50歳未婚率の向上

2019年11月22日 22時34分48秒 | 社会・文化・政治・経済

2017/5/15 デンシバ Spotlight

「生涯未婚率」上昇続く 広がる男女差、背景に再婚

50歳までに一度も結婚しない人の割合を表す「生涯未婚率」が上昇し続けています。最新の2015年は男性が23.4%、女性が14.1%でした。1980年と比べて男性の未婚者の割合は約10倍、女性が3倍に膨らんでいます。

上昇のきっかけの一つは86年に施行された男女雇用機会均等法だといわれています。男女の採用差別が禁じられたことで賃金格差が縮まり、男性に頼らず自立できる女性が増えたのです。
最近目立つのは男性の未婚率が急上昇していることです。

5年ごとの国勢調査を基に計算される生涯未婚率は、85年までは女性が男性を上回っていました。これが90年に逆転、今は男性が女性を約10ポイントも上回っています。
男性カップルに「里親」認定 多様な家族、考える時
バブル崩壊後、不安定な非正規雇用に就く男性が増えました。経済的な安定が得にくくなり、結婚をためらう人が増えたというのが一般的な説明です。しかし経済的な事情が背景であるなら、男女とも同じように未婚率が上がるはずです。

男性だけ突出して上昇している理由をニッセイ基礎研究所の天野馨南子研究員は「再婚が背景にある」と説明しています。
15年に結婚に占める再婚の割合は27%まで高まりました。そして再婚数は男性が女性を1万8千件ほど上回っています。初婚の女性と再婚する男性が増えた一方、一度も結婚しない男性の割合が高まっているのです。これが生涯未婚率の男女格差の真相のようです。

50歳までに一度も結婚しない人の割合を表す「生涯未婚率」が上昇し続けています。最新の2015年は男性が23.4%、女性が14.1%でした。1980年と比べて男性の未婚者の割合は約10倍、女性が3倍に膨らんでいます。

上昇のきっかけの一つは86年に施行された男女雇用機会均等法だといわれています。男女の採用差別が禁じられたことで賃金格差が縮まり、男性に頼らず自立できる女性が増えたのです。
最近目立つのは男性の未婚率が急上昇していることです。

5年ごとの国勢調査を基に計算される生涯未婚率は、85年までは女性が男性を上回っていました。これが90年に逆転、今は男性が女性を約10ポイントも上回っています。
男性カップルに「里親」認定 多様な家族、考える時
バブル崩壊後、不安定な非正規雇用に就く男性が増えました。経済的な安定が得にくくなり、結婚をためらう人が増えたというのが一般的な説明です。

しかし経済的な事情が背景であるなら、男女とも同じように未婚率が上がるはずです。男性だけ突出して上昇している理由をニッセイ基礎研究所の天野馨南子研究員は「再婚が背景にある」と説明しています。
15年に結婚に占める再婚の割合は27%まで高まりました。そして再婚数は男性が女性を1万8千件ほど上回っています。初婚の女性と再婚する男性が増えた一方、一度も結婚しない男性の割合が高まっているのです。これが生涯未婚率の男女格差の真相のようです。

 心配されるのが、男性が単身のまま年をとることです。みずほ情報総研の藤森克彦主席研究員は、60代男性の単身者の割合が05年の約10%から30年には20%まで高まると推計しています。天野さんは「女性よりも孤立しがちな男性の単身高齢者が増えるのは社会不安につながる」と指摘しています。家族の支えがないといざという時に福祉に頼るほかなく、その態勢は十分ではないためです。

今のところ決め手となるような対応策はありませんが、一橋大学の北村行伸教授は「高齢者のカップル形成を支援するのは意味がある」と話しています。若者の婚活支援ばかりでなく、高齢者の恋愛をもっと応援すべき時代なのかもしれません。

北村一橋大教授「未婚率上昇、自然な流れ」

未婚率の上昇をどう考えたらいいのか。結婚を経済学の観点から研究している一橋大学経済研究所の北村行伸教授に聞いた。

一橋大学経済研究所の北村行伸教授
――なぜ未婚率が上昇しているのでしょうか。

「日本人がほとんど結婚するようになったのは、明治維新以降に富国強兵のスローガンのもと、政府が兵隊を増やすために出産を奨励したからだとみられる。国策を背景に見合い婚が普及し、社会的なプレッシャーもあってみんなが結婚するようになった。しかし現代は国策という規制がなくなり、結婚市場は自由化された。市場が自由化されれば、2~3割が結婚しないのは異常ではない」
「現代は独身でいても不自由なく生活を送ることができる人が多くなった。ノーベル経済学賞をとったゲーリー・ベッカー教授は結婚に経済的なメリットがあるとして理論を構築したが、結婚が独身に比べて経済的メリットが大きいとは必ずしもいえない」

――とはいえ、単身の高齢者が増えると社会保障が心配だ。

「たしかに貯蓄が少ない高齢者が増えることが想定されるので、社会保障による手当てが必要になる。日本ではかつて、結婚しない女性が尼寺に入るなど、社会の主流から外れた人を受け入れる仕組みがあった。現在でも新たなセーフティーネット(安全網)を検討すべきだろう」

――未婚化は少子化ともセットだ。

「世界をみれば、フランスや北欧など結婚しなくても子どもを育てられるのが常識だ。日本でも現実には結婚前に子どもができる『できちゃった婚』が増えている。日本でも将来は婚外子を認める風潮になるかもしれない」

――結婚したいという人への経済学的なアドバイスはないか。

「今はお見合いの代わりにインターネットを使った結婚紹介業が普及している。経済学の中には望ましいパートナーを選ぶための『マッチング理論』というのがあり、一部の結婚紹介サイトでは理論を使ってパートナーを選べる時代だ。ただ本当に結婚したい人はそうしたサイトをもう利用しているはず。そうではない人に結婚を強制するのはおかしいことだろう」

(高橋元気)

 

 

 

 


創作欄 美登里の青春 続編 2

2019年11月22日 22時22分17秒 | 創作欄

2012年2 月22日 (水曜日)

宗教とは、何であるのか?

美登里は、ある日突然、同じアパートに住むその人の訪問を受けた。
何時もその人は爽やかな親しみを込めた笑顔で、元気な張りのある明るい声で挨拶をしていた。
美登里はどのような人なのか、と気にもしていた。
「私は、佐々木敏子です。よろしくお願いします」と丁寧に頭を下げるので、美登里も挨拶を返した。
その人とは、毎日のように顔を合わせていたが、訪問を受けるとは思っていなかったので、戸惑いを隠せなかった。
「お部屋にあがらせていただいて、いいかしら?」
その申し出に、嫌とも言えない雰囲気であった。
部屋は幸い片付いていた。
「部屋を綺麗にしているのね」相手は部屋を見回して、笑顔を見せた。
美登里はお茶でも出そうかと台所へ向かおうとしたが、その気配を感じて相手は、「突然で、迷惑でしょ。構わないでください」と制するように言う。
美登里は1枚しかない座布団を出した。

相手はその座布団に座りながら、「お仕事は、どうですか?」と聞く。
「まあまあです」としか答えようがなかった。
「あなたは、幸せですか?」真顔で聞かれたので戸惑いを覚えた。
沈黙するしかない。
美登里は、自分が幸せかどうかを真剣に考えてたことがなかった。
「幸せとは、何だろう?」沈黙しながら、美登里は頭を巡らせた。
気押されるような沈黙の時間が流れた。
相手は美登里をじっと見つめていたのだ。
「私たちと一緒に、美登里さん幸せになりませんか?」
佐々木敏子は結論を言えば、宗教の勧誘のために訪問してきたのだ。
「明日の日曜日、どうでしょうか? 時間があればお誘いします。私たちの集まりに出ませんか?」
美登里は、徹から「二科展へ行かないか」と誘われていた。
「明日は、用事があります」と断った。
「残念ね。それではまた、お誘いするわ。是非、集まりに来てくださいね」
その時の敏子はあっさりした性格のように想われた。
そして、小冊子を2冊置いて行く。

小冊子を開くと聖書の言葉が随所に記されていた。

2012年2 月23日 (木曜日)

創作欄 美登里の青春 続編 3

人の才能は、千差万別である。
運動能力であったり、学問の分野であったり、芸術の分野であったり。
美登里は、自分にはどのような能力があるのだろうかと想ってみた。
父親は地元の農業高校を出て農協の職員となった。
母親は? 美登里は母についてどういう経歴なのかほとんど知らない。
イメージとしては、厚化粧で派手な服装で、地元でも浮き上がっているような異質な雰囲気をもった女性であった。
だが、声は優しい響きで甘い感じがした。
体はやせ形の父とは対照的に豊満である。
歌が上手であり、よく歌ってくれた子守唄は今でも美登里の記憶に残っていた。
美登里は美術に興味があったが、絵が描けるわけではなかった。
美登里が勤める美術専門の古本店には、美術愛好家や美術専門家などが来店していたが、特別な出会いがあったわけではない。
美登里は午後1時に東京都美術館の前で待ち合わせをしたので、15分前に着いた。
すでに多くの人たちが来ていた。
二科会はその趣旨によると「新しい価値の創造」に向かって不断の発展を期す会である。
つまり、常に新傾向の作家を吸収し、多くの誇るべき芸術家を輩出してきたのだ。
絵画部、彫刻部、デザイン部、写真部からなる。
概要によると、「春には造形上の実験的創造にいどんで春期展を行い、秋には熟成度の高い制作発表の場とする二科展を開催しようとするものであります」とある。
美登里が、徹と行ったのは秋期展だった。
徹は美登里より、5分後にやってきた。
スニーカーを履き、上下ジーンズ姿である。
「晴れてよかったね」と徹は笑顔で言う。
美登里は徹の歯並びがいいことに気づく。
夜半から降っていた秋雨は午前10時ごろ上がり、青空が広がってきてきた。
上野公園の銀杏は、鮮やかな黄色に染まっていた。
2人は初めに徹の友人の作品が展示されている彫刻展を見た。
裸体像のなかに、バレリーナ―の彫刻がった。
「これだ」と徹は立ち止まった。
その彫刻は等身大と思われた。
つま先立ちであるから、細く長い足が強調されていた。
乳房はお椀のように丸く突き出ている。
手は大きく広げられていて躍動感を感じさせた。
「いいんじない」と徹は美登里を振り返った。
美登里は頬えみ肯いた。

2012年2 月25日 (土曜日)

創作欄 美登里の青春 続編 4

徹は二科展をじっくり見たわけではない。
60点ほどの彫刻展を見てから絵画展を見た。
それからデザイン展と写真展は流すような足取りで見て回った。
東京都美術館を出ると秋の日差しはまだ高かった。
「不忍池でボートに乗ろうか?」と徹が言う。
「ボートですか?」美登里はボートに乗った経験がなかった。
東叡山寛永寺弁天堂方面へ向かう。
細い参道の両側には、露天商の店が並んでいた。
「何か食べる?」と問いかけながら徹は店を覗く。
西洋人の観光客と思われる若い男女が笑いあいながら綿菓子を食べていた。
小学生の頃、美登里は夏祭りで父と綿菓子を食べたことを思い出した。
徹は美登利を振り返り、「綿菓子も懐かしい味がしそうだね」と微笑む。
夏には大きな緑の葉の間に鮮やかなピンクの花さかせる池の蓮は枯れかけていた。
ボート場には、ローボート、サイクルボート、スワンボートがあった。
「どれに乗る?」と徹は振り返った。
一番、ボートらしいローボートを美登里は選んだ。
美登里はこの日、緑色のジーパンを履いていた。
ボートが転覆することないと思ったが、まさかの時を思ってスカートでなくてよかったとボートが池を滑り出すと思った。
徹がロールを器用に漕ぐので、大きな水しぶきは飛び散らない。
ピンク色のスワンボートとすれ違った。
高校生らしい男女が横に並んで足で笑い合いながらボートを漕いでいた。
美登里は県立の女子高校だったので、男性と交際する機会がなかった。
「楽しそうだね」徹は微笑んだ。
美登里は振り返りながら肯いた。
「タバコ吸っていいかな?」
美登里は黙って肯いた。
「実は大学の卒論は、森鴎外だったんだ。小説『雁』読んだことある?」
「ありません」
美登里は青森県人なので太宰治が好きであった。

