自殺予防週間とは

2019年09月12日 22時11分29秒 | 社会・文化・政治・経済

1.自殺予防週間とは

自殺対策基本法では、9月10日から16日までを「自殺予防週間」と定め、地方公共団体、関係団体等とも連携して「誰も自殺に追い込まれることのない社会」の実現に向け、相談事業及び啓発活動を実施します。

2.今年度の自殺予防週間

令和元年度

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3.過去のデータ


自殺対策の基本的な枠組み

2019年09月12日 21時33分47秒 | 社会・文化・政治・経済

1 自殺対策基本法の概要

平成18年10月28日に施行、28年4月1日に改正された自殺対策基本法は、誰も自殺に追い込まれることのない社会の実現を目指して、自殺対策に関し、基本理念を定め、国、地方公共団体、事業主、国民のそれぞれの責務を明らかにするとともに、自殺対策の基本となる事項を定めること等により、自殺対策を総合的に推進して、自殺防止と自殺者の親族等の支援の充実を図り、国民が健康で生きがいを持って暮らすことのできる社会の実現に寄与することを目的としている。
都道府県は、自殺総合対策大綱及び地域の実情を勘案して、都道府県自殺対策計画を定めるものとされた。

また、市町村は、自殺総合対策大綱及び都道府県自殺対策計画並びに地域の実情を勘案して、市町村自殺対策計画を定めるものとされた。
都道府県自殺対策計画等を策定して自殺対策を推進する都道府県及び市町村を財政面から支援するため、国は、これらの計画に基づいて当該地域の状況に応じた自殺対策のために必要な事業、その総合的かつ効果的な取組等を実施する都道府県又は市町村に対し、当該事業等の実施に要する経費に充てるため、推進される自殺対策の内容その他の事項を勘案して、予算の範囲内で交付金を交付することができることとされた。
また、厚生労働大臣を会長とし、関係閣僚を構成員とする自殺総合対策会議が厚生労働省に設置され、また、政府が推進すべき自殺対策の指針として、基本的かつ総合的な自殺対策の大綱を定めることとされた。
2 自殺総合対策大綱の概要
⑴ 最初の自殺総合対策大綱の策定
自殺対策基本法においては、政府の推進すべき自殺対策の指針として、基本的かつ総合的な自殺対策の大綱を策定することとされた。初の自殺対策の大綱を策定するに当たっては、内閣府において有識者による「自殺総合対策の在り方検討会」が開催された。大綱の素案は、同検討会が取りまとめた報告書「総合的な自殺対策の推進に関する提言」を踏まえて内閣府において作成され、平成19年6月8日、自殺総合対策会議において大綱案が決定された。

同案は同日自殺総合対策大綱として閣議決定された。
自殺総合対策大綱は、自殺対策基本法が制定され国を挙げて総合的な自殺対策を推進することとなった我が国の自殺をめぐる現状を整理するとともに、〈自殺は追い込まれた末の死〉
〈自殺は防ぐことができる〉
〈自殺を考えている人は悩みを抱え込みながらもサインを発している〉
という自殺に対する3つの基本的な認識を示した。また、自殺対策基本法第2条の4つの基本理念及び自殺総合対策の在り方検討会の報告書を踏まえ、
〈1〉社会的要因も踏まえ総合的に取り組む
〈2〉国民一人ひとりが自殺予防の主役となるよう取り組む
〈3〉自殺の事前予防、危機対応に加え未遂者や遺族等への事後対応に取り組む
〈4〉自殺を考えている人を関係者が連携して包括的に支える
〈5〉自殺の実態解明を進め、その成果に基づき施策を展開する
〈6〉中長期的視点に立って、継続的に進めるという自殺対策を進める上での6つの基本的考え方を示すとともに、世代ごとの特徴を踏まえた自殺対策を推進する必要があることから、青少年(30歳未満)、中高年(30歳~64歳)、高齢者(65歳以上)の3世代に分けて、各世代の自殺の特徴と取り組むべき自殺対策の方向を示した。
また、当面、特に集中的に取り組むべきものとして、自殺対策基本法の9つの基本的施策に沿って、9項目について48の施策を設定した。
さらに、自殺対策の数値目標については、平成28年までに、17年の自殺死亡率を20%以上減少させることと設定し、国及び地域における自殺対策の推進体制、自殺総合対策大綱に基づく施策の評価及び管理について定めた。また、自殺総合対策大綱について、おおむね5年を目途に見直しを行うこととした。
⑵ 最初の自殺総合対策大綱の見直しと施策の進展
ア 自殺対策加速化プランの策定と自殺総合対策大綱の改定
平成10年以降、自殺者数が3万人を超える事態が続いたことに加え、20年に入ってからは、インターネット情報に基づく硫化水素による自殺が群発し、事案によっては家族や近隣住民にまで被害が生じるなど社会問題化していた。このため、「経済財政改革の基本方針2008」(平成20年6月27日閣議決定)において、「最近の自殺の動向を踏まえ、自殺総合対策大綱を見直す」と明記された。
これを受けて、平成20年10月31日、自殺総合対策会議において、自殺総合対策大綱の策定後1年間のフォローアップ結果等も踏まえ、自殺対策の一層の推進を図るために当面強化し加速化していくべき施策を「自殺対策加速化プラン」(平成20年10月31日自殺総合対策会議決定)として決定した。
「自殺対策加速化プラン」においては、次の9項目にわたる施策が定められた。
⑴「自殺の実態を明らかにする」
⑵「国民一人ひとりの気づきと見守りを促す」
⑶「心の健康づくりを進める」
⑷「適切な精神科医療を受けられるようにする」
⑸「社会的な取組で自殺を防ぐ」
⑹「自殺未遂者の再度の自殺を防ぐ」
⑺「遺された人の苦痛を和らげる」
⑻「民間団体との連携を強化する」
⑼「推進体制等の充実」
このうち、項目⑷⑸⑼に、当時の大綱の項目に明記されていなかった施策が盛り込まれている。

⑷「適切な精神科医療を受けられるようにする」に、うつ病以外の精神疾患等によるハイリスク者対策の推進が加えられており、これは、うつ病以外の精神疾患である統合失調症、アルコール依存症、薬物依存症についても調査研究の推進や自助活動への支援などにより対策を進めるものである。
また、⑸「社会的な取組で自殺を防ぐ」には、インターネット上の自殺関連情報対策の推進が加えられた。

プラン策定の契機となった硫化水素など第三者に危害を及ぼすおそれの高い物質の製造方法を教示・誘引する情報について、削除するようサイト管理者等に対して依頼するインターネット・ホットラインセンターの取組支援、契約約款モデル条項の見直しによるプロバイダの対応の明確化を図ることなどが盛り込まれた。

さらに、⑼「推進体制等の充実」については、国において硫化水素による群発自殺のような特異事案の発生等への体制を整備するとともに、市町村においても自殺対策担当部局が設置されるよう働きかけを進めることとされた。
これら3つの新規項目については、自殺対策加速化プランの決定と同日の閣議において、自殺総合対策大綱が一部改正され、うつ病以外の精神疾患等によるハイリスク者対策の推進、インターネット上の自殺関連情報対策の推進、推進体制等の充実に係る項目、記述が大綱本体にも盛り込まれた。
イ いのちを守る自殺対策緊急プラン
平成21年11月27日、年間の自殺者数が12年連続で3万人を超えることが判明したことから、自殺対策を担当する内閣府政務三役と内閣府本府参与からなる「自殺対策緊急戦略チーム」は、「自殺対策100日プラン」を取りまとめ、その中で、政府として取り組むべき「中期的な視点に立った施策」に関する提言を行った。
この提言を受けて、自殺をめぐる厳しい情勢を踏まえ、様々な悩みや問題を抱えた人々に届く「当事者本位」の施策の展開ができるよう、政府全体の意識を改革し、一丸となって自殺対策の緊急的な強化を図るため、平成22年2月5日、自殺総合対策会議において、「いのちを守る自殺対策緊急プラン」が決定された。
「いのちを守る自殺対策緊急プラン」においては、
・新たに、3月を「自殺対策強化月間」と定め、関係府省、団体等が連携して、重点的に広報・啓発活動を展開するとともに、心の健康相談等の関連施策を集中的に実施すること
・各種相談体制の充実・強化や、適切な相談機関へとつなぐ役割を果たすゲートキーパーの育成・拡充を図ること
・自殺統計データを地域ごとに詳細に分析・公表し、地域の実態を踏まえたきめ細かな対策が講じられるようにするこなどを始め、連帯保証制度等の制度・慣行に踏み込んだ検討、ハイリスク地やハイリスク者への重点対策、自殺未遂者・遺族への支援、政府の推進体制の強化等が盛り込まれた。
「いのちを守る自殺対策緊急プラン」の策定を受け、各府省において具体的な取組が推進されたが、中でも、プラン策定翌月の3月には、内閣府が中心となって、初めての自殺対策強化月間が実施され、集中的な広報啓発活動が展開された。

具体的には、「睡眠キャンペーン」の実施、「自殺対策強化のための基礎資料」の公表、ハローワーク等での対面型相談支援(総合相談会)の実施等が行われた。
ウ 平成24年の自殺総合対策大綱の見直しの経緯平成19年6月に閣議決定された自殺総合対策大綱は、おおむね5年を目途に見直すこととされていた。大綱の見直しに当たっては、まず自殺対策推進会議において、関係府省のヒアリングを行い、現大綱に基づく諸施策の進捗状況を把握した上で会議としての意見が取りまとめられた。

第2章

●自殺対策の基本的な枠組みと若者の自殺対策の取組れ、内閣府特命担当大臣(自殺対策)に報告された。
また、有識者のほか、現大綱の下で実際に自殺対策の推進に当たってきた現場の声を新大綱に反映させることが必要であると考えられたため、内閣府特命担当大臣(自殺対策)の下、「官民が協働して自殺対策を一層推進するための特命チーム」が置かれ、新たな自殺総合対策大綱において、政府と地方公共団体、関係団体、民間団体等との協働を一層進めるため、現場における現状と課題、今後の取組方針や行動計画等についてヒアリング等を行い、それに対す
る政府の役割を中心に議論を行った。このほか、全国の民間団体の声を聴くための民間団体ヒアリングを行った。これらのヒアリング等における有識者の意見や現場の声などで得られた知見を踏まえ、内閣府において新しい自殺総合対策大綱の素案を作成し、平成24年8月9日に自殺総合対策会議(持ち回り開催)で決定された。

