中国と日本 『21世紀真の友好到来を願って~19・20世紀を振り返る~』

2019年11月27日 14時44分39秒 | 社会・文化・政治・経済

                         愛知大学  京角 理恵

日本にとって中国はお隣の国であり、日本が最も影響を受けてきた国である。日本が初めて中国から影響を受けたのは、紀元前3~2世紀ごろに稲作が伝わったというところまでさかのぼる。

中国と日本は二千年にもおよぶ友好往来の歴史がある。しかし、近代百年の歴史はおおむね対立と抗争、侵略という暗い歴史である。

ここでは、日本が現代に入り明治政府が国を動かすようになった頃から1978年の日中平和友好条約を締結するまでと、現在の日中関係についてみていきたい。

1~7(略)

8、民間レベルでの交流の始まり
 アメリカの強力な影響下に置かれていた日本の中華人民共和国との関係は民間レベルで突破口を見出す以外になかった。

1952年、高良富・帆足計・宮腰喜助の3人はソ連経由で中国を初めて訪問し、中国国際貿易促進委員会と第1次民間貿易協定を結び、民間レベルでの人的・経済的交流が開始された。

これは、日本人民の中国人民に対する感情がいかなる政治力でも左右できるものではないことを説明している。
 その後も民間の交流はたえず拡大し、友好往来の発展は日中国交正常化への国民運動の発展につながった。注7

9、日中関係の危機
 民間・人民の交流はさらに拡大発展していくように思われたが、1957年に岸信介内閣が成立し、日中関係は危機を迎えることとなる。

岸は反ソ反共・親米派の策謀家で、日本をアジアにおける反ソ反共の防波堤にしたいというアメリカの期待を一身に担って行動した。

一例をあげてみると、台湾・アメリカ・インド訪問の際の「中共非難」や「長崎国旗事件」注8である。陳毅副総理は「岸内閣の中国敵視はもはや我慢できない。

この結果についての責任はすべて日本政府にある。」と宣言し、この声明が合図となって、貿易関係機関はいっせいに日本側との契約を破棄し、ここ数年来民間方式によって積み重ねられてきた諸交流は、基本的に中断される事態となってしまった。注9

10、日中交流の再開
 1959年から石橋湛山・松村謙三らの人々の絶えざる努力で、日中の友好は次第に回復した。

石橋・松村らが中国を訪問している間、日本国内は日米安保条約改定に反対する安保闘争が激化していた。

結果的に岸内閣は総辞職に追いこまれ、次いで池田勇人内閣が1960年に成立した。 池田政権のもとで、日中関係は順調に進んだ。

友好商社は増加し、取り引き物資を積んだ船の出港入港のたびに相互理解は深まり、「日中国交正常化せよ」という声は高まるばかりだった。
 1962年には松村謙三と周恩来首相の会談が行われ、これを受けて高碕達之助の訪中と廖承志との間の協定によってLT貿易(両者のイニシャルをとってLT)が発足することになった。

LT貿易の発足は日中貿易の拡大のみならず、日中関係正常化にとっても大きな斬新であった。
 これに対してアメリカは、「中国は膨張主義的好戦的共産主義権力である」と罵り、「これを封じこめるための日米の合作が必要である」と日本側の協力を求め、LT貿易などもってのほかであると内政干渉してきた。

しかし池田内閣は「倉敷」ビニロンプラント輸出に輸出入銀行の資金を使い、中国が日本からの輸入する最初のプラントとなることを正式に諒承し、アメリカの干渉にうちかってLT貿易は順調に発足した。注10

11、2度目の危機
 LT貿易も発足し、日中国交回復も今度こそ遠からずと思われていた矢先、池田首相が病気で倒れ、次いで1964年佐藤栄作内閣が成立し事態は一変した。

佐藤は岸信介の実弟であり、日米安全保障条約に兄とともに狂奔した大の反ソ反中国のやり手だった。

佐藤首相は1965年に訪米し、米大統領ジョンソンと会談の際、日本が台湾の蒋介石グループを支持することを求められると、佐藤首相は即座に応じて、蒋介石と“正規の外交関係”を保持し、「中共に対しては政経分離の政策をとる」ことを言明した。
 さらに2月には、池田内閣がせっかく開いたLT貿易への輸出入銀行融資による延べ払いの道を閉ざしてしまった。「LT貿易なぞつぶしても構わぬ」と佐藤首相は公言して憚らず、中国敵視政策を明確にした。
 1967年に入ると、佐藤首相の中国敵視の言動はさらにエスカレートした。9月佐藤は人民の強い反対を顧みず、岸に倣って台湾を訪問した。

このことは、さらに日中関係を悪化させた。
 1969年、ニクソン米大統領と佐藤首相との日米共同声明が華々しく「沖縄返還」をうたいあげた反面には、日本がアメリカから背負い込まれた重い荷物が隠されていた。それは、70年代において、日本がアメリカの核のカサの下で、米帝国主義の忠実な助手として、そのアジア支配の軍事的・経済的肩代わりを義務づけるものであった。注11

