名前には不思議な力がある

2019年11月24日 10時10分19秒 | 社会・文化・政治・経済

▼本物指導者とは決して目指す水準を妥協しない。
▼リーダーシップとは自分のいる場所で、良い方向へ変革を起こしていける。
▼世界の識者たちとの対話を広げる。
対話のテーマは環境、経済、女性の権利、宗教間対話、核軍縮、科学などに及ぶ。
▼思想の根幹は生命の尊厳であり、生命尊厳こそが、恒久平和と人類の幸福のための鍵となる価値だ。
▼世界平和とは社会的また構造的な変革だけではなく、個人の内発的な生命によってなされる。
▼「名は必ず体にいたる徳あり」と言われる通り、名前には不思議な力がある。
▼生活も人生も、また社会も文明も絶え間ない「勝負」の連続である。
現実に一つ一つ立ち現れる課題と、いかに戦い、苦難に屈せず、試練を勝ち越えていくか。
▼「考える」ことはまさしく「人類の進歩の象徴」なのである。
「学び」「考え」、そして「語り合う」人間自身の根源的な力を強め深めてながら、人類の難局も勝ち開いていく。


日蓮上人と安国論寺  編んだ「立正安国論」

2019年11月24日 09時20分10秒 | 社会・文化・政治・経済

日蓮は、大聖人とされている。

聖人(しょうにん)とは、一般的に、徳が高く、人格高潔で、生き方において他の人物の模範となるような人物のことをさす。
主に特定の宗教・宗派の中での教祖や高弟、崇拝・崇敬対象となる過去の人物をさすことが多い。
上人とする日蓮宗派もある。

日蓮上人は鎌倉へ入ると、松葉ヶ谷の草庵から毎日小町大路の街頭に出て、道行く人々に辻説法を行い法華経を教え熱心に説いていました。
その拠点となった草庵があったのが安国論寺です。

日蓮上人と安国論寺

日蓮上人と安国論寺


日蓮上人はここで当時の仏教界から襲撃を受ける原因となった「立正安国論」を記すなどしています。
鎌倉の安国論寺は日蓮宗を興した日蓮上人が布教活動の拠点とした松葉ヶ谷御小庵の霊跡です。

本堂の向かいにある御法窟で日蓮上人は日本の安泰と人々の幸せを願い文応元年(1260)に前執権北条時頼に建白した「立正安国論」を執筆します。しかし、その内容が当時起こっていた地震や疫病、飢餓などは、法然を始めとする念仏教や禅教などの邪教に起因するものとしていたため、反発した人々により庵が襲撃されます。

「松葉ヶ谷の法難」と呼ばれる事件で、日蓮上人は裏山にある「南面窟」に避難して難を逃れています。

日蓮上人が編んだ「立正安国論」

 
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安国論寺の境内には日蓮上人が創案した「立正安国論」の碑があります。
立正安国論は浄土宗などを邪教とし、放置すれば世の中に乱れがあるとするもので、これが原因で日蓮は浄土宗側から襲撃を受けています。

鎌倉は日蓮上人が辻説法を行った地

日蓮上人は鎌倉の辻々で説法を行っています。安国論寺にある草庵から毎日通って道行く人々に説いていました。安国論寺周辺や鎌倉駅までの間に「日蓮上人辻説法の地」という碑がいくつも見ることができます。
寺だけでなく、歩きながら碑を見つけてみるのもオススメです。

 

 


