目的は<小説家になる>ことではありません

2019年11月10日 22時41分08秒 | 社会・文化・政治・経済

経済小説 『ハゲタカ』シリーズの著者として知られる小説家/真山仁さんの言葉

<小説家になり、人々にメッセージを伝えること>でした。
早く作家にならないと私の考えは発信できないと、がむしゃでしたね。
ライターになって15年後、デビュー作「ハゲタカ」を出版することができました。
大きな目的があれば、逆境も通過点にしかならないと感じます。
大人が最近、若者に我慢することを教えなくなったと思います。
いくらこちらが手を差し伸べて声を掛けようが、青年が辛抱できず、その場を立ち去れば、助けようがありません。
どんな仕事でも、どんな環境でも3年我慢してほしい。
生きていくためには「覚悟」がいります。
何かを継続する必要があるので、忍耐が身に付いている人は強い。
<一流>と呼ばれる人たちを取材して学んだのは、彼らは訓練や稽古を苦と感じないということ。
長く我慢した人には結果はついてくるのです。
まず、自分がどこに忍耐力を発揮できるのかを見つける。

挑戦を続ける中で、気付けることがあります。
我慢できるのも立派な才能です。
応戦の先に<使命の芽>は伸び、花は開くと信じています。


新装版 ハゲタカ 上下合本版

2019年11月10日 21時56分06秒 | 社会・文化・政治・経済

[真山仁]の新装版 ハゲタカ 上下合本版 (講談社文庫)

 真山仁 (著)

私はこの15年、社会問題を題材にした小説を書き続けてきました。
これまで、一貫して、<エンターテインメントを通じて、読者が社会問題を考える際の選択肢を増やしたい。物事を捉える上で。常識とされていることに疑いを持ってもらいたい>と考え、原稿に向かってきました。
今の日本社会には、見たいものだけを見ようという風潮があり、多くの耳触りな情報は聞かず、否定してしまう。
世の中の問題には経緯と背景が存在するので、表面的な事象だけで是非を判断するのは非常に危ない。
例えば、今の日韓関係の問題そそうですが、小説を読み終えた後に、「新聞やワイドショーの感情的な情報だけにとらわれてはいけない」と感じていただけたら、うれしいですね。


買収者・鷲津の闘いはここから始まる! 不良債権を抱え瀕死状態にある企業の株や債券を買い叩き、手中に収めた企業を再生し莫大な利益をあげる、それがバルチャー(ハゲタカ)・ビジネスだ。

ニューヨークの投資ファンド運営会社社長・鷲津政彦は、不景気に苦しむ日本に舞い戻り、強烈な妨害や反発を受けながらも、次々と企業買収の成果を上げていった。――連続ドラマ化、映画化で熱狂的に支持される大人気シリーズ、第1作、一気に読める合本版。

シリーズ第2作! 1年ぶりに海外放浪から帰国した鷲津政彦は、腹心の部下アランの不可解な死を知らされる。鷲津はアランが追いかけていた繊維業界の老舗・鈴紡を買収の標的に定めた。一方、鈴紡は元銀行員の芝野健夫を招聘し防衛と再生を図る。その裏に、芝野の元上司でUTB銀行頭取、飯島の思惑が潜んでいた。熾烈な闘いの勝者は? ※本書は、2006年4月に小社より『バイアウト』として刊行され、2007年3月に改題し、講談社文庫より刊行されました。一気に読める合本版。


真山 仁(まやま じん、1962年7月4日 - )は、同志社大学法学部政治学科卒業
1987年(昭和62年)に中部読売新聞(現在の読売新聞中部支社)へ入社。
岐阜支局記者として勤務し、1990年(平成2年)に退職してフリーライターとなった。
1995年に阪神淡路大震災で被災。
2003年(平成15年)、生命保険会社の破綻危機を描いた 『連鎖破綻 ダブルギアリング』で作家デビューした。
当時のペンネームは、「香住 究」(かずみ きわむ)だった。

翌年、ハゲタカファンドを扱った小説、『ハゲタカ』を、「真山 仁」として出版し、経済小説の新鋭として注目される。
2012年(平成24年)、『コラプティオ』で第2回山田風太郎賞候補、第146回直木賞候補。2014年、『グリード』で第35回吉川英治文学新人賞候補。








つくし世代 「新しい若者」の価値観を読む

2019年11月10日 21時22分35秒 | 社会・文化・政治・経済

藤本 耕平 (著)