12、米中接近
 佐藤内閣が「沖縄返還」を錦の御旗に軍備拡張、アジアにおけるアメリカの肩代わりと中国敵視政策でせっせとアメリカの点数稼ぎに懸命であった時、アメリカは密かに中国との接近を進めていた。

1968年アメリカ大統領に当選したニクソンは、大統領補佐官に任命したキッシンジャーと図って、新たな世界戦略をうち建てて、ベトナム戦争の泥沼から抜け出す道を求めていた。

中ソ対立を利用して、米中接近を図り、ベトナム戦争の解決に有利な条件を作りたいと考えていたのである。
 1971年4月中国はピンポン外交を展開し、アメリカのピンポン・チームの訪中を歓迎した。これが米中接近のきっかけとなり、7月にはニクソン大統領の意を受けてキッシンジャー補佐官が極秘訪中した。
 11月には中華人民共和国は台湾の国民政府に代わって、国連における合法的地位を回復した。

中国が国連の合法的地位を回復したことは、中国の平和共存の外交政策が世界のますます多くの国々の支持を得ていることを示すものであった。
 1972年2月には、ニクソン大統領が中国を訪問し、共同声明を発表した。
 ニクソン訪中と共同声明の発表は、日本政府に大きな衝撃を与えた。

佐藤首相らが忠実にアメリカに追随して、中国敵視政策をとってきたにもかかわらず、アメリカ政府が日本政府を親しいパートナーと見なさず、“頭越し外交”によって、日本と事前協議することなく、突然中米関係改善の行動をとったことは日本にとってショックだった。ア

メリカにべったり追随していても、日中国交正常化には何の利益も無く、かえって自分自身が孤立してしまうと認識したのであった。一刻も早い国交正常化にむけて努力することを日本は強く決心したのであった。注12

13、日中国交正常化
 日中国交樹立の客観的条件が熟してきたその時に、日中友好を主張する田中角栄内閣が佐藤内閣の総辞職後登場したことは、日中両国の国交正常化に重要な促進材料となった。

1972年田中首相は大平正芳外相とともに北京を訪れ、周恩来首相ら中国側と話し合った。

この会談の中で中国が主張する「戦争状態」と日本が主張する「戦争は日華平和条約で終結した」という認識のズレは日中共同声明第1項の「日本国と中華人民共和国との間のこれまでの不正常な状態は終了する」という表現に落ち着いた。

ここに、日中国交正常化という歴史的意味が付加されたのである。

そして、中華人民共和国政府を唯一の合法政府とし、台湾が領土不可分の一部であるという中華人民共和国政府の表明を日本政府は理解し、尊重するということになった。
 日中両国政府は共同声明により、戦争状態の終結を宣言した後、一連の協定を結んで、国交正常化を実現したが、法的手続きからいえば、声明や協定は条約にとって代わることはできない。

共同声明では、「日中双方が平和友好条約の締結を目的として、交渉を行うことに合意した。」とあり、共同声明のこの精神に基づき、両国政府は締結に向けた交渉に着手した。注13

14、日中平和友好条約
スムーズにいくかと思われた交渉だが、交渉は難航した。中国側は共同声明第7項の「反覇権条項」を条約草案に盛り込むことを主張したが、日本側はこれに異議を唱えた。以後、「反覇権条項」の取扱いが双方の交渉の対立点となった。

中国政府は、平和友好条約が共同声明の基礎から後退するなら、締結の意義を失うと考えた。

本来、覇権主義反対の原則から言って、共同声明第7項をそのまま条約の成文に書き込むべきものであった。

日本は共同声明の第7項では覇権主義反対を書くことに同意しておきながら、なぜ平和友好条約では反覇権条項を入れることに躊躇するのか。

それはソ連が日本に圧力をかけ、牽制していることと関係していた。

中ソ対立が激しい当時、ソ連は日本が中国と友好関係になるのを恐れた。

ソ連は日中両国が反覇権を明記した条約を締結するならば、これに対応する措置として、ソ連は「対日政策を見直すことになろう」と述べたり、海軍を日本近海に出動させて武力威嚇を行ったりしてきた。日本は「日本が中ソ対立に巻き込まれれば、アジアの不安定化と緊張をもたらす」と考え、条約交渉を中断させた。
 1978年、ようやく転機が訪れた。福田赳夫が三木武夫に代わり首相となった。福田が首相に就任後、日本国内では条約締結を求める呼び声が高まった。

アメリカ政府が友好条約に賛同したことがさらに拍車をかけ、ようやく再開にこぎつけ、合意に向かい日中平和友好条約が締結した。

日中平和友好条約の締結により、正式に法律上から1世紀もの二国間の不正常な状態を終結し、日中間の前途に輝かしい展望が切り開かれた。注14

15、現在の日中関係
日中国交回復から28年になるが、相互不信はかつてなく深刻な状況にある。経済関係の目覚しい発展にもかかわらず、政治面では摩擦が絶えず、最近は、両国民の間に相互嫌悪の感情さえ募っている。
 
