学者は同時に優れた文人でもあるのだ。
湯川少年は無口で「イワン(言わん)ちゃんと友人に言われ、自分の殻に閉じこもって空想にふける少年だった。また、友人から「アインシュタインのようになるだろう」と言われていたことをきっかけに物理学を目指すようになる。

 「旅人」内容紹介

博士の業績同様、その人を知る者は少ないであろう。自ら綴る生い立ちの記。【孤独な我執の強い人間】と自身を語り、その心に去来する人生の空しさを淡々と説く行文は、深い瞑想的静謐を湛える。

 日本人として初めてノーベル賞を受賞した物理学者の、少年期から青年期までを綴った自伝。
文学少年だった著者は、数学や哲学などの学問に触れながら、次第に物理学への興味を深めていく。「旅人」とタイトルにあるように、時代の空気、人や本との出会い、さまざまな偶然が人を予想も付かなかった場所に運んでいく。自伝という知識だけで読み始めたら、中間子の着想を得た所で終わってしまい拍子抜けしたものの、それでこの本の価値が損なわれるわけではない。中高生の時に読んでいれば、進路が変わったかもしれない。

湯川秀樹が、中間子を発見するまでの軌跡を、自身が振り返った本。優しく、ゆっくりと、自分とその周囲の世界を観察し、丹念に描く文体に人柄を感じる。理論物理学と哲学、対極にあると思われる2つの学問を同じ世界観で捉えている湯川氏は、本当に凄い人だと思う。

とにかく美文。上品としか言いようのない佇まい、開く・閉じるの配分の良さ、これが延々と続く。
内容は湯川秀樹の幼少から27歳までの回想で、27歳で止めたのは、本人曰く「これから先を書けば書くほど、勉強以外のことに時間をとられてゆく自分が、悲しくなってきそうだからである」とのこと。たしかに、勉強=娯楽な人で、それは素養もあるけれどその生活環境がとってもリア充だったのが大きい。でも性格は非リアである。大正期の京都の街の描写が素敵で、中でも、新京極への憧憬はとても刺さった。

【課題本】ずっと手元においておきたい本。湯川秀樹の幼少期からその時時にあったエピソードやそれらについて感じられたことが綴られていて、少年がどのような環境で、どのような過程をたどって物理学の道に進んでいくかが瑞々しく描かれている。何よりも感動したのは、文章の美しさ。読み手への優しさが感じられる。
児童文学も手がけてみたいというくだりがあったが、もしもあったらぜひ読んでみたいと思う。 ノーベル賞までの道は、着実に一歩一歩近づいていったのだなというのが読み取れ、何かを成すには努力の積み重ねが必要なんだなと思った。

日本人初のノーベル賞を受賞した湯川氏の少年・青年期の回想録。孤独を愛する穏やかな人だったことが文章の端々から伝わってきて、和む。「私は子供ながらに、なぜか孤独と親しんで行ったようだ。(略)しかし外へ向かっては、閉ざされた自分の世界の中では、一人で、だれに気がねもなく、私の空想は羽ばたくことができた」「私は孤独な散歩者だった。生来、無口な私は、研究室へ出かけても、一日じゅう、だれとも話もせず、専門の論文だけをよんでいることもまれではなかった」。フェルミの論文を読んで中間子理論の発想を得たエピソードも印象的

 
 

 

作家の安部譲二さん死去 「塀の中の懲りない面々」

2019年09月08日 11時28分48秒 | 社会・文化・政治・経済

9/8(日) 

刑務所での収監体験をユーモラスに描いた自伝的小説「塀の中の懲りない面々」などで知られる作家の安部譲二(あべ・じょうじ、本名安部直也=あべ・なおや)さんが2日、急性肺炎で死去した。82歳だった。葬儀は近親者で営んだ。喪主は妻の美智子さん。

東京都出身。中学時代に暴力団に加わり、その後は客室乗務員、ばくち打ち、用心棒、キックボクシングの解説者などを経験した。東京・府中刑務所での実体験をもとに描き、映画にもなった1986年のデビュー作「塀の中の懲りない面々」が大ヒットした。「塀の中のプレイ・ボール」「極道渡世の素敵な面々」など極道をテーマにした軽妙な作品を次々に発表して人気を博した。(興野優平)