内容紹介


若者たちの「今」、そして
「さとり」の次まで分かる。

【商品開発・マーケティング・人事に役立つ一冊】

◎ 内容紹介
「ゆとり」「さとり」という言葉でひとくくりにされがちな今時の若者たち。
しかし、彼らがつくる流行や文化を整理し、また、行動や消費の傾向をひもといていくと、
そうした言葉のイメージには必ずしも当てはまらない、《新しいマインド》が芽生えつつあることが分かってくる。
そのキーワードは「つくし」──。
欲がない、消費しない、と言われる彼らだが、仲間とのつながりを大切にし、
「みんなで楽しみたい、みんなで喜びたい」「自分一人ではなく、誰かのために」ということに関しては、
他の世代にはない貪欲さを持っているのではないか。
気鋭のマーケッター・若者論者である著者が、
商品や広告コミュニケーションの成功事例を分析しながら、「これからの若者」に迫る。

◎ 目 次
【序 章】さとっているだけじゃない 今時の若者は何を考えている?
【第1章】チョイスする価値観
【第2章】つながり願望
【第3章】ケチ美学
【第4章】ノット・ハングリー
【第5章】せつな主義
【第6章】新世代の「友達」感覚
【第7章】なぜシェアするのか
【第8章】誰もが「ぬるオタ」
【第9章】コスパ至上主義
【第10章】つくし世代
【終 章】若者たちはなぜ松岡修造が好きなのか

◎ 著者プロフィール
藤本耕平(ふじもとこうへい)
1980年神奈川県生まれ。一橋大学商学部卒業。
2002年、株式会社アサツー ディ・ケイ(ADK)に入社。入社時からマーケティング業務に従事。
トイレタリー、化粧品、スポーツ、金融、飲料業界などジャンルを問わず様々な企業のコミュニケーション戦略、商品開発などに携わってきた。
2010年から若者研究を開始。ADK若者プロジェクトリーダー。
2012年、情報感度の高い学生メンバーで構成する若者マーケッター集団「ワカスタ(若者スタジオ)」を創設。
学生と共同で若者向けの商品開発やキャンペーン開発などを行う。
外部セミナーの講演や新聞・雑誌記事連載、大学客員講師などの活動も行っている。
現在、メディア業界の専門紙「文化通信」で若者に関するコラムを連載中。
【受賞歴】カンヌ国際広告祭2010、スパイクスアジア広告祭2011ほか。

内容(「BOOK」データベースより)

「ゆとり」「さとり」という言葉でひとくくりにされがちな今時の若者たち。しかし、彼らがつくる流行や文化を整理し、また、行動や消費の傾向をひもといていくと、そうした言葉のイメージには必ずしも当てはまらない、“新しいマインド”が芽生えつつあることが分かってくる。そのキーワードは「つくし」―。

欲がない、消費しない、と言われる彼らだが、仲間とのつながりを大切にし、「みんなで楽しみたい、みんなで喜びたい」「自分一人ではなく、誰かのために」ということに関しては、他の世代にはない貪欲さを持っているのではないか。気鋭のマーケッター・若者論者である著者が、商品や広告コミュニケーションの成功事例を分析しながら、「これからの若者」に迫る。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

藤本/耕平
1980年神奈川県生まれ。一橋大学商学部卒業。2002年、株式会社アサツーディ・ケイ(ADK)に入社。入社時からマーケティング業務に従事。トイレタリー、化粧品、スポーツ、金融、飲料業界などジャンルを問わず様々な企業のコミュニケーション戦略、商品開発などに携わってきた。2010年から若者研究を開始。ADK若者プロジェクトリーダー。2012年、情報感度の高い学生メンバーで構成する若者マーケッター集団「ワカスタ(若者スタジオ)」を創設(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

 

この本は、若者を2015年に30歳以下と定義し、彼らの消費傾向や価値観を分析している。

従来の人(上記の定義より上の世代)の価値観はメディアが創造したものがそのまま流れつく。また、消費傾向は価格が高いもの、ブランド品が良いとうものであった。
一方若者世代の文化は、2chなどネットメディアで自分と立場が近い頭身中の誰かが発信するものが流行る。消費はコスパを優先し、仲間とより連携できるようなものを好む傾向にあるという。

このように、友達との繋がりがより綿密になり、より幸せ、楽しさを共有したいというマインドが生まれている。友達に尽くそうとするため著者は「つくし世代」と呼んでいるのである。

