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茨城県警、7月に伊藤容疑者宅を訪問

2019年11月25日 07時52分36秒 | 社会・文化・政治・経済

…中学生の残したメモから特定

11/24(日) 読売新聞オンライン

大阪市の小6女児を誘拐したとして栃木県小山市、伊藤仁士容疑者(35)が未成年者誘拐容疑で逮捕された事件で、茨城県警は24日、保護された同県の女子中学生(15)を捜していた県警の捜査員が今年7月、伊藤容疑者宅を訪れていたことを明らかにした。


 県警によると、女子中学生の家族は6月に行方不明者届を提出。県警は部屋に残された電話番号のメモなどから伊藤容疑者宅を特定し、捜査員4人で訪問した。その際、伊藤容疑者は「心当たりはない」と説明。家の中を捜したが女子中学生は見つからず、衣服なども確認できなかったという。県警は「当時、(女子中学生が)外にいたのか、隠れていたのか、その辺はわからない」としている。

 



 

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日本国民のための愛国の教科書

2019年11月25日 07時31分46秒 | 社会・文化・政治・経済
 

内容紹介

Patriotism: The Textbook for the Japanese Nation

「世界に国を成すもの沢山あり、然れども日本人程愛国々々と叫ぶ者は未だ嘗て見たることなし」(リギョール『日本主義と世界主義』:文海堂:明治31年)

【目次】
レッスン1 愛国心を持つことは自然なことか
(1)烈女・畠山勇子
(2)武士道の変遷
(3)明治の日本人と愛国心
(4)愛国心の教育
(5)〈国民〉は想像の共同体

レッスン2 国を愛することは簡単なことか
(1)「愛国」の起源
(2)パトリオティズムとは何か
(3)ナショナリズムとは何か
(4)ナショナリズムの影響を受けたパトリオティズム
(5)近代日本の「忠君愛国」
(6)なぜ国を愛するのか
(7)「自分の国」という宿命
(8)「日本バカ」に足りないもの

レッスン3 国のために尽くすことは正しいことか
(1)国への忠誠心
(2)ハーシュマンの理論
(3)沈黙しない忠誠心
(4)日本人の「離脱」と「発言」
(5)ナチスドイツ下の「離脱」と「発言」
(6)「不満があるなら日本から出て行け」
(7)国家とはどのような存在なのか

レッスン4 国をどのように誇りに思うべきか
(1)イギリス人の誇りとドイツ人の誇り
(2)自己欺瞞のワナ
(3)ナショナリズムVS.歴史の真実
(4)歴史学は有害なのか
(5)批判の作法
(6)批判的愛国者のすすめ

レッスン5 愛すべき〈祖国〉とは何か
(1)〈祖国〉の復習
(2)「日本」とは何か
(3)頭の中の「国境線」
(4)伸縮可能な〈祖国〉

レッスン6 愛国心の落とし穴とは何か
(1)「やっぱり」の誘惑
(2)儀礼の効用
(3)「自分たち」とそれ以外
(4)民衆扇動の見分け方
(5)個人主義的愛国心

レッスン7 愛国者の覚悟とは何か
(1)他人はともかく自分は
(2)再び、畠山勇子について
(3)「日本人で良かった」?
(4)日本人に冷たい日本人たち
(5)ぬくぬくナショナリズム
(6)日本以外のもうひとつの視点
(7)愛国を超えて

読書案内
あとがきにかえて

出版社からのコメント

Patriotism: The Textbook for the Japanese Nation


『ヨーロッパ政治思想の誕生』(名古屋大学出版会、2013年)でサントリー学芸賞受賞の著者が、中学生からお年寄りまで全ての日本人に送る、愛国心をめぐる7つのレッスン。

著者について

1967年(昭和42年)神奈川県横浜市生まれ。駒場東邦高等学校を経て、慶應義塾大学法学部政治学科卒業。シェフィールド大学大学院歴史学博士課程修了(Ph.D.) 。研究領域は政治思想史。ケンブリッジ大学クレア・ホールのリサーチフェロー、ブリティッシュ・アカデミー中世テキスト編集委員会研究員、ヘルシンキ大学歴史学部訪問教授などを歴任。現在、ニュージーランド・ダニーデンに所在するオタゴ大学人文学部歴史学教授。英国王立歴史学会フェロー。

『ヨーロッパ政治思想の誕生』(名古屋大学出版会、2013年)で第35回サントリー学芸賞(思想・歴史部門)を受賞。その他の著作にOckham and Political Discourse in the Late Middle Ages (Cambridge University Press, 2007), Visions of Peace: Asia and the West (co-edited with Vicki A. Spencer, Ashgate, 2014), Western Political Thought in Dialogue with Asia (co-edited with Cary J. Nederman, Lexington Books, 2009)、『言論抑圧 矢内原事件の構図』(中公新書、2014年)、『政治診断学への招待』(講談社選書メチエ、2006年)、『反「暴君」の思想史』(平凡社新書、2002年)がある。最新刊は『愛国の構造』(岩波書店)。

 

本書は、哲学的(つまり根本的)に物を考える習慣のない人には、かなり難しい本である。
著者としては、専門的議論は省き、かなり噛み砕いて、わかりやすく書いたつもりなのだろうが、そもそも議論の中身が難しいのだから、いくら文体を平易なものにしたところで、わかりやすくするには限界がある。

例えば、トランプ大統領支持の低所得労働者層の白人に「国家とはなんでしょうか?」と質問して、まともな説明が返ってくることなど、まず期待できない。
たぶん、多くの答えは「国家は国家。国は国だろう。アメリカやロシアといった、世界にいろいろある国だ」といった、同語反復や循環論法でしか語れないはずだ。
なぜなら、彼らは「国家」や「国」というものについて、まともに考えたことがないのだから、それについての説明など、できるはずもないのである。