それから同じ東北人として宮沢賢治の本も読んでいた。

高校生の時、短歌もやっていたので石川啄木にも惹かれていた。

そして、東北人として最も身近に感じたの寺山修司だった。

美登里にとって羨ましいほどの多彩な人であった。

「僕の職業は寺山修司です」

「そんなことが言えるんだ」 美登里はかっこいい男だと惚れ込んだ。

徹は暫く、思いを巡らせているように沈黙しながらタバコを吸っていた。
「小説の雁のなかに、この不忍池が出てくる。話は遠い明治の昔のことだけどね」
徹はタバコの煙を池の岸の方へ吹き出した。
タバコの煙が輪になって池に漂った。
ボートを降りると徹は、無縁坂へ美登里を案内した。
「ここが三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の岩崎邸だった。この坂の左側に、昔は小説の中に出てくるような格子戸の古風な民家が並んでいたんだ」

徹が学生時代にはそれらの家々がまだ残されていた。
高い煉瓦造りの塀を背にして、徹は手振り身振りで説明した。
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<小説の雁の概要>
1880年(明治13年)高利貸しの妾・お玉が、医学を学ぶ大学生の岡田に慕情を抱くも、結局その想いを伝える事が出来ないまま岡田は洋行する。
女性のはかない心理描写を描いた作品である。
 「岡田の日々の散歩は大抵道筋が極まっていた。寂しい無縁坂を降りて、藍染川のお歯黒のような水の流れ込む不忍の池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。・・・」
 坂の南側は江戸時代四天王の一人・康政を祖とする榊原式部大輔の中屋敷であった。坂を下ると不忍の池である。

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<参考>

寺山 修司 (てらやま しゅうじ、1935年12月10日~1983年5月4日)は、日本の詩人、劇作家。演劇実験室「天井桟敷」主宰。

「言葉の錬金術師」の異名をとり、上記の他に歌人、演出家、映画監督、小説家、作詞家、脚本家、随筆家、俳人、評論家、俳優、写真家などとしても活動、膨大な量の文芸作品を発表した。

2012年2 月27日 (月曜日)

創作欄 美登里の青春 続編 5

人生の途上、何が起こるか分からない。
叔母が東京大学病院に入院した。
本人には「胃潰瘍だ」と告げていたが、スキル性胃がんであった。
胃がんの中で、特別な進み方をする悪性度の高いがんであり、余命は半年~1年と診断されていた。
叔父は美登里に涙を浮かべてそれを告げた。
医師の診断書を手にした叔父の手が小刻みに震えていた。
美登里はその診断書を叔父から手渡されたので読んだ。
美登里も思わず涙を浮かべた。
冬の陽射しは、長い影を落としていた。
徹と訪れたことがある三四郎池の木立が叔母が入院している病棟から見えた。
小太りの叔母は45歳であったが、年より若く見えた。
叔母は24歳の時に子宮筋腫となり、子どもを産めない身となっていた。
叔母は負い目から夫に、「愛人を作ってもいい」と言っていた。
叔母は薄々感じていたが、叔父には愛人が実際に居たのである。
だが、その愛人に若い男との関係ができて、現在は叔父は寂しい身となっていた。
「美登里ちゃん、あの人は何もできない人なのよ。お願い、私が退院するまで、叔父さんの面倒をみてほしいのだけれど、どうかしら」
叔母は美登里の手を握り締めた。
手には福与かな温もりがあった。
美登里は叔母に懇願されて、東京・文京区駒込の叔父の家へ行った。
八百屋お七の墓がある円乗寺の裏に叔父の家があった。
その夜、美登里は風呂に入った。
脱衣場は風呂場にはないので、廊下で着替えてた。
美登里は襖の間に人の気配を感じた。
叔父が美登里の襖の僅かな間から、美登里の裸体を覗き見ていたのだ。
美登里は多少の不愉快であったが、馬鹿な叔父の行為に一歩引いて冷笑を浮かべた。
大好きな父親によく似ていた叔父に、好感を抱いていたので気持ちは許せたのだ。
そして、美登里はその夜、夕食の時に叔父から聞かされた八百屋お七のことを思った。
お七は天和2年(1683年)の天和の大火で檀那寺(駒込の円乗寺、正仙寺とする説もある)に避難した際、そこの寺小姓生田庄之助(吉三もしくは吉三郎)と恋仲となった。
翌年、彼女は恋慕の余り、その寺小姓との再会を願って放火未遂を起した罪で捕らえられ、鈴ヶ森刑場で火刑に処された。
愛する男に会いたいために、放火をする16歳の女の子の浅知恵である。
だが、その激しい情念に美登里は気持ちが突き動かされた。

2012年2 月28日 (火曜日)

創作欄 美登里の青春 続編 6

叔父の家は昭和10年代に建てられた古い木造屋で、東京大空襲でも運が良く焼失をまぬがれた。
叔父は働いていた古本の美術専店の主人に子ども居なかったことから、養子に迎え入れられた。
義母は52歳の時に突然、クモ膜下出血で亡くなってしまった。
主人の19歳の姪が山梨県甲府から家事手伝いにやってきた。
叔父は29歳の時に、21歳となった主人の姪と結婚した。

70歳で亡くなった義父は東京都文京区本駒込の吉祥寺に眠っている。
寺の境内には江戸時代の農政家・二宮尊徳の墓碑があった。
また、山門には漢学研究の中心であった「旃檀林」の額が掲げられている。
「旃檀林」は駒澤大学の前身のひとつで、仏教の研究と漢学の振興とそれらの人材供給を目的とした学寮だった。
毎月の9日は義父の月命日であり、叔父は墓前に花を添えていた。
だから、その春の9日は美登里にとっても忘れられない日となった。
叔父の家に家事手伝いに来てから3日目の夜中である。
体に異変を感じて目覚めたら、叔父が美登里の布団に入り込んでいたのだ。
驚愕して身を跳ねのけたが、叔父に抑え込まれた。
荒い叔父の息遣いが酒臭かった。
「叔父さん、何するの!」と美登里は叫んだ。
「美登里、男、知っているんだろう?」
叔父は唇を寄せてきた。
美登里はその唇を避けながら、「嫌、ダメ」と叫んだ。
叔父の体から突然、力が抜けた。
「お前は、処女か?!」
美登里は肯いて、声を上げて泣きだした。
「悪かった。許してくれ、俺は魔が差したんだ」
叔父は乱れた浴衣を整えると、畳の上へ両手を突き土下座をした。
叔父は何度も畳に額を擦り付けて謝罪した。
美登里は泣きながら、両手で顔を覆っていた。
豆電球の灯りさえ、美登里には明るく映じた。
美登里は人と争った経験がほとんどない。
温厚な父は子どもころ美登里に言っていた。
「美登里も怒ることはあるよね。でも、ゆっくり10数えてごらん。1、2、3、4、5、6、7、8、9、10、それでも怒りが収まらなければ、怒っていい。でもね、怒ると損をするよ」
美登里は眠れないまま、ゆっくり10数を数えた。
そして美登里は、叔父の行為を許すことにした。
「夢の中の出来事」のように想えばいいと自身に言い聞かせた。

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<参考>
作家・島崎藤村は、姪のこま子との近親相姦に苦しんだ。
文学史上最大の告白小説とされる「新生」。
こま子は19歳の春、産後の病で妻を失った藤村宅に移り住んで3人の子育てや家事を手伝うことになった。
だが、藤村とただならぬ関係となり妊娠。
藤村は悩み抜いた 末、翌年には逃げるように渡仏した。


創作欄 美登里の青春 7

2019年11月22日 22時05分38秒 | 野球

2012年2 月29日 (水曜日)

創作欄 美登里の青春 7

6月9日は、美登里の誕生日であリ20歳となった。

「私も大人になったのね」 美登里は19歳の1年を振り返った。
不本意にも“愛してしまった”妻子ある徹との出会い。
叔母の死、母親との再会。
そして、何よりも大きな変化は信仰に導かれたことだった。
叔母の死がなければ、信仰はしなかっただろう。
元気な叔母が、46歳の誕生日を迎える10日前に逝った。
スキル性の胃癌で余命6か月から1年と医師から言われていたのに、5か月で逝ってしまった。
3か月で一旦は東京大学付属病院を退院した。
叔母は元気な大きな声で話す人であったが、信じられないほどか細い声になっていた。
そして小太りであったが、10㌔も痩せて頬骨が出て年より老けて見えた。
白髪も増えていた。
その叔母がある日、「富士山が見たい」と言った。
山梨県甲府で生まれ19歳までその地で育った叔母は、山梨県側から見た富士山を仰いできた。
「静岡側から富士山を見てみたい」
叔母が懇願するように言うので、叔父が西伊豆へ1日、自動車に乗せて連れて行った。
車椅子に乗った叔母が見た静岡側の富士山は、叔母を甚く感嘆させた。
「富士山は、何処から見ても素敵ね」
叔母は微笑みながら溢れる涙を流した。
車の窓越しに見る伊豆の山桜が満開であった。
万感想うこともあったのだろう桜を見て叔母は涙を流した。
叔母が再び入院したのは死の7日前であった。
すでに叔母の意識はなくなっていた。
意識がなる前日、美登里が病室に入ると、起き上がろうした。
何度も叔母は試みたが、「もう、ダメなのね」と言って、布団に両手を投げ出すようにした。
美登里はその細った手を握りしめた。
肉太であった叔母の手は、皺が目立ち太い血管が浮き出ていた。
「美登里が泊ってくれると元気だ出るわ」
叔母が言うので、美登里はベットの脇の簡易ベットで付添い寝を何度かした。
だが、意識が亡くなった叔母は、眠り続けるばかりで、付添婦が何度も痰の吸引をしていた。
酸素マスクも付けていた。
叔母の死の3日前、その付添婦が、「臭いな。寝られない」とイライラしたように言った。
そして、面倒臭そうに叔母の下の世話をした。
付添婦は叔母と同年代に見えた。
そして叔母の日の前日、付添婦は叔母の酸素を勝手に止めた。
病室に入ってきた看護婦(当時)がそれを見咎めた。
「あはた!何をするの!」看護婦は付添婦を睨み据えた。
そして、美登里を廊下に呼び出して、「あの人を辞めさせなさい。私の立場からは言えないの」
怒りが収まらない様子であった。
「怒る時には、10数をゆっくり数えるんだ。1、2、3、4、5、6、7、8、9、10とね。それでも怒りたければ怒る。でも怒ると損をするよ」 そのように父に諭されていた。
美登里は想った。
人間は、死期が迫っても、誰かと必ず出会う。
「出会いも、まさに宿命。良い人にも出会う。悪い人にも出会う。それも定めではないのか?」


 2012年2 月29日 (水曜日)

創作欄 美登里の青春 続編 8

叔母の葬儀は、東京・文京区本駒込の吉祥寺で執り行われた。
叔母の父母と兄弟、姉妹たち6人が、山梨県からやってきた。
叔母は6番目に生まれた娘であった。
「こんなに、若くして亡くなるなんて・・・」と死に顔を見てみんなが泣いていた。
美登里は、父と1年ぶり会ったが、父の背後に居る人を見て目を見張った。
息が詰まり、声も出なかった。
52歳となった母親が美登里の前に姿を見せたのだ。
美登里が10歳の時に母親に若い男ができて、悶着の末に家を出て行ってしまった母親とは9年ぶりの再会であったが、とても複雑な想いがした。
父親は行く場所がなくなり困り果た末に、仕方なく自分の許へ戻ってきた妻を許し受け入れたのだ。
狭い田舎の土地であり、母親のことは暫く噂も立っていた。
気まずい思いをしたはずの母親が厚顔にも、父の許に戻って来るとは、どう考えても美登里には理解できないことであった。
美登里は知らなかったが、母親は温泉芸者であった。
美登里の父の幸吉は、勤めている農協の旅行で美登里の母の五月と出会った。
どのような経緯があったのか、五月は幸吉の押しかけ女房となった。
実は五月には連れ子の男の子がいたが、2歳の時に近所の川に落ちて死んでしまった。
村人たちは、幼子から目を離した母親の軽率さに非難の目を向けていた。
だが、勝気な五月は、相手を見返すように振舞っていた。
「まったく厚顔無恥、何処の馬の骨か分からん女だ」
村人たちは烙印を押すように五月を蔑んだ。
父の幸吉は5人兄弟、姉妹の家族の二男で、実家の農家を長男が受け継いだ。
幸吉の母は48歳の時に結核で亡くなっている。
そして、幸吉の父親は52歳で脳出血で逝った。
和服の喪服を着ている美登里の母親は、52歳になったが、葬儀の中でも浮いたような存在に映じた。
豊かにアップに結った髪型で厚化粧であり、どこから見ても平凡な家庭の主婦のようには想われない。
何処か水商売の女のような雰囲気を漂わせているのだ。
「美登里、その髪型素敵だよ!綺麗な女になったね。私似じゃないね。やっぱり性格もそうだけど、お前さんは、お父さん似だね」
葬儀が終わると母親の五月が美登里の前にやってきて、美登里の手を取った。
母親には、娘を棄てて家を突然出て行った時の謝罪の言葉は最後までなかった。