その後、同月10日の自殺対策推進会議で素案について報告して有識者から意見を伺い、同日から17日まで意見公募を行った上で、同月28日
に新たな自殺総合対策大綱が閣議決定された。
平成24年大綱見直しのポイント
新たな自殺総合対策大綱では、副題と冒頭において「誰も自殺に追い込まれることのない社会」という目指すべき社会が提示され、これまでの自殺総合対策大綱の下での取組について総括した上で、今後の課題として、地域レベルの実践的な取組を中心とする自殺対策への転換が指摘されている。
また、自殺総合対策の基本的な考え方として、「政策対象となる集団毎の実態を踏まえた対策を推進する」、「国、地方公共団体、関係団体、民間団体、企業及び国民の役割を明確化し、その連携・協働を推進する」の2つが追加されるとともに、当面の重点施策として、「自殺や自殺関連事象等に関する正しい知識の普及」、「様々な分野でのゲートキーパーの養成の促進」、「大規模災害における被災者の心のケア、生活再建等の推進」、「児童虐待や性犯罪・性暴力の被害者への支援の充実」、「生活困窮者への支援の充実」などの施策が新たに盛り込まれている。
さらに、推進体制等について、「国、地方公共団体、関係団体、民間団体等が連携・協働するための仕組み」、「中立・公正の立場から本大綱に基づく施策の実施状況、目標の達成状況等を検証し、施策の効果等を評価するための仕組み」を設けることとしている。
なお、自殺対策の数値目標について、平成28年までに、自殺死亡率を17年と比べて20%以上減少させることとしており、また、大綱については、おおむね5年を目途に見直しを行うこと
としていたことを受けて、29年7月25日に新たな自殺総合対策大綱が閣議決定された(第2節「自殺総合対策大綱の見直し」を参照。)。
3 国における自殺対策の推進体制
⑴ 国における自殺対策の推進体制
平成18年10月、自殺対策基本法に基づき、内閣官房長官を会長とし、内閣総理大臣が指定する関係閣僚を構成員とする「自殺総合対策会議」が設置された。同会議は、大綱の案の作成のほか、自殺対策に必要な関係行政機関相互の調整、自殺対策に関する重要事項について審議し、その実施を推進することとされ、各府省にまたがる自殺対策を統括し推進するための枠組みとしての機能を担っている。また、19年4月、内閣府に自殺対策推進室が設置され、自殺総合対策会議の事務局機能を担うこととされた。同室においては、自殺総合対策大綱の下、企画・立案・総合調整に関する事務を行っており、地方公共団体や自殺防止等に関する活動を行っている民間団体とも連携しつつ総合的な自殺対策を推進してきた。
自殺総合対策会議の下には、有識者等による自殺対策推進会議(平成20年~25年)、自殺対策検証評価会議及び自殺対策官民連携協働会議(25年~)が置かれ、施策の実施状況の評価並びにこれを踏まえた施策の見直し及び改善等についての検討に民間有識者等の意見を反映するための枠組みを整えた。
さらに、平成22年には、自殺総合対策会議の下に、内閣府特命担当大臣(自殺対策)、国家公安委員会委員長、総務大臣、厚生労働大臣を共同座長とし、自殺対策に特に重要な役割を果たす府省の副大臣・政務官等によって構成される自殺対策タスクフォースが設置された。24年9月には、タスクフォースに代わり、内閣府特命担当大臣(自殺対策)を座長とし、関係府省の副大臣等によって構成される自殺対策の機動的推進のためのワーキングチームが設置された。
また、平成18年10月1日に国立精神・神経センター(現:国立研究開発法人 国立精神・神経医療研究センター)精神保健研究所に設置された「自殺予防総合対策センター」は、自殺対策に関する情報の収集・発信、調査研究、研修等の機能を担う機関として位置付けられてきた。
※これらの業務に関する平成27年度以降の動きについては、⑵を参照。
⑵ 国における自殺対策の推進体制の見直し
平成27年1月に閣議決定された「内閣官房及び内閣府の業務の見直しについて」において、自殺対策の推進業務は厚生労働省へ移管することとされた。9月には、業務移管に必要な法整備を行う「内閣の重要政策に関する総合調整等に関する機能の強化のための国家行政組織法等の一部を改正する法律」が成立し、同法に基づき、28年4月1日をもって業務が移管された。
自殺対策基本法の施行以来、内閣府において自殺総合対策大綱を2度策定し、これに沿った様々な取組が進められてきた結果、自殺者数が約2万4,000人まで減少するなど、着実に成果を出してきた。一方、今後、地域レベルの実践的な取組を中心とする自殺対策への転換を一層進め、健康問題や経済的困窮を始めとする自殺の背景にある様々な要因に対して、地域において自殺対策の中核を担っている自治体の保健・福祉部局等や、経済的な自立を支えるハローワークなどの現場と緊密に連携することがますます重要となると考えられた。このため、今般の業務見直しにおいては、こうした現場と関連が深い厚生労働省に移管することで、取組体制の更なる強化を図ることになったものである。
本業務移管に伴い、自殺総合対策会議の会長は厚生労働大臣とされ、事務局も厚生労働省に移管された。

また、平成28年4月1日に厚生労働省に自殺対策推進室が設置され、内閣府の担ってきた事務を引き継ぐこととされた。さらに、同日付けで、厚生労働大臣を長とする「自殺対策推進本部」を設置し、多岐にわたる自殺対策を総合的に推進するため、保健、医療、福祉、労働その他の関連施策の有機的連携を図り、省内横断的に取り組んでいくこととした。
なお、自殺予防総合対策センターについては、今後の業務の在り方について厚生労働省において有識者を交えて検討を行い、平成27年7月に報告書を取りまとめた。同報告書等を踏まえ、28年4月1日に自殺予防総合対策センターを自殺総合対策推進センターに改組し、組織体制について地域連携推進室を新設するなどの強化を図ることとした。

国における対策を総に支援する視点からは
・精神保健的な視点に加え、社会学、経済学、応用統計学等の学際的な視点
1 平成28年4月1日に「自殺総合対策推進センター」に改組されているが、本節では、原則として改組前の取組については旧称を使用している。