で、これは日本人の多くにとっても、まったく同じことなのだ。

日本人の多くも「日本という国は、大昔からあった」と単純に信じていて、その思い込みを疑ったことのある人など、よほど教養のある者以外にはいないはずだ。

本書が難しいのは、そういう日本人にとっての「当たり前」が、当たり前ではなく、日本という「国家」もまた、歴史的に作られてきた、制度であり人為的なイメージである、というレベルのところから説き起こしているので、「日本は日本だろう」と思い込んできたような人には、本書の議論は、およそ想定可能域を超えたものであり、平易な言葉で語られても、まともに頭に入ってくるようなしろものではないのである。

例えば「我が国は、世界一すばらしい国だ」などと、平気と言えるような、よくいる「愛国者」は、物をまともに考えたことのない人の代表だと言えるだろう。
なぜなら、その人が、他のすべての国について、自国と同じ程度の知識と理解を持っていることなど、あり得ないからである。
つまり、知らないことについてのいい加減きわまりない判断を、自信満々に語れるのは、自分が無知であることにすら気づけないほど、物事を考えてない証拠なのである。

普通に考えれば、よほど酷い国でもないかぎり、誰でも自分の国に本能的愛着を持つもので、日本人だけではなく、アメリカ人でもロシア人でもイギリス人でも中国人でも、みんなそれなりに自分の国を愛着を感じているのだ、というくらいのことは、誰にでも想像推測できることだろう。
だから、自分の国の美点と感じることも、他の国の人はその国のそれに類するものに同様の美点を見ているはずだ、というくらいのことは、とうぜん想像推測できるはずなのだ。
だが、こんな初歩的な「類推」すら出来ないのだから、これはもう「何も考えていない。何も考えずに、個人的な愛着を、客観的な優越性だと勘違いしている」痴愚者だとしか言いようがない。

しかし、なぜ多くの人は、この程度の思考すら停止させて「我が国はすばらしい!」などと考える「愛国」感情を持ってしまうのだろうか。

それはまず「我が国」は、文字どおり「私の国」だからだ。
他人の国ではなく、私の国なのだから、他人のものよりすばらしいと思いたい、というのは、わかりやすい人情だ。
まして、自身が、個人的にこれといって優れたところのない人間、つまり凡人なら、せめて優れた集団の一員としての「肩書き」が欲しい。そして、私の肩書きが「日本人」なのであれば、「日本」がすばらしくないのは不都合だから、すばらしいと思いたい、というのも人情である。
で、こういうのを、日本にアイデンティティを委ねると言う。「日本あっての私」ということだ。

しかし、こういう個人として自立できず、国にアイデンティティを委ねることでしか安心して生きられない凡人が多いからこそ、国家の方も、本来、国家の主人たる国民を、逆に、良いように操ろうとする。
「そうです。日本はこのように素晴らしい、世界に冠たる国なのです。どうか自信を持ってください。そのかわり、貴方もこの祖国日本に忠節を尽くし、日本のために身を賭する覚悟も持ってください。それでこそ日本人なのです」と煽てあげる。
これで、大概の人は、本来、国民に資するために存在する国家権力によって、逆にその道具にされてしまうのである。

こう書くと、愛国者の皆さんは「いや、私は国家におだてられ、洗脳されたから、日本がすばらしいと思うのではない。現に日本には、すばらしい風土や文化があるではないか」と反論するかもしれないが、繰り返すが、それはどこの国にだって、たいがいはあるものに過ぎず、自分の国のものだから、ことさらに良く見えているだけなのだ。
そしてこれは、少し頭を冷やして考えれば、小学生でもわかる理屈なのである。

では、どうして、こんなわかりきったことが理解できず、「我が国はすばらしい」だから「私は我が国を愛するし、愛するのは当然である(愛国は自明の行為)」だなどと考えてしまうのだろうか。

それは「愛国」感情(愛国心)が「宗教」だからだ。

宗教というのは、どんな宗派宗派でも「自分たちが、もっとも正しく、この世界のあり様を理解している」と主張する。
しかし、世界には、たくさんの様々な宗教宗派が存在していて、それぞれにそう主張しているのだから、論理的に考えれば、正しく世界を理解し説明している宗教宗派は、一つだけか、あるいは、一つもないか、しかないのである。
なのに、よその宗教宗派のことをろくに知りもせず「我が仏は尊し」つまり「うちが正しい」などと思っていられるのは、よほど何にも考えていない人たちだとしか、言いようがないのである。

そして、これは世界各国の「愛国者」たちも、まったく同じなのだ。

もちろん、少し頭のいい愛国者なら「日本が世界一すばらしいなどとは思わない。事実、日本には、今も昔も多くの問題点や難点があるだろう。だが、私はそれを承知で、あえて日本を愛するのだ。日本に生まれた人間として、日本をその欠点も含めて愛するのだ。親が、障害を持った子をも愛するように、私は日本を愛するのであって、自分の子が、世界一の美貌の持ち主だなどと勘違いするような、愚かな親バカ、親の欲目の持ち主などではない」と主張するだろう。

それならば結構。
そんな愛国者であれば、日本の問題点や欠点や難点が見えているのだから、日本のために、それを正していこうとするだろう。
不出来な子供であっても、その愛のゆえに、少しでも立派に育て上げようと考えるだろう。

それこそが「真の愛情」であり、それが自国に向けられたものこそが「真の愛国心」なのだ。
当然「親バカ」「溺愛」「親の欲目」「子供依存」めいた「愛国心」は、自堕落で愚かなものでしかない。それは、子供(国)を歪めるだけの「毒親(毒国民)」でしかない。

したがって「真の愛国者」ならば「日本人なら日本を愛せ。日本を愛すなら、日本を批判するな、全肯定せよ」などという、寝ぼけたことを言うはずもないのである。

そんなわけで、本書で著者が語っているのは「たまたま日本に生まれ育ったからと言って、盲目的に日本を過大評価するような愛国心など持つ必要はないし、そもそもそんな愛国心は偽物なのだ。しかし、それでも日本を愛すると言うのであれば、日本の美点は美点、欠点は欠点と、客観的に評価した上で、日本をより良くしていくために働く者こそ、真の愛国者なのだ。ただし、権力者というのは批判を嫌うものだから、貴方が国のために善かれと思っての忠言や諫言をしても、喜んではくれないどころか、むしろ貴方を、国に仇なす非国民扱いにして遠ざけようとするだろう。つまり、国は貴方に優しくはしてくれないだろう。それでも貴方は、国のために、愛国心を持って、苦難の道を選べますか?」ということなのだ。