<江沢民の歴史認識発言>
その最大要因の1つは歴史問題である。1998年11月、江沢民は日本政府の招きに応じて中国の元首として初めて日本を公式訪問した。

この時江沢民は、中国国内の世論を意識して歴史問題で日本の反省を迫り、圧力をかけた。

これに対し日本国内では、中国はまだ歴史問題を外交カードに使うのかと言う声が高まり、中国への政府開発援助(ODA)の見直し論が高まった。

以下略

感想

 日中二千年の交流史中の最も悲惨なところである日中戦争のところを私がペンを進めていた時、自分が日本人であることが嫌になりそうなくらいの憤りを感じた。

日本は中国に対して、つぐなっても、つぐないきれないほどのことを中国にしたと思う。「日中共同声明」締結時に、周総理は「中国人民は賠償の苦しみを深く味わったことから、日本人民が同じ苦しみにあうことを希望しない。また中国は莫大な損失をこうむったが、これは日本軍国主義者が責めを負うべきであり、日本人民もまた被害者であり、両国人民永遠の友好のため戦争賠償要求を放棄する。」と明らかにした。

私は賠償請求しなかったことは知っていたが、周総理がどういう思いで賠償請求しなかったのか初めて知った。

このことを知った時、周総理の温かさ寛大さに大変驚いた。

そして、日本は周総理の寛大さにその後答えることができているのだろうかと考えさせられた。

日本は自国本位のところがあり、ご都合主義のところがあると思う。

もちろん自国は大切だが、歴史を踏まえつつさらに友好的になれたらいいと思う。

 私は去年の夏、中国の北京へ旅行に行った。

その時はパスポートとビザで中国に出入国できることはあたりまえだと思っていたし、当然の権利であると思っていた。

しかし、出入国できなかった時代があり、今こうして当然と思えるようになるまでの日中国交回復には幾度もの波乱があり、なみなみならぬ努力のおかげでできることと知った。

 これからはさらに日中がお互いの国を思い合って、相互信頼を築き上げ、発展していくことができたらすばらしいと思う。

 






「強い女性が歴史を動かす」 里中満智子さん

2019年11月27日 14時17分54秒 | 社会・文化・政治・経済

ライフワーク完結、持統天皇の悪女イメージ覆す

2015/1/10

朝・夕刊の「W」

女性も歴史を動かした――。マンガ家生活50周年を2014年に迎えた里中満智子さん(66)は、ライフワークである作品「天上の虹」で持統天皇の生きざまを描いてきた。

現代の働く女性にも通じる苦悩や様々な愛の形を描き続け15年3月、完結する。自身も病気を乗り越え仕事と向き合ってきた里中さんに、万葉の時代から続く日本女性の強さを聞いた。