第2章 ●自殺対策の基本的な枠組みと若者の自殺対策の取組
・民学官でPDCAサイクルを回すためのエビデンスに基づく政策支援 に、地域レベルの取組を支援する視点からは、
・民間団体を含む基礎自治体レベルの取組の実務的・実践的支援の強化
・地域が実情に応じて取り組むための情報提供や仕組みづくり(人材育成等)に取り組んでいくこととした。
地域における自殺対策の推進
⑴ 地域における連携・協力の進展
自殺対策基本法において、地方公共団体は、地域の状況に応じた施策を策定し、及び実施す
る責務を有すると定められている。地域の多様な関係者の連携・協力を確保しつつ総合的な自
殺対策を推進する上で、地域で総合行政を実施し、地域住民と身近で関わっている地方公共団
体は、重要な役割を担っている。
自殺対策基本法の成立や自殺総合対策大綱の策定を受け、各都道府県において、自殺対策を
担当する部局等が明確化されるとともに、平成20年度末までに全都道府県において様々な分野
の関係機関・団体により構成される自殺対策の検討の場として、自殺対策連絡協議会等が設置
された。現在、各地方公共団体において、自殺総合対策大綱を踏まえた総合的な自殺対策に関
する計画づくり、地域で活動している自殺対策に関係する様々な団体等と密接に連携・協力し
つつ一体となって自殺対策を推進することができるような体制の構築等、地域の状況に応じた
多様な自殺対策に関する活動が行われている。
こうした地方における取組を支援し、国と地方とで連携して自殺対策を推進するため、内閣府
では、関係省庁の協力の下、都道府県及び政令指定都市の自殺対策主管部局に対し、政府の方
針、予算、地域自殺対策緊急強化事業について情報提供を行うとともに、情報交換等を行う場と
して、全国自殺対策主管課長等会議を20年度から随時開催してきた。また、各地方公共団体に
おける地域の特性に応じた施策の推進に資するよう、毎月、警察庁から自殺統計原票データの提
供を受け、市区町村別まで集計し、都道府県を通じて情報提供を行うとともに、ホームページで
公表してきた。なお、自殺統計原票データの集計業務については、22年9月に内閣府経済社会総
合研究所の下に置かれた分析班において行っていたが、24年以降は内閣府自殺対策推進室に引
き継がれ、さらに28年4月に先述の業務移管に伴い、厚生労働省自殺対策推進室へ移管された。
28年4月に業務が移管された厚生労働省では、自殺の状況及び自殺対策に関する基礎自治体
のトップの理解を深め、地域での自殺対策を促進させることを目的とする自殺対策の研修会と
して、28年9月から「地域自殺対策トップセミナー全国キャラバン」の実施について、開催地
の都道府県及びNPO法人自殺対策支援センターライフリンクとの3者共催で取り組んでいる。
なお、自殺総合対策推進センターが平成29年10月~11月に実施した調査によると、地方公共
団体において、地域自殺対策計画(自殺対策基本法第13条に定める自殺対策計画に準ずるもの
を含む)を策定しているのは、48都道府県・政令指定都市(71.6%)、126市区町村(8.6%)と
なっている。予定を含めて、自殺対策計画を策定するのは、65都道府県・政令指定都市
(97.0%)、724市区町村(49.2%)となっている。
⑵ 地域自殺対策強化事業
〈地域自殺対策緊急強化基金の概要〉
内閣府では、「地域における自殺対策力」を強化するため、平成21年度補正予算において100
25
億円の予算を計上し、都道府県に当面3年間の対策に係る「地域自殺対策緊急強化基金」を造
成した。これは、平成10年以降、年間の自殺者数が11年連続して3万人を超えたこと、また、
厳しい経済情勢を背景とした自殺の社会的要因である失業や倒産、多重債務問題の深刻化への
懸念から、追い込まれた人に対するセーフティーネットの一環として、地域における自殺対策
の強化が喫緊の課題となっていたことを踏まえたものである。当時、地方公共団体における総
合的な自殺対策は、国における自殺対策の本格的な推進を受けて数年前から開始したところが
多く、本格的な取組が全都道府県で行われているとは言えず、市町村に至っては、20年10月末
に決定した自殺対策加速化プランに基づき自殺対策担当の部局等が設置されるよう働きかけを
行ったばかりという状況にあった。
地域自殺対策緊急強化基金の100億円の予算については、各都道府県の人口や自殺者数等に
基づき配分され、各都道府県では、条例を制定するとともに、実施事業の内容等を盛り込んだ
計画を策定し、執行された。基金事業の内容については、国が提示した対面型相談支援事業、
電話相談支援事業、人材養成事業、普及啓発事業及び強化モデル事業の5つのメニューの中か
ら、各都道府県が地域の実情を踏まえて選択し、実施された。
基金事業の効果については、「地域自殺対策緊急強化基金評価・検証チーム」(平成24年度)
及び自殺対策検証評価会議(平成25年度以降)において、事業実績を基にした定量的な分析と
地方公共団体へのヒアリング等による定性的な分析の両面から検証・評価が行われた。
この基金は、その後の年度における累次の補正予算により積み増し等が行われ、地域の自殺
対策に活用された。
〈平成26年度以降の対応〉
平成26年度補正予算において、後述の地域自殺対策強化交付金が措置された一方、地域自殺
対策緊急強化基金についても、使途を東日本大震災における避難者又は被災者向けの自殺対策
に限定した上で、実施期限を平成27年度末まで延長した。これは、東日本大震災における避難
者又は被災者向けの自殺対策については、基金造成から5年(東日本大震災発災から3年)経
過した当時においてもなお、自殺対策を行う体制が整っておらず安定的かつ効率的な事業の実
施が見込めない状況であったため、基金による事業の実施が望ましいと判断されたためであ
る。なお、27年度以降毎年度、東日本大震災避難者・被災者向け自殺対策の重要性に鑑み、基
金事業の実施期限を1年ずつ延長した。現在の実施期限は、30年度末までである。
〈地域自殺対策強化交付金〉
我が国の自殺者数は、平成24年以降3万人を下回り、26年には25年をさらに下回ったもの
の、依然として、急増した平成9年以前の水準にまで戻っておらず、特に20歳代以下について
は、自殺者数の減少幅は他の年齢階級に比べて小さいものにとどまっていた。
若年層向け自殺対策や、経済情勢の変化に対応した自殺対策など、特に必要性の高い自殺対
策に関し、地域の特性に応じた効率的な対策を後押しし、地域における「自殺対策力」の更な
る強化を図る必要があることから、内閣府では、平成26年度補正予算において、地域自殺対策
強化交付金として、25億円を計上した。同交付金については、27年度に繰越しを行い、同年度
に実施する自殺対策事業に充てられるよう対応を行った。
〈平成28年度当初予算における対応〉
これまでの地域自殺対策緊急強化事業は、基金にせよ交付金にせよ、年度途中において自殺
26
第2章 ●自殺対策の基本的な枠組みと若者の自殺対策の取組
対策を取り巻く環境が予断を許さない状況に置かれ、その対処が必要になったという事情を踏
まえ、その都度補正予算での措置が行われてきた。一方、地域における自殺対策の推進につい
て、施策の検証・評価を行いながら中長期的視点に立って継続的に進めるためには、当該地域
における継続的かつ安定的な財源の確保が課題であり、地方公共団体のみならず、自殺対策に
取り組む民間団体等からも安定的な財源による地方への支援が要望された。内閣府では、平成
28年度予算概算要求において、地域における自殺対策に係る自主的な財源も組み合わせつつ、
継続的な対策を後押しするため、地域自殺対策強化交付金として25億円を要求し、全額が厚生
労働省予算として計上された。
〈平成29年度当初予算における対応〉
地域における自殺対策の継続的な取組を推進するため、地域自殺対策強化交付金として25億
円が予算計上された。また、より地域での効果的な取組を後押しするため、同交付金の事業メ
ニューに、深夜時間帯に電話、メール、SNS等による相談窓口の設置・運営を行う「深夜電話
相談強化事業」及び、地域特性を踏まえて当該地域の自殺者が減少することが見込まれる対策
に重点特化する「地域特性重点特化事業」を新たに盛り込んだ。また、「地域特性重点特化事
業」の事業メニューで「モデル市町村計画策定事業」を実施し、計画策定のモデルを示すこと
により、平成28年の自殺対策基本法の改正により位置づけられた市町村自殺対策計画の策定を
支援することとした。
〈地域自殺対策強化交付金の事業実績〉
平成27年度における実績をみると、都道府県単位では、全ての都道府県が交付金事業を実施
しており、執行総額は9億6,000万円である。内訳は、若年層対策事業2億5,900万円、対面相
談事業7,200万円、電話相談事業2億7,100万円、人材養成事業1億4,100万円、普及啓発事業
7,000万円、未遂者支援事業1億3,400万円、強化モデル事業(未遂者支援事業以外)1,300万円
となっている。
また、市町村単位では、交付金事業を実施する市町村数は1,198市町村であり、執行総額は6億7,000万円である。内訳は、若年層対策事業1億6,100万円、対面相談事業1億1,700万円、電話相談事業1億2,300万円、人材養成事業8,800万円、普及啓発事業1億200万円、未遂者支援事業6,400万円、強化モデル事業(未遂者支援事業以外)1,300万円となっている。
平成28年度における実績をみると、都道府県単位では、全ての都道府県が交付金事業を実施しており、執行総額は約6億4,300万円である。内訳は、対面相談事業6,800万円、電話相談事業1億5,100万円、人材養成事業7,800万円、普及啓発事業6,200万円、自死遺族支援機能構築事業1,100万円、計画策定実態調査事業900万円、若年層対策事業1億2,800万円、自殺者未遂支援事業5,000万円、自殺未遂者支援・連携体制構築事業5,200万円、災害時自殺対策事業2,100万円、ハイリスク地対策事業1,300万円となっている。
また、市町村単位では、交付金事業を実施する市町村数は1,204市区町村であり、執行総額は約6億4,500万円である。内訳は、対面相談事業1億2,500万円、電話相談事業6,200万円、人材養成事業4,600万円、普及啓発事業1億900万円、計画策定実態調査事業1,300万円、若年層対策事業2億500万円、強化モデル事業200万円、自殺者未遂支援事業2,300万円、自殺未遂者支援・連携体制構築事業2,300万円、災害時自殺対策事業700万円、ハイリスク地対策事業3,000万円となっている。


鳥谷に退団を決意させた阪神の危機管理不足

2019年09月12日 13時00分04秒 | 野球

9/12(木) JBpress

甲子園が耳をつんざくような凄まじい大歓声に包まれた。

 11日の阪神タイガース対東京ヤクルトスワローズ戦。8回一死一塁の場面で代打としてコールされたのは、今季限りでの阪神退団を表明している鳥谷敬内野手だった。そしてヤクルト・平井の投じた5球目のフォークをとらえ、左翼線へと運ぶと一塁走者の梅野隆太郎捕手は一気に本塁まで激走。適時二塁打となり、鳥谷は今季94打席目にして初打点をマークした。

2013年、ワールド・ベースボール・クラッシック(WBC)に日本代表として出場した鳥谷敬。2次ラウンドのオランダ戦で、先頭打者ホームランを放った

 スタンドでは涙を流す虎党も数多くいた。すでに4点をリードしていた場面で点差的にも決して無理をする必要性はなかったとはいえ、難しいタイミングのところで躊躇せずに一塁から本塁生還を果たした梅野のアシストには〝何としてでも鳥谷さんに打点をプレゼントしたい〟という執念が感じ取れた。これだけファン、そしてチームメートからも愛され、尊敬の念を持たれている生え抜きの名野手は今の阪神になかなかいない。なぜ、その鳥谷はチームを去らなければいけないのか。理解に苦しむと言わざるを得ない。

■ 「引退勧告」を拒否し移籍を明言

 すでに知られている通り8月31日、鳥谷自身が大勢のメディアの前で「『引退してくれないか』と言われました。タイガースのユニホームを着てやるのは今シーズンで最後です」と打ち明け、大騒動となった。その2日前の同月29日、鳥谷は球団首脳3人と極秘で緊急会談を行い、引退勧告を受けたものの現役へのこだわりが強いことから「他球団へ行きます」と即答していたという。

 在阪メディアの中には、緊急会談の席上に球団社長、球団本部長、球団副部長のトップ3人が出席し、シーズン終了を待たずして極力早めに鳥谷へ直接頭を下げて引退をお願いしていたのだから、球団側の動きについて「特に非礼ではない」「むしろ最善の策を尽くしたはずだ」などと擁護する媒体も複数ある。その場で鳥谷本人がOKする運びとなっていたならば、球団側は今季の残り試合の中で引退試合開催の段取りも組めると踏んでいたようだ。

 しかし、そんな球団側の読みも完全に当てが外れる格好となった。実はここにきて阪神球団内部からも「そもそも(球団幹部が鳥谷に)『ユニホームを脱いでください』と言ったこと自体が失礼な話ではなかったのか」と眉をひそめる関係者が続出し始めている。

今季は年俸4億円(推定)で締結していた5年契約の最終年。もっぱら代打要員に甘んじて成績も超低空飛行の状態だっただけに、38歳という年齢面も考慮すれば費用対効果には見合わないと判断されるのも確かに無理はない。

 ただ、それはあくまでも「普通の選手であれば」というエクスキューズが付いている場合に限られる。

■ 「阪神でユニフォームを脱いでほしい」という球団のわがまま

 阪神は甘い経営判断によって本来は慎重に交渉すべきだったはずのレジェンド・鳥谷を「タイガースでユニホームを脱いでほしい」というわがままな希望だけが先走り、ドラスティックにばっさり切ろうとしてしまった。もう少しリスペクトする姿勢で接していれば、引退勧告などという一方的でぶしつけな言い方ではなく、互いの希望をすり合わせながら納得のいく着地点を見出すことが出来たかもしれない。