日蓮主義とはなんだったのか

2019年11月24日 08時57分19秒 | 野球

 近代日本の思想水脈 

内容紹介

【担当編集ノート】
本書の著者の大谷栄一さんは近代日本における仏教と社会の関係、なかでも「日蓮主義」が果たした役割を若き日から30年近く精力的に研究してきた方です。そのお仕事をこのたび大部の著作にまとめるお手伝いをするにあたり、編集者として感じたことを以下に記し、「刊行の主旨」「内容紹介」に代えるしだいです。
明治以降、内村鑑三、高山樗牛、宮澤賢治や北一輝などの思想家や文学者、満洲事変を主導した石原莞爾、血盟団事件の指導者・井上日召、「死なう団」の江川桜堂、創価学会創設者の牧口常三郎、新興仏教青年同盟の妹尾義郎など、さまざまな分野の多彩な人物が日蓮に傾倒しました。作家にして浄土宗僧侶だった寺内大吉はその著書『化城の昭和史』において「極右テロリズムから左翼の守備範囲へまで浸潤できる日蓮思想……」と述べているくらいです。いったい日蓮のどこにそんな魅力があるのか? また多くのインテリの心をとらえた親鸞に比してなにが違うのか……? 帝国日本の勃興期にあって日蓮の「思想」をイズムとして編成することに成功した二大イデオローグが、国柱会創始者の田中智学と顕本法華宗管長で統一団を結成した本多日生でした。二人とその支持者はいったいどのような国家像と社会のありようを求めていたのでしょうか。必ずしも日蓮主義はファナティックなものではありません。もともとそれは法華経を文献学的に吟味することを認め、同時に教義に基づいた個々人の純粋な信仰(belief)を重視する点できわめて近代的、ある意味でルター的プロテスタンティズムに近いものであるとさえ言えるでしょう。内村鑑三の信仰がJesusとJapanという「二つのJ」に支えられたものであったように、やがて日蓮主義の信仰はNichirenとNipponという「二つのN」の一致にこそ全世界を救う道があるという確信にいたります。智学・日生以降の世代においてその回路がテロリズムや東亜連盟、仏教社会主義などのさまざまなかたちで「国家社会のあるべき姿」として「模索」されるのです。
いずれにせよ日蓮主義に顕著なのは強烈な「此岸性」「在家性」「能動性」です。仏国土はこの地上にあり(娑婆即寂光)、人はそのために生きねばならない。あの林先生ではありませんが、「仏の国は、いつ、どこに?」と自問して「今でしょ! ここに造るんでしょ!」と奮闘していくのが日蓮主義者であると言っていい。その延長線上に敗戦後の創価学会の大躍進、公明党の結党が見えてくるでしょう(じつは田中智学も立憲養正会という政党をつくり、挫折しています)。つまり「日蓮主義」はいまでも生きているのです。本書は現代日本にまで伏流する思想水脈を問う渾身の一冊です。

内容(「BOOK」データベースより)

高山樗牛、宮沢賢治らの心をとらえ、石原莞爾や血盟団の行動を促した日蓮主義とはいかなるものだったのか?帝国日本の勃興期に「一切に亘る指導原理」を提示し、国家と社会と宗教のあるべき姿(仏教的政教一致)を鼓吹した二大イデオローグ=田中智学と本多日生の思想と軌跡を辿り、それに続いた者たちが構想し、この地上に実現しようと奮闘したさまざまな夢=仏国土の姿を検証する。現代日本にまで伏流する思想水脈を問う大著。

著者について

大谷 栄一
1968年、東京都生まれ。東洋大学大学院社会学研究科社会学専攻博士後期課程修了。博士(社会学)。(財)国際宗教研究所研究員、南山宗教文化研究所研究員を経て、現在、佛教大学社会学部教授。専攻は宗教社会学・近現代日本宗教史。明治期以降の「近代仏教」の展開や、現代の宗教者や宗教団体がおこなう社会活動、「地域社会と宗教文化」の関係を研究している。

著書に『近代日本の日蓮主義運動』(法藏館)、『近代仏教という視座―戦争・アジア・社会主義』(ぺりかん社)、『地域社会をつくる宗教』(共編著、明石書店)、『人口減少社会と寺院―ソーシャル・キャピタルの視座から』(共著、法藏館)、『近代仏教スタディーズ―仏教からみるもうひとつの近代』(共編著、法藏館)、『日本宗教史のキーワード―近代主義を超えて』(共編著、慶應義塾大学出版会)、『ともに生きる仏教―お寺の社会活動最前線』(編著、ちくま新書)などがある。

 

珍しいもの、貴重なもの、美しいものなどを見る幸せを「眼福」と言うが、珍しい、貴重な、美しい文物を読む幸せならば、「脳福」あるいは「心福」とでも呼べばいいのだろうか。

そんなことを考えたくなるほど、本書は深く「読書の喜び」を感じさせてくれた、極めて貴重な研究の書である。

 ○ ○ ○

私は、小学生の頃に両親とともに創価学会に入会し、イラク攻撃(戦争)を公明党・創価学会が支持・容認したことをもって、創価学会を辞めた人間で、今は「宗教」に対して問題意識を持つ、一人の「無神論者」である。

二十数年間、創価学会にいたわけだが、その間、熱心な活動家ではなかったものの、真面目な会員であり、積極性は無いものの、会合や勉強会に誘われれば素直に参加するという、平凡な一会員であった。ただ、私が、創価学会員であることでイヤだったのは、とにかく時間をとられるということだった。
私は子どもの頃から、趣味に淫する人間で、絵を書いたり、専門誌を購読するほどプラモ作りに凝ったり、同じく専門誌を定期購読するほどアニメにハマったりして、将来は漫画家かアニメーターになりたいなどと、大マジメに考える子供だった。
学校でも、決められたことはキチンと守る優等生的態度の学生だったが、いかんせん勉強は嫌いだった。
単純に、強いられてする勉強が面白くなかったからであり、常に面白い趣味を持っているので、面白くないことはやれない、どうしてもやれない人間だったのだ。
で、これは創価学会での活動においても、まったく同じだったのである。