2012年3 月 2日 (金曜日)

創作欄 美登里の青春 続編 9

その宗教の話は、美登里の心に綿が水を吸うように浸み込んできた。
多くの参加者が、何の飾りもなく自分の過去を語っていた。
そして、信心をしたことで、「宿命を転換できた」と言っていた。
美登里を会合に誘った敏子も赤裸々に過去を語った。
敏子は教育大学を出て、小学校の教師となったばかりの年の夏休みの臨海学校で、生徒の水死事故に遭遇した。
亡くなった1年生の男子生徒の担任の女性教師は42歳、泳げなかったので深みはまった生徒を目撃したのに、自ら助けに行けなかったのだ。
生徒を引率してきた教師たちは、それぞれのクラスの生徒を監視していた。
敏子は1年目の新米教師であるのに、5年生のクラスを担当していた。
行くへ不明となった生徒の担任の女性教師は、取り乱して初めに敏子に助けを求めに飛んで来た。
ところが、敏子も泳げなかったのだ。
結局、50㍍くらい離れたところに居た男性の教師に助けを求めた。
さらに緊急の事態を知って、6人の男性教師たちが海へ向かった。
海で遊んでいた生徒たち全員が岸に集められた。
緊急事態に20代と思われる海の監視員も2人駆けつけてきた。

だが、行方不明となった生徒は、みんなが必死に探したのにも関わらず何時までも見つけられなかった。
そして、虚しくも海に沈んでいたことが約1時間後に発見され、蘇生術を施されたが息を吹き返すことはなかった。
救急車で房総の市民病院に運ばれ生徒の死が確認された。
責任を感じた担任の女性教師は2日後、自宅の部屋で首を吊って自殺をした。
「若い自分が泳げなかった。教師失格ね」
生徒の水死で敏子自身も非常に責任を感じていた。
その年の秋に、敏子は同じ大学出身の先輩である男性教師に導かれて信心を始めたのだった。
「私はこの信心で、宿命を転換することができまいた」
敏子の体験を聞いたみんなが「良かった」と肯いていた。
明るく快活に見えた敏子には、悲惨な過去の体験があったことに美登里は心が動かされた。
「私にも宿命は必ずあるはず、それを断ち切ることができるのなら、信心をするほかないかもしれない。私も敏子さんのような凛とした女性になりたい」
その日、美登里の心は大きく傾き信心をする決意をした。
「美登里さん、私たちと一緒に幸福になりましょうね」
会合に参加した全員から祝福された。
「良かったね」

「本当の幸せをつかもうね」

「宿命を転換できるからね」

誰彼無しに声をかけられて、美登里は肯きながら感極まって泣いた。

2012年3 月 2日 (金曜日)

創作欄 美登里の青春 続編 9

その宗教の話は、美登里の心に綿が水を吸うように浸み込んできた。
多くの参加者が、何の飾りもなく自分の過去を語っていた。
そして、信心をしたことで、「宿命を転換できた」と言っていた。
美登里を会合に誘った敏子も赤裸々に過去を語った。
敏子は教育大学を出て、小学校の教師となったばかりの年の夏休みの臨海学校で、生徒の水死事故に遭遇した。
亡くなった1年生の男子生徒の担任の女性教師は42歳、泳げなかったので深みはまった生徒を目撃したのに、自ら助けに行けなかったのだ。
生徒を引率してきた教師たちは、それぞれのクラスの生徒を監視していた。
敏子は1年目の新米教師であるのに、5年生のクラスを担当していた。
行くへ不明となった生徒の担任の女性教師は、取り乱して初めに敏子に助けを求めに飛んで来た。
ところが、敏子も泳げなかったのだ。
結局、50㍍くらい離れたところに居た男性の教師に助けを求めた。
さらに緊急の事態を知って、6人の男性教師たちが海へ向かった。
海で遊んでいた生徒たち全員が岸に集められた。
緊急事態に20代と思われる海の監視員も2人駆けつけてきた。

だが、行方不明となった生徒は、みんなが必死に探したに関わらず何時までも見つけられなかった。
そして、虚しくも海に沈んでいたことが約1時間後に発見され、蘇生術を施されたが息を吹き返すことはなかった。
救急車で房総の市民病院に運ばれ生徒の死が確認された。
責任を感じた担任の女性教師は2日後、自宅の部屋で首を吊って自殺をした。
「若い自分が泳げなかった。教師失格ね」
生徒の水死で敏子自身も非常に責任を感じていた。
その年の秋に、敏子は同じ大学出身の先輩である男性教師に導かれて信心を始めたのだった。
「私はこの信心で、宿命を転換することができまいた」
敏子の体験を聞いたみんなが「良かった」と肯いていた。
明るく快活に見えた敏子には、悲惨な過去の体験があったことに美登里は心が動かされた。
「私にも宿命は必ずあるはず、それを断ち切ることができるのなら、信心をするほかないかもしれない。私も敏子さんのような凛とした女性になりたい」
その日、美登里の心は大きく傾き信心をする決意をした。
「美登里さん、私たちと一緒に幸福になりましょうね」
会合に参加した全員から祝福された。
「良かったね」

「本当の幸せをつかもうね」

「宿命を転換できるからね」

誰彼無しに声をかけられて、美登里は肯きながら感極まって泣いた。

 2012年3 月 2日 (金曜日)

創作欄 美登里の青春 続編 10

美登里が徹に初めて会ったのは、19歳になって1か月が過ぎた夏の日であった。
美登里は九段会館の屋上のビア―ガーデンで、夏だけアルバイをしていた。
昼間は叔父の美術専門の古本店で働いていたが、少しの小遣いになればとアルバイトを始めた。
神保町の昼時、餃子屋で美登里は偶然にも高校の同級生の澤村美穂と出会った。
美穂は九段の女子大学へ進学していた。
アルバイトは美穂に誘われたのだ。
美穂と一緒にアルバイトをしていた大学の同期生が盲腸となり、緊急入院をした。
店長が美穂に、「困ったな!店はこれからますます忙しくなる。誰か代わりはいないかね。探してほしい」と頼んだのだった。
人生の途上、出会いは奇なものだ。
美登里が美穂に誘われてアルバイをしていなければ、区役所に勤めている徹と出会うことはなかっただろう。
徹は区役所の同僚たちと九段会館の屋上のビア―ガーデンにやってきた。
彼らにとって九段会館の屋上は、例年の夏の夜の楽しみの場であった。
その日は九段会館の屋上に、とても強い風が吹き抜けていた。
テーブルに置いた箸が吹き飛ばされた。
「何度も悪いね。箸また吹き飛んじゃった」
美登里に笑顔で声をかけたのが徹だった。
爽やかに微笑むその人は誰かに似ていた。
長身で少し猫背である。
東北訛りがあった。
髪はきちんと整えられていたが、どこか崩れた感じもした。

「君の笑顔は、素敵だね。接客業に合っているね」
その声は明るく、そのトーンは耳をくすぐるような感じでソフトであった。

実はその時、徹は14歳で自殺してしまった自分の妹の面影を、目の前の女性に重ねて見ていた。
美登里が想えば徹の顔立ちは大好きな父に似ていたのだ。
「もしかして、この人と親しくなるかもしれない」
美登里はそんな予感がした。
つまり、運命的な出会いを感じたのだった。

このような思いこみは恋の始まりである。

2012年3 月 3日 (土曜日)

創作欄 美登里の青春 続編 10

昭和50年代はまだ、演歌がテレビで幅を利かせていた。
また、オーディション番組『スター誕生!』やほかの歌謡番組から新しいスターも誕生していた。
当時デビューした山口百恵・森昌子・桜田淳子が「花の中三トリオ」と呼ばれていた。
美登里も同年代であった。
美登里は、1980年月10月5日、日本武道館で開かれた山口百恵のファイナルコンサートに行った。
山口百恵は21歳であり、22歳の誕生日の約3か月前の引退であった。

ファンに対して「私のわがまま、許してくれてありがとう。幸せになります」とメッセージを言い残した。

そして最後の歌唱曲となった「さよならの向う側」で堪えきれずに、涙の絶唱となった。

歌唱終了後、ファンに深々と一礼をした百恵は、マイクをステージの中央に置いたまま、静かに舞台裏へと歩みながら去っていった。
中学生の頃からスターの百恵に憧れ、自分自身の想いを投影していた美登里は、19歳から続いていた妻子ある徹との別れを決意した。
「今が分かれる潮時ね、このままでは、ずるずると不安定で先の見えない関係を続けてしまう。まだ、私は若いにだからやり直せるはず」
言葉では言えそうにないので、想いを手紙にしたためた。

<美登里の手紙>

徹さんへ 
冷静になってこの手紙を書きたのだけれど、涙が溢れてきてペンは止まります。
涙でにじんだ文字を見ては、便箋を破ることの繰り返しなの。
直接、別れの言葉を伝えた方がいいのかしら、と思ったのだけれど、それができない。
先日のように言葉の行き違いで、私は傷つきたくないし、徹さんの暗い顔を見たくない。
「しばらく時間をほしい」と徹さんは、あの日、新宿・大久保のホテルを出た時、言ったのだけれど、私たちの3年の歳月にあとどれだけの時間が必要なの?
徹さんが、「二人は波長が合ってしまうんだ」と言っていたことを、私は否定はしません。
「このままで、いいじゃないか」と徹さんは言ったのだけれど、私は何時までも“影のままで居たくはない”
実はこの間、古本屋で立原道造の本だと思って買った本が、立原正秋の本だったの。
題名が「雪のなか」という本で、「わかれ」の章を読んだら私たちの将来の二人の関係を想わせる内容なの。
徹さんは、何時か私に飽きるかもしれない。
そして、徹さんの方から別れ話を切り出すかもしれない。
その時の私は惨めになってしまう。
徹さんには、一度も言ったことがないのだけれど、私は信仰をしているの。
その教えの中に、「自分の幸福を他人の犠牲の上に築いてはいけない」とあるの。
そのことを真剣に考えてほしい。

そして徹さんに私の立場を分かってほしいと思っています。
一番いけないのは、ずるずると関係を続けることなの、徹さんもそう思いませんか?
私は、分かれることを決意したの。
私の気持ちを解ってほしい。
これ以上、書けません。
また、涙が溢れてきたの。
美登里より


創作欄 真田の人生

2019年11月22日 22時03分52秒 | 野球

2014年3 月 4日 (火曜日)

創作欄 真田の人生

どんな物事にも「原因」があり「結果」があるはずだ、と真田は想った。

だから、木村哲夫が精神を病んだことにもそれなりの原因があるはずだ。

木村は非常に頑固な面を持ち、自分の意志を曲げようとしないことも多々った。

それはかれの競輪における車券の買い方にも表れていたのである。

ぞろ目への拘りに加えて、家を出ていった妻の初子を意識して1-4の目を買い続けていた。

初子は4月14日生まれであったのだ。

中学を卒業してから、板前の仕事をこなすなかで忍耐強い性格が形成されていったであろう。 木村には几帳面で礼儀正しく義理がたい面もあった。

粘着質の木村の性格からして、職人肌の板前の仕事が合っていたと言えるだろう。

だが、割烹の板前から兄の強い要請で建築業に転身を余儀なくされていた。

それは木村にとって不本意であり、ストレスを内側に溜め込む性格であったので、酒などで憂さを晴らしてきたが我慢も限度にきたのだろう。

また、地道な努力で、一度手がけた仕事は最後まで粘り強くやり通すが、その反面手際が悪く感じられることもあったのだ。

やがて砂利採掘の仕事も嫌々やっている状態となる。

心のどこかで未練が断ちがたく、板前に戻りたいと思っていたことも否めなかっただろう。

「死にたい」と言い出した木村は本気であったのだ。

2014年3 月 3日 (月曜日)