 阪神に籍を置く古参の球団関係者も次のように憤る。

 「個人的に言わせてもらえれば、鳥谷は年俸等の条件を大幅に下げてでも本人に納得がいくまで阪神で現役を続けさせていくべきだった。彼は阪神でチームメートやファンが心を震わせられる〝最後のレジェンド〟。唯一無二の存在です。

 結果論を承知で言えば、いきなりの引退勧告がレジェンドを怒らせる形になってしまった。巷で鳥谷に対する引退勧告に関して『何も間違っていない』という指摘もありますが、それはウチの球団のミスを余りにもかばい過ぎです。今回の問題で一番看過してはいけないのは、ウチの幹部たちが鳥谷の現役にこだわる心情を全く理解していなかったということですよ。引退勧告をすれば鳥谷も現状を察し、きっと受け入れてくれると甘い考えを抱いていた。ところが、このザマです。

 とにかく鳥谷と定期的に将来に向けた話し合いをしていなかったことで流れを見誤ってしまった。つまりはリサーチ不足が、すべての原因なのです」

阪神の長い歴史上において、生え抜きでの2000本安打達成を果たした2人のうちの1人。虎一筋16年の大功労者にもかかわらず、最後の最後で致命的なミスによって他球団流出の危機を招いてしまったのだから、阪神という球団はマネジメントする側の体制に何か大きな欠陥があると言わざるを得ない。

■ レジェンドと「絶縁」になりかねない不手際

 鳥谷は今オフの移籍先として中日、ロッテなど複数球団の名前が取り沙汰されているが、いずれにせよ今季限りで阪神とは距離を置くことになりそうだ。実際に「引退勧告を受けたことに気分を害した上、その緊急会談が行われた情報が在阪メディアに漏れ伝わったことにも球団への不信感を募らせている」「〝出入り禁止〟となることを恐れて阪神球団に批判的な記事が書けず『鳥谷への引退勧告を出した球団側の姿勢は正しかった』と評する在阪メディアにもうんざりしている」などといった情報も鳥谷の周辺からは聞こえて来る。

 このまま虎のレジェンドが古巣と〝絶縁〟になってしまったら、それこそ元も子もない。ここのところ何かと契約問題で不穏な話題ばかりが繰り返されるタイガースに明るい未来は果たしてあるのだろうか。経営陣には今一度、足元を見直して欲しい。

臼北 信行

 



宇宙の日

2019年09月12日 12時31分57秒 | 社会・文化・政治・経済

宇宙の日は、国際宇宙年であった1992年に日本の科学技術庁(現・文部科学省)と宇宙科学研究所(現・宇宙航空研究開発機構宇宙科学研究所)が制定した記念日。公募により、毛利衛が日本人として初めてスペースシャトルに搭乗して飛び立った9月12日に定められた。

「宇宙の日」と10月4日から10月10日までの「国際宇宙週間」の両方を含む1ヶ月間を『宇宙の日』ふれあい月間」として、後述のふれあいフェスティバルや宇宙開発関連施設の一般公開などが行われる。
毎年9月中旬の週末に開催される小中学生とその親を対象としたイベント。1993年から2001年までは「宇宙ふれあい塾」という名称だった。宇宙に関する展示や日本人宇宙飛行士などによる講演、ペットボトルロケットの工作、作文・絵画コンテストの表彰式などが行われる。

また、2001年からは日本人が発見した小惑星のうち、まだ命名されていないものに名前を付けることも行われている。事前に公募した名前の中からいくつかの候補に絞り込み、当日会場に集まった子どもたちの拍手が一番大きかった名前が選ばれる(後日国際天文学連合小惑星センターに提案し、承認された時点で正式に命名されたことになる)。


なぜ天皇は日本人にとって特別な存在なのか

2019年09月12日 08時08分25秒 | 社会・文化・政治・経済

『徳間書店』
黄文雄(評論家)

《徳間書店『世界が憧れる天皇のいる日本』より》

天皇の権威は「神格化」からくるものではない

 バチカン教皇庁のローマ教皇やかつてのオスマン・トルコの皇帝、ロシア帝国のツァーリが、権力と権威の両方を持つことは知られている。

 日本の天皇は権威を持っているが、権力者ではない。権威というものはたいてい長い歳月を経た伝統から生まれるものが多いが、「造神運動(ぞうしんうんどう)」、いわゆる「神格化」によって作り出されるものもある。その一例としては、文革中、毛沢東を神格化しようとした「造神運動」がある。全民運動による物量作戦で、毛沢東が毛沢東思想とマルクス・レーニン主義の最高峰として不動の権威を確立したことはよく知られている。

 日本の天皇が神聖視されるようになったのは明治維新後からではない。「現人神(あらひとがみ)」「現御神(あきつみかみ)」と呼ばれたのは、日本人のごく自然の感情の発露であって、神格化された神ではない。
伊勢神宮を参拝するため近鉄宇治山田駅に到着された天皇、皇后両陛下。左は20年ぶりに携行される「三種の神器」の剣=2014年3月25日午後、三重県伊勢市(沢野貴信撮影)
伊勢神宮を参拝するため近鉄宇治山田駅に到着された天皇、皇后両陛下。左は20年ぶりに携行される「三種の神器」の剣=2014年3月25日午後、三重県伊勢市(沢野貴信撮影)
 大日本帝国憲法に「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(第一条)、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(第三条)という記載があるが、それは権威に関する記述であって、国家の大事はほとんど議会、閣議で決定し、天皇が独断で決めたことはない。

 和辻哲郎(わつじてつろう)は、天皇は「現御神」であっても「ヤーヴェやゼウスのように超自然的超人間的な力を振るう神なのではない」として「御自らも神仏に祈願せられる」という祭司としての神だと指摘している(『尊王思想とその伝統』)。

 『聖書』の「創世記」では、人間は天の父によって「つくられた」ものだとされている。これに対し、日本人は「神から生まれた」もので、神とは直接血がつながっているとされる。初代の神武(じんむ)天皇の開国は、武力によるよりも天照大神(あまてらすおおみかみ)からの血のつながりによってなされた伝統的権威であって、新たに「造神運動」などする必要がなかった。

 天皇の真の使命は祭祀(さいし)だ。それは祭主としての神聖観からくる使命である。即位の後の大嘗祭(だいじょうさい)において、進退をつねに三種の神器とともにしていることからも明らかである。
 神武天皇以来、125代の天皇の中で、かつて「天皇親政」といわれる時代もあったが、それでも天皇が絶対的権力を牛耳って国家を支配したことはない。「君臨しても治めず」だった。

 日本人の精神史から見て、天皇を神聖視するのは、はるか国家成立以前からである。和辻哲郎は、「天皇の神聖な権威は国民的統一が祭祀的団体としての性格において成り立ち来るところにすでに存する」(同右)と指摘した。天皇の神聖性は、政治的統一が行われるよりも遥(はる)かに古い時期に形成されたものなのである。

 近代欧州の王権については「王権神授説」がある。西欧の神はGOD(ゴッド)であり、宇宙万物を創造した唯一の神で、超自然的な存在である。その神から王権を授かったとするのが「王権神授説」である。

 一方、日本は「神授」とは違って、神代(かみよ)から「自然神」であり、神は神から生まれ、神は葦(あし)の芽(め)のように自然から生まれたものと考えられている。縄文文化を見ても、自然神信仰のアニミズムである。自然を神とする信仰から、天皇が神を祭る祭主として神聖視されるのもごく自然な感情で、「造神運動」から神格化されたものではなく、自然からごく自然に生まれた自然の感情である。

 大日本帝国憲法と並ぶ「皇室典範(こうしつてんぱん)」には、皇嗣(こうし)が皇位を継ぐ践祚(せんそ)に際し天皇が「祖宗ノ神器ヲ承」とあり、「祭主」としての相続のあり方が明記されている。

 日本は祭りの国として知られる。全国各地でさまざまな祭りが行われ、住民が絆(きずな)を育(はぐく)む場ともなっている。その土地その土地の神社を中心に行われることが多いが、精霊を慰める盆祭りなど寺院中心の祭りや、神社と寺院が半々のものもある。神社によって祭祀の様式に異なりはあるが、だいたいが「国安かれ民安かれ」と日常の罪(つみ)穢(けが)れを祈りによって禊(みそぎはら)祓いするものである。五穀豊穣(ほうじよう)を祈る天皇の祭祀となったものだった。
新嘗祭に臨まれる天皇陛下=2013年11月23日、皇居・神嘉殿(宮内庁提供)
天皇は国の祭主として、全国の主要神社に幣帛(へいはく)(神への供え物)も供進している。つまり天皇は国の祭祀の中心的祭主にほかならず、祭主としての君主として、日本人に仰がれてきたのである。それが天皇と国民を結ぶ紐帯(ちゆうたい)となり、天皇が国体の中核的存在になったのだった。

 福沢諭吉は『帝室論(ていしつろん)』(1882年)に「古代の史乗に徴するに日本国の人民が此(この)尊厳神聖を用いて直に日本の人民に敵したることなく又日本の人民が結合して直に帝室に敵したることもなし」と書いている。

 洋の東西の歴史を見ると、国と民が敵対することが多いものである。たとえば易姓革命の国、中華の国は、「有徳者」が天命を受けて天子たる皇帝に即位するということを建前としているが、実際には天意と民意が異なる場合が多い。だから皇帝に基づく国権を重んじ、民権に反対してきたのである。

 中国では、「国富民窮(こくふみんきゅう)(貧)」という言葉があるように、国富と民富とは対立するものなのである。「剥民肥国(はくみんひこく)」、民をしぼって国が肥(ふと)るという成語も生まれた。奴隷や愚民が理想的な人間像だから、ヘーゲルが「万民が奴隷」と定義する東洋型独裁専制の代表的な「国のかたち」こそ、中華帝国なのである。民は王朝とはまったく利害関係を共有しないので、「生民」「天民」とも称せられるのだ。

 天皇が国体の中心となる国、日本の天皇が神聖視されるのは、統治者としての君主であることよりも、祭主であることによるのだろう。
「昔の日本人は天皇を知らなかった」のウソ