食事会で友好を深める

2019年09月08日 11時20分53秒 | 日記・断片

午前8時30分過ぎに支部の会合へ行く。
台風が来るのか?と半信半疑になるほどの快晴。
白い雲は夏雲そのもの。
利根川方面へ左折して成田、銚子へ向かう道は車が多かった。
ゴルフ場のクラブハウスの脇の道から救急車が出てきた。
土手の斜面の草はきれいに刈ってあるが、道路沿いの深く茂る草は放置されているので、「土手は国土交通省の土地、その下は県の土地ということか」と富田さんが指摘した。
赤峰宅の8畳間に、初めて見る人が座っていた。
その人が「谷川さん」と後で知る。
男性合唱団の練習で小貫さんと子どもたちの合唱団の世話で須田さんが欠席。
寺川さんは姿を見せなくなる。
彼は敢闘会の会合にも姿をみせなかった。
林さんに聞くと、梅の台地区の会合には出ていたそうだ。
「足を痛めていたけど」と言う。
車の運転に支障でもあるのだろうか。
今回も米川さんが小説の読後感想を述べる。
また、久田さんが大学の心理学の講義を聴きに行ったことを報告した。
ついで久田さんが二つの地区での食事会の模様と効果を語る。
料理好きの久田さんは奥さんの協力で色々な料理に挑戦していた。
「小堀(おおぼり)でも食事会やってもらいたない」と赤峰さんが言うので、皆が笑う。
以前、赤峰宅で久田さんの指導で皆が蕎麦打ちに挑戦したことがある。
蕎麦を真直ぐに切るのが難しかった。
会合後は何時ものお茶会になる。
果物セット(ブドウ3種類、夏ミカン、梨、パイナップル)とブルベリー、串団子3種類、チョコ、濡れ煎餅などをいただく。
赤峰さんの奥さんの気遣いで、帰りにはゴウヤ、ブルベリーをいただいて帰る。
家の近くで出会った村田さんに「これ食べますか」と見せたら、「苦いのでゴウヤは」と苦笑した。
家人と親しかった村田さん奥さんが亡くなって何年であろうか。
なぜか、奥さんが先に亡くなる人が近隣に数人居て、寂しそう様子である。
カラオケ仲間の森田さんも先日、奥さんを亡くす。


輪子の競輪日記 1000円で楽しむ競輪

2019年09月08日 04時15分48秒 | 未来予測研究会の掲示板

輪子は父親の影響と取手一高出身なので、競輪好きになった。

輪子の父親は競輪場で倒れて、医師会病院に救急搬送されて8日後に、心不全で亡くなっている。
まだ、48歳だった。
「人生、太く短くだ」などと言っていた。
文字通り「飲む、打つ、買う」の道楽者。
競輪で勝つとフィリピンパブに行っていて、女の人たちと映した写真が数枚残っていたので、棺桶に入れた。
看護師であった母親は輪子が12歳の時に家を出て行った。
母親は新潟村上の実家に戻った後に、病院に勤務していて数年後、薬剤師と再婚している。
輪子は初めて弥彦競輪に行った日、1度だけ村上まで母に会い行ったが、新潟まで来た理由については告げていない。
父親の競輪狂いが離婚の原因となったので、輪子は弥彦競輪まで行ったことまでは明かせなかった。
先日、新潟出身の人と競輪場で知り合ったので「新潟のどこなの?」と聞いてみたら、偶然、「村上だけど、知っている?」と問われた。
「少しね」
「そうなの!いいところでしょ」と微笑む。
輪子は複雑な気持ちとなった。
その人、房枝さんが「1000円で楽しむ競輪」を実践していた。
色々な競輪ファンがいるものなのね。
「1000円きり、だから面白のね」
「そうなの?!」


「死ぬんじゃねーぞ!!」 いじめられている君はゼッタイ悪くない

2019年09月08日 03時22分07秒 | 社会・文化・政治・経済

中川 翔子  (著)