「日蓮仏法を広めることで、世界平和を実現する」という目標は、立派なことだし、それに文句はなかった。できれば協力したいし、しなければという気持ちもあった。
しかし、義務的に行っていた朝晩の勤行や、大小の会合への参加に、時間をとられるのがイヤだった。
また、毎日届く「聖教新聞」や月刊の「大百連華」、それに創価学会のバイブルである小説『人間革命』や、その他の池田会長の著作を読むことも大変だし、もちろん宗祖日蓮大聖人の御書(遺文)集成である「御書全集」も、信者としては、いずれ通読しなければならないものだったが、やたらに字が細かく、薄い紙に印刷された分厚いもので、とうてい手がつけられず、ずっと「宿題」を抱えているような気分だった。

後年私は、「趣味としての宗教研究」のテーマをキリスト教に定め、最初に「聖書」の通読をした。
そして、その後に知ったことだが、クリスチャンだからといって、皆が聖書を通読しているわけではないことを知った。
これは、創価学会時代の私と同じことだったのだが、しかしまた、「御書全集」にくらべれば「聖書」など圧倒的に薄く(テキスト量が少ない)から「これくらいのものなら読めよ」という気持ちにもなった。

ともあれ、そんなわけで、創価学会員というのは、マジメにやると、とにかく趣味に時間をかけるような生活ができない。
しかし、私は子どもの頃から今に至るまで、根っからの趣味人なので、創価学会員としての当時の生活は、性格的にどうにも無理があったと言えよう。

また、もうすこし真面目な問題として、私が創価学会の信仰に馴染むことのできなかった大きな理由は、「なぜ、この信仰が正しいのかが、理解できなかった」という点がある。
したがって、心の底から、創価学会の日蓮信仰を信じることができなかったのだ。

その典型的な事例が、本書でも日蓮仏法の特徴的な理論として言及されている「四箇格言」への疑問だ。
「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」という、鎌倉仏教の他宗派に対する四つの批判的評価をまとめて表した言葉だが、「なぜそう言い切れるのか」が分からなかった。

創価学会では当時、「折伏教典」というハンドブックがあり、それには、なぜ「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」なのかの説明が、簡記されていた。
そして、そのハンドブックを持って、他宗の信者を「折伏」するというのが、当時の創価学会員の、当然の勤めだった。
なにしろ、唯一正しい、日蓮仏法を広めなければ、完全な世界平和は実現しないんだから、他宗派の信者を論破して、日蓮の信仰につけるようにする布教の努力は、信者として当然やらなければならないことなのである。

それはわかる。よくわかるのだが、しかし「なぜ、この信仰が正しいのか」の説明が、十分になされているとは、私には思えなかった。
たしかに「折伏教典」には「何宗の教えには、これこれと言うことが書かれているが、これは日蓮大聖人の教えからすると虚偽である(あるいは釈尊の教えを曲げたものである)から、間違いである」といったような、きわめてシンプル、忌憚なく言えば、「日蓮の教えが正しい」ことを自明の前提とした理屈(循環論法・同語反復)でしかなかった。
つまり、「日蓮の教えが正しい」ということの客観的説明にはなっておらず、「他宗の教えは間違っている」ということの論証にもなっていなかったのである。

これは、創価学会内の身近な大人や先輩や幹部に尋ねても、ハッキリした説明は得られず、最後は「それを知るためには、しっかり唱題して、池田先生の本を読んだり、教学の勉強をしないと無理だよ」などと言われて「そこまでは面倒くさいて出来ないなあ」と、いつもうやむやにしてしまったのである。
しかしまた、その一方で「他宗には他宗なりの言い分(正当化の理屈)があるはずだ。
それを僕は、そして多くの創価学会員は知らない」という、ぼんやりとした懐疑も、消えることなく残ったのである。

そして、そんな創価学会員時代が二十数年つづいた後に、かの「イラク戦争」が勃発した。
さらにそれを、公明党・創価学会が支持・容認したことで、私は「これまでの絶対平和主義は嘘だったのか!」と反発し「本来の姿(日蓮の教え)に戻れ」と批判したが、それが「蟷螂の斧」でしかなかったのは言うまでもない。
私は、創価学会に失望して、と言うよりも、やっぱり「創価学会の信仰が唯一正しいというのは、独り善がりな自己主張でしかなかったのだな」と納得して、創価学会を去ることにしたのである。