 戦後日本の「進歩的文化人」は、「江戸時代の日本人は天皇の存在を知らなかった」という主張まで始めた。これに対して里見岸雄(さとみきしお)(1897~1974)は著書『万世一系の天皇』で、こうした進歩的文化人らはただ2、3の特例を拾って、維新前の大部分の日本人が天皇を「知らなかった」と結論づけているが、その論証はあいまいで漠然としており、史実とはかなり乖離(かいり)している、としている。

 もし日本人が天皇の存在を知らなかったとすれば、幕末のあの強烈な勤王思想(きんのうしそう)が、庶民の間にですら盛んな勢いで沸き起こったことを説明できないし、明治以降の国民の天皇崇拝意識もあり得ない。薩長(さっちょう)によってとってつけられたような天皇の権威であるなら、決して君民一体の大日本帝国は生まれなかったはずである。

 江戸時代の民間文化や伝説の多くは、皇室の雅(みやび)に対する庶民の憧(あこが)れによって生まれたものである。たとえば雛祭(ひなまつり)はもともと宮中の伝統行事だったが、江戸中期以降に庶民の間でも流行した。雛人形は天皇を象(かたど)った人形にほかならない。庶民の間に流行した歌舞伎の戯曲(ぎきょく)や俳句、短歌でも、よく日本は「神国」と表現されたが、それは天照大神の子孫である天皇が治める国々という意味である。庶民に人気の「お伊勢参り」も「皇祖参り」以外の何ものでもなかった。明治初年、奥羽の住民は古来の注連縄(しめなわ)を門前に張って天皇の行幸(ぎょうこう)を仰(あお)いだ。これも天皇が天照大神の子孫であることを知っていたからである。祭りが大好きな日本人が、最高の祭主が天皇であることを知らなかったなどとは、どうしても考えられない。

 大君の征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)、徳川の権力の根拠はどこにあるかといえば、それは天皇から付与されているという一言につきる。

 國學院大學教授の大原康男(おおはらやすお)氏は著書『現御神考試論(あきつみかみこうしろん)』(暁書房)で、日本人は天皇を知らなかったという説について、はっきりと論拠だとする資料がほとんど提示されていないことを指摘している。

 江戸中期に来日したオランダ商館長、ティッチングなど西洋人の日本見聞録には、日本の元祖は天皇であり、将軍はそれの武官であると記されている。

 西洋人の日本見聞録にさえ書かれているぐらいのことを、日本人が知らないことがあるだろうか。武士にしてもほとんどが源氏か平氏の末裔(まつえい)と名乗り、自らの先祖が皇祖とつながっていることを意識していたのはいうまでもない。武士だけが知っていて、庶民が知らないということはないだろう。もし江戸時代の日本人が天皇を知らなかったら、「尊王攘夷(そんのうじょうい)」を掲げることもなかっただろう。

 戦前戦後の天皇観に大きな変化があったことは事実である。天皇を戴く日本の国体は、神代の時代から続く、「万邦無比」(世界唯一)の国体だからだ。

 古来、天皇は日本の国土を統一した大和朝廷の後継者としての政治的、権力的天皇と、国の祭主としての日本伝統文化の集約者、代表者という天皇観があった。
 繰り返しになるが、天皇は国を代表して国家、国土の祭祀を行う祭司王だということである。大嘗祭や践祚などは、その皇権の権威と正統性を伝えるものだからだ。戦後は、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と日本国憲法にも明記されている。「万邦無比」の論拠の1つとなっているのが「万世一系」である。「万世一系」論は、20世紀初頭の辛亥(しんがい)革命(1911年)後に清(しん)王朝が崩壊した後、支那(しな)学者や東洋学者から国学者にいたるまで、日本人はしきりに易姓革命の国と「万世一系」の国を比較した。
清朝末期に制定された欽定憲法大綱は、明治の帝国憲法をモデルに「万世一系」の文言まで条文に入れたが、戊戌(ぼじゅつ)維新も立憲運動も、清の皇統と皇帝の権力を護持することに成功しなかった。満洲人の主張によれば、満洲史は支那史とは並行して5000年を有しているという伝説があるものの、太祖(たいそ)のアイシンカクラ・ヌルハチが後金国を建国してから約300年の歴史しかなく、日本とは異なり神代からの「万世一系」とは言えなかった。

 実際には天皇国家日本に類似する国体が20世紀の初頭、アフリカの高地エチオピアに存在していた。しかしこの国体は1974年に消え、今現在「日本の万世一系」の国体はたしかに「万邦無比」のものである。

 第2章でも記述したが、「万世一系」に対する批判は戦後起こったものではなく、戦前にもあった。早大教授、津田左右吉博士の『古事記及び日本書紀の新研究』『神代史の研究』などの文献学的批判は有名である。

 また、こちらも繰り返しになるが、戦後、江上波夫東大名誉教授が1948(昭和23)年に「騎馬民族征服王朝説」を説くと、大きな話題を呼び、論争になった。水野祐(みずのゆう)早大名誉教授が1952(昭和27)年、『日本古代王朝史論序説』を著して「万世一系」思想を否定し、いわゆる「三王朝交替説」を説く。古代日本では、互いに血統の異なる3つの王朝が交替していたとする説である。

 春秋戦国(しゅんじゅうせんごく)時代以前の黄河中、下流域の中原(ちゆうげん)地方も血縁が異なるどころか、夏(か)人、殷(いん)(商)(しょう)人、周(しゅう)人など3つの異民族が約2000年にもわたって混合されて形成された文化集団が、いわゆる華夏の民、漢人の祖先とされている。水野教授の「三王朝交替説」は、日本上古史のことで、実証するには限界があるだろう。こうした「万世一系」否定説は、考古学、民俗学、神話学、国文学など、さまざまな分野や論者から出ている。

 「万世一系」説以外に「天皇不親政」論も大きな議論のテーマとして残っている。津田左右吉は「建国の事情と万世一系の思想」(雑誌「世界」1946年4月号 『津田左右吉歴史論集』岩波文庫)と題する一文の中で、「天皇親政論」について、「国民的結合の中心であり国民的精神の生きた象徴であるところに、皇室の存在の意義があることになる。そうして、国民の内部にあられるが故に、皇室は国民と共に永久であり、国民が父祖子孫相承(あいう)けて無窮に継続すると同じく、その国民と共に万世一系なのである」と説いている。

 実際、超古代史は「謎解き」の説に止まっていることはよく知られている。大和朝廷以後の日本史には、政権を握った蘇我(そが)、平、源(みなもと)、足利(あしかが)、豊臣、徳川などが登場する。文官もあれば武官もあり、政体は異なるが、天皇不親政が伝説となっている。

 しかし、天皇不親政についても批判は少なくない。古代の天武(てんむ)天皇前後の天皇や中世の後醍醐天皇などは親政した、戦前の明治憲法では、天皇は国家元首として統治権の総攬者(そうらんしゃ)であるとの規定があり、大権を持っていたので、戦後の「象徴天皇」とは異なるなどの主張もあり、天皇論は続いていく。
「現人神」と「ゴッド」の違い

 中国の日本研究者には、日本の天皇を「古代からの奴隷主」と決めつける者が少なくない。それは伝統的中華史観からではなく、人民共和国成立後に跋扈(ばっこ)したマルクス、スターリンの「史的唯物論」のドグマからくる発想である。

 人民共和国政権が成立した後、伝統的正統主義的中華史観は全面的に禁止され、革命史観しか許されなかった。唯物弁証法(ゆいぶつべんしょうほう)に基づく唯物史観である。唯物史観の図式によれば、人類の発展は原始共産社会から奴隷社会へ、さらに封建社会、資本主義社会、そして社会主義社会・共産主義社会へと発展していくというものである。

 日本は「日本民主主義人民共和国」の革命成らず、社会主義社会にまで発展することができなかったと、中国人日本研究者は考えた。奴隷社会という中国の史実と現実からの投影もある。

 詩人、政治家、そして古代史研究家でもあった郭沫若(かくまつじゃく)は、中国の代表的文化人といえる。『中国古代社会研究』や『十批判書』などの著名な著書の中で、氏は古代中国社会は奴隷社会だと説いている。

 中国近代文学の父として、神格化された毛沢東とともに唯一中国で高く評価されている魯迅(ろじん)が唱えた中国奴隷史説も有名である。

 魯迅は学者の歴史の時代区分に反対し、中国史を「奴隷になろうとしてもなれなかった時代としばらく奴隷になれて満足している時代」とに二分すればよいと説いている。魯迅だけでなく、中国史を奴隷史と説く近代中国の文人は多い。

 人民共和国の国歌「義勇軍行進曲」は冒頭、「奴隷になりたくない人民よ、立ち上がれ」と勇壮な文句で始まる。しかし、中国人は結局立ち上がることはできず、「社会主義中国」の中身は「新しい奴隷制度」にすぎないとも指摘されている。

 マックス・ウェーバーは中国を「家産制国家」(支配者が国家を私的な世襲財産のように扱う国)と呼んだ。ヘーゲルの定義によれば、「一人だけが自由、万民が奴隷」という「アジア型専制独裁国家」の典型である。人民共和国が「真の人民民主主義」と誇りにする「人民専制(プロレタリア独裁)」そのものが、まさしく中国政府が自称する「中国的特色を持つ社会主義」だろう。

 山本七平(やまもとしちへい)(1921~1991)によれば、奴隷制度がないのは、世界で日本人とユダヤ人だけだという。
 
 日本人が「現人神」として抱く伝統的な天皇観は、キリスト教を信仰する西洋人には理解できない。自然や人間としての「神」は、西洋人の「GOD」とはまったく違うものだからである。
宮内省(当時)の職員運動会を、昭和天皇と一緒に観戦される天皇陛下=昭和22年4月、皇居内の馬場(宮内庁提供)
宮内省(当時)の職員運動会を、昭和天皇と一緒に観戦される天皇陛下=昭和22年4月、皇居内の馬場(宮内庁提供)
 神話における天照大神は、一神教に見られるような唯我独尊的な排他的な神ではなく、八百万(やおよろず)の神々を集めて「神集えに集え、神議かりに議かる」と衆議を命じた神とされている。その神の直系の子孫として地上の日本を治めるとされる天皇もまた、皇族、臣民の補翼(ほよく)、つまり彼らの叡智(えいち)を結集して政治を行うのが伝統である。つまり独裁という概念が生じないのが、日本の君主制度の一大特色なのである。