この本の良いところはつくし世代の消費傾向を分析するだけではなく、マーケティング、新商品の成功例が多く載っていることである。そこに書かれた例は斬新な発想でかつ、しっかり若者の傾向を取り入れていることは大手企業の優秀さに驚くことになる。

不満があるとすれば、従来と現代に共通する点というものが書かれていないことである。
コンピュータの発達により時代は変われど人間には不変の欲求があるはずだ。そこをしっかり見ることで時代が人間の感性をどう動したのか、かつてのブランド品とは何であったのかということがクリアになったであろう。少し発展性に乏しい感じがした。

若い世代の思想が沢山の事例から手に取るように分かるこの本は、マーケッターのみならず、つくし世代の「オヤジ世代」にもオススメの一冊だ。


面白く拝読しました。特にSNSでつながることが当たり前である若者たちが、いかにそれを利用しながらも、そこから自由である術をも身に付けていると言う分析はなるほどと思いました。
基本的にマーケティングの視点からかかれた本なので、若者の消費行動については詳しく書かれていますが、生産活動についてはボランティアの分析などにとどまり、すぐに結果に結び付くとは限らない業種につく若者がいるのだろうかと少し心配になりました。とはいえ読みやすい本ではありました。


若者の志向・行動について具体例を用いてわかりやすく解説されています。

自身もつくし世代に当たるのですが、自分が何気なくしている行動の裏にある考え方に気づかされたり、さらに若い世代の流行りモノ、言葉がわかって面白く読み進められました。

データからだけではなく、著者の方が日頃から若者と交流し、実体験を元に分析されているのだということがよくわかります。

色々な業種の方に読んでいただきたいおすすめの一冊です!


今の若者の独特の価値観が語られている。
今の若者は人からどう見られているのかを気にする。
SNSでみんながどんな反応をするのか、それを意識して投稿する。

また、若い女性が求める男性像というところもだいぶ変わってきているという。
かつては「高身長・高学歴・高収入」の三高といわれていたが、いまでは「平凡な容姿・平均的な収入・平穏な性格」の三平。
だいぶ時代とともに若者の嗜好も変わってきているのだなと素直に感じた。

今の若者の価値観に興味がある方におすすめ。






マリー・キュリー〈1〉

2019年11月10日 12時06分14秒 | 社会・文化・政治・経済
 
スーザン クイン (著), Susan Quinn (原著), 田中 京子 (翻訳)
 
内容(「BOOK」データベースより)

ラジウム発見から100年、夫妻二人の放射能発見に対してノーベル物理学賞が贈られ、マリーは1911年に単独で、放射性元素の発見に対する二度目の賞(化学賞)を受けた。

女性初のノーベル賞受賞であり、再度の受賞例はほかにない。本書では近年初公開の資料―夫ピエールの死後一年間にわたるマリーの日記や、同僚の科学者ランジュヴァンとの恋愛スキャンダルに際した友人たちの証言集などが駆使される一方、従来の資料にも新たな息吹がふきこまれ、時代背景と科学界のこまやかな描写とともに、あふれるばかりに感情ゆたかなマリー像が生涯にわたって再現される。

内容(「MARC」データベースより)

女性初の、そして二度にわたるノーベル賞受賞科学者として知られるマリー・キュリー。夫ピエールの死後綴られた日記や、同僚科学者との恋愛スキャンダルの際の友人の証言集など初公開の資料を駆使し、新しいマリー像を提示。

 
この本を読んで、まず初めに感じたのは、子供の頃に読んだ伝記とは随分違うということです。
マリーの子供時代に彼女が家庭環境で味わった孤独感と学びへの意欲に加え、辛い家庭教師の務め、貧しい学生時代と、
苦労多き日常生活が、将来の伴侶ピエール・キュリーとの出会いまでどれだけの紆余曲折を経たか事細かに描かれています。
そして二人三脚の研究生活は、あたかもひとつのパレットにおいて様々な色が交錯する中で真に求める色を互いの内に模索していたのでは
ないでしょうか。この本は科学に限らず、人生に何らかの目標を持ちたいという方には必見の書です。

 
マリー・キュリー〈2〉 
 
 内容(「BOOK」データベースより)