 ○ ○ ○

本書で、私が特に興味深く思ったのは、創価学会では知ることのできなかった部分、つまり「日蓮と創価学会の〈失われた環〉」の部分を、まとめて知ることができた点である。

一般的な創価学会員にとって、創価学会の歴史とは、小説『人間革命』第1巻の冒頭で描かれているとおり、戸田城聖第2代会長が、戦時中に不敬罪に問われて下獄した豊多摩刑務所を出るところから、実質的に始まる。
もちろん、その前には「創価教育学会」の設立者で初代会長である牧口常三郎時代の歴史があるのだが、そのあたりは「教育者であった牧口が、日蓮正宗に入信し、自己の教育論をより根底的に支える哲学としての日蓮仏法に目覚め、戸田とともに創価教育学会を設立し、会員を増やしていくも、軍国政府の神札強制を拒んで下獄し、終戦を待たず獄死してしまう」という程度の「簡単な歴史」しか教えられないからである。

しかし、高校生の頃から趣味の読書にめざめた私は、歳をとるに従い、いろんなジャンルの本を読むようになると、親鸞や空海のほうがメジャーな今どきとは違って、戦前戦中には「日蓮」に傾倒した重要人物が、結構いたことを知るようになる。
だが、宮澤賢治を除くと、彼らは軍国日本や政治テロリズムにかかわった「危険な人たち」という印象があり、どうして、そういう人たちと、「反権力」的な(あるいは、庶民派的な)日蓮がつながるのかという、ぼんやりとした疑問を持つようになった。

それでも、創価学会員時代は、そんなことをつき詰めて考える余裕は無かったし、創価学会を辞めてから、あらためて「宗教とは何だろう?」と考えるようになった時にも、私がまず読み始めたのは「オウム真理教事件」を扱った各種の研究書であった。
オウム真理教を扱った本なら、宗教の本質的な問題点を解き明かしてくれるのではないかと期待したからである。
しかし、宗教の問題点を研究するのに、最悪の宗教を研究しても、宗教一般への批判的研究にはならないことに、やがて気づいた私は、ある個人的なきっかけもあって「宗教を研究するのなら、普遍性のある宗教を研究しないといけない。
となると、キリスト教がもっとも一般的だろう」と考えて、キリスト教の素人研究に取り組むことにしたのである。

そして今では、キリスト教にかんしてなら、一般信者は無論、そこらの神父・牧師相手でも論争ができるぞ、というくらいに詳しくはなったのだが、「日蓮の同時代」と「戸田出獄」の間をつなぐ部分(特に、明治維新から太平洋戦争終戦までの時代の、日蓮受容)については無知なまま、長らく放置していたのである。

ところで、宗教研究とともに、私の趣味的なライフワークとなったのは、ネット右翼問題などを含む「戦後の保守政治の問題(あるいは、さらに広く、日本の近現代史)」であった。
端的に言えば、ネット右翼が大嫌いで、ネット上でケンカを繰り返しながら、泥縄式にその背後にある、日本の歴史と思想を勉強することになったのである。

そのようなわけで、今回、書店で本書のタイトル『日蓮主義とはなんだったのか』を目にした時、「これだ、この本が、これまで私に抜け落ちていた重要な知識を与えてくれるはずだ」と直観できた。
私が個人的に興味を持って研究している二つのテーマ「宗教」と「日本の近現代史」にまたがる問題を、理想的なかたちで語ってくれる本だと確信できたのである。
そして、その期待は十二分に満たされた。

「あとがき」で著者が『本書は、前著(※ 博士論文を元にした、2001年刊行の第一著作『近代日本の日蓮主義運動』)とその後の研究をベースに書き下ろした作品であり、私の四半世紀を超える日蓮主義研究の中間決算というべき成果である。』(P664)と書いているとおり、本書は、著者のこれまでの研究を凝縮的に詰込んだ、渾身の1冊である。
670ページにもおよぶその分厚さに、怖じ気づく人もいるかも知れないが、その内容の豊富さと質の高さからすれば、分厚すぎるということはなく、むしろ味読すべき作品に仕上がっている。

しかしながら、「日蓮主義」という、かなりマニアックなテーマに興味を持つ読者は、とうぜん限られていよう。
本書を手にするのは、同系統の研究者か、日蓮宗関係のごく一部の人だろう。だが、それではあまりにももったいない。
本書は、篤実な研究者が、丹念な研究を積み上げた結果の、きわめて優れた思想史研究書なのだから、宗教、歴史、思想の研究者なら、もれなく迷わずに、本書を手にして欲しい。

そしてさらに、本気で自身の信仰を理解したいと思っている「創価学会員」は、是非とも本書を読むべきである。
本書には、創価学会が、それまで「前史」として、ぼかしてきた「創価学会」の出自が、日本の近代史の中で、公正に解き明かされている。