古代を舞台にしようと思ったきっかけは万葉集だった

中学生の時、図書館で出合った万葉集の面白さに病みつきになった。

初恋の時期でもあり、自分の思いにぴったり合った恋の歌がたくさんあって、しかも男女どちらの歌なのか見分けがつかなかった。

男性の命懸けの恋もあり、日本男児は「寡黙で強い」というイメージと大きく違って驚いた。

日本の歴史は武家社会を指すことが多く、男性が歴史を動かしてきたと習った。

でも万葉集では皇族の男性を身分の低い女性がじらすなどしていて、「どんな人たちだったのだろう」と興味を持った。

古代の女性は生き生きしていたと感じた。いつかこの時代を描きたいと中高生のときから思っていた。

真のリーダーは先を考えながら行動する。持統天皇は天武天皇とともに、国際的に通用する当時の近代国家を作り上げようとしてやり遂げた

「女だから中継ぎ」「夫から愛されなかった女」という烙印(らくいん)を押されてきた持統天皇だが、律令制の整備や藤原京の建設など大きな働きをした。

壬申の乱後、権力を一手に握った天武天皇が志半ばで崩御した後、彼女が権力を握り、他の勢力を抑えて国を治めた。

彼女以外にも皇女はいたが、政治的に何もしていない。持統の後を継いだ元明や元正などの女性天皇も、みんなそれぞれがしっかり仕事をした。

これまで仕事に生きてきた自らの思いを、作品の中で持統天皇に語らせている

人は立場によって選択を迫られ、決断を迫られることで強くなる。

働く女性はいつまでも少女のままではいられない。強くありたいと思って強くなる。

16歳でデビューした時、「一生漫画を描きたい」と思った。

当時は女性漫画家は結婚や出産でやめていく、と思われていた。

「絶対に泣かない」と誓い、「描きたいものを描くには力をつけて信用してもらわないと」と奮い立った。プレッシャーを越えたら、ちょっとやそっとでは引かない。

プレッシャーがあることで、80の力が120出せることもある。

人気のピークだった30歳前後で病気に。ワークライフバランスを重視するようになった

信用を得るために仕事は断らなかった。仕事をもらえるとうれしくて、連載を8本抱えたこともあった。

睡眠は1日おきに2時間。食事は野菜をどろどろに煮込んで口に流し込んだ。自分の体の限界もわからなかった。

29歳のときに卵巣嚢腫で入院した。「やっと眠れる」とほっとしたのを覚えている。

31歳で子宮がんを宣告された。早期発見だったので大事には至らなかったが、仕事を減らし睡眠をとるように心がけるようになった。

シンデレラより人魚姫が好き。人は何かを得るためには、何かを手放さないといけない

女の子はシンデレラに憧れる。だが私は初めて読んだとき、違和感があった。

美しいだけで王子に一目ぼれされて幸せになる。「女は美しければいい、男は地位と権力があればいい」というメッセージを感じた。「継母だから意地悪」という設定も気にくわなかった。

 

かたや人魚姫はすてきだと思った。何かを捨てて、何かを得る。人魚姫がどれだけ王子を愛しても、王子は知らない。

暗い話だから人気はないが、世の中の仕組みにも通じるものがあると子どもながらに思った。

新人賞受賞からマンガ家として生きて半世紀。親や学校の猛反対を乗り越え、選んだ道に後悔はない

教育熱心な親に育てられ、勉強もできた方だったので、マンガ家になると言ったときは激怒された。

大人の本当の役割は選択肢とその道の可能性を教えることだと思う。仕事か学校を選べということで、仕事を選んだ。当初は連載が途切れたこともあった。

17~18歳で出版社に売り込みもした。それでも、一生の仕事にするという覚悟で歯を食いしばってきた。司馬遼太郎さんが坂本竜馬を人気者にしたように、物語の力は大きい。物語の力を信じて、まだ描きたいものはたくさんある。

飛鳥・奈良時代は在位期間の半分近くが女帝

「女帝の古代日本」などの著書がある明治大文学部の吉村武彦教授の話

飛鳥・奈良時代は天皇の在位期間の半分近くが女帝だった。

法制度である律令で官人(役人)になれるのは男性だけだが、天皇は女性も可能。

女帝は従来、男性天皇の間の中継ぎ説が主流だったが、最近は否定的な説もある。推古や斉明天皇も実権を持っており、無能な女性がお飾りとして祭り上げられていたとは思えない。

そのなかでも近代国家成立のために大きな役割を果たしたのが持統天皇だ。

中国にはなかった独自の太上天皇制度を作り、自分の孫へ引き継ぐ仕組みを整えた。日本で初めてといわれる碁盤目の効率的な都市、藤原京を築き、律令制を完成させたのも持統天皇だ。

日本書紀は持統から文武天皇に位を譲るところで終わっており、彼女の血統が正統であることを強調した。その後、独身の女性天皇も出現する。

庶民の生活でも法的には男性中心だったが、女性も力を持っていた。家などの財産権も持っていたとみられ、共同体の首長にも女性がいたことが確認されている。

農業中心の社会では女性による田植えや機織りなど、重要な労働力でもあった。

地方の国司を中心とするサロンでも『遊行女婦』といわれる才能ある歌詠みがいて、女性が様々な場で活躍していた。

女性リーダー少ない現代 「管理職増へ意識改革を」

――現在の日本社会では女性リーダーはまだ少ない。

歴史から学べるところはあるのか。リクルートワークス研究所の石原直子主任研究員に聞いた。

「歴史を変える女性は今後もきっと出るが、社会全体のありようとは別。

歴史に名を残す突出した存在を望んでいるのではなく、問題はなぜ男性と同じように管理職になれないのかだ。大学進学率も高い女性が社会でリーダーとして活躍しないのは不自然。女性リーダーを増やすのは、やったことのない新しいことだ」

――女性リーダーが少ない背景と打開策は。

「誕生を一層難しくしているのが、外で働く男性、家を守る女性という社会制度だ。

女性だけが、子どもを育てて余力があるならリーダーになってもいいというのは偏った見方だ。女性にもそうした見方があり、男女ともに意識が変わらなければならない。

夜まで働ける人が戦力とみなされる中では、働く母親は活躍しにくい。最近、働き方の問題に着目するようになったのはいいことだ。

労働慣行や柔軟でない労働市場も変わる必要がある」

「米国では、成果をあげれば評価につながる仕事を割り当てられる機会が男性に偏っているのを、意識的に女性に割り当て、女性役員を増やそうとしている」

(文=高橋里奈、女性面編集長 橋本圭子 写真=湯澤華織)

 
 
 
 
 
 