最愛の夫、最高の共同研究者だったピエールを失って悲しみに沈むマリーが、ある晩、突然若やいで現われる。かすかな春の気配のように、しかし、あとには厳しい試練が待ち受けていた。フランス科学アカデミーからの拒絶、さらに同僚の科学者ポール・ランジュヴァンとの恋愛スキャンダル、二度目のノーベル賞さえも、マリーの断固たる姿勢がなければ受賞は危うかった。それでも、マリーは不死鳥のように蘇る。マリーの業績ほどには知られないその敗北と屈辱をとらえ、科学者としての偉大さが献身的努力よりも、放射能は元素固有の「原子的性質」であると確信した鋭い洞察にあることを示し、「マリー・キュリー神話」の創出を追いつつ感動的なラストシーンまで、クインの筆は一気に進められる。

内容(「MARC」データベースより)

献身的な聖女のヴェールをはぎとり、一人の優れた科学者として断固とした姿勢を貫き、また女性として感情ゆたかに生きたマリー・キュリーの姿を鮮烈に描き出す。

 
 
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 

マリー・キュリー〈2〉 


 
 
 
 
 
 
 

 

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

2019年11月10日 11時43分05秒 | 社会・文化・政治・経済
 

内容(「BOOK」データベースより)

村上春樹が人生で巡り会った、最も大切な小説を、あなたに。新しい翻訳で二十一世紀に鮮やかに甦る、哀しくも美しい、ひと夏の物語―。読書家として夢中になり、小説家として目標のひとつとしてきたフィッツジェラルドの傑作に、翻訳家として挑む、構想二十年、満を持しての訳業。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

フィッツジェラルド,フランシス・スコット
1896年、ミネソタ州生まれ。プリンストン大学を中退し陸軍に入隊。除隊後の1920年、処女長篇『楽園のこちら側』を出版、全米ベストセラーとなる。

同年結婚したゼルダ・セイヤーとの華やかで奔放な暮らしぶりで時代の寵児となる。数多くの短篇を雑誌に発表するほか、長篇『美しく呪われたもの』『グレート・ギャツビー』などが高く評価されるが、世界恐慌、ゼルダの病などが生活に影をおとし始める。失意と困窮のうちにアルコールに溺れ、40年、心臓発作で急死(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


 
村上 春樹 わたしは ≪村上主義者≫ ですので、彼のエッセイ (雑文、翻訳者柴田との対談など) でのちょっとした推薦 (宣伝?) の文章に促されこの小説 『グレート・ギャツビー』 を読んでみました。 これまでロバート・レッドフォード、最近ではレオナルド・ディカプリオの映画のあることは知っておりましたが全く興味は無く、特にディカプリオと聞いてからは自分の興味の範囲には含まれていない、と考えておりました。

読後感:
主人公ギャッビーが思いを寄せる恋人として登場する女性ディジー (野崎訳ではディズィ) が全然魅力的でなく、 “この女にはいろんな男が引きつけられても然るべきだ” というような必然性みたいなものを殆ど感じませんでした。
 わたしは、村上のこの小説に疑義を持ち、野崎訳の 『グレート・ギャツビー』 をわざわざアマゾンから取り寄せ、読んでみました。そうするとディジーから受ける印象がかなり変わってしまうのです。

 村上訳でのディジーは、かなり贔屓目に読んでも、おつむが若干弱く女性としての魅力も希薄な―――どちらかというと―――精神下品女、としか読めないのです。 一方、野崎訳ではディジーは、おつむは上出来とは言えないが、男が愛すべき魅力を、少なくとも外面的には感じられる女性・・・・・といった雰囲気なのです。

≪その他の重要な問題点≫ 村上訳のこの小説を読んでいると時々 「これどういうこと、どういう意味?」 というところが頻出する。 そこで、第1章の最初の4ページだけですが、意味不明・不自然部分に蛍光ペンで印を付けておき、次に野崎訳の作品と比べてみた。 切りがありませんので、最初の数例ですが、以下に列挙してみます。


【村上訳】
そろそろ腹を割った打ち明け話が始まりそうだなという、いつもながらの徴候が、地平線にほのみえてきたときには、しばしば居眠りを装ったり、・・・・・・
【野崎訳】
ある、まごうかたない徴候によって、ぼくに対する親愛の情がちらちらほのみえているかなと思ったときには、ぼくはよく、眠っているふりをしたり、・・・・・・