創作欄 真田の人生

木村哲夫は東京・築地の割烹「村宗」の板前であった。
村宗の店主は、哲夫の母親の従兄であった。
哲夫の父は昭和19年に南方で戦死している。
哲夫は北区王子の中学を卒業すると、村宗に住み込みでお世話になった。
哲夫は22歳の年に、村宗の仲居の初子と結婚した。
初子は千葉の銚子の出身で、二つ年下であった。
哲夫に大きな夢があるわけではなかったが、初子は夫が将来独立して銀座辺りに小料理屋を持てたらと願っていたのである。
だが、昭和40年代、哲夫の取手に住む兄が突然、築地の店にやってきて、「俺の建築業を手伝ってくれ」と頼み込んだのである。
当初、哲夫は兄の頼みを断っていた。
だが、「支度金だ」と兄の大輔が強引に300万円を置いていく。
競馬好きの哲夫はその300万円に手を着けてしまった。
「軍資金さえあれば、競馬に勝てる」哲夫は大きな錯覚をした。
土曜日、日曜日の朝から哲夫は銀座の場外馬券場へ10万円を持って馬券を買いに行く。
だが、毎回、お金を失うばかりであった。
300万円の金はわずか半年余で消えた。
その間には最高、80万円を払い戻したこともあったが、結局は金を失うばかりであった。
哲夫は意に反して、板前を辞めて兄の建築業を手伝うこことなった。
「これからは、建築業の時代だ。取手も発展するぞ。今に見ておれだ」
哲夫の兄大輔は上機嫌で弟を迎えいれたのだった。

創作欄 真田の人生

木村哲夫はやおら立ち上がったが、崩れるように膝を着いて前のめりに転んだ。

真田は思わず木村の両肩を支えたが、木村は前頭部を畳に打ちつけ倒れ込んだ。

脇に立っていた木村の息子の波夫は口をあんぐりと開けて父親をただ見下ろしていた。

「哲さんどうしたんだい。頭は大丈夫かい?」

真田は木村の身を起こした。

「膝に力が入らねんだ。膝がガクガクする。仕事に行っても仕事にならねい。俺はもうおしまいだ」

木村はうな垂れて頭を上げない。

木村は建築業の兄の仕事を手伝っていたが、競輪にのめり込んで借金をつくっていた。

そのことを兄に厳しく咎められ、仕事を辞めてしまった。

悪いことは重なるもので、生活の足しにとスナックで働き始めた木村の妻に男ができたのである。

「マスター、俺は悔しいよ。女房を変な野郎に寝取られてよ」

相手の男は真田も知っている的屋(露天商)の男であった。

木村の奥さんの初子を取手競輪場で見かけた時、真田は唖然とした。

短髪の髪の毛を赤く染めていた。

はじめは初子だとは気がつかなかったが、独特のハスキーな声で車券を買っていた。

初子の脇に的屋の小島健作が立っていたので真田は声をかけるのがはばかれた。

昼間、夫の木村が仕事をしているのに、派手な身なりで男といちゃつきながら競輪に興じている初子に言葉を失った。

妻が家を出てから木村は自暴自棄になった。

「哲さん、辛いだろうけど、最低限仕事はしろよ」

真田は喫茶店「たまりば」の客に頼み込んで、哲さんを砂利の採掘工場で働かせた。

利根川から砂利の採掘する仕事である。

妻の家出から3年の歳月が流れていたが、哲さんは精神を病むようになった。

端正で柔和であった哲さんの顔は別人のように険しい表情になっていた。

約半年、精神病院に哲さんは入院した。

入院から退院まで真田は木村の面倒をみていた。

息子の波夫がいつも真田のもとへやって来た。

「おじさん、おやじを何とかしてよ。おじさんしか、僕には頼りはいないいだ」その波夫の悲しげな表情を見ると放置できなかった。

真田にとって、波夫は孫のように可愛い少年であった。

退院して、また砂利の採掘工場で働きだした矢先に木村は「死にたい」と言い出すようになった。

 

2014年2 月28日 (金曜日)

創作欄 真田の人生

真田が朝の散歩から戻ってくると喫茶店「たまりば」に木村哲夫の息子の波夫が居た。
「波夫、どうした?」真田は背後から声をかけた。
「ああ、おじさん。おやじが、おやじが変なんだ」波夫は落ち着きがなく明らかに動揺していた。
「哲さんが変? どういうことだ」
「今朝、親父が徹夜の仕事から戻ってきて、車は何処だ?と聞くんです。親父は昨日の朝、車に乗って出かけるところを俺は見ていたので、何を言っているだと訳が分からなくなって・・・それから、おやじはマスターを呼んできてくれって言っている」
波夫はすがるような目をした。
真田が腕時計を確認すると午前6時10分である。
木村哲夫が住んでいる借家まで徒歩10分余である。
道すがら真田は波夫に父親の様子を聞いた。
「哲さんは酒を飲んでいる?」
「飲んでいるよ。何時ものとおりだけど」
「朝から飲むこともあるかい」
「朝からも飲んでいる」
「そうかい」真田は話に応じながら哲さんの端整な面立ちが最近、少し崩れてきたことに思い立った。
哲さんは粘着質の人であった。
それは競輪の車券にも表れていた。
例えば、ぞろ目への拘りである。
4-4、5-5、6-6を必ず買うのである。
「ぞろ目だと裏目で泣くこともないね」哲さんは自己満足に陥るタイプでもあった。
木村は居間のテーブルの前に座り、ビールを飲んでいた。
空のビール瓶がすでに3本並んでいた。
「マスターどうしたの?」
哲さんは空ろな目で真田を見詰めた。
「哲さんが呼んでいると息子さんが言うで来たんだ。何か相談事があるじゃないか?」真田は穏やかに微笑みかけた。
だが、木村は「俺、死のうと思って、さっき遺書書いた。マスター読む?」と心外なことを口走った。
「哲さんが死ぬ!? まだ、死ぬには早いんじゃないか。息子さんに心配かけちゃいけない」真田は諭

2014年2 月26日 (水曜日)

創作蘭 真田の人生

「真田さん、戦後、25年、経済的にわが国も豊かになったが、人類の危機を脱したとは言えない」

「そうだね」

真田は徳山に会って懇談すると常に、徳山の持論に引きづられ思いがした。

真田が趣味の競輪の話をしても、徳山はまるで興味を示さなかった。

天下国家を論じる青年のような志を徳山は失わずにいたのである。

「私は、国連の存在とその役割に期待しているのだが、国連はその役割、機能を十分に発揮していない。それが残念だ」

徳山は「どうすれば国連はその価値を高めることができるのか」を模索していた。

「どうすれば国連は人類の平和、安穏に寄与できる存在になるだどろうか?」徳山は真剣な眼差しで真田に問いかけてきた。

そのような課題に対して、肯定的かつ具体的に論じことは真田にはできなかった。

つまり、真田は超大国のバランス、利害の上に構成され、運営されている国連に懐疑的であった のだ。

「今こそ、国連に焦点を当てる必要があるのだが・・・」徳山はどこまでも国連の存在を肯定的にとらえており、平和創出のために徳山は国連に強い期待を寄せていたのである。

その日は、東京に大雪が降った。

真田は一人日比谷公園を歩いていた。

雪はいつもの景色を一変させる 。

「自分が変われば、周囲も変わる」真田は徳山の言葉を思い浮かべた。

「雪景色のように、心の風景も変わるだろうか」真田は、都会を離れどこか違った土地で暮らすのもいいだろうと思い立った。

「自分の幸福だけでなく、他者の幸福と一緒になったとき、本当の幸福があるです」

徳山が言っていた。

「人生にも心の風景を変える出会いもある」真田は日比谷公園を散策して帰途、そのように思った。

「真田さん、嬉しい出会いがあり、良き出会いを重ねることで、人生も豊かに耕させるですよ。私にはそう思われるんです」徳山の親しみを込めた笑顔が浮かんだ。

 

創作欄 真田の人生

出会ったその日から意気投合する人物は真田にとって、希と言える。

他人から見れば真田は無頼であり、戦後の闇市から非合法の闇取引や賭博に身をやつしてきた怪しい人間の部類に属していた。

一方、静岡県焼津出身の徳山孝作は、第五福竜丸に所縁のある人であった。

ビキニ水爆被災事件を通じて、補償問題に携わってきた経緯から核兵器廃絶を訴えてきた。 1954年3月1日、太平洋のマーシャル諸島で、米国が世界初の“実用可能な”水爆実験を行った。

その威力は広島型原爆の約1000倍だから、想像を絶するものがあった。

ビキニ岩礁の東160kmの海域で第五福竜丸は被曝した。

爆発後、放射能を帯びたサンゴ礁のかけら(死の灰)が吹き上げられ、多くの船が被曝した。

中でも第五福竜丸は焼津港に帰港後、乗組員23人が急性放射能症で入院(国立東京第一病院及び東大付属病院に)9月に1人が亡くなった。

この年は、放射能に汚染された魚を捕った漁船は約900隻に上った。

1945年の敗戦後、日本は連合軍司令部(GHQ)の命令で、大型船や飛行機の建造が規制されていたのだ。

このため、当時の漁師たちは、木造船で赤道周辺まで航海し、命がけでマグロなどを捕っていたそうだ。

漁船のマグロから放射能が検出され、「原爆マグロ」と呼ばれて、457トンもの魚が捨てられた。 真田は焼津漁業組合で働いていた徳山孝作からそのよう当時の現状を聞かされた。

「亡くなった無線長の久保山愛吉さんはとてもいい人だった。実に残念だ!」

徳山は居酒屋の天井を仰ぎ見て涙を浮かべた。

出会いは不思議なもので真田が取手に移住するまで、週に1回は酒を酌み交わす間柄となった。

徳山は行政書士の資格や社会保険労務士の資格、宅地建物主任者の資格も有していた。

ある意味で地道な人であり平和主義者であり、無頼の真田とは対極にある人であった。

信頼すべき人物の徳山は思い出に残る人となった。

 

2014年2 月25日 (火曜日)

創作欄 真田の人生 

真田は60歳を過ぎて、人生の黄昏を覚える時もあったが、人生に不満はなかった。

なぜなら、南の島の地獄そのものの戦場で奇跡的生き抜き、何とか日本本土に生還できたのだから感謝に耐えない身であった。

人生に不満、それは戦死した戦友たちや東京空襲で亡くなった妻子たちへの冒涜とさえ思われたのだ。

儲けものの人生を歩んでいる。

その自覚を真田は片時も忘れなかった。

真田にはこれまで貴重な出会いもあった。

その一つが東京・日本橋室町で古いビルの一階事務所での出会いであった。

不動産取引の場で、その人に出会った。

「静岡県焼津出身の徳山孝作です」と名乗った。

体格がよくいわゆる偉丈夫の雰囲気であり、笑顔が柔和であった。

言葉に静岡訛りがあることから親しみを覚えた。

真田の音楽学校時代の同期に静岡出身者の1人が居て、親しくなってことが思い出された。

戦後、ずっとその同期の友との連絡が途絶えていたのを真田は忘れずにいた。

「私の学友に焼津出身の者が居ました」真田は思わず口走った。

相手は真田の名刺を確認しながら「真田さんの学友が?焼津にですか?」と目を見開いた。 「ハイ、月星悟といいます」

「月星悟ですか!私の中学の同期です。奇遇ですな」

「月星悟と中学の同期なんですね。彼はどうしていますか?」

真田はソファーから身を乗り出すようにした。

「悟はシベリアに抑留され、死んだそうです。悟は網元の息子でしたが、音楽学校へ進みそのまま地元へ戻ってきませんでした」

真田も農家の倅であったが、音楽学校へ進み故郷へ戻ることはなかったのだ。

徳山孝作はこの日、日本橋の居酒屋へ真田を誘った。

「戦争を経験している同世代として、平和の尊さを伝えなければなりません」

徳山は日本酒の熱燗を飲みながら言葉に力を込めた。

真田は熱燗を好まなかったが、この日は徳山に合わせた。

徳山は第五福竜丸の表現者の1人であった。

「日本は広島、長崎で被爆し、さらに第五福竜丸です。当然、反核運動を推進すべきです」 真田はこれまで反核運動にまで思いが至らなかった。

徳山は当時、焼津の漁業組合の事務局の立場で奔走していたそうだ。

「思えば政府の対応も理不尽であり、焼津に見切りをつけることになりました」

徳山は無念の表情を浮かべた。

真田は政府にはあまり期待していなにので、徳山の一本木を気の毒にさえ思った。

2014年2 月18日 (火曜日)

創作欄 真田の人生 

真田は人生を振り返り、常に自分はプラス思考できたと思ってた。

それが真田自身を良い方向へ向かわせてきた。

多くの人は、勝負すべき時に、負ける心配がら入るの常だ。

つまり守りから入るのである。

荻原忠雄もそんな1人であった。

彼は常に冒険はしない。

車券で言えば本命買いであった。

「荻原さん、1番人気で決まるレースは1日に、何回あるだろうか?」

「2回か、3回かな」

「もっと少ないはずだよ。1000円が2000円、2500円になってどうするの?」

人気はあくまで、多くのファンの期待値なのだ。

「競輪は記憶が物を言うギャンブル。しかも人間関係で成り立っている。もちつもたれるの世界。前回、お世話になったら、相手を勝たせてあげる。そういう世界、義理と人情で成り立っているとも言えるんだよ」