女性が主役となる「女性の世紀」に

2019年11月27日 14時07分23秒 | 社会・文化・政治・経済

▼国交も、その本義は人間の交流であり、民衆の交流にある。
友情と信頼の絆で、人間同士が結ばれることだ。
国家といっても、それを動かすのは人間であるからだ。
▼女性の幸福なくして、人類の平和はない。
女性が輝けば、家庭も、地域も、社会も輝く。
ゆえに21世紀は、女性が主役となる「女性の世紀」に、しなくてはならない。
▼人材には、力がなくてはならない。
力がないというのでは、民衆の幸福、平和を築くことはできない。
これだけは誰にも負けないというものをもつもとが必要だ。
▼リーダーの社会性ある、常識豊な振る舞いが大事である。


中学女子を誘拐2か月「将来、自社の従業員に」

2019年11月27日 14時04分14秒 | 社会・文化・政治・経済

…男を再逮捕

11/27(水) 読売新聞オンライン

ツイッターで知り合った兵庫県の女子中学生を約2か月間、借家に住まわせるなどして誘拐したとして、埼玉県警は27日、同県本庄市東台、不動産業阪上裕明被告(37)を未成年者誘拐容疑で再逮捕した。阪上被告は別の埼玉県の女子中学生を9月中旬から約40日間、同市内の同じ借家に誘拐したとして、10月30日に同県警に同容疑で逮捕され、その後起訴されていた。


 発表によると、阪上被告は8月28日~10月29日、ツイッターで兵庫県の女子中学生が家出を望んでいることを知り、借家に住まわせて誘拐した疑い。調べに「将来、自分が経営する会社の従業員にしたかった」などと話しているという。女子中学生にけがはなかった。

 県警によると、ツイッターで女子中学生が8月、家出したいなどと投稿したのに対し、阪上被告が「埼玉においで、勉強するなら養ってあげる」とメッセージを送っていた。群馬県藤岡市のJR北藤岡駅で待ち合わせ、阪上被告が車で本庄市内の借家に連れて行った。女子中学生に1日3食出し、入浴もさせていたという。

 その後、9月中旬に埼玉県の女子中学生を誘い出す際には「同じ年の子が居候しているから相談に乗る」などとツイッターで呼び寄せていた。

 同県警は10月29日、この借家で女子中学生2人を発見していた。

 
 

 


人道的(ヒューマン)とは

2019年11月27日 12時35分07秒 | 社会・文化・政治・経済

▼人道的(ヒューマン)とは、「人間らしさ」「人間らしさの徹底」「人間を価値の中心に置く」ことだ。
▼ベルリンの壁の崩壊、東西冷戦の終結を宣言した米ソ首脳のマルタ会議から30年。
ポピュリズム(大衆迎合主義)が台頭して対立と分断が進む中で、世界は一段と混迷の度を加えている。
▼人間を手段としてしか位置づけない対立と分断の政治か。
人間を価値の中心に置く対話と合意の政治か。
時代は今、人間主義の政治を希求している。
▼「生命・生活・生存」を最大限に尊重する人間主義。
「人間の安全保障」の理念が期待されている。


人間の安全保障とは

2019年11月27日 12時01分17秒 | 社会・文化・政治・経済

人間の安全保障をすべての人に

特に最近10年間の脅威の変遷により、私たちの安全に対する理解は大きく変わりました。冷戦の終結以来、私たちは国際紛争や国内紛争だけでなく、慢性的にはびこる貧困や気候変動関連の災害、組織的犯罪、人身取引、流行病、そして急激な経済・金融危機によっても、数多くの人々の暮らしが脅かされる姿を目にしてきました。

これら新旧の課題は、全世界で非常に多くのの生命と生活にとって、深刻な脅威となっています。国家安全保障が平和と安定に不可欠なことに変わりはありませんが、現在の複雑かつ多次元的な課題の影響は、私たち一人一人が、分野横断的な幅広い脅威のリスクの高まりに対して脆弱であることを明らかにしています。内的要因によるものか、外的要因によるものかに関係なく、今日の脅威は、安全が脅かされうる状況が国内で、そして国境を越えて一気に拡大し、さらに解決困難な危機となって、個人の安全はおろか、より幅広い国家、地域および国際レベルの安全が脅威にさらされることも多くなっています。

その一方で、安全が脅かされうる状況を取り除く機会も、以前に増して高まっています。

これまでになかった資源と技術の組み合わせにより、私たちには人間の安全保障の実現に向けて、目に見える前進を遂げるための手段、知識、そしてリソースが備わっているからです。

こうした機会を活用するためには、人々の生存、生活、尊厳が現地、国内、地域、国際の各レベルで平和・開発・人間の進歩の礎をなすような新しい枠組みが安全保障に必要だと、政策決定者と実務者が認識しなければなりません。

2005年世界サミット成果文書『人間の安全保障』(A/RES/60/1)パラグラフ143において、各国首脳は「すべての人々が、自由に、かつ尊厳を持って、貧困と絶望から解き放たれて生きる権利」を強調するとともに、「すべての個人、特に脆弱な人々が、すべての権利を享受し、人間としての潜在力を十分に発展させるために、平等な機会を持ち、恐怖からの自由と欠乏からの自由を得る 権利を有していることを」ことを認めました。large_Myanmar-046-Girl_at_school