【村上訳】
・・・・僕は、いっそのこと世界が軍服を身にまとい、いつまでも道徳的に気をつけの姿勢をとっていればいいのにという心情にさえなっていた。
【野崎訳】
・・・・、ぼくは、世間一般が、いわば軍服を着て、永久に、精神的「不動の姿勢」をとっていてほしいものだと思っていた。

【村上訳】
もし人格というものが、人目につく素振りの途切れない連続であるとすれば、この人物は確かに・・・・・・
【野崎訳】
もしも間断なく演じ続けられた一連の演技の総体を個性といってよいならば、ギャッビーという人間には、・・・・・・

【村上訳】
この反応の鋭敏さは「創造的性格」という名で呼ばれる上っ面だけの感受性とは、全く別のものである。それは彼に尋常ではない希望を抱かせ、強い夢想へと駆り立てた。そのような心を、僕は今までほかの誰の中にも見いだすことができなかったし、これからもおそらく目にすることはあるまい。
【野崎訳】
しかし、この敏感性は、「創造的気質」とえらそうな名称で呼ばれる、あのよわよわしい感じやすさとは無縁のものだった―――それは希望を見いだす非凡な才能であり、ぼくが他の人の中にはこれまでみたことはなく、これからも二度と見いだせそうにないような浪漫的心情だった。

【対訳】、【翻訳】、【意訳】―――フィッツジェラルドの、この作品 『グレート・ギャッビー』 には、上記の要素の、どれをどのくらい割合でブレンドするのが適切なのか?については分かりませんが、ただ、上のいくつかの例からも―――残念ながら―――明らかなように 【野崎訳】 のほうが意味が捕れたことは確かです。

{総論}
村上の翻訳小説に総じて言えるのですが、彼の 『グレート・ギャツビー』 は 【翻訳、意訳】 ではなく 【対訳】 をしたようなゴツゴツ感を、あえてかなり残している。 彼の、この特性は、この作品のみならず、自身オリジナルの作品でも一貫してみられ、それはまるで村上のシグニチャーようになっており、仮に読者は、匿名の作家の作品として文章を読ませられても 「ああ、これ村上でしょ?」 と、わかる。 というか・・・・そのような空気感をまとっている村上が好き、という性向もあるのでしょう。 少なくとも自分はそうです。
 ただ、この作品では、上に挙げたいくつかの例文に加えて、総じて会話の語尾の処理が不適当な印象です。 日本語の場合、語尾をどのようにするのかで、登場人物の性格は勿論のこと、女性、男性、職業、知性、裕福度・・・・がある程度わかります。語尾を適当に翻訳すると、時に致命的な影響を及ぼすことになります。
 そのような理由からでしょうか、【村上版】では、主人公ギャッビーが思いを寄せる恋人として登場する女性ディジーが全然魅力的でなく―――先にも述べましたが――― “この女には、いろんな男が引きつけられても然るべきだ” というような必然性みたいなものを殆ど感じないのです。 野崎訳の『グレート・ギャツビー』ではディジーから受ける印象が少し変わってしまうのです。 文学として、村上がいうほど優れているか否かは別にして、物語自体が持つ力を考えると、 複数回映画化される理由は何んとなく理解できました―――― (ただ、村上がこの小説を褒める一因は、この小説の構造として、物語進行係の 「僕」 を主人公にすることによる、小説全体の 「三人称化」 に――― これまでの類似した構造を持つ小説に比較しても ―――かなり成功し、著者が擬似三人称的な 《神の視座》 、すなわちフリー・ハンドを的確に獲得している・・・・・ということが大きな因子としてあるのでしょう: どの人称で物語を書くのかは、どの小説家も悩むのでしょうから)。

{結論}
カーヴァーのようなゴツゴツした作品では、村上の訳し方、《対訳と翻訳の中間》 は無類の強さを発揮するが、フィッツジェラルドには向かない、と断言できる。

〔追記:1〕
この作品 『グレート・ギャッビー』 の最終部について;

【村上訳】
だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながらも。
【野崎訳】
こうしてぼくたちは、絶えず過去へ過去へと運び去られながらも、流れにさからう船のように、力のかぎり漕ぎ進んでゆく。

この部分は村上が最も力を注いだ文章の一つであるが、確かに文章は格調高く、この部分だけ取り上げればインパクトの観点からも 【村上訳】 の方が優れているかもしれない。
ただ、小説内容を加味しての文章の継続性、内容との調和を大切にするのなら、むしろ 【野崎訳】 のほうが、変な訳者の思い入れを排除し、すっきりしていて座りが良いように思う。

〔追記:2〕
[本の表紙デザイン] に現れる 【野崎版】 に対する、【村上版】 の対抗意識・意気込み?