生きてさえいれば、好きなことが出来るようになってくる。死ぬんじゃねーぞ。
中川翔子さんの心からの叫びが詰まった一冊。

内容紹介

いじめに悩む子どもたちが、未来の扉を開くために――

あなたの時間はあなたのもの。
あなたの命はあなたのもの。
誰にも奪うことはできない。

タレント、女優、歌手、声優として活躍する中川翔子さんが、いじめで不登校になり、「死にたい」とまで思い詰めた先に見つけた気持ちを文章と漫画で綴ります。
大人になったいま、中川さんがなによりも伝えたいのは「ゼッタイに、死を踏みとどまってほしい」という切実な思い。
本書では中川さんがSNS時代のいじめの現状を専門家や子どもたちにも取材して、「いじめをなくすためにいまできることは何なのか」についても考えていきます。
いじめで傷つき悩んでいる子供たち、さらには、その周囲のすべての親や教育関係者にも向けた渾身のメッセージです。

学校に行くのがつらい、そんな夜に読んでほしい。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

中川/翔子
1985年5月5日生まれ。東京都出身。2002年、ミス週刊少年マガジンに選ばれ芸能界デビュー。タレント、女優、歌手、声優、漫画など、多方面で活躍。近年は自身の経験をふまえて「いじめ・引きこもり」のテーマと向き合い、多数の番組に出演。2020年の東京オリンピック・パラリンピック競技大会に向けた「マスコット審査会」委員、2025年開催の国際博覧会(万博)に向けた「万博誘致スペシャルサポーター」も務めた(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

読んでいて色んなことを思い出し、すごく複雑な感情になりました。
今のいじめはSNSが発達し、より陰湿になっています。
LINEで、対象の人がいるグループ内で「退会させようぜ」「こいついじめよう」など公開処刑にされたり
都合が悪くなったら送信取り消しで証拠を隠滅したりもするようです。
ただスクショで証拠をとってツイッターなどで拡散し、いじめた側がいじめられる側になることもよくあるとのこと。
デジタルタトゥーといってネットにあげたものは一生消えないんです。
のぞき見アプリというのもあって、LINEで送信取消されても、その通知内容がみれるアプリも存在しています。

そしてこうしている今現在も一日1,000件、年間41万件のいじめが発生しています。
文部科学省の研究機関の国立教育政策研究所によると
小四〜中三まででいじめられたことがある人は89%、いじめたことがある人は79%とのデータがあります。
つまり今のスクールカーストはいじめる側にもいじめられる側にもなりうるということ。

いじめている側はよく「冗談だった」などと言い訳をします。
某社長も会見でそんなことを言いましたね。
ただ受けている側はそれが「いじり」なのか「いじめ」なのかはすぐわかります。
度を超えていたり、そこに自分に対しての愛があるかどうか当事者ならわかって当然です。僕自身がそうでした。

いじめはいじめた側が100%悪いです。
どんな理由もいじめていい理由になるわけがありません。
証拠は簡単に隠蔽でき、クラス全体のいじめならいじめられた側が嘘つきだと言われることもあるでしょう。
いじめは大人の保身で隠蔽されることもよくあります。
これもいじめに加担しているのと同じです。いじめられている側にとっては大人に言ってもダメなんだとさらに絶望の淵に落とされるからです。
こんな時に先生を含めた周りの大人がいかに親身になって話を聞いたり、選択肢を与えてあげられるかが重要だと思います。
学校という一つのコミュニティに縛られると自分がこの世界にいてはいけないのかとどんどん自分で自分を追い込んでしまいます。
通信制学校やスクールコミュニティ、学校外のクラブなど他のコミュニティに属することで救われたり
SNSをうまく使って自分の支えになる誰かと繋がることもできるはずです。

そしてどうかDo(やったこと)ではなくBe(居ること)を褒めてあげてください。
生まれてくれてありがとう、ここにいていいんだよと存在を肯定してあげてください。
その言葉だけで救われる命があります。

いじめはきっと無くなりません。
けど減らすことはできるはずです。
色んな人にこの本をきっかけにいじめについて一度真剣に考えるきっかけになることを祈ります。

すごく勉強になりました。今だから冷静に読めます。
同じです。中学で、うちの子も学校へ行けなくなったから辛かったです。
しょこたんのお母さんの気持ちも、しょこたんの気持ちもわかって、
本当に、辛い時はどうにも行き違っちゃうものです。