人間の安全保障は、現在の、そして新たに生まれつつある脅威、すなわち幅広く分野横断的な脅威に対応し、人々の生存、生活、尊厳を守ることをねらいとしています。

このような脅威は、絶対的な貧困や紛争の中で暮らしている人々だけに及んでいるわけではありません。

現在では、先進国、途上国を問わず、全世界の人々が多種多様な安全が脅かされうる状況の下で暮らしているからです。

こうした脅威は各国の政府と国民にとって、ともに深刻な課題を突きつけています。

したがって、人間の安全保障では、恐怖からの自由、欠乏からの自由、尊厳を持って生きる自由という人間の生活にとって基本的な一連の自由の普遍性と相互依存性を重視します。

その結果、人間の安全保障は安全、開発、人権の間の相互関連性を認識し、これらを人間の安全保障、そして、国家の安全保障の礎石とみなすものとなっています。

さらに、人間の安全保障が欠如する原因とそのあらわれ方は国やコミュニティによって大きく異なるため、人間の安全保障では、各地の現実に根差し、各国のオーナーシップに基づく解決策の策定強化を図ります。

人間の安全保障は、各国の政府と国民がその潜在力を高め、 貧困と絶望のない状態で、尊厳を持って生きる能力を高めることになります。


精神闘争が必要

2019年11月27日 10時49分36秒 | 社会・文化・政治・経済

▼個人も、団体も、国家も、どれだけ人材を見つけ、どれだけ人材を育てたか
―それで指導者歴史の真価が決まる。
民衆のため、社会のため、人間のために貢献する指導者を育てることだ。
これが世界平和の波動を広げる。
▼人材とは人格の人である。
人への思いやり、包容力、自分を律する精神力、正義への信念と意志等、人格の輝きこそ、人間として最も大事だ。
それには、精神闘争が必要である。
自分の弱さに挑み、苦労に苦労を重ねて、自己の精神を磨き上げることだ。


大阪小6少女誘拐 容疑者は「安倍晋太郎」金庫番の孫だった

2019年11月27日 10時15分29秒 | 社会・文化・政治・経済

…父“自殺”のトラウマも

11/27(水)  デイリー新潮

 「週刊新潮」2019年12月5日号 掲載

容疑者の自宅

 大阪市に住む小6少女が行方不明になった事件では、未成年者誘拐容疑で伊藤仁士(ひとし)容疑者(35)が逮捕された。もう一人、15歳の女子中学生もいたことで“少女連続監禁”となったこの事件、容疑者には、あるトラウマがあった。

 ***

「仁士の祖父は五十男と言います。会社員です。確かに安倍晋太郎さんの秘書は10年ほどやっていました」

 こう証言するのは、仁士容疑者の父の弟、つまり叔父にあたる人物だ。

五十男氏のことは、安倍家と親交のある、元山口新聞東京支局長の濱岡博司氏も記憶しているという。晋太郎元外相の資金管理団体のひとつを仕切っていた人物だといい、

「最も集金力のあった晋和会の秘書代表が伊藤だった。ガッチリした体躯でね。金儲けが上手で金庫番と言って差し支えないでしょう。会社員? う~ん、もともと山口の農協トップの秘書を務めていて、頭角を現して晋太郎さんの秘書に収まったんです」(濱岡氏)

 仁士容疑者については、長く引きこもりだったと報じられている。大物政治家の金庫番を務めた祖父を持つ身の彼の人生の歯車は、いかにして狂ったのか。ひとつには、“父の死”の影響があったのかもしれない。

仁士容疑者は、30年ほど前に父親を亡くしている。先の叔父がいう。

「それまでは東京・新宿で暮らしていました。仁士が5歳くらいだったと思いますが、彼の父親が運転するクルマで事故を起こし、病院に運ばれる前に亡くなってしまった。そこから彼の母親は子供と栃木に移り住んだのです」

 その後、地元の小中学校に進んだのち、公立トップ高校に不合格。宇都宮短大付属高に進学するも、やがて引きこもり状態に。そして1年ほど前、祖母の介護のために母が家を出て、仁士容疑者は一人で暮らすことになる。監禁事件の舞台になった、あの2階建ての家である。

 事故で亡くなったという仁士容疑者の父。だが、先の濱岡氏の認識は、やや異なるようだ。

「当時、私立大学振興政策のため、自民党の代議士は各私大の担当を持っていました。晋太郎さんは71年にできた愛知医科大を受け持っており、その繋がりもあって、72年に秘書の息子が二人そこに入学します。そのうち一人が伊藤五十男の息子、(仁士容疑者の)父です。ただ、医師国家試験になかなか受からず、色々あって自殺されたと聞いています」