【村上版】 ではディジーの夫トムが 「僕」 を引き連れて、彼の愛人のもと、灰色の土地へと向かう際に通る道に掲げられている、完成することなく打ち捨てられ、今はもう朽ちつつある巨大な眼科病院の看板。 この作品の持つ文学としての力をより全面に提示してる・・・・ような気がする。
【野崎版】では、ギャッビーとディジーが “あの問題の瞬間” に乗っていた、華麗さと不運さを併せ持つ、黄色の車 (キャデラック?) としており、この作品の娯楽小説としての楽しさを全面に出している。
 ここにも 【野崎版】 に対する 【村上版】 の対抗心のようなものがみえて微笑ましい。
 
 
本書は文学史に残る傑作と評価されるスコット・フィッツジェラルドの代表作。
言文一致スタイルで新時代の純文学を牽引してきた村上春樹氏が、満を持して翻訳に取り組んだ意欲作でもあります。

【村上訳の試み】
 「僕にとって『グレート・ギャツビー』は、何があろうと現代に生きている話でなくてはならないのだ。(訳者あとがき)」
村上訳は文語的言い回しや時代掛かった修辞を廃して、ポップで現代的に仕上がっています。
そのような試みによって、今の時代に通じる自然な感情の機微が鮮やかに蘇ってきます。

【時代が刻印された結末】
 「だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し流されながらも。(第9章結末)」
ニックの一人語りの冒頭は歪んだ世相への憤慨から始まりましたが、全てを語りつくした結末では未来の希望へと昇華されます。それは自己治癒のプロセスの終焉と同時に、第一次世界大戦直後の変わりゆくニューヨークの時代の節目が刻印されています。

【アメリカ文学の潮流】
米文学の潮流は本書によってそれまでの社会派小説から、精神性を求める純文学へ移行したとされています。
それはやがてポストモダン文学を生み出し、今に至るグローバルな展開を見せていきます。
その意味でも、訳者の村上氏は本書をとても重要な作品と位置付けているようです。

個人的には作品全体を通じて印象に残る名文が散りばめられていて読み応えたっぷり。
優れた娯楽性を備えながらも、深い見識に根差した傑作ではないでしょうか。


昔(30年くらい前)村上氏が強く勧めるので、他の方の翻訳で読みましたが、全くその良さが分からなかった(というよりも本を読み通すのが大変で、ストーリーも後に映画で見返さないと分からないくらいだった)。
その時のトラウマがあったので、村上版を購入後しばらく寝かせてました。
しかし、恐る恐る読んでみると目から鱗でした!確かに素晴らしい作品!「描写と表現」がこの本の魅力であることに気づかされました。
「訳者あとがき」と「愛蔵版付録・1920年代のNY」での解説も面白く、この本の内容をより深く理解し楽しめる大きな手助けになりました。何度も読み返したい1冊です。


"だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながらも"。訳者が人生にとって【きわめて重要な本】と絶賛する本書は古典的な一夏の友情物語としても素晴らしいが、意図的に【信頼できない語り手】による"思い出して、記録する"スタイルに挑戦した事で幻想的な効果を生み出している所にも注目したい。

そして出版当時に絶賛されこそしたが、思うようには売れずに一時的に絶版となるものの"神様はすべてをごらんになっている"作中の(表紙の)看板の如く死後に不動の名作として再評価されて、現在は訳者も含めた世界中の人に読まれ、何度も映像化されている事に不思議な感慨を覚えます。

古典的ではあっても普遍的な友情物語を読みたい誰か。訳者としての村上春樹氏の仕事ぶりを感じたい誰かにオススメ。



 

 
 
 
 
 

 

WHO「ゲーム障害」は精神疾患と認定

2019年11月10日 11時31分09秒 | 社会・文化・政治・経済

<ゲームのやり過ぎには精神疾患の可能性も、というWHOにゲーム業界が反発>

世界保健機関(WHO)は、「ゲーム障害」を精神疾患として正式に認定した。

2019年5月29日  Newsweek

WHOは5月25日、加盟国の投票により、「疾病及び関連保健問題の国際統計分類(ICD)」の第11回改訂版(ICD-11)を承認した。ICD-11では、「ゲーム障害」を疾患と定義している。発効は2022年1月からだ。

