CSテレビの映像(ナショナル・ジオグラフィック)に衝撃を受ける。
縛り首の映像、銃殺の映像-日本では映像として出ない死体は、リアルな死そのものであった。
残酷にも女性も縛り首にしていた。
日本の絞首刑を連想させられた。
「 エピソード1 」
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1944年6月6日、連合国軍がノルマンディー上陸作戦を決行し、数多くの兵士がノルマンディーの海岸に上陸する中、ヒトラーはダス・ライヒの出動を命ずる。ドイツ軍の装甲師団ダス・ライヒは、ウクライナやベラルーシで大量虐殺を行った悪名高いエリート部隊で、当時はフランス南西部に作戦拠点を置いていた。彼らの任務は連合国軍を大西洋に追い返し、戦局をドイツ側に好転させること。しかしノルマンディーへの道のりは険しく、ダス・ライヒはフランスのレジスタンスに妨害されてしまう。その報復として、最悪なことにダス・ライヒはフランス市民を虐殺するのだった。
「 エピソード2 」
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1944年6月、ダス・ライヒはノルマンディーへ向かった。ヒトラーに忠誠を誓った装甲師団は、フランスの村という村で残忍な殺りくを行う。東部戦線でも残虐行為を行っていたダス・ライヒにとって、これは常とう手段だった。フランス各地へ進軍する途中、ダス・ライヒは無残にも無実の市民たちを町ごと虐殺していく。一方でフランスのレジスタンスもあきらめずに抵抗を続け、諜報員のビオレット・サボなどが反撃作戦を企てた。連合国軍によって次々と撃破されたダス・ライヒは、昔の面影もないほどに縮小していく。第二次世界大戦が終結すると、彼らの残虐行為に対する戦争裁判が始まった。
オラドゥール・シュル・グラヌ(フランス語: Oradour-sur-Glane)とは、フランス・ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏オート=ヴィエンヌ県の村である。1944年6月10日、ドイツの占領下であったこの村でナチス武装親衛隊による大規模な虐殺が行われた。当時村にいた村民のほぼ全員が殺され、村は一日にしてゴーストタウンと化した。
虐殺
1944年6月、連合国のノルマンディー上陸作戦の進行につれ現地のフランス・レジスタンスはドイツ軍の作戦を妨害するため、通信攪乱などの各種工作をより積極的に行うようになっていた。参謀本部からの指示を受け、ノルマンディーに向け進軍中であったSS第2装甲師団ダスライヒは行く先々で彼らによる攻撃と破壊工作に苦しめられていた。
6月10日早朝、とあるフランス人2名より密告を受けたSS少佐アドルフ・ディークマン(ドイツ語版)は、同僚のSS少佐オットー・ヴァイディンガー(ドイツ語版)に対し「ドイツ人高級将校1名がオラドゥール村でマキ(註:レジスタンス組織)により捕らえられたようだ」と報告した。そのフランス人はオラドゥールの村民ほぼ全てがマキに関わっており、現在マキの指導者たちがオラドゥールに滞在しているとも述べた。ちょうど同時期、リモージュにいた親衛隊保安部員は現地の内通者からマキの司令部がオラドゥールに存在するとの情報を得た。捕らわれたドイツ人高級将校はSS少佐ヘルムート・ケンプフェ(ドイツ語版))とされるが、彼はディークマンとヴァイディンガーの友人であった。なお、その後ケンプフェが発見されることはなくSSが作成した「南フランスでの対テロ作戦中の行方不明者リスト」にも彼の名前は載っていない。
同日、ディークマンに率いられた第一大隊はオラドゥールを包囲し、住民に村中心部にある広場に集まるよう命令した。表向きの口実は身分証明書の検査であった。集まってきた住民のうち、女性と子供は教会に連れて行かれた。しばらく経ったのち男性は6つの納屋に分かれて連行されたが、その納屋には既に機関銃が待ちかまえていた。生存者の証言によれば、SSはまず脚を狙って発砲。彼らを逃れられないようにした後、たきつけで体を包み、納屋に火をつけた。生存者はわずかに5名(納屋から男性6名が逃げ出したが、そのうち一人は逃亡後すぐに発見され、射殺された)で、197名が死亡した。
男性たちの「処分」を終えると、兵士たちは教会の中に入り放火した。一説によれば、毒ガスも使用されたとされる(ただし武装親衛隊の装備に毒ガスはなく、またヒトラー自身は使用を厳禁している)。中にいた女性と子供はドアや窓から逃げだそうと試みたが、ここでも待ち受けていたのは容赦ない機関銃による銃撃であった。女性240名、子供205名が混乱のなかで命を落とし、奇跡的に女性1名が一命を取り留めた。また、村に兵が現れてすぐに逃げ出した20名ほどの集団も逃げ延びることができた。その夜、村は以前の面影を窺い知ることができないほどに徹底的に破壊された。数日後、生存者たちは犠牲者の埋葬を許された。