・戦後昭和前期の創価学会員には、「四箇格言」を振りかざしての「折伏」による布教こそが、その「地湧の菩薩」としての使命だとされていたのに、なぜ、今では「折伏」ということを言わなくなったのか?
・戸田第2代会長の語った「国立戒壇」の建立という目標と、池田第3代会長の「世界平和」という目標は、どういう関係になるのか? 
またを「国立戒壇」建立という大目的が、いつの間にやら語られなくなったのは、なぜなのか?
・そして、反権力的で庶民的なはずの日蓮が、どうして先の大戦時には、国粋主義者や軍国主義者あるいはテロリストによって信奉されたりしたのか?
一一そうした疑問に、本書は答えてくれるはずである。

そして、本書を通読して、私が確認できたのは、キリスト教研究を通して知ったのと同様の「人間の歴史的真理」であった。

それは「宗教的真理とは、アプリオリに存在するものではなく、人間が歴史的に作り上げてきたものでしかなく、決して不変の真理などではない」のだということ。
そして、理の当然として、天皇も「歴史上の一人間(ホモ・サピエンス)」であり、日蓮もまた同様に「歴史上の一人間(ホモ・サピエンス)」でしかなかったという、凡庸かつ冷厳な事実である。
 
 




ホモ・デジタリスの時代

2019年11月24日 07時21分04秒 | 社会・文化・政治・経済
 
 
:AIと戦うための(革命の)哲学 

 
 
 
 
 

 

開かれた対話と未来

2019年11月24日 07時12分43秒 | 社会・文化・政治・経済

 今この瞬間に他者を思いやる


感動のメカニズム

2019年11月24日 06時49分38秒 | 野球

 心を動かすWork&Lifeのつくり方 


犯罪被害者週間

2019年11月24日 06時31分38秒 | 野球

被害者支援都民センターは犯罪や交通事犯の被害者とその遺族(以下「被害者等」という。)に対して、精神的支援その他各種支援活動を行うとともに社会全体の被害者支援意識の高揚を図り、もって被害者等の被害の軽減及び 回復に資することを目的として設立された法人です。 

当センターは平成14年5月24日、日本で初めて東京都公安委員会から「犯罪被害者等早期援助団体」の指定を受け、さらに、平成22年8月27日、東京都知事から「公益社団法人」の認定を受けて同年9月1日には公益社団法人被害者支援都民センターとして新たなスタートを切りました。

被害後に悩まされた問題

「被害にあった後、どのような問題に悩まされましたか」という設問であげられた 24 項目に対して「あて はまる」「ややあてはまる」「あまりあてはまらない」「全くあてはまらない」の 4 段階で回答を求めた。

24 項目の中で「あてはまる」「ややあてはまる」と回答した人が 80%以上の非常に高い割合となっている 項目は、「不眠、食欲減退などの症状が1ヶ月以上続いた」(95.4%)、「加害者に反省や謝罪の態度が見られ ず、傷つけられた」(87.3%)、「家族の命を金銭に換算することへの抵抗があった」(87.3%)、「人目が気に なり外出できなくなった」(83.7%)、「加害者への対応に悩んだ」(80.9%)となっている。

1.犯罪被害者週間とは

令和元年度 犯罪被害者週間ポスター

平成17年12月に閣議決定された「犯罪被害者等基本計画」において、毎年、「犯罪被害者等基本法」の成立日である12月1日以前の1週間(11月25日から12月1日まで)が「犯罪被害者週間」と定められました。
「犯罪被害者週間」は、期間中の集中的な啓発事業等の実施を通じて、犯罪被害者等が置かれている状況や犯罪被害者等の名誉又は生活の平穏への配慮の重要性等について、国民の理解を深めることを目的とするものです。 

2.「犯罪被害者週間」広報啓発事業

警察庁では犯罪被害者等が置かれた状況について国民が正しく理解し、国民の協力の下に関係施策が講じられていくよう、国民が犯罪等による被害について考える機会として、広報啓発イベントを開催しています。(平成27年度までは内閣府が実施しています。)

令和元年度は、以下の全国3か所で開催します。

開催告知(チラシ)
中央 (主催 警察庁)
11月29日(金)
星陵会館
栃木 (主催 警察庁・栃木県)
11月28日(木)
パルティ とちぎ男女共同参画センター
富山 (主催 警察庁・富山県)
11月21日(木)
ボルファートとやま