このように、理性的に国を愛せるのなら、それは国に対する「理性的な信仰」だ。

しかし、多くの人の愛国心とは「思考停止の盲信」でしかない。

尊師が「われわれは敵に囲まれて攻撃されている。敵をポアしてきなさい」と言えば、それを鵜呑みにするような態度は「盲信」以外の何者でもない。
しかし「尊師、お言葉ですが、それは間違っていませんか」と言える弟子は滅多にいない。そんなことを言おうものなら、その時から、自分が敵視され、ボアされてしまうかもしれないからだ。

したがって、信じるも信じないも、まずはその対象をしっかりと観察して客観的に評価し、その評価に応じて、適切に関係を結んだり、結ばなかったりするべきだ、というのは、宗教でも国家でも同じなのである。

だがしかし、周知のとおり、「信仰者」というのは、とにかく度し難いもの。
盲信者には、汚いおじさんも、神のごとき人に見えてしまう。それが「信仰」であり「宗教」なのである。
 
 
今の日本は狂信的な国家主義に支配され、間違った愛国主義が叫ばれているために、教育は混乱を極めており、戦前回帰のおぞましい風潮の中で、政治は無責任で社会は規範を失い亡国現象を呈している。この本において著者は「共和主義的パトリオティズム」と「ナショナリズム的パトリオティズム」という、二つのキイワードを活用することで、愛国という心理状態が分析しており、この非理性的な情動の領域の腑分けを行なっており、時宜に適った考察を試みている。
アメリカの独立とフランスの大革命によって、国民国家が登場したことで、国家(State)と国(Nation)が股裂きになり、人々は祖国と故郷の両方を喪失してしまい、国民という奇妙な枠の中に閉じこめられ、その囚人になってしまったのではないか。
古代ギリシアや共和制ローマの政治基盤にあり、ベニスやフィレンツェなどの中世の自由と都市には、「共通善」と結ぶ市民精神があったのに、近代を経て現代になるに従い自由が放縦に置き換わった。そして、大衆社会の出現で「暴政」に対しての批判精神が見失われ、簡単に大衆はポピュリズムの熱気に煽られて、ファシズムや全体主義に飲み込まれ、背広を着た奴隷になってしまった。
かつて「仮面を被った共産主義」として、日本の政治を批判したのは小室直樹博士だが、安倍内閣が「仮面を被ったファシズム」だと、断言しない用心深さが著者にはある。それは世界を舞台に活躍している政治思想史学者だけに、日本という没落中の極東の後進国における、狂った政治問題に関与したくないという、慎重さがあるのかも知れない。
そうであればそうした国に生き、権力を監視する責任を持つ、国内にいる政治学者たちに対して、もっと目を開いて現実を直視しろという、海外からの厳しい批判の声として、本書は読まれて良いのかも知れない。


1.内容
最近の日本における「愛国」は、ナショナリズム的パトリオティズムとして理解されいてる。しかし、本来の「愛国」・「愛国心」とは共和主義的なもので、共通善を重視する。であるから真の愛国者は、日本であるがゆえに盲目的に信じるのではなく、否定的な側面も直視して、それでも愛するものなのである。そしてそれは、一人一人が体現できるものである。このような問題意識の下、昨今の日本社会のはびこる現象を批判する。

2.評価
まず本筋に関係ない短所を。p118「(5)批判の作法」の一部の内容には賛成しない。公の場で表現するから批判されるのは当然の上に匿名批判ゆえしがらみにかかわりなく評価できる面があるからである。

それを除けば、レビュアーの読書経験の限りではあるが、愛国についての的確な書物だと思った。著者が批判(否定的に評価)する「〈ナショナリズム的パトリオティズム〉」(p52)、「ぬくぬくナショナリズム」(p180)などについて、自らを省みれば、読者にとって有益と思われる穂で、星5つとする。


「国を愛するということ」について良い勉強がきました。ただ、「日本国民のため」だけの教科書に留めておくには勿体ない、他国の人にも読んでもらいたい内容なので、英訳の出版が望まれます。お隣の国の人たちにとっても有益な教科書の一つになるでしょう。英語版書名は『日本国民と諸国民のための愛国の教科書』でいかがでしょうか。

 

 

 


黒い同盟

2019年11月25日 07時18分27秒 | 社会・文化・政治・経済
 
 
 
 米国、サウジアラビア、イスラエル: 「反イラン枢軸」の暗部 
 

内容紹介

地域の覇権を獲得しようとするサウジアラビアの
他国への干渉や国内における人権問題を、
米国が非難することはない。
また、パレスチナ問題においても、
「イスラムの盟主」を任ずるサウジアラビアが、
米国に異を唱えることもない──。
「反イラン」を軸に形成される“黒い同盟”。
その特殊な関係性の内実を読み解く。

内容(「BOOK」データベースより)

地域の覇権を獲得しようとするサウジアラビアの他国への干渉や国内における人権問題を、米国が非難することはない。また、パレスチナ問題においても、「イスラムの盟主」を任ずるサウジアラビアが、米国に異を唱えることもない―。「反イラン」を軸に形成される“黒い同盟”。その特殊な関係性の内実を読み解く。

著者について

1955年山梨県生まれ。現代イスラム研究センター理事長。83年慶應義塾大学大学院文学研究科史学専攻修了。米国カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)大学院修士課程(歴史学)修了。専攻はイスラム政治史、国際政治。

『現代イスラムの潮流』(集英社新書)、『中東がわかる8つのキーワード』(平凡社新書)、『物語 イランの歴史』『中東イスラーム民族史』(いずれも中公新書)、『石油・武器・麻薬』(講談社現代新書)、『イスラムの人はなぜ日本を尊敬するのか』(新潮新書)、『ナショナリズムと相克のユーラシア』(白水社)など著書多数。

 