取材によって、仁士容疑者の父は85年卒だとわかった。亡くなったのはその3年後である。入学から卒業までの13年間をどう過ごしたのか……。

 ともあれ、父の“死”が仁士容疑者にもたらしたトラウマは如何ばかりだっただろう。11月28日発売の週刊新潮では、奇妙な共同生活を生んだ被害者の家庭環境にも迫る。

「週刊新潮」2019年12月5日号 掲載

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怒りをコントロールできます

2019年11月27日 06時37分59秒 | 沼田利根の言いたい放題

雨が降り、寒気の中、中年の男性が訪ねてきた。
如何にもジェントルマンという風貌だった。
その人は、住んでいる取手市内の地区と名前を名乗る。
「聖書は読んだことがありますか?」柔和な笑顔で問う。
「少し・・・」
「人とのつながりは、ありますか?」
「あります」
「聖書には、日常生活に役立つアドバイスも含まれています。聖書の言葉は生活のプラスになっています。穏やかに暮らせるようになります。家族や友人とのつながりを大切するなど前向きになれます。健康的な生活を送れるように進めています。怒りをコントロールできます。すぐに怒らない人は、優れた識別力があります。短気な人は愚かさをあらわにしているのです」
手にした紙片を読む。
短気のために怒って、何回も人間関係を壊してしまった当方には、苦いアドバイスだった。
「明日は効率よく、行動してください」と昨夜、携帯電話で言われたことに怒りがこみ上げてきたのである。
「だから、活動を僅か10分で切り上げさせらのだ」と納得する。
行動を伴にしていた人を突然、理由も言わずに車に乗せて去ってしまったのだ。
それは、全くの誤解であったのだ。
「今日は八重洲地区、内部を回らないんですか」と余計なことを言うのだ。
外から回って左折して内部へ向かう途中だったのだ。
「同じ、動くのなら、密つ濃く」ともその時、相手は指摘した。
12月1日まで、最低でも300軒の訪問することを佐々田さんに告げ、行動を伴にしてきた。
その、意欲をそがれるような気持ちになる。
人の気持ちを逆なですることが多い、その人の<上から目線>に怒りが何度も込みあげてきたが、感情を抑制してきた。
怒りの感情を爆発させたら、その人との人間関係も壊れるだろう。
その人は心ない言動で、人の心を何度も傷つけてきたことだろう、と想像してみたが・・・


大韓航空機爆破事件

2019年11月27日 00時00分41秒 | 社会・文化・政治・経済

大韓航空機爆破事件は、1987年11月29日大韓航空旅客機が、偽造された日本国旅券を使い日本人に成り済ました北朝鮮工作員によって、飛行中に爆破されたテロ事件である。

日本で大韓航空機事件と呼ぶ場合この事件の事を指す場合と、1983年9月1日大韓航空機撃墜事件のことを指す場合に分かれる。

事件発生

大韓航空858便は、アブダビを協定世界時日曜日の午前0時01分に離陸、インドを横断し、ボンベイ(現:ムンバイ)から始まるアンダマン海上空の航空路R468を飛行して、ビルマ(現:ミャンマー)の航空管制空域に、離陸から4時間半後の現地時間午前10時31分(協定世界時:午前4時31分)に到達した。

インドとビルマの境界である、"TOLIS"ポイントからラングーン(現:ヤンゴン)の航空管制官に対し「現在37,000フィート(およそ10,700m)を飛行中。

次の"VRDIS"には午前11時01分、"TAVOR"(ビルマ本土上陸地点)には午前11時21分に到達の予定」と報告したのが、大韓航空858便の最後の通信となった。

ここで858便は航空路ロメオ68を飛行しており、ほぼ定刻通りにバンコク国際空港に到着するはずであったが、ラングーンから南約220km海上上空の地点で、午前11時22分に旅客機内で爆弾が炸裂し、機体は空中分解した。

機長は、遭難信号や地上の管制機関に緊急事態を宣言する間もなく、爆発の衝撃で即死したと見られる。

乗客・乗員115人全員が、行方不明(12月19日に全員死亡と認定)となった。

実行犯の拘束[編集]

 
バーレーン国際空港(1980年代)

事件直前、バグダードで搭乗して経由地のアブダビ空港で降機した乗客は15人いたが、その中に日本人男女各1名がいた。この2名は、日本の旅券を持っており、30日午後にバーレーンバーレーン国際空港ガルフ航空機で移動し、同国のマナーマホテルに宿泊していた。韓国当局も搭乗名簿から、この「日本国旅券」を持つ2人の男女が事件に関与したと疑っており、当地の韓国大使館代理大使がその日の夜に接触した。

事件直前の1987年11月21日に、東京で警察に偽造旅券を所持していたため逮捕された日本赤軍丸岡修は、翌年に迫ったソウルオリンピックの妨害工作をするために、ソウル特別市行きを計画していたことが明らかになっており、中東を本拠地とする日本赤軍の事件への関与が疑われていた。そのため大韓民国中央情報部は、早い時点で2人をマークしていた。