「新しい戦争」とは何か

2019年11月24日 06時16分55秒 | 社会・文化・政治・経済
 
方法と戦略 

内容紹介

変わる戦争の形態を紹介、「新たな戦争」に取り組む各国の軍–政の仕組みと安全保障の考え方、戦略と方法を解説する。

内容(「BOOK」データベースより)

新しい戦争、新しい技術は何をもたらすのか。各国別、安全保障のイシューごとに「新しい時代の戦争方法」をマクロ的・ミクロ的に論じる。

 

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

川上/高司
1955年生まれ。大阪大学博士(国際公共政策)。Institute for Foreign Policy Analysis(IFPA)研究員、(財)世界平和研究所研究員、防衛庁防衛研究所主任研究官、北陸大学法学部教授を経て、拓殖大学大学院教授・同大学海外事情研究所所長(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

 

冷戦終結からおよそ四半世紀が経ち、当初の期待に反して、国際情勢は不安定と不透 明さを増している。
何が不安定・不透明の原因なのか、世界はどこに向かおうとしているのか、そして、国際安全保障の観点からどのように立ち向かうべきなのか、こうしたテーマ を考えるのに、非常に参考になる一冊だと思う。

特に、編者川上高司氏による「第1章 混迷するアメリカと世界−新たな戦いの始まり」は秀逸。
アメリカとは何か、外交・安全保障政策の歴史的な変遷、オバマが「米国はもはや世界の警察官ではない」と宣言した意味、 アメリカは衰退するのかどうか。
コンパクトながら、編者のアメリカ論の集大成と言えるのではないか。これだけでも 一読する価値が高いと思う。

第2章以下は、個別テーマや国別にその分野の専門家による分析が行われており、例えば、中東情勢やロシア・ウクライナ情勢について、基本的な経緯や知識を学ぶことが出来て、大変ありがたかった。

その中でも、「第5章 新時代の政軍関係」(部谷氏)による、現代では、戦略と戦術の一体化が生じ、政軍関係に影響を及ぼしているという指摘や、「第8章 日本流の戦争方法」(石津氏)による、米国流ではない日本流の戦争方法を確立すべきという指摘は、(私がそれぞれの分野について勉強不足ということもありますが)目を開かされる思いであった。
強いて言えば、サイバー戦について取り扱った論文は含まれていないが、それは、他の図書を参考にすれば良いということだろう。


2013年9月、オバマ大統領は、「米国は世界の警察官ではない。恐ろしい出来事は世界中で起きており、全ての悪を正すことは我々の手に余る」と言い放った。悪とは、軍事的な侵略行動のことであり、その発言は、弱腰で無責任との批判に晒された。
しかし、本書を読むと、現実は、はるかに深刻であり、米国は一つの悪すら正すことができない可能性が大きいことが分かる。
英国人でありながら、米英両国の政治顧問を務めた国際政治学の第一人者コリン・グレイ氏が指摘した、米国がやる戦争の次のような特徴が紹介される。
「非政治的」「非戦略的」「楽観的」「歴史や文化に無理解」「技術に依存」「火力の集中」「忍耐不足」「兵站は優秀」、「兵士の犠牲を避ける」・・・などである。
政治的な妥協や敵の特性を考えず、圧倒的な武力で敵を粉砕することしか考えないのである。これは、国際政治や軍事の研究者の一致した見方でもあるが、これでは、ゲリラ戦やテロなどの非対称戦に振り回され、行き詰まるのは当然である。 
問題は、それが、これまでにない2つの新しい戦争を生んだことである。ひとつは、ISのような非国家組織が他国の侵略まで目指す戦争である。
これについては連日のように報道されているが、もうひとつある。ロシアがクリミア侵攻で仕掛けた“ハイブリッド戦争”である。
テレビで、義勇兵だと強弁し、ゲリラのような風体で行動する男たちが映し出されたが、ロシア民族の民兵、擬装した特殊部隊、正規軍が臨機応変に参加し、情報戦、外交線、経済圧力などを併用したのである。
これは、全く想定外の戦争であり、欧米諸国はその対抗策の開発に取り組んでいるが、暗中模索状態である。
これでは、米軍がクリミアに投入されたとしても勝てなかった公算が大きく、欧米諸国、特にバルト3国は、ハイブリッド戦争の次のターゲットにされる恐怖に脅えている。
中国などがそれを用いる懸念もささやかれている。
本書は、このように、最近の軍事情勢を理解するための大事なポイントを、わが国の第一線の軍事専門家が、特定のイデオロギーにかたよらず、整然と、クールに解説している。
それは、今日の軍事情勢を理解し、今後を予想するために知っておくべき基本的な知識を提供してくれるテキストでもある。