荻原は真田に言われてみて、「確かにマスターの言ったとおりだ」と納得した。

「マスターは教養もあるし、頭もいい。俺らは中卒で植木職人。才もないから金も貯められない」と自嘲的にい言う。

「意識改革をすればいいじゃないか」

「意識改革?」

「自分を信じ、常にいいイメージをもつことだよ」

真田は女性関係で一度もトラブルがなかった。

女性を手段とせず、愛玩するような気持ちで接してきた。

常に女性に安らぎを求めてきた。

そして 「来るものは拒まず、去るものは追わず」を信条ともしてきた。

「友人以上、恋人未満」の関係も少なくなかった。

 

 


創作欄 真田の人生

2019年11月22日 21時57分53秒 | 創作欄

2014年3 月10日 (月曜日)

創作欄 真田の人生

自殺したいと思う人は、視野狭窄に陥った人でもある。

「自分以外に目を向けてこそ人は刺激や生きがいを感じるはずだ」と真田は思った。

八坂神社の祭に木村を誘ったのは、木村の妻の初子の姿を見せる意味もあった。

的屋(露天商)の女になった初子の姿を真田は度々目撃していた。

それは取手競輪場内であった。

JR取手駅東口を降りて直進、30m程先を右折した通りが「大師通り」である。

ここは、古刹「長禅寺」の門前通りとして古くから人が往来した通りだ。

駅から歩いて2、3分の距離に位置するこの通りは、昭和の時代には駅前商店街として大変賑わいをみせた通りであったあった。

 取手に一時在住した作家・坂口安吾と所縁があるの海老屋酒店も大師通りに現存する。

大師通りは漬物屋の新六と地酒の田中酒造が並ぶ旧水戸街道へ続く。

この旧水戸街道と平行するのが新道である。

八坂神社の祭は新道を交通止めにして屋台が店を連ねていた。

木村の妻の初子は屋台で焼き鳥を焼いていた。

昭和20年生まれの初子はこの年、29歳であった。

初子は8歳の息子を置いて家を出ていた。

31歳の木村は的屋である40歳の小島健作に女房を寝取られた身であった。

小島は脇で的屋仲間と談笑していたが、真田と目を合わせると逃げるように姿を隠した。

「初子を家へ帰せ」と真田に言われていたのである。

戦後の闇社会にも身を置いた真田は60歳に近い年代であったが、威圧感のある存在であったのだ。

真田は競輪場では、マスターとか社長と呼ばれコーチ屋や飲み屋、ヤクザ者たちからも一目置かれている存在であった。

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 <参考>

コーチ屋とは:

「次のレースは○○がくるぞ!間違いない!!相手はコレとコレや!しっかり儲けてや!」と声をかける。

コーチ屋の予想が的中すると「おい!ナンボほど買うてん?教えてやったんやから半分よこせや!」となる。

 ノミ屋(ノミや)とは:

 日本に於ける公営競技などを利用して私設の投票所を開設している者のことである。

また、その行為を「ノミ(呑み)行為」と言う。 

 2014年3 月 9日 (日曜日)

創作欄 真田の人生 

「何とかできなかったのか?」と悔しさや落胆、心の傷などを残された者たちにもたらすでしょう。
だから、自殺は思い止まったほしいのです。真田は木村哲夫に手紙を書いた。

思えば、真田はほとんど手紙を書かない。

心は目には見えないが、真田の心を木村に届けるために手紙を書いた。

「木村哲夫様 ここ数日、見せてもらった遺書について考えてみました。

現在、哲さんはうつ状態にありますね。

うつ病は心の風邪とも言われ、誰でも罹るものです。

ですから、それに押しつぶされて死を選ぶのは、できれば避けてほしいですね。

生きてさえいれば、人生はどうにでもなると思うのです。

南の戦場で九死に一生を得た私は、死んだ戦友のためにも、また、東京大空襲で亡くなった妻子のためにも、生き続けたいと今日まで生きてきました。

つまり、儲けものような生をありがたく思って生きてきました。

自殺は自分だけの問題ではありません。

『何とかできなかったのか?』と悔しさや落胆、心の傷などを残された者たちにもたらすでしょう。

だから、自殺は思い止まったほしいのです。

 哲さん何時でも相談に乗ります。

朝の散歩では八坂神社で哲さんのことを祈っています。

真田」

手紙を出してから、数日後、真田は木村を八坂神社の祭に誘った。

真田は加賀友禅の浴衣姿であった。

「俺も浴衣を着るか」と木村は笑顔で言い、部屋へ戻った。

玄関へ出てきた木村は頭に白地に藍染めの手ぬぐいを巻いて板前時代のように、粋な雰囲気であった。

 

 

 

2014年3 月 7日 (金曜日)

創作欄 真田の人生

未練である。
死ぬことを決意した木村哲夫は、自分を裏切った妻初子に会いたくなったのである。
家計の足しにと夜の勤めに出た家庭の主婦が、ヤクザ者に誑(たぶらか)されるのは容易なことである。
家庭の主婦は言わば無防備であり、世間知らずであり、野獣にとっては飛び込んできたウサギのような餌食と同然である。
「店を終わったら、ラーメンでも食べにいくかい?」と客の1人に誘われた。
優しそうな男であった。
何時も控え目にカウンターの片隅で飲んでいた。
「そうね。美味しい店知っているの?」
「ああ、牛久にあるんだ」
牛久駅は取手駅から水戸方面へ向かった三つ目であった。
「牛久沼の前の店だ」
「それじゃあ、連れていってね」
時計を確認すると、午前0時を過ぎていた。

深夜の道路は車が順調に走行し、17分ほどでラーメン店に着いた。
男には魂胆がった。
ラーメン店の傍のモーテルに連れ込む算段であったのだ。
初子は食べたラーメンに満足した。
「美味しかった。取手にもこんなに美味しいラーメンがあればいいのに」
「そうかい。満足したかい。今夜はお前さんを食べたくなったな」男は店を出ると唐突に初子を抱き寄せたのだ。
「やめて!」と叫んだが唇を塞がれた。
後は強引な男の意のままにされたのだ。
「今夜は帰えさないぞ!」優しいそうに想われ男はヤクザな正体を現した。
結局、初子は夫からは得られなかったような男のテクニックに翻弄されたのだ。
しかも、相手は性に淡白な夫とは比べられないほどの絶倫男であったのだ。
「これが性愛の?」初子は女の喜びに初めて開花した。

 

2014年3 月 5日 (水曜日)

創作欄 真田の人生

人生如何にいきるべきか?

それは人類の命題である。

人類史上、最悪な人間が出現し、前代未聞の悪事をなす。

神や仏が存在するなら、当然、悪事は未然に防ぐだろう。

だが、厳密な意味で人が生み出した神や仏に特別な力が備わったいるわけではないので、悪事を止める力が神や仏ににあるわけではない。

真田は太平の南の島での戦争で現実者となった。

現実者とは死線を超えないとなりえないはずだ。

現実者は虚無者でもあるが、真田は人間の善性を失っていなかった。

つまり、人間の可能性「復元力」「蘇生力」に期待していた。

わずか5000円のために人を殺す17歳の高校生も居る。

殺した相手は15歳の中学生の少女である。

真田は取手駅前の喫茶店「たまりば」で新聞の社会面を毎朝見ながら、暗澹たる気持ちとなった。

だが、昭和40年代に犯罪が増加したとは思っていない。

戦後、昭和20年代、30年代は40年代以上の凄惨な犯罪が行われてきた。

ある意味では、昭和40年代は希望が見えるとさえ思われた。

だが、真田は山崎豊子の小説「白い巨塔」を読み、医療界に疑念を抱いた。

また、真田にとって従軍看護婦問題も無視できなかった。

真田は戦後、元従軍看護婦との交情もあったのである。

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<参考>

満州事変・日中戦争・太平洋戦争において出動した従軍看護婦は、日赤出身者だけで960班(一班は婦長1名、看護婦10名が標準)、延べにして35,000名(そのうち婦長は2,000名)で、うち1,120名が戦没した。

太平洋戦争終了時に陸軍看護婦として軍籍にあった者は20,500名、そのうち外地勤務は6,000名にも上った。

応召中の日赤看護婦は15,368名であった。

海軍においても病院船などで従軍看護婦が活動していたが、そのデータは欠けている。

 敗戦直後、旧海軍が日本人慰安婦を、軍病院の看護補助者に雇用せよとの通達が発見されている。

 創作蘭 真田の人生 

「人生は四苦八苦」 木村は口走っていた。

4-9 8-9の車券を木村はずっとを買い続けていた。

その日のメインレース(決勝戦)は1番の選手が断然の人気であった。

本命の一番人気の1-7は2.1倍であった。

本来なら穴買い志向の真田であるが、選手間の脚足、戦績から1-7以外の車券は考えていなかった。

だが、木村が「マスター、俺はもう金がない。お願いだ。4-9、8-9を騙されたつもりで、買ってほしい」と懇願する。

「哲さん、このレースに限って、4-9、8-9はないよ」と真田は諭すように言った。

「では、俺に香典のつもりで1万円出してよ。4-9と8-9に5000円。マスターなら分かってくれるよね」

木村には鬼気迫るものがあった。

「死にたい」と言っていた木村に死期が迫っていたのだ。

「哲さん、分かった。香典だよ」 真田は3万円を木村の手に握らせた。

木村は4-9を1万5000円、8-9を1万5000円買ったのである。

一番人気のラインは1-7―5

穴のラインは6-2 -9であり、人気薄のラインは8-3-4であった。

スタートは、8-3-4  6-2 -9 1-7-5 の並びとなる。

真田は悪い予感がした。

真田は元来なら、1―7―5  6-2-9 8-3-4の並びを想定していた。

位置どりから1-7-5の本命ラインは捲り(追い込み)ではなく、逃げになってしまうのだ。

案の定、1-7-5で先行したら、8-3-4ラインに抵抗される。

本命の1番線選手は8番との先行争いで必要以上に足をロスする。

そして、信じられないが、3番選手に外に張られて失速した。

まるで車体が故障したように本命の1番選手はズルズルと後退していく。

結果は人気薄のラインの3番手から4番選手が抜け出し、外から穴人気のラインの3番手から9番選手が伸びてきたのだ。

木村の顔は特別観覧席で青ざめていた。

「人生は四苦八苦」の木村の期待したとおりのレース結果となった。

4-9は8万7540円の配当だった。

つまり、木村は香典と懇願して真田から3万円を借りて、4-9に1万5000円を投じていた。

木村が払い戻した金は、131万3100円であった。

木村の体は小刻みに震えていた。

真田は「哲さん、やったね」と木村の背中を叩いた。

「これでマスター、俺の葬式代が出た」と木村は真顔で言う。

 


創作欄 真田の人生 おわり

2019年11月22日 21時54分26秒 | 創作欄

2014年3 月13日 (木曜日)

金がすべてはないが、金で解決できることもある。

金に困ると人は犯罪者にもなりかねない。

一番安易なのは、人を殺してまで金を奪うことだ。

奪った金はわずか500円。

財布には500円しか入っていなかったのである。

「500円?! 日当にもならん。この若者は無期懲役だろう」

真田は新聞の3面記事を読んで暗澹たる気持ちになった。

「愛と慈悲」について真田は考え、図書館で宗教関係の本を探し読んでみた。

さらに「最高の善とは何か?」と考え哲学書も読んでみた。

金儲けと博打などに生活の大半を注いできた真田には、心の栄養が不足していた。

思えば映画もほとんど見なかった。

ましてや元音楽教師でありながら歌劇やコンサートとは無縁な生活を送ってきた。

真田は取手音楽クラブの創設を思い立った。

音楽で取手の街を活性化する。

取手交響楽団が誕生したらそれを経済的に支える。

あるいは多くの著名で優れた音楽家や楽団を取手に招聘する。

真田は「最高の善」は、人に感動を与えることだと思った。

木村は割烹「きむら」で再スタートしていた。

「マスターに俺の料理を食べてもらって、こんなに嬉しいことはない」

木村の顔は温和で端正になっていた。

人間は生きがい、やりがいがあれが蘇生するのもだ。

初子も紆余曲折があったが、木村の元へ戻っていた。

「私、家へ戻れない」と初子が言うので、しばらくみどりに託した。

「マスターの頼みだもの、しばらく初子さんをあずかるわ」

姉御肌のみどりは快く初子を受け入れた。

そして半年後、木村が初子を迎えに行き心のわだかまりが解けた。

「家へ戻れる資格はないのだけれど、許してもらえるなら・・・」

「一度、死んだも同然の俺だ。何もかもマスターのおかげだ。帰ってきてくれ」

木村は畳に頭をこすりつけるようにした。

「初子さん良かったわね。いい旦那さんなのだから、大切にしてね」みどりは初子の背中を押すようにした。

 

2014年3 月12日 (水曜日)

創作欄 真田の人生

人を如何に励ますことができるか?

