地区会合へ行く

2019年09月22日 18時02分18秒 | 日記・断片

午後1時からの地区会合へ行く。
家を出る直前にメールがあり、中川宅ではなく肥田宅に会場が変更されたことを知る。
中川さんはお兄さんが亡くなり、東京の調布へ行ったのである。
驚いたことに、僧侶を呼ばず家族内で葬儀をするそうだ。
時代の流れを感じた。
必然的に戒名はなし。
ところで、富田さんが仕事なのでえりちゃんが代理をや役割を務めた。
会合の前半は、ご婦人ばかりで男性は当方一人だったが、遅れて林さんが参加した。
各自を指名して順番に近況や活動報告などを司会者の大野さんが聞く。
当方は、最近の知人や友人との交流や趣味の話をする。
林さんは、勤務先の後輩たちのことを語る。
35年勤務している企業であり、以前は数年に1人辞めるどうかの状況であったが、最近は1年に5年も辞めたと述べていた。
「仕事ができる後輩たちで、期待していたのにね。大手の企業の傘下へ入ったことが良かったのかどうかを考えますね」と述べていた。
この後は、各ご婦人たちが家庭の話や近隣の方々の友好などを語る。
また、孫のことや夫、90代の父親の介護の問題や自身の健康問題を話した。
終わってお茶会となり歓談する。


マーガレット・ミッチェル

2019年09月22日 12時27分49秒 | 野球

マーガレット・マナーリン・ミッチェル(Margaret Munnerlyn Mitchell、1900年11月8日 - 1949年8月16日)は、アメリカの小説家。長編小説『風と共に去りぬ』で知られる。

彼女の幼年期は南北戦争を生き抜いた母方の親類の影響を大きく受けた。彼らは戦争に関する全て - 南部連邦支持者が全てを失ったことを除いて - を彼女に伝えた。彼女が全てを知ったのは10歳のときであった。

彼女は1918年にワシントン神学校を卒業し、その後医学を志しマサチューセッツ州ノーサンプトンスミス大学に入学する。だが翌1919年1月に母親がその年大流行したインフルエンザで死去し、ミッチェルは学業をあきらめアトランタへ戻った[

この出来事は『風と共に去りぬ』でスカーレットの母親が腸チフスで死去し、タラへ戻る場面の元となった。彼女はアトランタで『アトランタ・ジャーナル』に入社し、日曜版のコラム執筆者となった。1922年に彼女はベリーン・「レッド」・アップショーと結婚する。

しかしながらレッドは酒の密売人であり、彼らは2年後の1924年に離婚する。彼女は1925年7月4日にアップショーの友人であったジョン・マーシュと再婚する[3]。再婚日を7月4日(アメリカ独立記念日)としたのは家族から独立の意志を示すためと言われている。

『風と共に去りぬ』出版に至るまで[編集]

ミッチェルはくるぶしの骨折で寝たきり生活を送っていた1926年、『風と共に去りぬ』を書きはじめたと伝えられている。夫のジョン・マーシュは彼女の気晴らしにと図書館から歴史書を借りてくるのだったが、あるとき「ねえ、そんなに本が好きなら、今度は自分で書いてみたら?」と言った。南北戦争の豊富な知識を持っていた彼女は、それを背景として自分の人生体験を叙事詩に綴っていった。執筆には旧式のレミントン・タイプライターが使われた。当初、主人公の名前はパンジー・オハラであり、オハラ家の領地であるタラはフォントノイ・ホールと呼ばれていた。

マーシュの協力的な姿勢も手伝って、ミッチェルは療養中の楽しみを創作に見出した。彼女は最終章から書き出し、章を飛び飛びに書き進めるなど、独特な執筆手法を取っていた。ときどき、夫に原稿を読んでもらっていたものの、山積みになった原稿にタオルで覆いをしたり、戸棚やベッドの下に置いて、他人の目には触れないようにしていた。1929年にはくるぶしは完治し、小説もほぼ完成していたが、彼女自身は創作活動への意欲を失っていた。

1935年アトランタの一主婦として生きていた女性の運命を一変させる出来事があった。当時、南部地域で有望な作家を探していたマクミラン出版社の編集者、ハワード・ラザムがミッチェルのもとを訪れたのである。ラザムの同僚が2人の共通の友人であり、ミッチェルにアトランタを案内してもらう予定であった。

すっかり彼女に惹かれたラザムは、これまでに何か書いたものはないかと尋ねた。彼女は困惑した。かつて新聞社に勤め、プロの書き手の意識を持っていた彼女にとって、出来損ないの古い原稿を編集者に見せるなど、思いも寄らないことであった。

それでもラザムは「もし何か書いたら最初に読ませてください」と懇願するのだった。後日、この話を友人にしたところ、「あなたが本を書くなんてあり得ない話よね」と笑われ、腹を立てた彼女は、自宅に帰るとボロボロの封筒から古い原稿を引っ張り出した。The Georgian Terrace Hotelに着いたときには、ラザムはちょうどアトランタを発つために荷造りをしていた。「原稿があるわ―気が変わらないうちに持って行って」。