ICD-11によれば、ゲーム障害の特徴的な症状は、「ゲームをする時間や頻度を自分で制御できず、ほかの活動よりもゲームを優先させる程度が甚だしいこと」。そして、「ほかの関心や日常的な活動よりゲームが優先で、悪影響が生じていてもゲームを続ける、または増やす」状態だ。

WHOは、ゲーム障害は比較的まれな症状であると指摘し、「ゲーム障害になるのは、デジタルゲームやビデオゲームをする人のごく一部であることが、複数の研究で示唆されている」と書いている。

今回の認定は、ビデオゲーム業界からの反発を招きそうだ。WHOの動きに対し、ゲーム業界のロビー団体である「ビデオゲーム連合(Video Games Coalition)」は、ビデオゲーム製品には「教育的、治療的、娯楽的な価値」があり、「世界中で20億人を超える人々が安全に、かつ分別をもって楽しんでいる」と述べた、とNBCニュースは伝えている。

その一方で、WHOの採決に先立ち、ソニーの吉田憲一郎CEOは、「我々はこれ(ゲーム障害)を真剣に受け止め、対策をとる必要がある」と述べていた。具体的にどのような対策を考えているのかについては明らかにしなかった。

「病気ではない」という研究者も

アメリカ精神医学会(APA)はこれまで、ゲーム行動を依存症として分類することをためらってきた。APAは、研究はまだ継続中であり、ゲームを鬱や不安の徴候とすることの是非については、科学者たちが研究中だと言っている。

オックスフォード大学のオックスフォード・インターネット研究所で研究責任者を務めるアンドリュー・プシビルスキは2018年2月、「ゲーム障害を疾患と見なすWHOの試験的な動きは時期尚早だ」と書く。英ガーディアン紙に掲載された記事のなかでプシビルスキは、既存の研究には方法論的な誤りがあると指摘している。プシビルスキは以前にも、英国心理学会に研究の質についての懸念を表している。

エンターテイメントソフトウェア協会によれば、アメリカでは1億5000万人以上がビデオゲームをプレイしている。さらに、アメリカ人の60%は毎日ビデオゲームをプレイしていると同協会は述べている。

(翻訳:ガリレオ)


茨城県取手市 小堀の渡し(おおほりのわたし)

2019年11月10日 11時14分11秒 | 社会・文化・政治・経済

小堀の渡し(おおほりのわたし)は、茨城県取手市の利根川両岸を結ぶ渡し船である。
取手市の内、河川改修で右岸に分断された小堀(おおほり)地区(取手市取手の一部及び小堀)を結ぶ目的でその名前がついている。
利根川右岸の小堀地区と市街地を含め市域の大部分を占める左岸側を定期運航している。
1914年(大正3年)利根川の大改修工事で分断されたことから、小堀地区の住民が自主運行を始めたのが始まりである。
1967年(昭和42年)に当時の取手町(現・取手市)による運航となり、公営の渡し船となった。
1996年(平成8年)に住民以外の利用も可能となった[1]。
しかし、1999年(平成11年)に小堀地区を回る「小堀循環バス」の運行が始まり、2001年(平成13年)からは有料化されたことから、利用者数が激減した。
そのため、2013年(平成25年)度実績で、一日7往復の運航で、約3,300人の利用者となっている。
また、2002年(平成14年)からは市営のままではあるものの、運航業務が民間委託された。
2017年(平成29年)4月1日に利用料金の改定が行われた(1航路100円→200円)。

 
小堀の渡し(小堀側)
 
 
小堀の渡し(左岸側)

春の船着場周辺の様子

 利根川は昔、現・取手市小堀地区の南にある「古利根沼」を含む流れが本流であった。 江戸時代の小堀は相馬郡井野村の一部、現在の取手市街とは地続きで、艀下船の河岸として栄えた(小堀河岸)。現在の古利根沼は、利根川が極端に蛇行している部分で、かつては氾濫を繰り返していた。

そのため、1911年(明治44年)から1920年(大正9年)にかけての改修工事で、利根川の流れを現在のように変えた。 蛇行部分は古利根沼として残り、県境もそのまま存在するため、小堀地区は利根川の右岸になり、左岸にある取手市域の大部分とは川で分断されることになった。