 戦後、現人神の「神」が「ゴッド」と訳されたため、アメリカ人は天皇をそう理解した。天皇が神、ゴッドなどとは独裁、独断、迷信だと、GHQが昭和天皇の「人間宣言」を命令したのである。

天皇という超越的存在の下の同胞意識

 明治維新だけがなぜ成功したのかについては、維新から100年以上が経った今もなお、魅力と興味を誘う政治改革の研究テーマの1つである。

 近現代、ことに西力東来後の列強の時代になって、「維新」(あるいは変法ともいわれる)をめざしたのは、決して日本だけではなかった。たとえば日本の隣国を見ても清末の戊戌(ぼじゅつ)維新、朝鮮にも同時代に甲申(こうしん)政変があったが、すべて失敗した。戦後、イランのパーレビ国王の維新(白色革命)も失敗に終わった。

 なぜ日本だけが成功したのかについて、渡部昇一(わたなべしょういち)氏は、「それは神話の時代以来連綿と続いている天皇という超伝統的な要素が、まず先端をきって近代化したためである」と指摘している。

 易姓革命の国、中国で改革維新が唯一成功したのは中華帝国よりはるか昔、戦国時代の秦の商鞅(しょうおう)変法のみだった。これ以外には、歴代王朝の変法は戊戌維新だけでなく、宋(そう)の王安石(おうあんせき)変法をはじめ成功したものはない。血を流す「革命」しかなかった。フランス革命もロシア革命も血の粛清を避けられなかったのである。功臣や同志に対する血の粛清がなければ、革命政権は安定しない。

 隣邦の韓国(朝鮮)の易姓革命を見ても、前王朝、あるいは前大統領に対する血の粛清は凄(すさ)まじいものである。たとえば、現在の朴槿恵(パククネ)大統領は、政敵を暗殺した安重根(あんじゅうこん)を民族の英雄として、大々的に造神運動を進めているが、韓国人によるジェノサイドはほぼ民族の特徴ともなっている。明末の明人大虐殺をはじめ朴正熙(パクチョンヒ)時代の南ベトナム解放民族戦線大虐殺、近代でも金玉均(きんぎょくきん)や独立運動指導者の金九(キムグ)や呂運亨(ヨウニョン)などもことごとく政敵に暗殺しつくされ、朴槿恵大統領の両親朴正熙大統領夫妻も暗殺された。

 なぜ日本だけが自国民に対するジェノサイドを避けられたのだろうか。そこにも超越的な存在としての天皇の存在と日本人が持つ同胞意識に理由がある。

 たいていの社会はないもの、欲しいものを「そうである」「そうすべきである」と強調する。それがごく一般的な常識といえる。しかしあることとあるべきことを区別できる人はそれほど多くはない。

 中華の国は仁義道徳を強調し、ことに孝は万徳の本だと強調する。それはそうすべきである(当為(ダンウェイ))という願望にすぎない。中国や韓国は家族を大事にする国だとよくいわれているが、実際には親子兄弟姉妹の殺し合い、いがみ合いはほかのどの国よりも激しい。李(り)朝の例を見ても、李成桂(りせいけい)が高麗朝から政権を奪ってから、諸子たちは殺し合い、第一次王子の乱から第二次王子の乱へと王位をめぐる殺し合いが繰り広げられた。それは近現代には朋党(ほうとう)の争いへと引き継がれ、朝鮮半島の社会のしくみ、歴史の掟(おきて)として今日に至り、南北対峙(たいじ)が続いている。同胞意識が欠如しているだけでなく、祖国から離れても、アメリカの大学で韓国人学生による銃乱射事件が続出し、不特定多数の人間に対する恨(ハン)は消えない。

 なぜ韓国人は政敵に対してだけでなく、無差別に、誰に対しても恨をもつのだろうか。日中韓の文化比較はきわめて示唆的(しさてき)である。
そもそも明治維新は、外圧を受ける中で国内の団結が求められたとき、佐幕派も討幕派も敵対し得ない、天皇を中心とした国を造らなくてはならないと痛感した上での「尊皇攘夷」だった。そこで内戦の危機を最小限に抑えるために、大政奉還、江戸城無血開城、廃藩置県という国の大事が無血のまま行われ、国民のエネルギーを結集し、さまざまな国難を乗り越えて近代化を断行できたのである。中国のような国共内戦や韓国のような南北戦争を避けられたのは、天皇という国家の祭主の下で、日本人同士が同胞意識を持っているからだろう。これは易姓革命がなくても維新、改革を可能にした日本の社会のしくみでもある。


徳川慶喜
 明治維新後では、大政奉還した徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は公爵(こうしゃく)にまで列せられ、徳川家達(いえさと)は貴族院議長を務め、五稜郭(ごりょうかく)で最後まで官軍に矢を向けた榎本武揚(えのもとたけあき)は海軍卿(きょう)、同じく大鳥圭介(おおとりけいすけ)は駐清国公使になっている。徳川慶喜の孫は高松宮妃(たかまつのみやひ)となり、京都守護職の松平容保(まつだいらかたもり)の孫も秩父宮妃(ちちぶのみやひ)になった。そして本来朝敵だった徳川家の家臣たちは新政府の行政機構の中枢を担い、引き続き国政を支えていった。これは中華世界では絶対あり得ないことである。

 中華世界では、政敵の一家皆殺し、いわゆる「滅門」だけでなく、海外まで逃げ隠れても、追っ手がどこまでも追いかけてくるしつこさがある。

 たとえば朝鮮の甲申政変の主役であった金玉均は、改革失敗後、東京や札幌など転々と逃亡し続けたが、ついに上海で暗殺され、その亡骸(なきがら)は朝鮮に運ばれて八つ裂きにされた。

 その残酷な有り様を知った福沢諭吉が、中華大陸と朝鮮の近代化に絶望し、「脱亜論」を書いたことは有名な話である。

 台湾では、蒋経国(しょうけいこく)(蒋介石の長男で第6代・7代の中華民国総統)のことを批判的に書いた『蒋経国伝』の著者で台湾系アメリカ人の江南が、サンフランシスコで台湾からの刺客に暗殺されるという「江南事件」があった(1984年)。これにアメリカ政府は激怒し、蒋介石一族の「帝位継承」は2代目で終わってしまったのである。

 佐幕派も討幕派も、「尊皇攘夷」という共通の錦旗(きんき)の前で一変することが可能なのは、まさしく天皇という超越的存在があるからである。内戦のような事態に陥っても、互いが憎悪や不信に駆られて徹底的な殺戮(さつりく)を行うことがなかったのは、天皇という「家長」の下で、日本人同士が同胞意識を強くもっているからである。日本国民は貴賤(きせん)を問わず、この神聖なる天皇という存在の「赤子」であることを喜び、国家と国民が一体感を持っているからなのである。
天皇と日本国民の固い絆

 戦後、「一視同仁(いっしどうじん)」という言葉はタブー用語にまではされなかったが、いわゆる進歩的文化人によって嘲笑(ちょうしょう)の的(まと)として頻繁に引用されている。

 しかしこの言葉のいったいどこが悪いのだろうか。天皇から見れば、「臣民」であろうと「赤子」であろうと、国民でも「非国民」でも、良し悪しを超えて見る立場にあり、私を超えて「無私」という立場を貫いている。それは、「天皇制打倒」を狙(ねら)う者に対しても例外ではない。

 敗戦直後、日本が食糧危機に直面した際、日本の左翼政党に率いられた人々が皇居のまわりを囲い、「朕(ちん)はタラフク食ってるぞ、ナンジ、人民飢えて死ね」というプラカードを掲げ、米をよこせのスローガンを叫んでデモ行動を行った。

 侍従(じじゅう)の一人が「陛下、あれは共産党の煽動によるデモです」と言うと、昭和天皇は「あれも日本国民だろう」と答えたという。

 第16代仁徳(にんとく)天皇が先代の応神天皇から位を継ぐ前に、さまざまなエピソードがあった。応神天皇は、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子を皇太子に立てた。ところが天皇が崩御すると、皇太子は兄の大鷦鷯(おおさざき)皇子が天皇に即位するよう望んだ。兄の皇子こそ人格が優れ天皇の大位につくべきだと考えたのである。しかし大鷦鷯皇子は弟の申し出を辞退した。そうこうしているうちに、もう一人の兄の大山守(おおやまもり)皇子が皇太子暗殺をはかったが、失敗に終わった。皇子と皇太子の兄弟2人で皇位を譲り合うこと3年に及んだ末、皇太子はついに自殺して兄に皇位を譲り、皇位についたのが仁徳天皇だった。
大阪府堺市の仁徳天皇陵
大阪府堺市の仁徳天皇陵
 仁徳天皇は難波に高津宮(たかつのみや)を営んだが、生活は質素だった。即位して4年目に、天皇が高殿から眺めると、民家からかまどの煙が立ちのぼっていないことに気がついた。「民百姓は貧しいために炊くことができないでいる」と群臣に相談して、向こう3年間、徴税を止めた。

 それから3年後に煙が上がったので、「朕はすでに富んだ」と喜んだが、皇后は「宮殿の垣根が破れ、建物は荒れ、衣裳もぼろぼろ、それなのに、富んだなどとよくおっしゃるものですね」と言った。

 すると天皇は「もともと天が王を立てるのは、民百姓のためなのだ。民百姓のうち1人でも飢えこごえるものがいれば、わが身を責めたのだ。民百姓が豊かならば朕は豊かである。民百姓が富んでいるのに王が貧しいということは聞いたことがない」と答え、さらに3年間、税を免じた。
マックス・ウェーバーが言う「家産制国家」の中華の王朝とは違って、日本の天皇家は中国の「家天下」と異なる。つまり天下の財産はすべて天子・皇帝のものとする中華王朝とは対照的に、皇室は古来質素だった。ことに武家時代にはなおさらである。応仁(おうにん)の乱の時代には、天皇家は貧乏きわまりないものだった。第103代後土御門(ごつちみかど)天皇は1500(明応9)年10月21日に崩御したが、葬儀にあたってその費用さえなかった。幕府から1万疋(ひき)の献上金が用意されるまで、遺骸は43日間も清涼殿北側の黒戸御所に安置されていた。天皇の菩提寺(ぼだいじ)である泉涌寺(せんにゅうじ)で大葬に付されたのは11月7日のことだった。