この原稿は小柄な作家の背の高さ以上の分量があったため、ラザムはスーツケースを新たに買い足さなければならなかった。後になってミッチェルは自分の大胆な行動を振り返り、背筋が寒くなる思いがした。そこで「気が変わりました。原稿は送り返してください」と書いた電報を送ったが、ラザムは原稿を読んで、未完成で荒削りな部分はあるが大ベストセラーになる作品だと確信していた。彼女は原稿の代わりに、小説の出版を熱望するラザムの手紙を受け取り、続いてマクミランから稿料の前渡し分を受け取った。小説は1936年に完成したが、彼女は最後まで第1章を書かなかった。

6月30日、『風と共に去りぬ』は出版され、異常な成功をおさめ、同年のクリスマスには100万部を突破、1年後には150万部に達した。数年間の内にフランスや日本など29か国語に翻訳された。同年にピュリッツァー賞を受賞した。

3年後の1939年にはデビッド・O・セルズニックによって映画化された。1939年12月15日、アトランタのローズグランドシアターでプレミア上映会が開かれている。

1949年8月11日、マーシュとアトランタのアーツ劇場へ出掛けた夜、その道中でピーチツリー街を横断時にヒュー・グラビットの運転する車に撥ねられた。その後、市内のグレーディ記念病院に運ばれたが、この事故の際の傷が元で5日後に息を引き取った。48歳没。グラビットは飲酒運転であり、過失致死で有罪となり、40年の重労働が宣告された。

グラビットはタクシー運転手で、当日は非番で自家用車を運転していたのだが、報道はこれをタクシー事故として煽りたて、ジョージア州のハーマン・タルマッジ知事(当時)は、以後タクシー運転手の認可規制強化を発表するまでに至っている。

事故の目撃者は、ミッチェルが車を確認せずに車道に飛び出したと証言しており、それ以前にも同様の行動を繰り返していたと友人が発言していた為、運転手の有罪については未だ論争となっている。

墓所はアトランタのオークランド墓地に埋葬された。生涯で発表した作品は『風と共に去りぬ』のみで、彼女の遺志により未発表の原稿は破棄されたと言われる。

マーガレット・ミッチェル
Margaret Mitchell
Margaret Mitchell NYWTS.jpg
マーガレット・ミッチェル(1941年
誕生 Margaret Munnerlyn Mitchell
1900年11月8日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ジョージア州アトランタ
死没 1949年8月16日(48歳)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ジョージア州アトランタ
職業 小説家
活動期間 1926年 - 1949年
ジャンル ロマンス小説歴史小説

来季こそ勝ち越す!阪神・矢野監督、悔し…リーグV巨人に「貯金作らせてしまった」

2019年09月22日 12時17分14秒 | 野球

 (セ・リーグ、阪神4-2広島、25回戦、阪神13勝12敗、21日、甲子園)クライマックスシリーズ(CS)でやり返す。そして来季こそ-。巨人が5年ぶり37度目のリーグ優勝を決めた21日、阪神・矢野燿大監督(50)は「うちが貯金を作らせてしまった」と悔しさをにじませた。この日は敗れればCS進出が完全消滅する広島戦に、4-2で逆転勝ち。対カープ5年ぶりの勝ち越しを決めてゲーム差を「2」に縮め、CSへ可能性を残した。

 9ゲーム差-。遠く離れていた宿敵が、ゴールテープを切った。広島に意地の逆転勝ちでCS進出の可能性をつなぎとめた矢野阪神だが、その4時間15分後、横浜で原監督が舞った。結果的に巨人の引き立て役となった現実に、矢野監督が悔しさを押し殺した。

 「成績を見れば、うちが貯金を作らせてしまった。もっといい勝負をしないといけなかった」

 就任1年目。恩師の故星野仙一氏のようにG倒に燃え「巨人を倒すと喜んでもらえる。伝統の一戦を受け継いだ戦いをしていきたい」と臨んだ。

 しかし開幕から2カード連続3タテで6連敗。Gに1シーズン4度の同一カード3連敗は1963年(5度)以来56年ぶりの屈辱だった。24日に甲子園で最後の直接対決を残しているが、9勝15敗ですでに8年連続の負け越しは決まっている。

 この日、広島に5年ぶりに勝ち越し、DeNAには14勝8敗1分け。2、3位に勝ち越し、巨人にセ5球団で最も貯金を与えていては…宿敵を走らせる要因となったと言われても仕方ない。

 「打線ですよね。本塁打数は急には増えないけど、得点力に一番、差を感じた」

 新人の近本、木浪の活躍はあったが、高山、北條、中谷ら期待の若手は覚醒には到らず、福留、糸井頼りの打線には明らかな戦力差があった。チーム総得点はリーグワーストの514。巨人はトップの644で、本塁打も90-176。

 「丸が入ったことで2、3番が固定された。坂本、丸の相乗効果が大きかった。それプラス、選手層の厚さですね。右投手相手の打線、左投手相手の打線を組めていた。外国人選手の調子が下がったところで入れ替えたりしていた」