著者の宮田氏は中東情勢にかなり詳しい方ではあるようだが、とにかく文体と文章の流れが悪く、急に別の国の話になったかと思えば、また前章の内容の続きに戻ったりしており、ブツ切れの話が延々に続く。読者への配慮があまりないと思われる文章で読みにくくてなかなか進まない。

同じ分量を同じテーマで読むのならば、若干イデオロギー的な偏りはあるが、高橋和夫氏の『イランvs.トランプ』(ワニブックス)をお勧めする。高橋氏の著作の方は分かりやすく流れがつかみやすいが、『黒い同盟』は大変読みづらい本である。


本書の趣旨はどちらかと言えばサブ・タイトルに近く、アメリカを中心としたサウジアラビア・イラン・イスラエル・トルコ・シリア又は中東地域を取り巻く現況及びこれまでの歴史的背景或いは政治的・軍事的変遷であり、

本稿レビュー・タイトルに言うような中東の“混迷”又は“混沌”の政治・軍事的状況の現代史と見るべきだろう。「商品の説明」には、「『反イラン』を軸に形成される“黒い同盟”。

その特殊な関係性の内実を読み解く」とあるが、その本質はサブ・タイトルにある「米国、サウジアラビア」を中心とした現代史にあると言って良い。

具体的には「911」事件前後から一部では囁かれていたサウジアラビアの政治的立ち位置を主題論旨として、先ずは昨年10月の在トルコ(イスタンブール)のサウジアラビア総領事館での同国人ジャーナリストの殺害事件から紐解くが、前半部の論旨の錯綜?を観ると些か本書一冊だけでは詰め込み過ぎではないか?との印象も覚える。

本書は前記「殺害」事件(「はじめに」)を皮切りに、湾岸戦争、イラク侵攻、“911事件”前後の諸国間の関係性変遷等、アルカイダ、アフガニスタン侵攻、パキスタン関連事情、IS、シリア内戦、イラン核問題等のほか、これらにまたがってイスラエル紛争(パレスチナ紛争、ヨルダン川西岸・エルサレム東地区問題等)、

いわゆる「アラブの春」(民主化紛争)迄もトピックとしており、私見を言えば中盤まで(4章終りまで)は些か論旨・論脈の把握に苦労する考察(特にサウジアラビアに関する政治的歴史性・外交的戦略性の錯雑)が続くなど、私の理解力不足は否定しないが些か混乱すら覚える論旨もある。

例えば「米軍が1952年から96年まで使用したサウジアラビア東部のダーラーン基地は、中東における米軍の兵站の中心となり…

湾岸戦争で重要な役割を果たした」(66頁)とある一方で、「サウジアラビアには、イスラエルとの同盟関係を強調する米国と軍事的に親密な姿勢を見せることはとうていできなかった…

親米路線とアラブ・イスラム世界にある反米感情の間での舵取りをしなければならなかったが、その姿勢は既述の1973年の米国などに対する石油禁輸にも表れた」(75~6頁)とあって、それだけ事実関係に錯綜があったと観ることも出来るが、同時期のサウジアラビアに対する著者の理解・把握に整合性が見えにくい論旨とも受け取れる。

後半(5章以降)のトピックでは、現実的・歴史的にも、イラン・シリア等とサウジアラビア・アメリカとの対立軸が明確化することもあって、著者の論旨も宗教的教義に留まらず政治的・内在的問題(民主化等)、オイル・マネーと利権、中東世界における安全保障政策に係る武器需要と供給等、これらの総合的な利害関係の一致等に表象される『黒い同盟』の本質が整然と明らかにされていく論旨である。

但しここまでの折角の検証的論旨も『黒い同盟』に対する単調な“批判”に留まり、中東のあるべき状況又は安全保障上・国際軍事的力学上の多種多様な問題を抱えるこの地域に石油の多くを依存する日本の外交政策等については、「米国が強調する脅威については慎重に構えたほうがいい」(257頁)、又は「日本は米国の、特に中東での戦争を冷静に見つめてほしい」(263頁)等とするだけで建設的な提案は見えない。

尤も、中東を巡るオイル・利権、宗教的教義上(イデオロギー)からの政治的・軍事的対立、イスラエル建国も併せた欧米等の関与・紛争等は今に始まったわけではなく、限られた言葉で単純に語り尽くせる次元にはないと言うべきだろう。

そうした意味では、本書における中東和平の現実的困難性(現状の錯綜・錯雑性)を窺わせてくれる副次的効果は評価される。


誘拐容疑者、女児に銃弾見せる? 食事は1日1食

2019年11月25日 07時11分54秒 | 野球

 大阪市住吉区に住む小学6年の女児(12)が行方不明になり、栃木県小山市で保護された事件で、未成年者誘拐容疑で逮捕された自称派遣社員、伊藤仁士容疑者(35)=同市=が、女児に鉄砲の弾のようなものを見せていた疑いがあることが捜査関係者への取材でわかった。

【写真】JR東京駅に到着した伊藤仁士容疑者=2019年11月24日午前9時29分、田辺拓也撮影

 捜査関係者によると、23日に保護された女児は栃木県警に対し、伊藤容疑者の自宅に連れ込まれた後、鉄砲の弾のようなものを見せられ、怖くなったと話したという。

 大阪府警捜査1課の説明では、女児は伊藤容疑者宅に着いた17日夜以降の生活状況について「食事は1日1食ぐらい」「風呂は2日に1回ぐらいだった」とも証言したという。

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誰が科学を殺すのか

2019年11月25日 06時53分06秒 | 社会・文化・政治・経済
 
科学技術立国「崩壊」の衝撃 
 
 
 
 
 

 

「差別はいけない」とみんないうけれど。

2019年11月25日 06時46分01秒 | 社会・文化・政治・経済
 
 

内容紹介

 

セクハラや差別が跡を絶たないのは、「差別はいけない」と叫ぶだけでは、解決できない問題がその背景にあるからだろう。反発・反感を手がかりにして、差別が生じる政治的・経済的・社会的な背景に迫る。「週刊読書人」論壇時評で注目の、気鋭のデビュー作。