真田は思いを巡らせた。

あるいは生命をダイナミックに変革していく方途はあるのか?

死に神に取り憑かれたような虚無的な木村哲夫が、生きていくためには、夢と希望、生きがい、やりがいなどが不可欠だ。

木村に期待されるのは、「精神的回復力」「抵抗力」「復元力」「耐久力」であった。

兄に請われて、割烹料理店の板前から建築業へ転身したことが、木村の人生や生活の歯車を狂わせた。

「もう一度、木村が板前に戻ればいいのだ」と真田は思いついたのだ。

同時に家を出た木村の妻初子を呼び戻さねばならないと決意し、的屋の小島健作と交渉した。 料亭「高島」に小島は舎弟の近藤進を連れてやってきた。

小島は浴衣姿であった。

「マスターなんの用かい?」 席に着くなり小島は上目で睨むように切り出した。

「まあ、食事をしながらのことだ」真田は仲居に鰻重と刺身の盛り合わせなどを注文した。

それにビールを頼んだ。

「どうなの? 商売の方は?」穏やかな口調で問いかけた。

「ボチボチだね。マスターのような才覚が無いんで、肉体で稼いでいるよ」

舎弟の近藤はかしこまって正座のままだ。

「かたい、席ではないのだから、楽にしなさい」と真田は促したが近藤は膝を崩さなかった。 注がれたビールを小島は一気に飲み干した。

「マスターのことは競輪仲間にも聞いているが、凄いギャンブラーなんだね。この店は冷えていいや。外は暑いな。露天商は本当のところ肉体労働なんだ」小島はニヤリとしたが目は笑っていない。

「冬は寒くて大変だね」

「そう、寒くてな、でも焼き鳥だから、暖は取れるがね」 小島が真田にビールを注いた時、右手の上部の刺青が見えた。

小島は早食いであり、真田が鰻重を半分食べているともう食べ終わっていた。

ビールの後は酒にした。

小島は熱燗であり、真田と近藤は常温で日本酒を飲んだ。

真田は人づてに小島が多額の借金をしていることを聞いていた。

そこで切り出したのだ。 「初子のことだが、家へ帰してやってくれ。場合によっては手切れ金を出す」

「マスター、手切れ金。本気なのかい?」小島は頬を緩めた。

そして舎弟の近藤へ目をやった。 「証人もここにいるんだが、手切れ金をよこすんだね」

「そうしても、いいんだ」真田は穏やかに言った。

「この俺もマスターには、かなねい。わかった」と小島は承諾した。

真田は麻のスーツから財布を取り出し、小切手を小島に示した。

「500万円?! マスター、こんなにいただいて、いいの」 小島は近藤を見ながら目を丸くした。

 -----------------------------------------

<参考>

 的屋(てきや)は、縁日や盛り場などの人通りの多いところで露店や興行を営む業者のこと。

祭礼(祭り)や市や縁日などが催される、境内や参道、門前町において屋台や露店で出店。

----------------------------------------------------

 レジリエンス(resilience)は「精神的回復力」「抵抗力」「復元力」「耐久力」などとも訳される心理学用語である。

心理学、精神医学の分野では訳語を用いず、そのままレジリエンス、またはレジリアンスと表記して用いることが多い。

「脆弱性 (vulnerability) 」の反対の概念であり、自発的治癒力の意味である。

元々はストレス (stress) とともに物理学の用語であった。

ストレスは「外力による歪み」を意味し、レジリエンスはそれに対して「外力による歪みを跳ね返す力」として使われ始め、精神医学では、ボナノ (Bonanno,G.) が2004年に述べた「極度の不利な状況に直面しても、正常な平衡状態を維持することができる能力」という定義が用いられることが多い。

1970年代には貧困や親の精神疾患といった不利な生活環境 (adversity) に置かれた児童に焦点を当てていたが、1980年代から2000年にかけて、成人も含めた精神疾患に対する防衛因子、抵抗力を意味する概念として徐々に注目されはじめた。

2014年3 月11日 (火曜日)

創作欄 真田の人生

生きることへの明確な意思と目的、そして新しい視点をもつ必要がある。

真田は死に囚われ人の心の病を想ってみた。

人は多くの困難を抱えているが、それを何とか乗り越えて生きてきている。

つまり、日々の厳しい現実の生活に流されているが、それ相応に何とか対応して生きている。

木村哲夫に欠如しているのは、他者を思いやる温かい心情であったと真田には思われた。

的屋の小島に誑かされ、夫と子どもを棄て家から出た初子の姿を夫の木村に見せる。

それは木村にとっては酷であったが、現実逃避の木村へのカンフル剤になると想われたのである。

「愛しているなら女房を取り返せ」真田は木村の背中を押したのである。

木村は取手に在住してから喫茶店「たまりば」、スナック「みどり」、幼稚園「ひまわり」、古本屋「本の町」、旅行代理店「世界は友」などを経営した。

さらに木村のために割烹料理店「きむら」のオープンを構想していた。

戦後の闇取引や不動産取引、株の運用などで当時10億円余を得た真田は、何とか在住した取手の活性化を念じていたので、その構想の中で木村の立場も活かしたいと念じていたのだ。

的屋の小島の女となった初子は、八坂神社の祭の露天で焼き鳥を焼いていた。

「初子」と木村は声をかけた。

初子は木村が声をかけたことに動揺したそぶりを見せない。

したたかな女に変貌していた。

木村の腰は引けていた。

そこで真田は微笑みかけた。

「初子さん、今は幸せかい?」 初子は真田の問いかけに明らかに動揺した。

「真田さん、それ以上聞かないで!」 初子は露骨に嫌な表情を浮かべた。

真田は木村の背中を押して促した。

「初子、家へ戻ってくれ」 木村の声は弱く震えていた。

「初子さん、後は心配ない。私が話をつけるからね!」

真田は言葉に力を込めたのであるが、初子は木村の力量を信じていなかった。


創作欄 真田の人生 おわり

2019年11月22日 21時46分09秒 | 創作欄

2014年3 月13日 (木曜日)

金がすべてはないが、金で解決できることもある。

金に困ると人は犯罪者にもなりかねない。

一番安易なのは、人を殺してまで金を奪うことだ。

奪った金はわずか500円。

財布には500円しか入っていなかったのである。

「500円?! 日当にもならん。この若者は無期懲役だろう」

真田は新聞の3面記事を読んで暗澹たる気持ちになった。

「愛と慈悲」について真田は考え、図書館で宗教関係の本を探し読んでみた。

さらに「最高の善とは何か?」と考え哲学書も読んでみた。

金儲けと博打などに生活の大半を注いできた真田には、心の栄養が不足していた。

思えば映画もほとんど見なかった。

ましてや元音楽教師でありながら歌劇やコンサートとは無縁な生活を送ってきた。

真田は取手音楽クラブの創設を思い立った。

音楽で取手の街を活性化する。

取手交響楽団が誕生したらそれを経済的に支える。

あるいは多くの著名で優れた音楽家や楽団を取手に招聘する。

真田は「最高の善」は、人に感動を与えることだと思った。

木村は割烹「きむら」で再スタートしていた。

「マスターに俺の料理を食べてもらって、こんなに嬉しいことはない」

木村の顔は温和で端正になっていた。

人間は生きがい、やりがいがあれが蘇生するのもだ。

初子も紆余曲折があったが、木村の元へ戻っていた。

「私、家へ戻れない」と初子が言うので、しばらくみどりに託した。

「マスターの頼みだもの、しばらく初子さんをあずかるわ」

姉御肌のみどりは快く初子を受け入れた。

そして半年後、木村が初子を迎えに行き心のわだかまりが解けた。

「家へ戻れる資格はないのだけれど、許してもらえるなら・・・」

「一度、死んだも同然の俺だ。何もかもマスターのおかげだ。帰ってきてくれ」

木村は畳に頭をこすりつけるようにした。

「初子さん良かったわね。いい旦那さんなのだから、大切にしてね」みどりは初子の背中を押すようにした。

 

2014年3 月12日 (水曜日)

創作欄 真田の人生

人を如何に励ますことができるか?

真田は思いを巡らせた。

あるいは生命をダイナミックに変革していく方途はあるのか?

死に神に取り憑かれたような虚無的な木村哲夫が、生きていくためには、夢と希望、生きがい、やりがいなどが不可欠だ。

木村に期待されるのは、「精神的回復力」「抵抗力」「復元力」「耐久力」であった。

兄に請われて、割烹料理店の板前から建築業へ転身したことが、木村の人生や生活の歯車を狂わせた。

「もう一度、木村が板前に戻ればいいのだ」と真田は思いついたのだ。

同時に家を出た木村の妻初子を呼び戻さねばならないと決意し、的屋の小島健作と交渉した。 料亭「高島」に小島は舎弟の近藤進を連れてやってきた。

小島は浴衣姿であった。

「マスターなんの用かい?」 席に着くなり小島は上目で睨むように切り出した。

「まあ、食事をしながらのことだ」真田は仲居に鰻重と刺身の盛り合わせなどを注文した。

それにビールを頼んだ。

「どうなの? 商売の方は?」穏やかな口調で問いかけた。

「ボチボチだね。マスターのような才覚が無いんで、肉体で稼いでいるよ」

舎弟の近藤はかしこまって正座のままだ。

「かたい、席ではないのだから、楽にしなさい」と真田は促したが近藤は膝を崩さなかった。 注がれたビールを小島は一気に飲み干した。

「マスターのことは競輪仲間にも聞いているが、凄いギャンブラーなんだね。この店は冷えていいや。外は暑いな。露天商は本当のところ肉体労働なんだ」小島はニヤリとしたが目は笑っていない。

「冬は寒くて大変だね」

「そう、寒くてな、でも焼き鳥だから、暖は取れるがね」 小島が真田にビールを注いた時、右手の上部の刺青が見えた。

小島は早食いであり、真田が鰻重を半分食べているともう食べ終わっていた。

ビールの後は酒にした。

小島は熱燗であり、真田と近藤は常温で日本酒を飲んだ。

真田は人づてに小島が多額の借金をしていることを聞いていた。

そこで切り出したのだ。 「初子のことだが、家へ帰してやってくれ。場合によっては手切れ金を出す」

「マスター、手切れ金。本気なのかい?」小島は頬を緩めた。

そして舎弟の近藤へ目をやった。 「証人もここにいるんだが、手切れ金をよこすんだね」

「そうしても、いいんだ」真田は穏やかに言った。

「この俺もマスターには、かなねい。わかった」と小島は承諾した。

真田は麻のスーツから財布を取り出し、小切手を小島に示した。

「500万円?! マスター、こんなにいただいて、いいの」 小島は近藤を見ながら目を丸くした。

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<参考>

 的屋(てきや)は、縁日や盛り場などの人通りの多いところで露店や興行を営む業者のこと。

祭礼(祭り)や市や縁日などが催される、境内や参道、門前町において屋台や露店で出店。

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 レジリエンス(resilience)は「精神的回復力」「抵抗力」「復元力」「耐久力」などとも訳される心理学用語である。

心理学、精神医学の分野では訳語を用いず、そのままレジリエンス、またはレジリアンスと表記して用いることが多い。

「脆弱性 (vulnerability) 」の反対の概念であり、自発的治癒力の意味である。

元々はストレス (stress) とともに物理学の用語であった。

ストレスは「外力による歪み」を意味し、レジリエンスはそれに対して「外力による歪みを跳ね返す力」として使われ始め、精神医学では、ボナノ (Bonanno,G.) が2004年に述べた「極度の不利な状況に直面しても、正常な平衡状態を維持することができる能力」という定義が用いられることが多い。

1970年代には貧困や親の精神疾患といった不利な生活環境 (adversity) に置かれた児童に焦点を当てていたが、1980年代から2000年にかけて、成人も含めた精神疾患に対する防衛因子、抵抗力を意味する概念として徐々に注目されはじめた。

2014年3 月11日 (火曜日)