 虎は左投手に打率・222、右投手に打率・266と左アレルギーは解消されず。外国人も緊急加入のソラーテが1カ月で解雇という珍事を起こし、巨人のように助っ人を“ターンオーバー”させる余裕などなかった。

 「原さんの経験値、勝負手もありましたし、経験は大きかった」

 自らの経験不足を受け止め、続けた。「うちは結局、課題は(攻守)両方。巨人相手に(守備などで)ミスをしたら勝ちにくい。うちの投手力が対等に抑えても、得点を取れていない。打線の厚み、得点力をあげてリベンジしたい」。CSへの望みはつないだ。やり返す舞台は残っている。今年、そして来年へ。屈辱を逆襲への力にする。

 
 

維新後見落とされた天皇像

2019年09月22日 11時51分38秒 | 社会・文化・政治・経済

昭和史のかたち

保阪正康・ノンフィクション作家

毎日新聞2019年9月21

新資料に見る戦争への懐疑

 日本近現代史の年譜を見ていると、時折、この国の最大の誤りは、幕末から明治維新期が意外なほど円滑にいったために、多くの積み残しがあったことではないかと感じられる。

そのつけが、昭和という時代に極端な形で表れたのではないかと私には思える。たとえば、もし旧幕府側が長州・薩摩軍の隆盛を断固として拒否し、史実より積極的に交戦していたら、事態がどう変わったか、わからない。

 幕藩体制は少なくとも260年続いたのである。そこに蓄積された歴史的遺産はどこへいったのだろうか。
もし江戸時代の資産が生きていれば、昭和はもっと知的に推移したのではないか。

1)天皇を神格化した軍事組織の誤り
2)江戸時代の武士の人格陶冶をまねなかった問題
3)外国知識の表面な受け入れの弊害

江戸時代には、ただの一度も国家として対外戦争を体験していないという、世界に冠たる名誉を持っていた。

朝廷は、江戸時代には戦争と縁遠い存在であった。
明治天皇が日清戦争時には当初、いわば、「これは朕の戦争ではなく、政府の戦争だ」と述べたのは有名な話である。
江戸時代の歴史を踏まえて見ると、戦争に懐疑的だったことが分かるのである。
昭和の三の特徴は、天皇の江戸時代からのあり方を、政治指導者や軍人指導者が知らなかったが故のものだろう。

 


支部の会合へ行く

2019年09月22日 11時14分30秒 | 日記・断片

午前8時30分、林さんに迎えに来てもらい支部の会合へ行く。
富田さんは仕事だった。
消費税がらみの対応で忙しいそうだ。
今日の赤峰宅に参集したのは5人だった。
仕事で地元小堀(おおほり)の石田さんが欠席。
また、東地区では学習会があり、常連の3人が参加していない。
また、台宿地区も地区の会合と重なり2人が欠席した。
電話に出ない寺川さんも不参加。
「寺川さんは敢闘会の案内では先日、姿をみせたけどね。肝心な時は来ないんだね」と赤峰さんが苦笑する。
米田さんが参加しないので、何時もの米田さんの小説の感想のコーナーはなかった。
「10月は行事が多いですね」と林さんが言う。
大掃除の後のカレーの食事会(昨年はバーベキュー)、防災訓練とレクレーション、バーベーキュー。
取手緑地公園での産業祭、とりで利根川河川まつり(10月6日)、市民ウオークが同時開催。
茨城国体(取手一高自転車競技部)、いこいの場落語会(10月3日、ウェルネスプラザ)、取手アートプロジェクションと取手JAZZビアガーデン(10月4日、ウェルネスプラザ)など。
会合後のお茶会では、赤峰さんの田舎のソーメンカボチャ、果物セット、串団子、濡れ煎餅、チョコなどをいただきながら歓談した。
「忙しかった、田舎に葬儀もあって栃木まで2回行った」と赤峰さんが言う。
そして、葬儀の模様などを話していた。

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そうめんカボチャ

産直市場などで手に入る金糸瓜は、そうめんかぼちゃと呼ばれています。

シャキシャキ感が特徴の野菜で、癖がないので、サラダにも炒め物にも、なににでもお使いいただけますよ。 スーパーなどでの取り扱いは少ないですが、見つけたらぜひ挑戦してみてくださいね。

 

作り方

 

  1. 1.そうめんかぼちゃんは端を2cm切り落とし、残りの部分を3cm幅に切ります。
  2. 2.スプーンで種とワタを取り除きます。
  3. 3.鍋にそうめんかぼちゃが浸かるくらいのお湯を入れたら、沸騰させて、2を入れ落としぶたをし、中火で20分茹でます。
  4. 4.竹串で刺して、糸状にほぐれてきたら、冷水に入れて冷まします。
  5. 5.冷めたら、皮を剥き手でほぐし、再度冷水にとり、冷まします。冷めたら、サラダや炒め物など、お好みで調理ください。

 

料理のコツ・ポイント

 

シャキシャキ感が美味しいので、茹ですぎないように注意してください。 茹でた後、冷水にさらすことで、余熱で熱が入りすぎないようにしています。 再度、冷水にさらすことで、よりシャキシャキ感を出すことが出来るので、2回冷水にさらしてください。