【詳細内容紹介】

足を踏んだ者には、踏まれた者の痛みはわからない。「足を踏まれた! 」と誰かが叫び、足を踏んだ人間に抗議するのは当然である。しかし、自分の足は痛くない私たちも、誰かの足を踏んだ人間を非難している。「みんなが差別を批判できる時代」に私たちは生きている。だから、テレビでもネットでもすぐに炎上騒ぎになるし、他人の足を踏まないように気をつけて、私たちは日々暮らしている。このような考え方は、「ポリティカル・コレクトネス(ポリコレ、PC、政治的正しさ)」と呼ばれている。けれども、世の中には「差別はいけない」という考えに反発するひともいる。ポリコレはうっとおししい……正しさを考えるだけで息が詰まる……ハラスメントだってわざとやったわけじゃない……。セクハラ、パワハラは無くすべきだし、ヘイトスピーチを書き込んではいけない。それは大前提だ。しかし、ポリコレへの反発・反感が存在するのにはそれ相応の理由があるはずだ。みんながポリコレを自覚して、合理的に行動すれば、差別はなくなるのだろうか。もっとも人間はそんなに賢い生物ではないかもしれない。セクハラや差別が後をたたないのは、「差別はいけない」と叫ぶだけでは、解決できない問題がその背景にあるからだろう。本書は反発・反感を手がかりにして、差別が生じる政治的・経済的・社会的な背景に迫っていきたい。

【目次】
まえがき
みんなが差別を批判できる時代
第一章 ポリティカル・コレクトネスの由来
第二章 日本のポリコレ批判
第三章 ハラスメントの論理
第四章 道徳としての差別
第五章 合理的な差別と統治功利主義
第六章 差別は意図的なものか
第七章 天皇制の道徳について
あとがき
ポリティカル・コレクトネスの汚名を肯定すること、ふたたび

著者について

 1988年大阪府生まれ。元出版社勤務。詩と批評『子午線』同人。論考に「谷川雁の原子力」(『現代詩手帖』2014年8-10月)、「原子力の神──吉本隆明の宮沢賢治」(『メタポゾン』11)、「真の平等とはなにか? 植松聖と杉田水脈「生産性」発言から考える」「『みんなが差別を批判できる時代』に私が抱いている危機感」「大炎上したローラ『辺野古工事中止呼び掛け』をどう考えればよいか」(以上三篇、いずれも「現代ビジネス」講談社など。

「連続トークイベント 今なぜ批評なのか──批評家・綿野恵太が、12人の知性に挑む」開催中。「オルタナレフト論」を連載中(晶文社スクラップブック)。

 

ポリコレによって毀損されたマイノリティの権利が、実際にどれだけこの日本社会にあるでしょうか。実際には、マジョリティによって破壊される権利ばかりで、それに社会全体で抗うためのものがポリコレです。
この著者のような、ヘイトスピーチとそれに抗う動きを、同列のように語るのは悪しきDD論(どっちもどっち)の典型です。実社会で起こっている問題、特にいま目の前で誰かの権利が破壊され、それによって誰かの人生が破壊されていることには、何の役にも立ちません。役に立たないどころか、差別者の加担にしかなりません。
確かに批評は、いまの日本社会においては力を失っているように見えます。それは、この著者自身がそれをあらわしているように、大きな力に対抗することを放棄した体たらくな批評家がのさばっているからに他なりません。そのようなひとが、批評のこれからを云々することには、失笑しかありません。
読むに値する本とは到底思えませんが、90年代以降の日本の思想・批評の界隈が陥ったダメポモ(ダメなポストモダン)のタコ壺がこうも根深く浸透してしまい、21世紀ももう20年目を迎えようかという時期に至ってもそこに安穏していられるバカバカしい実例として、いずれは歴史的価値くらいは獲得するかもしれませんので、星をひとつ進呈しようと思います。
著者はもうちょっと、勉強してください。社会で、街で、路上で、実際に起こっていることを、知るべきです。


今さら言うまでもないが、本書は、一応は真摯に差別を克服するために道筋を探っていくれっきとした
社会学概論で、本格的な「ポリコレ」の課題本でもある。何も中立芸を披露しているわけではない。
「差別はいけない」とみんないうけれどーのタイトルで敵認定されるのではないかと書き出しから
懸念してしまう綿野恵太の気持ちもよくわかる。

かいつまんでいうと、綿野は、ポリコレに反発を覚えているひと、平たく言えば差別者の特徴として
マジョリティであること、またはマイノリティなのにマジョリティ扱いをされていること、
見合った報酬(正統な評価)を受けていないこと、理不尽なことに対してものわかりがいいこと、
マイノリティに脅威を感じていること等とたぶん思っている。皮肉なことに保護者的な態度を
取っている(と感じられる)ポリコレ側よりは差別者の方が被差別者を、潜在意識では対等だと
感じているのだろう。
そしてさらに綿野は、差別者を全否定する論者を、「自分は弱者の味方」と自称しながら、
本人の許可を得ずにプライベートを公表することに何の違和感も感じないデリカシーの持ち主
だとも思っている。もちろん全員がそうだというわけではない。
本書の目的は、この徹底的な二元論をどうにか克服したい、ポリコレ論者には自問自答して
もらいながら、差別者にも納得してもらうという前人未到といってもいいぐらいの苦難の道だ。

#Me Too運動から、『新潮45』、『DAYSJAPAN』の休刊、『帝国の慰安婦』をめぐる論争
から天皇制まで、はては因縁のある三浦瑠麗の「スリーパー発言」まで挙げる、気鋭の言論人の
デビュー作にふさわしいその鼻息の荒さは買いたい。
綿野が書評専門誌「週刊読書人ウェブ」からあたため着目していた黙説法は本書の肝の一つであり
「スリーパー発言」につなげる力技にはやや飛躍すぎと思う一方脱帽する部分もある。
また天皇論については、既に多数が指摘している天皇制をめぐる左右の「ねじれ」が生じている
ことへの補足として、綿野は「そのリベラルな姿勢はあくまで日本人の眼から見て好ましいものに
すぎない」と看破した着眼点にも他の言論人が追随を許さないものがある。