また日本国政府当局は「日本人による反韓テロ事件」を懸念していた。

在バーレーン日本大使館が入国記録を調べたところ、航空券の英文の「姓」が抜けていた。日本では男女問わず姓を名乗る事が法律で定められているため違和感を覚え、女の旅券番号を日本国外務省に照会したところ、徳島市在住の実在する男性に交付されたパスポートと同一であることが判明、偽造であると確認した。

2名は、バーレーンの空港でローマ行きの飛行機に乗り換えようとしていた為、日本大使館員がバーレーンの警察官とともに駆け付け、出国するのを押し留めた。

日本大使館に身柄拘束権が無かった為、同国の入管管理局に通報し、警察官に引き渡した。

空港内で事情聴取しようとした時、男は煙草を吸うふりをして、その場であらかじめ用意していたカプセル入り薬物で服毒自殺した。

現場に居た、日本人外交官であった砂川昌順による『極秘指令~金賢姫拘束の真相 』(NHK出版)によれば、女はマールボロに隠された青酸系毒薬のアンプルを、警察官から奪い取り自殺を図ったが、バーレーンの警察官のハッサンが飛びかかり、直ちに吐き出させた為、完全に噛み砕けず青酸ガスで気を失って倒れただけに留まった。

男は死亡したが、同伴の女は一命を取りとめ、3日後に意識を取り戻した。

自殺した男が所持していたパスポートの名義の男性は東京都在住の実在する人物であったが、彼のパスポートは東京にあった。

彼は「宮本 明(みやもと あきら)」を名乗る男の全額費用持ちでフィリピンマニラタイバンコク1983年(昭和58年)秋に旅行したが、その翌年に「宮本」に、パスポートと実印を1か月ほど貸していたことが判明した。

実行犯の背景

実行犯は北朝鮮工作員の金賢姫(当時25歳)と金勝一(当時59歳)であった。

2人は10月7日に金正日の「ソウルオリンピックの韓国単独開催と参加申請妨害のため大韓航空機を爆破せよ」との親筆指令に従いテロ行為に及んだもので、父娘であると偽りテロ実行のために旅行していた。

韓国当局の取調べによれば、2人は11月12日に任務遂行を宣誓し、ソ連の首都モスクワへ朝鮮民航(現:高麗航空)で北朝鮮政府関係者2名とともに向かい、そこでアエロフロート便に乗り換え当時社会主義国家だったハンガリーに11月13日に北朝鮮のパスポートで入国した。

そこで6日間滞在した後にハンガリーから隣国オーストリアに11月18日に陸路入国した。

ハンガリーへの2人の入国はハンガリー政府も公式に認めている。

この時まで金賢姫は別人名義の北朝鮮旅券を使い金勝一は北朝鮮外交官旅券を使っていたが、オーストリア国内で日本の偽造旅券を使い始めた。

6日間滞在したあとウィーンから11月23日発のオーストリア航空621便でユーゴスラビアベオグラードに移動して5日間滞在した。

2人はベオグラードの北朝鮮工作員のアジトで爆発物を受け取ったとされる。

 

「金賢姫は外交官の父を持つ北朝鮮では比較的恵まれた家庭出身であった」としているが、該当する外交官は確認されていない。平壌外国語大学日本語科に在籍中に北朝鮮の工作員としてスカウトされ、日本における謀略活動のための訓練をされており、北朝鮮工作員の海外拠点であったマカオ(当時はポルトガル海外県)に何度も滞在していた。「李恩恵」と呼ばれる女性(日本から北朝鮮により拉致されたとされる田口八重子とみられている)に、日本語教育日本文化の教育を受け、「蜂谷眞由美」という日本人名を使用し、日本人になりすましていた。

 

事件の動機

 

現在も北朝鮮は事件への関与を否定しており、韓国による自作自演を主張しているが、この事件の指導と総指揮は、当時既に金日成の後継者に指名されていた朝鮮労働党書記金正日が執ったと言われている。

 

その主な目的は、「大韓航空機の原因不明の空中分解」によって大韓航空のみならず韓国政府の国際社会における信頼低下を引き起こし、その結果として翌年にソウルで行われるソウルオリンピックの妨害を行うことであったと言われている。

具体的には北朝鮮の同盟国であった東側社会主義諸国にオリンピックをボイコットさせる動機のひとつにしようというものであった(他にもオリンピックそのものを中止させるためともいわれているが、効果は疑問である)。

これはオリンピックのエントリー締切が1988年1月17日であり、妨害するならこの時期が最後の機会であったためである。

 

しかし、金賢姫がハンガリーに北朝鮮パスポートで入国し、そこから日本の偽造パスポートで出国したことから、ハンガリー当局は北朝鮮による謀略があったと判断し、当時の東側陣営の盟主であったソ連へ報告したため、東側社会主義国全体からも「卑劣なテロ国家」として認識されるようになった。

そのため、ソウルオリンピック参加を曖昧にしていた、ソビエト社会主義共和国連邦および中華人民共和国は正式に参加表明、他の東欧諸国も追随し参加を表明した。

結局参加しなかったのは北朝鮮ぐらいで、目論見は完全に失敗することになった。