ポスト9・11における「新しい戦争」の特徴は「イスラーム国」のような非国家主体が当事者となる戦争と言えるだろう。しかし本書は、現代を「無極化の時代」と位置づけながらも、あくまで国家主体による戦争を想定して全体が構成されている(ミネルヴァ書房のウェブサイトにあげられている目次も参照)。では果たして「無極化」は本当に新しい時代の特徴なのだろうか。
18世紀半ばから19世紀にかけて五大国秩序(Pentarchie)が成立し、以降〈極〉と位置づけられる大国の均衡の時代が続いた。時代が下り、第二次大戦は英仏、日独伊、ソ連という「3極」が鼎立する時代で、その後は米ソ「2極」の冷戦時代に入る。冷戦後の新時代を米国「1極」の時代と見たり、あるいは中ロなどの台頭から「多極化の時代」とする論者もいるが、本書では、世界はもはや「無極化の時代」に突入したとされる。
しかし、思い返せば、五大国秩序が成立する以前の近世・近代ヨーロッパにおいては不均質な国家がひしめき合う戦乱の時代がずっと続いていたし、その時代に戦争や勢力均衡に関する古典的政治思想も蓄積されてきた。こうした蓄積の上に立つ国際政治学において「無極化の時代」は決して新しいものではなく、むしろ古典的であるとすら言えよう。
繰り返しになるが、21世紀の「新しい戦争」の特徴は、〈国家〉対〈非国家〉という非対称な戦争という点にある。本書においても、非国家主体による戦争が「新しい戦争」の特徴であることは最初に少し触れられている。しかし、各章できちんとそれを考察できているとは言いがたい。本書で取り上げられるのは、各国の戦略であったり、軍事力や経済力であったり、あるいは核抑止論であったりと、国際政治学において伝統的に論じられ続けてきたテーマばかりである。あくまで国家を基本単位としつつ論が進められる本書は、『「新しい戦争」とは何か』という問いに対する十分な回答を用意できていないと言わざるをえない。

【第17章に関して】
ここでは、本書全体を読んで特に気になった第17章に焦点をあてて述べたい。
この章は1938年におけるチェコスロヴァキアの外交・軍事政策に焦点をあてつつ、そこから現代の日本外交への教訓を探ろうとしている。
当時のチェコスロヴァキアにとって最も脅威だったのはナチ・ドイツであり、ゆえに主にフランスとの同盟関係が構築されていた。
しかし、実際にチェコスロヴァキアがドイツの脅威に晒されたとき、フランスが犠牲を払ってまでチェコスロヴァキアに軍事援助を施すことはしなかった点をチェコスロヴァキア外交の失敗と位置づけている。

当時のチェコスロヴァキア外交に関して言えば、本章では何も新しいことは述べられていない。本章にオリジナリティを認めるとすれば日本外交への教訓を探ろうとする点であり、具体的には次の2つの主張がそれにあてはまる。
 (1)同盟が機能するために、軍事的コミットメントが口約束に終わらないようにする仕組みの構築が必要である。ゆえに、現代の日本も、米国を巻き込ませるために集団的自衛権行使を容認する必要がある。(p.319)
 (2)チェコスロヴァキアとフランスは経済的結びつきが弱かった。日本は、米国との経済利益を共有するために、TPP交渉を妥結させるべきである。(p.319)
昨今の集団的自衛権やTPPの問題に結びつけるのがあまりに唐突すぎて戸惑いを覚えたというのが正直なところだ。

上の2点において、当時のチェコスロヴァキア=フランス関係と現代の日米関係を、互いの個別性をまったく無視してつなげて論じているのは、妥当とは言えないのではないか。この点は著者本人も「チェコスロヴァキアと日本の地政学的条件等は異なるが」(p.306)と留保を付している。

しかし「地政学的条件等が異なる」にもかかわらずそれでも教訓が得られると考える理由はどこにあるのか。これについては何ら説明が与えられていない。
歴史の一般化が必要な営みであることは認めるが、それには慎重で綿密な研究遂行が求められることは言うまでもない。

歴史の過度な一般化は禁物であるということは学部生でも知っているはずである。厳しいことを言うようだが、本章の著者はもう一度国際関係史、歴史学、政治学などの理論に関する基礎的文献から読みなおし、方法論を改めたほうがいい。

ドイツに対して「総合国力の面で劣るチェコスロヴァキア」と「安全保障環境が厳しさを増す日本」(p.320)が似たような境遇にあると考えるのであれば、具体的にその論拠を示すべきである。
本章では「戦争の相関因子プロジェクト」(COW)のデータを用いて、1938年当時の各国のパワーを数値化している。