とはいえ筆者の読解力では綿野の真意が読み取れない部分もある。
全般的にも「週刊読書人ウェブ」のようにある程度主観を前に出してもらった方が読者は助かる。
鼻息が荒い一方含みを残した言い回しも気になる。はっきり言えば綿野自身も黙説法を使って
いるのだ。


差別はいけないと、誰もが口にする時代。かつての差別を受けた人々の悲痛の叫びは、多様性の低い日本でさえも、決して意識高い系の戯言ではなくなった。それでも先進国アメリカでは、例えばアフリカン・アメリカンの男性たちがフェミニストを批判するような動きも起きている。そう、何かのマイノリティは、別の何かのマジョリティだったりもするのだ。

著者はこの厄介な構造を、カール・シュミットが説いた民主主義と自由主義の対比から、アイデンティティとシチズンシップという定義で整理する。それは言い換えると、共同性と公共性。

元来、部族で暮らす人間は、同質的な集団への帰属意識にアイデンティティを見出す。自分たちと違う集団への攻撃が差別の始まりだ。だから肌の色や性別、信仰の違いで優劣をつけたがる。民主主義はそれぞれの集団の代表を選ぶだけで、彼らの閉じた議論は我々個人の意思とは必ずしも一致しない。

だからこそ自由主義への変革が求められる。そこでは市民としての個々人が主役となる。しかし勿論これは簡単な話ではなく、自由意志の問題から、責任の重さ、天皇制にまで議論はおよぶ。次の時代を見据えるにあたり、まとまった論考が読み解ける貴重な一冊だ。

一方で政治学者・三浦瑠麗氏とのくだりは、例として適切なのかも知れないが、些か大げさで、本書の品位を落としているようで残念だ。



 

 





憲法九条は世界遺産

2019年11月25日 06時36分20秒 | 野球
 
古賀 誠 (著)

内容紹介

■内容紹介■
最初の立候補の時から護憲を訴えた。自衛隊を海外に出す法律には処分覚悟で反対した。自分の母も含め無数の戦争未亡人をつくった歴史を二度と繰り返さないためだ。自民党を愛し、安倍首相を尊敬するが、九条改正だけは許さない

■もくじ■
はじめに
一、震災復興への思いと絆の大切さ
二、政治の最も大事な点は 国家と国民に責任を持つこと
三、政治の要諦は平和 ー母親から学んだこと
四、戦争遺族の支援受け平和な国づくりが志に
五、戦争の反省と平和の決意を込めた憲法九条
六、自民党内の改憲論議の問題点
七、政治の貧困が大きな犠牲を生んだ ー戦争の最後の一年
八、靖国神社のA級戦犯は分祀を
九、憲法九条を大事に思う人は協力し合って
あとがき

■著者略歴■
古賀 誠(コガマコト)
1940年8月5日、福岡県山門郡瀬高町(現みやま市)に生まれる。1965年、日本大学商学部を卒業。1980年、第36回衆議院議員選挙で初当選、以後10回連続当選。1992年〜93年、自由民主党総務局長就任。1996年〜97年、第2次橋本内閣で運輸大臣就任、初入閣。1998年〜2000年、自由民主党国会対策委員長。2000年〜01年、自由民主党幹事長。2002年〜12年、日本遺族会会長。2006年、宏池会会長就任(現在は名誉会長)、2007年〜09年、自由民主党選対委員長、2012年政界を引退。

内容(「BOOK」データベースより)

最初の立候補の時から九条護憲を訴えた。自衛隊を海外に出す法律には処分覚悟で反対してきた。自分の母も含め無数の戦争未亡人をつくったこの歴史を二度と繰り返さないためだ。自民党を愛し、安倍首相を尊敬するが、それでも九条の改正だけは許さない―。


「日本国憲法9条第二項によって、日本の国は戦争を放棄する、再び戦争を行わないと、世界の国々へ平和を発信しているのです。これこそ世界遺産だと私は言っているのです。」
あの強面の九州男児が、このような確固とした平和主義を貫いていたとは不勉強にして知らなかった。30分ほどで読める短い本。すべての国民にお勧めしたい。


ダーティなイメージだと思っていた古賀さんでしたが、実はこんなに骨のある方だと初めて知りました。
憲法9条への思い、A級戦犯への合祀問題、集団的自衛権反対、中国、韓国へのお詫びの姿勢、どれを取っても現政権と真っ向から対立する主張です。
でも、二度と戦争はしてはいけない、と言う根源的な部分で古賀さんの言っていることに反対を唱えられる人はいないはずです。
アメリカと一緒に派兵をする、北方領土、尖閣諸島を取り戻すには戦争するしかない、などと言っている議員が出てきている現状、憲法改正に突き進もうと言う内閣がいることに対して、大きく立ちはだかろうとしている古賀さんの心からの叫びがこの本には込められています。
今だからこそ、全ての議員、全ての国民に読んで欲しい本です。


古賀誠氏が政治家を志した原点は、憲法9条を守り抜き、貫くことが私の使命。「それだけを言おうと思って国会に出てきた」「私の一番大事な仕事は、わが国が永久に平和であるために努力すること」との誠実で人間味あふれる信念に感銘。しかも「私はこれまでも、自衛隊が戦争することにつながるものには、すべて反対してきました。やはり、針の穴であっても一つ開いたら、ゆくゆくはおかしいところにいってしまうのです」と使命を貫きとおしてきた柔軟な発想と強靱な信念に感動。
 その根底には、父親が33歳、2度目の出征でルソン島で戦死、残された2歳の古賀氏と姉の生活を支えるため母親は行商に出て懸命に働き、古賀氏は寝ている母親の記憶がない、大阪で1年間、丁稚奉公で「人間修行」、地元の国会議員に飛び込みで書生としての4年間、秘書としての12年間が政治家の基礎を作った、体当たりの人生がある。それゆえ政治家の世襲に感心できない。政治の要諦は平和ー母親から学んだこと、政治の最も大事な点は、国家と国民に責任を持つこと。
 政治と政治家のあるべき姿を、自らの体験を踏まえて率直に語るこの本は、現在の「政治の貧困」を生んでいるのは私たち国民自身の責任であり、政治について改めて考える絶好の本です。