抑圧
ドイツはレジスタンス運動のメンバーをテロリストと見なしていた。制服を着るわけでもなく非武装のドイツ占領要員への攻撃をためらわず、一般民衆に紛れて活動する「顔の見えない」彼らを非常に大きな脅威と捉えていた。オラドゥールにおける虐殺は突発的なものではなく、慎重に練られたレジスタンス一掃政策の一部だった。しかしながら、このような虐殺や何千人にもおよぶ一般市民の死にもかかわらずフランスにおけるレジスタンス運動は様々な形態を取りながら終戦まで続けられた。
ドイツによるこのような集団報復が行われたのは、オラドゥールだけではなかった。ソ連(現・ウクライナ)のコーテリシー、チェコのリディツェ村、オランダのプッテン、イタリアのマルツァボットなどでも同様の虐殺が行われている。さらにドイツ兵はフランス各地で無作為またはレジスタンス疑惑のある集団の中から人質をとった。これは、自身に加えて他者の命まで危険にさらすのをためらったレジスタンスが攻撃を控えることを狙ったものであった。
戦後
フランス南西部の都市・ボルドーでの軍事裁判を前にした1953年7月12日、生存していた兵士約200人のうち65人を対象にした審理が開始された。当時、東ドイツに居住していた者はフランスに引き渡されなかったため出廷したのはわずか21人でその内訳はドイツ人7名、残りの14人はアレマン人(マルグレ=ヌー)であった。アレマン人たちは1人を除いて、自分たちは意志に反してSSに徴集されたと主張した。だが、SSの記録によればそのような強制徴集の事実はなく、ナチスに対し共感をもっていた彼らが自発的に参加した可能性が高い。フランス当局の見解は2つに割れていたが1954年2月11日、20人の被告に対し有罪が言い渡された。これに対しては大論争が巻き起こったため、2月19日にフランス議会において全てのアレマン人を恩赦とする決定がなされた。その後、時をおかずしてアレマン人は釈放された。
1958年までにドイツ人被告も同様に全員釈放された。レジスタンスに対する攻撃命令を下したダスライヒ指揮官ハインツ・ラマーディングは戦後企業家として成功し、一度も起訴されることなく1971年に死去した。
武装親衛隊に対する最後の公判は1983年に行われた。その少し前、SS中尉ハインツ・バールト(ドイツ語版)が東ドイツ(当時)領内で捕らえられた。バールトはオラドゥールでの虐殺に小隊指揮官として参加し、45名の兵を率いていた。彼は男性20名に対する射撃指示をだしたとされ、ベルリンにある裁判所で終身刑を言い渡された。1997年、バールトは統一後のドイツで釈放された。
戦後シャルル・ド・ゴールは、オラドゥールを再建せず遺構として残すことを決めた。ナチス占領の残忍さを後世に伝えるため、当時のまま留めようと決めたのである。1999年には、フランス大統領ジャック・シラクがオラドゥールを訪問する人々に、この村が経験した惨劇を伝えるためのメモリアル・センター(サントル・ド・ラ・メモワール、Centre de la mémoire)を開設した。
2014年1月8日、虐殺に関与した当時19歳の親衛隊員が、ケルンで起訴された。
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目次
第2SS装甲師団 ダス・ライヒ(だいにSSそうこうしだん―、2. SS-Panzer-Division "Das Reich")は、武装親衛隊の38個ある師団のひとつ。よく訓練されたエリート部隊で、第二次世界大戦の主要な戦闘で大きな役割を果たした。部隊名のダス・ライヒは祖国あるいは国家を意味する。下記の変遷を経て最終的にSS第2装甲師団 ダス・ライヒに発展した。
“我が祖国”という名のナチスのエリート部隊の全貌を、新たなカラー化映像で。後編は、フランスのレジスタンスや英国の諜報員の物語も織り交ぜて“死の部隊”の実像に迫る。
第2SS装甲師団「ダス・ライヒ」へのレジスタンスを物資や戦略面で支えた諜報員の一人が英仏ハーフのバイオレット。夫が戦死し、幼い娘を英国に残して作戦に加わったが、捕らえられ収容所で最期を迎える。ノルマンディー反転攻勢に失敗したダス・ライヒは独仏国境まで撤退。常軌を逸した虐殺行為や、レジスタンスの決死の戦い、収容所の非人道的な生活・・・発掘映像を修復・カラー化して、リアルな戦争の現実を伝える。