創作欄 真田の人生

生きることへの明確な意思と目的、そして新しい視点をもつ必要がある。

真田は死に囚われ人の心の病を想ってみた。

人は多くの困難を抱えているが、それを何とか乗り越えて生きてきている。

つまり、日々の厳しい現実の生活に流されているが、それ相応に何とか対応して生きている。

木村哲夫に欠如しているのは、他者を思いやる温かい心情であったと真田には思われた。

的屋の小島に誑かされ、夫と子どもを棄て家から出た初子の姿を夫の木村に見せる。

それは木村にとっては酷であったが、現実逃避の木村へのカンフル剤になると想われたのである。

「愛しているなら女房を取り返せ」真田は木村の背中を押したのである。

木村は取手に在住してから喫茶店「たまりば」、スナック「みどり」、幼稚園「ひまわり」、古本屋「本の町」、旅行代理店「世界は友」などを経営した。

さらに木村のために割烹料理店「きむら」のオープンを構想していた。

戦後の闇取引や不動産取引、株の運用などで当時10億円余を得た真田は、何とか在住した取手の活性化を念じていたので、その構想の中で木村の立場も活かしたいと念じていたのだ。

的屋の小島の女となった初子は、八坂神社の祭の露天で焼き鳥を焼いていた。

「初子」と木村は声をかけた。

初子は木村が声をかけたことに動揺したそぶりを見せない。

したたかな女に変貌していた。

木村の腰は引けていた。

そこで真田は微笑みかけた。

「初子さん、今は幸せかい?」 初子は真田の問いかけに明らかに動揺した。

「真田さん、それ以上聞かないで!」 初子は露骨に嫌な表情を浮かべた。

真田は木村の背中を押して促した。

「初子、家へ戻ってくれ」 木村の声は弱く震えていた。

「初子さん、後は心配ない。私が話をつけるからね!」

真田は言葉に力を込めたのであるが、初子は木村の力量を信じていなかった。

 

2014年3 月10日 (月曜日)

創作欄 真田の人生

自殺したいと思う人は、視野狭窄に陥った人でもある。

「自分以外に目を向けてこそ人は刺激や生きがいを感じるはずだ」と真田は思った。

八坂神社の祭に木村を誘ったのは、木村の妻の初子の姿を見せる意味もあった。

的屋(露天商)の女になった初子の姿を真田は度々目撃していた。

それは取手競輪場内であった。

JR取手駅東口を降りて直進、30m程先を右折した通りが「大師通り」である。

ここは、古刹「長禅寺」の門前通りとして古くから人が往来した通りだ。

駅から歩いて2、3分の距離に位置するこの通りは、昭和の時代には駅前商店街として大変賑わいをみせた通りであったあった。

 取手に一時在住した作家・坂口安吾と所縁があるの海老屋酒店も大師通りに現存する。

大師通りは漬物屋の新六と地酒の田中酒造が並ぶ旧水戸街道へ続く。

この旧水戸街道と平行するのが新道である。

八坂神社の祭は新道を交通止めにして屋台が店を連ねていた。

木村の妻の初子は屋台で焼き鳥を焼いていた。

昭和20年生まれの初子はこの年、29歳であった。

初子は8歳の息子を置いて家を出ていた。

31歳の木村は的屋である40歳の小島健作に女房を寝取られた身であった。

小島は脇で的屋仲間と談笑していたが、真田と目を合わせると逃げるように姿を隠した。

「初子を家へ帰せ」と真田に言われていたのである。

戦後の闇社会にも身を置いた真田は60歳に近い年代であったが、威圧感のある存在であったのだ。

真田は競輪場では、マスターとか社長と呼ばれコーチ屋や飲み屋、ヤクザ者たちからも一目置かれている存在であった。

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 <参考>

コーチ屋とは:

「次のレースは○○がくるぞ!間違いない!!相手はコレとコレや!しっかり儲けてや!」と声をかける。

コーチ屋の予想が的中すると「おい!ナンボほど買うてん?教えてやったんやから半分よこせや!」となる。

 ノミ屋(ノミや)とは:

 日本に於ける公営競技などを利用して私設の投票所を開設している者のことである。

また、その行為を「ノミ(呑み)行為」と言う。 

  2014年3 月 9日 (日曜日)

創作欄 真田の人生 

「何とかできなかったのか?」と悔しさや落胆、心の傷などを残された者たちにもたらすでしょう。
だから、自殺は思い止まったほしいのです。真田は木村哲夫に手紙を書いた。

思えば、真田はほとんど手紙を書かない。

心は目には見えないが、真田の心を木村に届けるために手紙を書いた。

「木村哲夫様 ここ数日、見せてもらった遺書について考えてみました。

現在、哲さんはうつ状態にありますね。

うつ病は心の風邪とも言われ、誰でも罹るものです。

ですから、それに押しつぶされて死を選ぶのは、できれば避けてほしいですね。

生きてさえいれば、人生はどうにでもなると思うのです。

南の戦場で九死に一生を得た私は、死んだ戦友のためにも、また、東京大空襲で亡くなった妻子のためにも、生き続けたいと今日まで生きてきました。

つまり、儲けものような生をありがたく思って生きてきました。

自殺は自分だけの問題ではありません。

『何とかできなかったのか?』と悔しさや落胆、心の傷などを残された者たちにもたらすでしょう。

だから、自殺は思い止まったほしいのです。

 哲さん何時でも相談に乗ります。

朝の散歩では八坂神社で哲さんのことを祈っています。

真田」

手紙を出してから、数日後、真田は木村を八坂神社の祭に誘った。

真田は加賀友禅の浴衣姿であった。

「俺も浴衣を着るか」と木村は笑顔で言い、部屋へ戻った。

玄関へ出てきた木村は頭に白地に藍染めの手ぬぐいを巻いて板前時代のように、粋な雰囲気であった。

 

 


「人生の計算」

2019年11月22日 21時25分48秒 | 沼田利根の言いたい放題

▼同じ行動でも、ただ漫然と行うのか、意識を持って主体的に取り組むのか。
小さいことでも確かな成果が生まれる。
▼受動的な姿勢から「使命を持つ」という主体的な生き方への転換を促す。
▼「人生の計算」
人生は足し算、引き算、掛け算でもある。
最悪なのは、引き算。
特に最悪なのは、犯罪者となり、拘束され刑務所生活を送ること。
つまり、どちらが得なのか、損なのかを、シビアに計算ができるかどうかの究極の問題に帰着するのだ。

 

 


「マニュアル」をナメるな!

2019年11月22日 20時48分33秒 | 社会・文化・政治・経済

職場のミスの本当の原因 

 
 内容紹介

ミスが多発する現場には、
「駄目なマニュアル」がある! 

「書き方がダメ」
「作業手順がダメ」
「人間の心理を分かっていない! 」

消費税軽減税率への対応法も掲載! 


◎内容◎

ミスに悩む企業の多くで、マニュアルに深刻な欠陥を抱えているが、
気づかれずに放置されている例が多い。
駄目なマニュアルを使っているから、
仕事の効率が落ち、ミスや事故が多発するのだ。
優秀な人材を集めても職場がうまく回らないなら、
マニュアルを疑ってみるべきである。

分かりやすいマニュアルを生み出すには、作文だけでなく、
作業の全体的かつ総合的な改善が必要だ。
本書ではまさにこの点について、
長年、人間のミスの研究を続けている著者が、
具体的な成功例・失敗例を挙げながら解説。
マニュアル作りに悩んでいる読者のために、すぐに使えるテクニックを紹介する。
消費税の軽減税率制度の導入に役立つ早見表の例も掲載。


◎目次◎

はじめに
マニュアル作成の原則・虎の巻

第1部 マニュアルの文章術
第1章 マニュアルの目的
第2章 マニュアルの文章作法
第3章 マニュアルのあり方
第2部 正しい作業手順の作り方
第4章 手順の全体構造
第5章 作業は「型から型へ」で組む
第6章 チェックは「節目で味見」を
第7章 作業の意味論
第3部 練習問題
問題1: 「ルールブック調マニュアル」を手順主義に書き直す
問題2: 消費税の軽減税率早見表をつくろう
問題3: センター試験問題配布ミス事故


◎著者プロフィール◎

中田亨(なかたとおる)

1972年神奈川県生まれ。東京大学大学院工学系研究科修了。博士(工学)。
現在、国立研究開発法人 産業技術総合研究所 人工知能研究センター NEC-産総研人工知能連携研究室 副連携室長。
中央大学大学院理工学研究科客員教授。人間のミスと安全に関する研究を様々な業種との共同研究において現場主義で進めている。
内閣府 消費者安全調査委員会 専門委員。
著書に『「事務ミス」をナメるな! 』(光文社新書)、『防げ! 現場のヒューマンエラー』『ヒューマンエラーを防ぐ知恵』(ともに朝日文庫)、
『理系のための「即効! 」卒業論文術』(講談社ブルーバックス)、『情報漏洩 9割はあなたのうっかりミス』(日本経済新聞出版社)などがある。

内容(「BOOK」データベースより)

ミスに悩む企業の多くで、マニュアルに深刻な欠陥を抱えているが、気づかれずに放置されている例が多い。駄目なマニュアルを使っているから、仕事の効率が落ち、ミスや事故が多発するのだ。優秀な人材を集めても職場がうまく回らないなら、マニュアルを疑ってみるべきである。分かりやすいマニュアルを生み出すには、作文だけでなく、作業の全体的かつ総合的な改善が必要だ。本書ではまさにこの点について、長年、人間のミスの研究を続けている著者が、具体的な成功例・失敗例を挙げながら解説。マニュアル作りに悩んでいる読者のために、すぐに使えるテクニックを紹介する。消費税の軽減税率制度の導入に役立つ早見表の例も掲載。

 
マニュアル作成の細かいテクニックや考え方が分かりやすく説明されているので、マニュアル作成前に一読すると参考になります。


本書の著者は、業務上の「人間のミスと安全に関する研究を様々な業種との共同研究において現場主義で進めている」研究者とのことです。

 本書は、「第1部 マニュアルの文章術」、「第2部 正しい作業手順の作り方」、「第3部 練習問題」の3部から構成されています。
 このうち、第1部は、文章や表現の面で、実際にマニュアルを作成、再整備する際に気を付けるべき点が書かれています。
 次に第2部はマニュアルを作成するための参考というよりは、その基礎となる仕事の作業手順のあり方について記述しています。この部分は、マニュアル整備に携わる人はもちろん、それ以外の多くの人にとっても自らの仕事を見つめ直すことができる内容となっています。
そして第3部は練習問題。(1)「ルールブック調マニュアル」を手順主義に書き直す、(2) 消費税の軽減税率早見表をつくろう、(3) センター試験問題配布ミス事故、の3つの問題・解答が提示されています。出題は長文であり、解答を作成するにはそれなりに手間のかかる内容となっており、やや本格的・実践的内容です。

 本書は、研究者らしい、ちょっとユニークな視点から書かれています(特に第2部)。
 また、本書は、「この本に従って手順を踏めばマニュアルができる」というようなハウツー的な本ではなく、「書かれていることを自分で理解して、マニュアル作成や仕事のあり方見直しに活かす」というタイプの本です。「考えるためのヒントを提示している」といったような内容です。
 読者によって評価が分かれる本かもしれませんが、私は興味深く読ませていただきました。考えるきっかけになる本であり、一読の価値はある本と思います。


「事務ミスを...」といっしょに購入しました。この「マニュアルを...」は、
「事務ミスを...」の中の、"マニュアル"についての部分を抜き出したものですが、
焦点を絞って、より具体的に教えてくれます。
 「事務ミスを...」にもあるフローチャートの表への変換、思考の流れを妨げない
ための"大和言葉で"といった表現、手順を実行したかの確認ではなく、作業の結果
の確認などを教えてくれながら、巻末の練習問題で理解のチェックができる構成に
なっています。
 深く理解できていないところもありますが、いま納得できるところは、使って
みようと思います。
 

「歴史認識」とは何か

2019年11月22日 11時03分09秒 | 社会・文化・政治・経済

 - 対立の構図を超えて 

 
 

内容紹介

一つの史実からなぜ「歴史認識」の違いが生じるのか、一致させることはできないのか。日本人として知っておきたい基礎知識を詳説

内容(「BOOK」データベースより)

日中・日韓関係を極端に悪化させる歴史認識問題。なぜ過去をめぐる認識に違いが生じるのか、一致させることはできないのか。

本書では、韓国併合、満洲事変から、東京裁判、日韓基本条約と日中国交正常化、慰安婦問題に至るまで、歴史的事実が歴史認識問題に転化する経緯、背景を具体的に検証。あわせて、英仏など欧米諸国が果たしていない植民地支配責任を提起し、日本の取り組みが先駆となることを指摘する。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