 その子の第104代の後柏原(ごかしわばら)天皇が践祚(せんそ)し即位式を行うときにも応仁の乱のため費用がなかった。朝廷は即位式のための50万疋(5千貫文)の費用さえ調達することができず、即位の式典が実現したのは、践祚から21年後のことだった。

 戦後日本は一変して、日本共産党をはじめ、国外の諸勢力を背後にひかえた者たちが「天皇制廃止」を掲げ、「日本革命」と「天皇処刑」を唱えた。何かあるたびにメディアを動員して、皇室バッシングを行ってきた。その一連の策動により、1993(平成5)年10月20日、59歳の誕生日を迎えた美智子皇后が赤坂御所の談話室で倒れ、失声症になる。そして週刊誌の皇后バッシングが始まった。
熊本地震で避難所となっている益城中央小を訪れ、被災者に声を掛けられる皇后陛下=5月19日、熊本県益城町(代表撮影)
熊本地震で避難所となっている益城中央小を訪れ、被災者に声を掛けられる皇后陛下=5月19日、熊本県益城町(代表撮影)
 宮内庁は同26日に皇室への批判に対する反論を発表した。美智子皇后も「批判の許されない社会であってはなりませんが、事実に基づかない批判が繰り返し許される社会であって欲しくありません」と文書で回答した。

 戦後日本の報道の問題は、まさしくそこにあると筆者も痛感している。無責任で悪意に満ちた言論人の驕(おご)りには、つねに憤りを感じさせられる。

 どのような世界でも、戦乱にもなるとそれまでの王権が消え、地方の有力諸侯などが覇(は)を競い、王を名乗ることがほとんどである。たとえば春秋五覇(しゅんじゅうごは)や戦国七雄(せんごくしちゆう)はそれぞれ公や王と自称し、五胡十六国の時代は多くの王や帝が乱立した。そうした例はいくらでもある。

 日本では応仁の乱以後、天皇の存在が薄くなった時代もあったが、織田信長や豊臣秀吉が天皇に取って代わることはできなかった。徳川の武家政治が300年近く続き、皇室を無力化したが、最後にはやはり、大政奉還せざるを得なかった。

 応仁の乱から明治維新に至るまで、天皇は権力も武力も、財力さえジリ貧の時代だった。即位式も、葬式でさえ幕府や有力な大名から費用を出してもらってやっと執り行うことができ、泥棒が宮内に入ってくることさえあったのである。
「無私」の超越的存在としての天皇

 有史以来、日本人にとって皇室は「私」のない「公的」存在として考えられてきた。100%の公的存在であることは日本の皇室の伝統であり、文化そのものでもある。

 法的には明治憲法、大日本帝国憲法と戦後の日本国憲法にも明記されているが、近現代になってから、その考え方にも若干の変化が見られる。それは、世俗的社会を超越した国家元首としての存在である。

 天皇の超越性について、福沢諭吉は『帝室論』で「帝室は政治社外のものなり。苟(いやしく)も日本国に居て政治を談じ政治に関する者は其主義に於て帝室の尊厳と其神聖とを濫用す可(べか)らずとの事は我輩の持論」としている。また、国会開設以前の1888(明治21)年に『尊王論』を著し、政党政治は政争をともなうもの、国論を二分する可能性も潜むので、その「俗世界」を「皇室は独り悠然として一視同仁(いっしどうじん)の旨を体(たい)し、日本国中唯忠淳(ちゅうじゅん)の良民あるのみにして友敵の差別(さべつ)見ることなし」という天皇は、あくまで「不党不偏」の立場に立った超越的、超俗的存在でなければならないと説いた。

 吉野作造も「枢府と内閣」の一文で、「我国に於いて君主の統治し得る全能の地位に拠り乍(なが)ら而(しか)も親(みずか)ら統治せず、唯君臨して自ら国民の儀表たり、政界紛争の上に超越して常に風教道徳の淵源(えんげん)たる所に寧(むし)ろ我が国体の尊貴なる所以(ゆえん)が存するのではないか」と論じていた。

 日本の天皇は国家の祭主である以上、祈りの心を持つ「無私」の存在として超世俗的な公的存在であることが、伝統であると客観的にみなされる。

 ところが近現代になり、時局時勢の変化に従って、政局に左右されざるを得なかった。


三島由紀夫
 三島由紀夫は『文化防衛論』の中で、「無私」という天皇政治の本来的性格の「恐るべき理論的変質」が始まったのは1925(大正14)年の治安維持法制定からだと指摘している。

 治安維持法の制定直後、左翼運動家たちから「ブルジョア階級が神聖なる国体を自己防衛の具にして悪用した」という批判が上がった。社会主義思想蔓延(まんえん)の危機感から公布されたこの法律の第一条には、「国体を変革し、又は私有財産制を否認することを目的として結社を組織した者」を罰すると規定され、今日では「天皇制ファシズム」を確立するための国民の思想統制の道具だったと非難されている。

 三島由紀夫によれば、この法律が国体と私有財産制(資本主義)とを並列したため、両者はその瞬間同義語になってしまったのである。無産階級の国体即資本主義とする考えは無知であり、国体をブルジョア擁護の盾とするのは国体冒瀆(ぼうとく)だと三島は糾弾した。「経済外要因としての天皇の機能」を認めないのは唯物論者だけだったが、この法規定によって彼らの「不敬」の理念が、誰一人として気がつかないうちに日本人の間に定着したことを述べている。

 そもそも皇室は超世俗的な「公的」存在であり、私財を有しないのが原則である。明治維新以前に「禁裏十万石」と称されていたのは、皇室の私産ではなく公的な経費だった。宮城、京都御所、各地離宮、正倉院財宝、御用林野などは決して天皇の私産ではない。

 昭和天皇崩御にあたり、政府が今上天皇に対して皇位継承にともなう相続税を設定したことは、戦後政府の皇室、公人である天皇の伝統を曲解したものである。

 さらに戦後の政党政治の建前として、天皇を政治圏外におくべきだと主張するのも、天皇の権限を制限する日本国憲法の規定に沿うなどといって好意的に解されているが、「君臨すれども統治せず」とは政治からの完全な排除ではなく、政争には介入しない超越的存在としての超俗的「無私」の精神こそ天皇の役割、そして存在理由だ。だから「政治利用」について国民からもタブー視されているのである。
真のユニークな日本文化とは何か

 文化と文明の定義は実に難しく、国によっても民族によっても違う。文化が個々にユニークなものであるのに対し、文明は普遍的で、どの民族も国家も共有することが可能である。物質的なもの、ハードウエアが文明で、精神的なもの、ソフトウエアが文化だと思う。

 とりわけ日本文化はユニークだと昔から内外からよく言われ、議論されている。では、いったい日本文化の何がユニークなのだろうか。日本文化のうちもっともユニークな点は何かと問われれば、「万世一系」の天皇と平和の社会的しくみだと私は躊躇(ちゅうちょ)なく答える。これだけは人類史のどこにもない、あり得ない、「万邦無比」のユニークな日本文化である。
1月、フィリピンを訪問し「比島戦没者の碑」に供花される天皇、皇后両陛下(共同)
1月、フィリピンを訪問し「比島戦没者の碑」に供花される天皇、皇后両陛下(共同)
 それはいったいどこから生まれたものかというと、日本列島は地政学的、物理学的に一つの定量空間であり、それによる自然の摂理と、社会のしくみからである。そのもっともよく知られ、共鳴共感、共有されているのが「和」の原理である。日本民族が「和」あるいは「大和民族」と自称し他称されるのも、この和の原理を共有しているからである。和の原理は仏教的な衆生(しゅじょう)の思想と神道的な共生の思想の習合によって生まれた自然の摂理と社会のしくみであり、そこから日本人の自然や社会環境に対する対応力が生まれてきたのである。

 たとえば、平和社会というしくみについては、「和」や「大和」の社会にしか生まれてこないもので、「同」や「大同」の社会なら必ず抗争や紛争が絶えない。そこが日本と中国やほかの国のしくみの違いというものである。

 日本は戦後内戦が起きなかったことはもとより、江戸時代は300年近く、平安時代は400年近く、縄文時代は1万年ほども平和を保ち続けてきた。そんなことがいったいなぜ可能なのだろうか。「平和運動」が盛んに行われたためではもちろんない。平和な社会は自然の摂理と社会の仕組みから生まれたもので、日本文化の基層を支えるものである。だから「平和主義」「平和運動」「平和のしくみ」について、それぞれの次元から語らなければならない。これについては別の機会に述べることにして、もう1つのユニークなしくみが「万世一系」の天皇である。

 天皇が「万世一系」であるということについては、さまざまな異議、異論もあるだろう。けれど神代から今日に至るまで、日本史はいかなる紆余(うよ)曲折を経ても「易姓革命」はなかった。古代に王朝が別の一族に変わったという異説を唱える学者も中にはいるが、長い歴史において、律令、摂政、幕藩といった体制、さらに国民国家の時代に至るまで、天皇は日本の歴史とともに存在してきた。皇室の存在を抜きにして日本史を解くことも語ることもできないというのが事実である。日本人の心の中に存在している天皇観は、それぞれの時代によって違いがあっても、無視することはできない。日本文化そのものが皇室を核に形成されたものともいえる。

 社会的条件の変化から国際環境の変化によって、人類史にはさまざまな革命があった。易姓革命だけでなく、宗教革命や市民革命、産業革命、社会主義革命、さらに人間革命と呼ばれるものまである。