日本国憲法に対しての思いが伝わります。やはり過去の戦争を体験した方にしかわからない思いなのかもしれませんが、当時を知る私の母や親戚の話を聞いたり映画や新聞など関連記事などを見るたび、現在を生きる国民がもっと過去の戦争について学ぶ必要があると思いました。また、戦争を体験した当時の方達がどのような思いで現憲法を生み出したのか学ぶべきだと思います。単純にGHQに押し付けられたわけではないことも関連の書籍を読めばしっかり書かれていることを知るべきだと思います。
私も今の政府が周辺国の脅威や米国との関係などから憲法9条の改正に意欲を示していることが怖く感じます。
政府が言う憲法改正の必要性について何回もテレビや新聞、ネットの報道で見せられているうちに、国民の中に刷り込みが進んでいっているのではないかと心配になります。
ページ数があまり多くないだけに、本の苦手な方でもあまり時間をかけずに読み切れると思いますので、特にこれからの日本を生きていく若い方達に読んでもらいたいと思います。


改めて憲法九条を遵守すべきとの覚悟が理解できた。憲法が発布された時期には大部分の国民が賛同したはずだ。「人生100年時代」と言われているこの時代、「憲法100年時代」であるべきだと国民も学者も政治家も再認識すべきだ。


毎日新聞2019年9月28日付朝刊1面下段の広告欄で本書をみつけ、興味を持ちました。なんと新聞本編にも本書の紹介記事がありました。
古賀誠さんの声質や語り口ははっきりとは覚えていませんが、まるで講演会場にいるようにその語りにぐいぐい引き込まれ。ページがどんどん進みます。何かと指導し後押ししてくれた先輩政治家として野中広務さんの名前がしばしば登場しますが、さもありなん、と感じます。私は正味1時間位で読み切りました。
最初か最後に付録・資料として日本国憲法九条の条文を載せてくれたら、更に良かったと思います。私は同じかもがわ出版の「檻の中のライオン」から書き出しました。



 自由民主党の元幹事長であり、過去10年にわたって日本遺族会会長の座にあった古賀誠氏の新著です。
巻頭で安倍政権の「成果」を高評価(?)しながらも、
「わが国が抱えております政府債務は約一〇〇〇兆円であります。大規模な金融緩和による低金利に支えられた膨大な借金によって、機動的な財政出動が、わが国の経済を下支えしています。金融緩和にはいずれ出口がやってまいります。」
と述べて清濁合わせ飲む老獪な政治家ぶりを見せつけてくれます。
しかしそういう迷路のような「生ぬるい話」は出だしだけでおしまいになります。
これ以降は、自分が戦争で父親を失ったこと、遺児二人を抱えた母親は行商で生活を支えてくれたこと、住み込みで人間修行したこと、戦争遺族の支援を受けて平和な国づくりが志になったことなどが語られております。
さらに「政治家の世襲に感心できない」と述べ、「少しでも憲法九条改正につながるようなことは針の穴程度でもやってはダメなのです。」「理想を実現するために政治は存在する」と氏は論じます。氏はまさに日本の宝であります。
実はこの本は頁数こそ少ないのですがハードカバー角背(HPの「ソフトカバー」表記は間違い)の上製本なのです。カバーや本文中の挿画は「おちあいけいこ」とあります。落ち着いた作風ですが、まさかあのレモンちゃん?
この本は一家に一冊家族で回し読みがふさわしいかと思います。


『憲法九条は世界遺産』(古賀誠著、かもがわ出版)からは、平和を願い、絶対に再び戦争をしてはいけないという古賀誠の熱い思いがひしひしと伝わってきます。

古賀の心の根底には、戦争未亡人として、貧困の中で苦労しながら育ててくれた母への感謝の念が存在しています。

「父親は姉と私を残して、私が2歳のときに2度目の出征をいたしました。33歳のときであります。そして、二度と帰らぬ人となりました。・・・父が出征したあと、母親の命がけの人生が始まりました。・・・残念ながら農家ではございませんので、食べていくのに一番手っ取り早いのが、隣近所を歩いて行商に出るということでした。母親は、私が物心ついたときから行商に出ていました。・・・食を得るために、隣村や隣町へ自転車の荷台にいっぱいの乾物などを積み込んで、一軒一軒訪ねて歩いてくれたものです。そういう環境の中で私は少年時代を過ごしました」。

「自転車に売り物を乗せて行商するのですが、自転車が転がせないようになる60歳前後まではやっていました。足腰が弱ったあとは自宅の前に小さな乾物店を開いて、(私が)国会議員になってもずっとその店を続けていました。82歳で亡くなりましたが、最後まで小さな店で座って店番をしていました。母親から学んだのは、その生きざまです。『自分は自分でできることの範囲内で生きていくのだ、他人にご迷惑をかけない』というものでした」。

「『なぜ日本の国は戦争をしたんだろうか』『なぜこういうつらい思いをする母親の背中を見なければいけないのだろうか』。それが私の思いです。私の小学校、中学校の頃は大きな志や目標というものを持つことはありませんでした。しかし、『貧乏はイヤだ。こんなに一生懸命に働かなければいけない母親の姿を見るのはイヤだ』ということだけは、私の心の中から消えることのない想いであります」。

古賀の憲法九条に対する考え方に、私は全面的に賛成です。

「この(衆議院)選挙によって、いくつも学ばせていただきましたが、一番学んでことは、貧乏で寝る暇もないような苦労をしたのは、私の母親一人ではなかったことです。私の応援をしていただいたあのおばさんも、隣の奥さんも、聞いてみると全員戦争未亡人だというじゃないですか。選挙を通じて、戦争がどれだけの多くの命を奪ったのか、戦争というのは、どれだけの多くの不幸な悲しい人たちをつくったのか、そのことが身に染みて理解できました。母親と同じ境遇の人はたくさんいらっしゃったと強く自覚することができました。・・・何がご恩返しになるかは明らかです。多くの方との交わりの中で、こういう戦争未亡人を再び生み出さない平和な国をつくりあげていくことが政治だろうと肝に命ずることです。・・・だからこそ、私の(政治家として)一番大事な仕事は、わが国が永久に平和であるために努力することになりました。それこそが私の責務なのであります。これが私の原点ですから、靖国神社の(A級戦犯は分祀すべきという)問題とか憲法九条の問題というのは私のすべてなのです」。