大沼/保昭
1946年(昭和21年)、山形県に生まれる。東京大学法学部卒業。東京大学大学院法学政治学研究科教授などを経て、明治大学法学部特任教授。東京大学名誉教授。専攻、国際法。87年、石橋湛山賞受賞 

江川/紹子
1958年(昭和33年)、東京都に生まれる。早稲田大学政治経済学部卒業。神奈川新聞社社会部記者を経て、フリージャーナリストに。95年、菊池寛賞受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

 

書かれていることは明晰で読み易く、各々の論点も興味深い。
いわゆる「歴史認識」について、素人が考える上で、
確かに示唆に富む内容を含んでいると思う。
そういう意味で、読み物として十分に一読の価値はあるだろう。
しかし、である。相対主義的主張を為す者は、
得てして、その相対主義から、意識的か否かは別にして、
自身の主張だけは隔絶させようとするものだ、
ということを忘れてはならないだろう。
往々にして「知的」とか「客観的」とか「冷静」などと称される学者や知識人の「中庸論」は、
本当に「正しく」、いわゆる「極論」として排斥されがちなラディカルな現状批判は、
「正しくない」のだろうか?
結局のところ、中庸論を選択する者は、まぁここいらが妥当なところでしょう、
という追認的な諦念を、社会的歴史的弱者に、なかば強要し承服させることに、
結果的にではあれ、加担しているのではないか?
この本の論者は、自画自賛的に「アジア女性基金」の先進性と中庸性、
延いてはその「正義」を主張し、「俗人」の目線を称揚するが、
私は、「総理大臣」の署名付きの謝罪文を涙して有難がった元慰安婦よりも、
それになんの感興も示さなかった元慰安婦の方が、
はるかに真っ当な「俗人」だと思うし、
有難がるだろうと思い込んでいたという、この本の論者には、
非常な違和感を覚える「俗人」の一人でもある。
戦時中、「正しい」ことを主張しながら権力の暴虐を上手に免れた者こそ、
真に有益な「実利」の代弁者であり、
思想犯として投獄されたり獄死したり虐殺された人々は、世渡りの下手な、ただのマヌケだったのか?
それは、逆らうだけ損な、圧倒的権力への無益な反抗に過ぎなかったのか?
私は、とてもそうは思えない「俗人」の一人である。
「中庸」と、ある種の人間的感性や創造性、あるいは想像力の欠如とは、実のところ紙一重ではないのか?
「中庸」によって生み出され助長され延伸される不利益を被るのは、社会の経済的支配層や、知的特権階級ではない。
「よりましな悪」という希釈された構造的毒薬を飲まされ、抗体を作ることを強いられるのは、
そういった社会的「強者」ではないのだ。
我々がしなけれなならないことは、何が「真善」で、何が「偽善」か、
「学問的」に峻別することではないはずなのだ。
ちなみに私は、戦後を生きる日本人の一人として、天皇にまつわる物言いにのみ、
何のためらいもなく丁寧語を使用することに、
ささやかな抵抗を覚える「俗人」でもある。


本来は一般用語である筈の「歴史認識」という言葉が1980年代中盤以降、日中・日韓の問題に一義的に使われている現状を踏まえ、聞き手の江川紹子氏との対談形式で以下を明らかにしようとした書。
(1) 東京裁判、サンフランシスコ条約、慰安婦問題、靖国問題などに関する出来るだけ客観的な真の姿
(2) (1)に対して日中韓の間でズレが生じる原因
(3) (2)の背景にある日中韓の思惑

(1)を読んだだけで著者が現状肯定派の"なあなあ"な議論を展開している事が分かる。私も日本に非がなかったとは到底言えないとは思うが、例えば、当時の日独が世界の9割の国と戦っていたと明言した上に、当時は世界大戦の様な戦争を裁く国際法がなかった、と言った上で、なおかつ、(上述の9割の国の)国際法学者が東京裁判の結果に賛同していると言っても、現実容認で何も言った事にならないでしょう。

歴史の一参考書としての意義くらいしかない。「昭和天皇の戦争責任を問わなかったのは何故か?」という江川氏の質問の方がよっぽど鋭い。

「慰安婦」問題、「靖国」問題は朝日が採り上げるまでは中韓も全く問題にしなかったのに、朝日の責任を問わないのは何故か ?

メディアの問題は自身の専門外と考えているのか ?

どうも自身の斬新な見解を提示するよりも、現状のダラダラした説明に終始していて読んで新しい知識・見識を得たという気にならない。

(2),(3)についても当り前過ぎるのか殆ど筆を割いていないし、解決策に到っては「型肘張らずに語り合う」じゃ余りにもお粗末だろう。啓発される点のない愚書だと思った。


あまりにも偏っており評価に値しない。
最初から結論を決めてしまっているように思う。
歴史認識は他の本で。


様々な国や、人が様々な歴史認識を持っており、果たしてどれが正しいのかを知ることは非常に困難である。もしかすると正解は無いのかも知れないが、この本の著者の歴史認識のとらえ方には強く共感を持つことができる。


この本を読み終えて自分の「歴史認識」が大きく変わった。知らないことが多すぎた。

他の国の歴史教育を批判することが最近多い気がするが、はたして日本はどれほどのことを若い世代に正しく伝えているのだろうか。

誠実に日本が過去に犯した事実を認めた上で、少しでも世界が良くなるように他の国も批判していくことが大切だということを学んだ。


朝鮮半島問題は 周囲の大国にかこまれ、侵略された中で 長い期間を隷属させられてすごし
狭い地域の中で 仲間内で上手に生きた民族固有の思想が グローバル世界で生きるには相互
の信頼と理解が必要なことが 朝鮮民族のみなさんが納得されないと 解決しない気がします。




CD付 オリンピックでよく見るよく聴く国旗と国歌

2019年11月22日 10時47分55秒 | 社会・文化・政治・経済

ひと 新藤昌子さん=100カ国以上の国歌を歌うソプラノ歌手

新藤昌子(しんどう・まさこ)さん(58)

毎日新聞2019年11月21日 東京朝刊

 国内外で100カ国以上の国歌を原語で歌ってきた。国歌には、その国の歴史や成り立ちが凝縮されている。歌詞に五つの言語が使われている南アフリカ。革命の戦いを勇ましく歌うフランス。神への賛辞にあふれるカタール――。「だからこそ軽々に歌ってはいけない。歌う時はその国の思いを乗せたい」

 きっかけは2008年。知人主催のイベントで台湾の駐日代表を歓迎しようと披露してから各国の大使館から依頼が舞い込むようになった。
国歌の成り立ちを調べ歴史を学ぶ。
音源を取り寄せ、譜面に起こしたこともある。
原語を正しい発音で歌うのは簡単ではないが、きれいな原語で歌うと感動してもれる。
(記事は一部)

 
 
 
CD付 オリンピックでよく見るよく聴く国旗と国歌

内容紹介

世界42か国の国旗と国歌についての解説書。大河ドラマ「いだてん」でも国旗監修を担う吹浦忠正による、豊富な知識をもとにした国旗の解説と、「国歌」を通した国際友好親善活動を行ってきたオペラ歌手・新藤昌子による、国歌の成立ちや歌唱ポイントの解説から構成。
日本となじみが深くオリンピックで活躍している国々に焦点を絞って、国旗はもちろんのこと国歌についても理解を深められる内容となっています。
付属のCDは気鋭の現代音楽作曲家である新垣隆の編曲・ピアノ伴奏による新藤昌子の歌唱を新規収録(カラオケ付き)。

内容(「BOOK」データベースより)

世界42か国の国旗と国歌についての解説書。

著者について

吹浦忠正(ふきうら ただまさ)
1941年、秋田市生まれ。1964年のオリンピック東京大会組織委員会をはじめ、札幌、長野を含む日本で開催したすべてのオリンピックで国旗や儀典に関わり、「東京2020」では組織委国際局アドバイザー。

国際赤十字海外駐在代表、難民を助ける会副会長(現・特別顧問)、埼玉県立大教授(政治学)などを経て、現在、評論家、ユーラシア21研究所理事長、献血供給事業団監事、協力隊を育てる会参与、日本国際フォーラム評議員、東京コミュニティカレッジ理事、法務省難民審査参与員、東京ニューシティ管弦楽団理事など。

2018年度からの6年生用教科書『道徳』(日本文教出版)「東京オリンピック 国旗にこめられた思い」で1964年当時の著者が紹介される。

国旗関係の著作は、『世界の国旗ビジュアル大事典』(2013年、学研)『国旗で読む世界史』(2017年、祥伝社新書)『オリンピック101の謎』(2018年、新潮文庫)をはじめ多数。

NHK大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』では国旗考証を担当。NHKのHPで208のオリパラ参加予定国・地域の旗とその解説を掲載する。NPO法人世界の国旗・国歌研究協会を立ち上げ、新藤とともに共同代表。

新藤昌子(しんどう まさこ)
桐朋学園大学音楽学部声楽科卒業、同研究科修了。在学中より、内外の現代音楽作品を多数初演、毎日(現在、日本)音楽コンクール作曲部門作品演奏者を務める。

1988年モーツァルト作曲歌劇『魔笛』童子I役でオペラデビュー後、二期会オペラ講座「ルル」、東京室内歌劇場文化庁公演『うたよみざる』『みるなの座敷』、現代音楽協会モノオペラ『赤ずきん』をはじめ古典から現代まで多くのオペラやコンサートに出演。

2008年より駐日大使館との繋がりから、式典に招かれ国歌を独唱、朝日新聞「ひと」欄・JICA広報誌『mundi』にて紹介される。メディアでは『題名のない音楽会』『サンデーLIVE2020応援宣言』、NHK-BS他に出演。

現在二期会・東京室内歌劇場会員。NPO法人世界の国旗・国歌研究協会共同代表。CIFA(調布市国際交流協会理事)。

 



『情報提供40件』行方不明となって“5日目”大阪市の小6女児

2019年11月22日 07時14分00秒 | 社会・文化・政治・経済

…有力な手掛かり無し

11/21(木) MBSニュース

行方が分からなくなって5日目です。警察によりますと、大阪市住吉区の小学6年・赤坂彩葉さん(12)が最後に確認されているのは、自宅で朝食を取っていた11月17日午前7時頃で、その後、行方が分かっていません。

 警察にはこれまで約40件の情報が寄せられていますが、未だ有力な手掛かりは無く、21日朝も65人態勢で自宅周辺などを中心に捜索を続けています。

 ※情報提供先:大阪府警住吉署(06ー6675ー1234)

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患者にわいせつの疑い 歯科医師を逮捕

2019年11月22日 07時07分27秒 | 医科・歯科・介護

11/22(金) 関西テレビ

奈良市で歯科医院を経営する男がことし8月、治療と称して女性の患者にわいせつな行為をした疑いで逮捕されました。

準強制わいせつの疑いで逮捕されたのは、奈良市の歯科医師・柏木良晃容疑者(43)です。

柏木容疑者はことし8月、経営する歯科医院の治療室で20代の女性の患者に対し治療を行った後「歯の健康には凝りをほぐすことが必要」と伝え、服の中に手を入れて胸を直接触った疑いがもたれています。

警察の調べに対し、柏木容疑者は「治療と称して、直接胸を触ったことに間違いない」と供述して容疑を認めています。

警察によると被害にあった女性は2年ほど前から診察を受けていて、わいせつな行為をされたのは今回が初めてだったということです。

警察は今後、動機や余罪についても調べる方針です。

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水害は日常的に起こるもの

2019年11月22日 06時00分58秒 | 社会・文化・政治・経済

自然災害に「想定」は通じない、という発想の転換が必要だ。
自然の脅威に率直になることが大切である。
「人ごとではない」と危機感を抱き、避難行動に移すのが「案外難しい」。
実際、避難する判断は難しいのであるが、<行動>しないから人は死んでしまうことになる。

「国民の皆さんへ~大切な命が失われる前に~」
「命を行政(の判断)に委ねないでください」
「避難するかしないか、最後は<あなた>の判断です。皆さんの命は皆さん自身で守ってください」
行政主導の避難対策の限界あげ、異例のメッセージが出された。
政府の中央会議が呼び掛けた行政主導<公助>から住民主体の<共助・自助>の避難対策は一理ある。
人の寿命は100年程度だが、自然は悠久。
先人の教えや警鐘をないがしろにしない意識が、早めの避難行動につながるはず。
水害は日常的に起こるもので、誰もが犠牲者になるのだ。