親にも、教育者の人にも読んで欲しいですね。
もちろん悩む子には、自分の気持ちを代弁してくれているみたいで、
元気が出てくるかもしれません。

この本には中川さんの中学時代のいじめ体験がかなり細かく書かれています。それだけ強烈に記憶に残っているのでしょう。当時の光景を想像すると恐ろしくなりました。
その他に少し前までいじめを受けていた人達との対談、趣味のこと、家族のこと、今いじめを受けている子供達への中川さんのメッセージで締めくくられています。
漫画も収録されていますが数ページ前に語られた文章がそのままモノローグで載せられていて、漫画にする意味はあったのか?と少々疑問でした。
今いじめにあっている子にこの本が届くかはわかりませんが(子供がホイホイ買える値段じゃないし)、学校に通う以外の方法が色々書いてあるので道筋になると思います。ネットを使った通信教育は素晴らしいですね。
16人のお客様がこれが役に立ったと考えています

中川さんの実体験を綴られてあり、生々しい体験談とともに被害者と語り合い解決案やこれからの対処が書かれています。今、現在もいじめの被害にあってる学生に読んで死なないで考え直して貰いたいです。私自身もこれを読んで「あの時、死なないで良かった」と思えました。具体的な対処もちゃんと書いてあり、被害者目線で書かれています。辛くてもこれを読めば糸口が見つかるよ。被害者が自殺などしなくて被害者にとって一縷の光になれたら中川さんも本望でしょう。もしいじめの被害者が近くにいたらこちらを勧めてみて下さい、いじめられてるお子さんのためにも被害者の親なら読んでいただきたい。夏休みや冬休みを使って親子で話し合ったり語り合ったりしてこの本を糧に自殺はしないで踏み止まって、君の未来は暗闇ばかりじゃないよと中川さんが背中を押してくれる…フリースクールや通信制高校などの対処を教えてくれたりします。被害者に読んでいただきたいだから「うちの子もしかして」と思ったら購入を検討してみてはいかがですか。辛いのは今だけ、まだ未来は変えられる。




矢野監督「本当に総力戦」ソラーテショック払拭勝利

2019年09月08日 02時59分20秒 | 野球

9/7(土) 日刊スポーツ

<広島3-7阪神>◇7日◇マツダスタジアム

阪神打線がソラーテショックを払拭(ふっしょく)する、先発野手全員安打の猛攻を見せた。

先制適時二塁打を放つ福留孝介

初回、先頭木浪が8球ファウルで粘った後に14球目を中前安打。1死から3番福留の右越え適時二塁打で先制した。2回にも木浪の適時打で追加点を挙げると、3回のビッグイニングで流れをガッチリとたぐり寄せた。四球と安打で1死一、三塁。6番高山が先発薮田の直球を完璧に捉え、右中間席へ運ぶ3号3ラン。この回、2番近本にも2点打が飛び出し、打者11人5得点の攻勢で試合を決定づけた。

試合前の時点で残り17戦で17勝がCS進出確定に必要な状況だった。自力でCS進出を決めるには瀬戸際で踏みとどまり、勝利を重ねることが不可欠。そんなタイトな局面で、2試合ぶりの先発野手全員安打で12安打7得点。8日の第3戦に向け、矢野監督は「今日、みんなで(1勝を)取れた。本当に総力戦で。明日、うちはもういくしかないんでね。思い切って、全員でいこうかなと思います」と、総力戦の構えを示した。新助っ人の力は借りずとも、シーズンを戦ってきた戦力で広島をとらえてみせる。

▽阪神高山(3回に3号3ランを放つも、5打数1安打に終わり)「(本塁打は)甲子園だったらただのヒット。(自分は)ホームランバッターではないので、あの1本で終わっているというのは100点満点でいう0点です」


台風15号、記録的な強さで関東直撃か

2019年09月08日 02時38分43秒 | 社会・文化・政治・経済

杉江勇次  | 気象解説者/気象予報士/ウェザーマップ所属   9/7(土)