 千葉県我孫子市とは地続きになったものの、南側に古利根沼が存在するため、道路で接続する箇所は東西側のみであり、また我孫子市側は農地であり同市の市街地とも隣接していない。 利根川右岸に分断された小堀地区の住民は市域の大部分を占める左岸地区への移動の不便さから渡し舟の運航をした。

西に2kmほど行けば利根川に架かる国道6号大利根橋(右岸は我孫子市)があるが、そこまでの道(千葉県道・茨城県道170号我孫子利根線)は歩道が無く、道幅が狭いうえに大型車の通行量が多い。

小中高校のほか、市民会館などへ行くにも橋を渡ると遠回りになる。

茨城県の区域の内、利根川右岸にあるのは取手市小堀地区と猿島郡五霞町である。

なお小堀地区内には成田つくば航空専門学校や乗馬クラブなどの施設も存在する。

取手の飛び地をつなぐ渡し船「小堀の渡し」

 

 

渡しの歴史

 

渡しの歴史

昔、取手付近の利根川は、南側に大きく蛇行していたため、この地域は、度々、氾濫による水害に見舞われていました。
そこで、明治の末期から、川を真っ直ぐにするための大改修工事が行われ、堤防も新たに築かれました。ところが、この工事により、取手側に位置していた小堀地区は、川の反対側(千葉県我孫子市側)に分断されてしまいました。生活に不便を感じた住民は、大正3年、自分たちの手で、飛び地をつなぐ渡し船を始めました。これが、平成26年に運航百年を迎える「小堀の渡し」の始まりです。平成11年には、循環バスが運行されることになり、生活の足としての役目は終わりましたが、現在も、市営の観光資源として運航を続けています。

 利根川でリラクゼーション

 

小堀の渡し「とりで号」の乗船場所は、3ヶ所あり、一周約50分の船旅が楽しめます。
乗船料は、一運行経路に付き100円(往復200円)です。
利根川の水辺には、様々な動植物が生息しており、運が良ければ、カワウが魚を捕まえるところや、夏には、ハクレンというコイ科の魚がジャンプする光景に遭遇するかもしれません。

ミニツアーで小堀地区を散策

 

船頭歴15年の経験を持つ取手市役所の長塚さんの案内で、ネットワーカーの皆さんと一緒に、「小堀の渡しミニツアー」に参加しました。ツアーは、事前申し込み制で、4月から10月までの月曜と火曜日、午前と午後に実施されており、乗船料は200円です。取手緑地運動公園の駐車場前にある船着場から船に乗り、小堀地区に渡って、周辺を散策しますと、昔の利根川の流れが残る古利根沼や、かつて舟運で使用された高瀬舟の模型を見ることができます。
ネットワーカーの皆さんは、「取手に来て30年以上になるけれど、初めて乗りました。
子どもが小さい頃に連れてくれば、きっと喜んだでしょう。」

「この渡しの存在を知らなければ、このような体験はできません。やはり、私たちのPRが必要ですね。」と決意も新たに語ってくれました。
是非、渡し船に乗って、季節の風を肌で感じながら、目の前に広がる利根川の風景をお楽しみください。



初めて小堀の地図を見た

2019年11月10日 11時08分13秒 | 社会・文化・政治・経済

午前8時30分林さんと待ち合わせをして支部の会合へ小堀(おおほり)へ行く。
雲一つない快晴であるが、残念なが大利根橋を渡る時に期待した富士山が見えなかった。
久しぶりに総合長の敏男さんが参加したが、東地区、台宿地区のメンバーは一人も参加しない。
梅の台地区は一人。
風邪が流行しているようだ。
我が家も家族3人が風邪になる。
体調不良、1週間経っても治っていない。
昨日、窓を開けた車に乗って、風邪がぶり返したようなのだ。
昨夜は、午後7時30分から地区の協議会があったが、仕事で二人が不参加だった。
会合は午後40過ぎに終わる。
午後7時からの会合にすべきと思うのだが、仕事の人もいるので、土曜日でも7時30分は仕方ないのだろう。
午前3時に起きる富田さんは寝不足なっただろう。
なお、支部の会合では敏男さんを中心に歓談できた。
寺川さんは先日、2回も会館まで自転車で来ていたが、スピード違反が重なり、免許停止になったと倉田さん言う。
スピード狂で煽り運転の彼も<年貢の納め>時であるか。
初めて小堀の地図を見たが、寺田家が大半、倉持家も多かった。
小堀地区は我孫子市に囲まれた取手市の飛び地であり、思いのほか狭い地域であった。