これによれば、ドイツのパワーは「4.03」、チェコスロヴァキアのパワーは「0.67」ということになる。そして著者は、「ドイツの6分の1程度」のチェコスロヴァキアが「拡大主義傾向にあったドイツと一国で対峙していくことは〔…〕不可能であった」(p.318)と述べている。

また、チェコスロヴァキアの同盟国フランス(「1.37」)もドイツの3分の1程度のパワーしかなく、ゆえにドイツに対しては宥和的守勢戦略に転換せざるをえなかった。
それでは、現代の日本を取り巻く環境はどうなのか。

現代の日本を当時のチェコスロヴァキアになぞらえるのであれば、日本と日本に対抗する中国のパワーの差が6倍程度であることを示し、さらに現在の米国が当時のフランスのように中国の3分の1程度のパワーしかないことを示す必要があるであろう(中国のパワーが既に米国の3倍程度に達しているとする者は果たしてどれほどいるだろうか)。

1938年時点でのチェコスロヴァキア=フランス=ドイツ関係と現代の日=米=中関係のあいだでアナロジーが成り立たないとすれば、チェコスロヴァキアの事例から日本外交への教訓を探ろうとする著者の試みは失敗していると言わざるをえないのではないか。

改めて次の点を確認しておきたい。過去の事例から何らかの教訓を得ることはできるだろう。しかし、妥当な教訓を得るためには安易な一般化は慎まなければならない。そして、結果ありきの分析は無益どころか有害ですらある。






女装男が売春目的で客引きか 国際的組織?

2019年11月24日 06時02分39秒 | 社会・文化・政治・経済

11/20(水) FNN

売春目的で客引き行為をした疑いで、フィリピン国籍の男が逮捕された。

ジェフリー・ハリアレス・アンビョン容疑者(29)は、18日夜、東京・歌舞伎町の路上で、売春目的で「1万5,000円」などと言って、女装姿で客引き行為をした疑いが持たれている。

アンビョン容疑者が声をかけた相手が警戒中の警察官だったことから逮捕に至ったもので、調べに対し、アンビョン容疑者は容疑を否認している。

警視庁は、歌舞伎町で、男性相手の売春を目的とした外国人の男らが増えていて、国際的な犯罪組織が関与しているとみて捜査している。

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別の15歳の少女 6月から不明の茨城の中学生

2019年11月24日 05時58分50秒 | 社会・文化・政治・経済

11/23(土) TBS系(JNN)

今月17日から行方不明だった大阪市住吉区の小学6年の女の子が23日昼すぎ、栃木県内の交番に駆け込んだところを保護されました。警察は、女の子を誘拐したとして35歳の男を逮捕しました。

 栃木県小山市の伊藤仁士容疑者(35)の自宅前です。自宅の目の前にはパトカーが止まり、集まった報道陣も近くまでは行けない状態です。23日昼すぎ、ここから歩いて15分ほど離れた交番に駆け込んだ女子児童は、その直前、靴を履かず、靴下で歩く姿が目撃されていました。

 「傘も差さず、黒の上着とジーンズみたいのとグレーの靴下で歩いている子がいた。住宅地の壁沿いを歩いているような感じ」(女の子を見た人)

 伊藤容疑者の自宅には別の15歳の少女もいて、女子児童ともしばらく生活していたということですが、この15歳の少女は今年6月から行方不明になっていた茨城県の中学生だということも、茨城県警への取材で新たに分かりました。

 また、女子児童は23日の午前10時ごろに男と15歳の少女が寝ている隙に家を出たということです。女子児童の携帯電話は、この自宅にやってきてから取りあげられていたということです。

 

 


大阪不明女児保護

2019年11月24日 05時44分23秒 | 社会・文化・政治・経済

逮捕の男、SNSで女児に「別の女の子のしゃべり相手になってほしい」 

11/23(土) 産経新聞

大阪市住吉区の自宅から外出した後、行方不明になっていた小学6年の女児(12)が栃木県小山市の交番で保護された事件で、未成年者誘拐容疑で逮捕された同市犬塚の職業不詳、伊藤仁士(ひとし)容疑者(35)がSNSのメッセージ機能で「(別の女の子の)しゃべり相手になってほしい」などと女児に送って誘い出していたことが、大阪府警への取材で分かった。


【写真で見る】中学時代の伊藤仁士容疑者

 府警によると、伊藤容疑者は11月10日ごろ、SNSで女児に「半年ぐらい前に来た女の子がいる。しゃべり相手になってほしい。うちに来ない」などと送信。同月17日、住吉区内の公園に誘い出し、女児を自宅まで連れ去ったとみられる。

 伊藤容疑者宅には女児のほかに、15歳前後の少女もおり、府警などが詳しい状況を調べている。

 

最終更新:11/24(日) 1:53
産経新聞