 万物は流転する。有為転変は世の常で、文化も文明も文物も王朝も王家も環境や時代とともに消えていく。しかしなぜ日本の天皇だけが「万世一系」の存続が可能なのか、それこそ「万邦無比」である。いくら饒舌(じょうぜつ)な論客が言葉尻(ことばじり)をとらえても、日本の天皇は今でも存在する。いくら政情の動揺や激変があっても、天皇は今でも存在しているのである。
たしかに戦後、日本は有史以来存亡の危機に直面した。しかしアメリカの夢も、社会主義世界革命、人類解放の夢も、日本の文化伝統に取って代わることはできなかった。日本人の心情と宗教心は神代から国生みの物語とともに、天皇家をコアに続いてきたものである。どんな革命も文化摩擦も、文明の衝突も、日本人の心の奥底にある天皇との絆(きずな)を断ち切ることはできない。

 天皇と国家の関係を考える場合、ことに近代国家になってから、天皇は、いっそう国民の心の中で国民ともにある共生的存在となった。「天皇陛下万歳」と叫ぶのは日本人のアイデンティティのシンボルでもある。敗戦後でさえ、日本国民の95%が天皇を支持しているとの調査結果がある(川島高峰『戦後世論調査事始──占領軍の情報政策と日本政府の調査機関』ゆまに書房)。しかも敗戦後であっても、アメリカの占領政策の遂行には、天皇抜きには考えられなかった。日本への進駐軍の目には、戦争中以上に恐ろしい日本であると映ったことだろう。

 戦後日本は「象徴天皇制」であるという言論人が多いが、天皇はむしろ日本文化とともにある文化的象徴といえる。
天皇陛下の「お気持ち」を表明したビデオメッセージを放送する街頭ビジョンに足を止めて見入る通行人=8月8日、東京都新宿区(撮影・春名中)
天皇陛下の「お気持ち」を表明したビデオメッセージを放送する街頭ビジョンに足を止めて見入る通行人=8月8日、東京都新宿区(撮影・春名中)
 少なくとも近現代史を見るに、国際環境がどのように変化しても日本が強かったのは、まさしく日本人の一人一人が天皇とアイデンティティと価値観を共有していたからだった。日本人と天皇は文化、文明を共有していたのだから、課題も夢も共有していたに違いない。

 ユーラシア大陸に限定してみても、西洋も中洋(中東・中央アジア)も東洋も、いかなる文明、民族、国家も、あたかも歴史の法則のように興亡を繰り返してきた。ギリシャ・ローマ文明の流れをくむイベリア半島やバルカン半島も、長期にわたってイスラム文明に支配された。東亜世界だけでなく、インド世界に至るまで、草原の力に屈したことがしばしばあった。

 中国大陸は万里の長城の存在がそれを示しているように、異民族の侵入による脅威が度々あった。五胡十六国(ごこじゅうろっこく)、南北朝(なんぼくちょう)時代もそうだし、それ以後も、遼(りょう)、金(きん)、元(げん)や満蒙の諸民族に繰り返し征服された。どの国家や民族も栄枯盛衰の運命を辿り、いったん「易姓革命」が起こったら、まるで法則のように歴史循環が繰り返されていくのである。

 世界がこのような状況であったなか、なぜ日本だけが「万世一系」「万邦無比」の天皇の存続が可能だったのだろうか。このことについて、比較文化や比較文明の視点から見ればさらにはっきり見えてくる。

 なぜ天皇が人類共有の貴重な財産なのだろうか。それは日本の自然の摂理と社会のしくみから生まれた「和」の日本文化を物語るものだからである。戦後アメリカイズムが拡散していくグローバリズムは、今現在さまざまなひずみに直面している。

 今こそまさしく日本の文化を見つめ直すときだろう。


黄 文雄(コウ ブンユウ) 1938年、台湾生まれ。1964年来日。早稲田大学商学部卒業、明治大学大学院修士課程修了。『中国の没落』(台湾・前衛出版社)が大反響を呼び、評論家活動へ。1994年、巫永福文明評論賞、台湾ペンクラブ賞受賞。日本、中国、韓国など東アジア情勢を文明史の視点から分析し、高く評価されている。著書に17万部のベストセラーとなった『日本人はなぜ中国人、韓国人とこれほどまで違うのか』の他、『世界から絶賛される日本人』『韓国人に教えたい日本と韓国の本当の歴史』『日本人はなぜ特攻を選んだのか』『中国・韓国が死んでも隠したい 本当は正しかった日本の戦争』『世界に災難をばら撒き続ける 中国の戦争責任』(以上、徳間書店)、『もしもの近現代史』(扶桑社)など多数。

 

 

 




 

 

 


高見 順 (著) 敗戦日記

2019年09月12日 07時10分06秒 | 社会・文化・政治・経済
 
内容紹介

「書け、病のごとく書け」。自らを追いつめるほどに創作の意味を問い続けた“最後の文士”高見順が遺した戦中日記。そこには貸本屋「鎌倉文庫」設立の経緯、文学報国会の活動などが詳細に記録されており、戦時下に成し得ることを模索し、文学と格闘した作家の姿がうかがえる。膨大な量の日記から昭和二十年の一年間を抜粋収録。
【解説】木村一信

――遂に敗けたのだ。戦いに敗れたのだ。

夏の太陽がカッカと燃えている。眼に痛い光線。烈日の下に敗戦を知らされた。

著者について

一九〇七年(明治四○)、福井県生まれ。三〇年(昭和五)に東京帝国大学文学部英文学科を卒業後、『故旧忘れ得べき』が認められ作家となる。作品を発表するかたわら詩作に力を入れ、武田麟太郎らと「人民文庫」を創刊、戦後は池田克己らと「日本未来派」を創刊し、また評論家として、『文芸時評』『昭和文学盛衰史』を発表した。晩年は日本近代文学館の創立に参加、初代理事長に就任した。六五年(昭和四○)没。著作に小説作品『今ひとたびの』『わが胸のここには』、詩集『高見順詩集』『わが埋葬』『死の淵より』などがある。

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ドナルド・キーンは、日本人の心を伝える文学として「日記」を研究した。
中でも高見順が「敗戦日記」で記した、日本人の姿に共鳴した。
「驚くべき記述に満ちていますが、現在の日本人が全く高見順の「敗戦日記」を読んでいないと知って、また別の驚きがあります」
「わたしが言いたいのは、歴史的に重要な内容であるにもかかわらず、それほど人が本を読んでいないということです」
資料としての日記の価値をキーンさんは、「優れている」と高く評価していた。

 

 


ドナルド・キーン「私が日本人になった理由」

2019年09月12日 06時56分52秒 | 沼田利根の言いたい放題

記憶力が悪いので、読んだ本が本箱に置かれていても、「まだ、読んでないな」と手に取る。
でも、本を開いて見ると赤ペンの線が引かれている。
さらに、驚いたことは川崎市の古本屋のラベルで、「麒麟堂500円」と貼られてある。
川崎に行った記憶がない。
「もしかしたら、新橋駅前のSL広場の古本市で買い求めたものかもしれない。
多分、新橋の居酒屋で飲んだ日のことであろう。
ドナルド・キーン「私が日本人になった理由」
改めて読み返す。
日本語に魅せられた経緯が語られていた。
インタビュー:NHKの渡邊あいみアナウンサー
NHKBSプレミアムで2012年4月30日に放送された番組をもとに原稿を構成し、単行本化したものだ。

「人間が憎悪を忘れて お互いに美しいものを創ることができたら 素晴らしい世界になる」
18歳のキーンさんは、ニューヨークのタイムズ・スクエアのホテルで売れ残った「源氏物語」の2冊セットとを49セントで買う。
思いがけず「源氏物語」を知ったことで、新たな世界、新たな世界観に目覚め、大きく視野が広がって、同時に日本的な美を徐々に感知できるようになる。
学校の飛び級で16歳でコロンビア大学に入学した秀才であった。
「源氏物語」に描かれた登場人物たちは、愛と美のために生きている。
ヨーロッパの戦争が激化して、ナチス・ドイツがノルウェー、デンマーク、オランダ、ベルギー、フランスを占領し、秋からはロンドンの空爆も始まった。
「私は次はアメリカだと怖れて、たいへん憂鬱な時を過ごしていたのです」
「私が「源氏物語」と出会ったのは、そんな毎日の中でした。私はそれこそ暗闇の中で一条の光を見い出した、そんな気分になったものです」
それは忍び寄る戦争の影に怯える彼の生活とは正反対のものだった。
「私は文字通り、「源氏物語」に救われたのです」


阪神・鳥谷、代打で今季初打点

2019年09月12日 06時21分06秒 | 野球

 退団表明後、初安打に涙ぐむファンも…

9/11(水) デイリースポーツ

「阪神-ヤクルト」(11日、甲子園球場)

 ついにこの男が今季初打点を挙げた。

この姿もあとわずか…ダイヤモンドを懸ける縦縞の背番号1

 今シーズン限りでの阪神退団を表明している鳥谷が、八回1死一塁の場面で登場。鳥谷の名前がコールされると、雨の甲子園が大きく沸いた。

 ヤクルト・平井の5球目フォークを捉えた打球は左翼線へ。一走の梅野が一気に生還して、適時二塁打となった。今季94打席目にしての初打点。阪神退団を表明してから初めてのヒットとなった。

 これには雨の中、歓声を送り続けた女性ファンも思わず涙した。聖地は温かい拍手に包まれた。

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阪神・鳥谷が今季初打点「声援に応えられてよかった」 スタンドには号泣するファンも

9/12(木) 東京スポーツ

今季限りで阪神を退団する鳥谷敬内野手(38)が11日、快勝したヤクルト戦(甲子園)の8回一死一塁、代打で左翼線へ二塁打を放ち、今季出場63試合、94打席目で初打点を挙げた。

 8月29日に球団から事実上の戦力外通告を受けて以来、初めての安打に鳥谷は「ファンの声援に応えられてよかったです。いいところに飛んでくれたと思う。自分のできることをしっかりやるだけです」とコメント。

 すさまじい盛り上がりとなったスタンドには号泣するファンも多く、一塁から本塁へ激走した梅野は「何とかかえりたいと思っていた。トリさんの打点を走って取れてよかった」と自分のことのように喜んだ。

 若手ナインに浸透している試合前練習後の「仮眠」は鳥谷が導入したもので、控えに回った今も影響力は絶大。球団最多の通算2083安打を誇るヒットマンは、すでに他球団での現役続行を模索している。残り試合は少ないが、他球団にアピールするためにもまだまだ打ちたいところだ。