「私は『憲法九条は世界遺産だ』と申し上げています。・・・あの大東亜戦争に対する国民の反省と平和への決意を込めて、憲法九条はつくられています。憲法九条一項、二項によって、日本の国は戦争を放棄する、再び戦争を行わないと、世界の国々へ平和を発信しているのです。これこそ世界遺産だと私は言っているのです。・・・あの大東亜戦争で、多くの人が無念の思いで命をなくし、その結果として、子どものために人生のすべての幸せを捨てた戦争未亡人はじめ多くの戦争遺族の血と汗と涙が流されました。その血と汗と涙が、憲法九条には込められています。そう簡単に、この憲法九条を改正する議論をやってもらっては困るし、やるべきではないと思うのです。私の母親もそうですが、戦争で未亡人になった人が全国に何百万人といて、幼い子どもを抱えて苦労しておられた。そういう人たちが報われるような国にする道は何かといったら、平和憲法を守って戦争をしない国であり続けることが一番大事ではないですか。だからそのために私は国会に出てきたのです」。

後藤田正晴、野中広務、古賀誠と、保守政治家の中に脈々と息づいてきた平和憲法を守ろうという姿勢が途絶えてしまわないか、心配です。

「野中先生の政治家としての力量、能力には遠く及びませんが、私も、たった一回の人生で政治という厳しい道を選んだ一人として、『先生のような政治家としての生きざまを貫きたい』――常々、そう願って野中先生の後を歩いて32年、政治活動を続けさせていただくことができました。そしてそのことを、本当に誇りに思います」。

「野中先生も言っておられましたけれども、やはり針の穴であっても一つ開いたら、ゆくゆくはおかしいところにいってしまうのです。後藤田正晴先生も仰っていたように、戦争にかかわる風穴は小さな穴でもあけたらどんでもないことになってしまう危険性があるのです」。

「ありがたいことに、私が属する宏池会という政策集団は、九条を守ろうという志を持ってきました。宮沢喜一さんも護憲論者、大平正芳さんも護憲論者、田中六助さんも護憲論者。その流れを汲んでいるのが宏池会です。派閥は違いましたが、後藤田正晴さんもまったく同じ立場でいてくれました。・・・自民党の中で戦争を知っている世代、戦争を経験して戦後を生きてきた人たちが政権の中枢にあるときは、憲法問題についての議論は起きてきませんでした。しかし、そういう人たちがいなくなったときに、平和憲法を変えるという大きな議論が起きてくるのが心配だというのが、先輩たちの遺訓です。後藤田正晴さんに代表される、ある意味では野中広務先生にも代表される遺訓であり、みんなが持っていた危機感です」。

「信念、そしてあの憲法九条に込められた決意と覚悟、これさえしっかり持てば、日本はよその国と同じような道を歩く必要なない。これが私の結論なのであります。だから世界遺産なのです。私は日本の宝として後世の人たちへの贈り物として、守り抜いていくために、ここはしっかりとがんばり抜きたい」。古賀だけでなく、私たちもがんばらねばなりません。

「そもそも『憲法九条改正』など、ときの権力者が言うことではありません。憲法は国民のものなのです。憲法は権力者の権力行使を抑制するための最高法規です。私は安倍総理の評価すべきところは評価すべきとは思いますが、憲法の『九条改正』についてはあまりにも拙速すぎると不安です」。正に、至言です。

本書を読んで、古賀誠という政治家を心の底から好きになってしまいました。



 
 

大阪・小6女児誘拐事件

2019年11月25日 05時28分36秒 | 社会・文化・政治・経済

「男はスマホ・靴を取り上げ」逃走阻止が狙いか

11/24(日) 関西テレビ

大阪市で行方不明になっていた女の子が23日に栃木県で保護され、35歳の男が逮捕された事件。男は女の子のスマートフォンや靴を取り上げていたことが分かりました。

うつむき加減で新幹線に乗り込む男。栃木県小山市の自称・派遣社員、伊藤仁士容疑者(35)は24日、大阪府警察本部に移送されました。

大阪市住吉区に住む小学6年の女の子を誘拐した疑いで23日に逮捕された伊藤容疑者。警察によると今月10日、SNSで「半年前に来た女の子がいる。しゃべり

相手になってほしい」などとメッセージを送って女の子に接触。今月17日には女の子の自宅近くの公園に誘い出し、栃木県小山市の自宅まで連れ去ったとみられます。

近くに住む人は当時、公園で不審な男を見たと話しています。
【不審者を見た女性は…】
「見渡してたから、目が合うと違う方向に行ったりするから、変やなって思ったのが記憶に残ってるんですよ」

警察によると伊藤容疑者は、小山市の自宅まで連れ帰った後、逃走防止を図るためなのか女の子のスマートフォンや靴を取り上げたということです。

【記者リポート】
「午後2時40分です。女の子を誘拐した伊藤容疑者の自宅に警察が捜索に入ります」

23日午後1時半ごろ、女の子は小山市内の交番に助けを求め、警察が伊藤容疑者の自宅を訪ねたところ、茨城県の女子中学生(15)も発見され、保護されました。

【容疑者の中学時代を知る人は…】
「剣道に打ち込んでいて、模範生徒で表彰されるぐらいにまじめ」
【近所に住む伊藤容疑者の同級生の母親】
「バイトとか行ってて。いろいろやってたみたいだけど。働いているのかどうなのかなっていうのはもう何年も…」
【容疑者自宅の近隣住民は…】
「平均すると、週1くらい(見る)。だいたい夕方。午前中は見かけないが、夕方に出かけてすぐ帰って来る」

女の子にけがはなく、24日に家族と無事に再会。FNNの取材に対して女の子の母親は「娘との生活まで相当な日を要すると思いますが、しっかりとケアしてあげたいと思ってます」とコメントしました。

警察の調べに対し伊藤容疑者は「誘拐しようとしたわけではない」と容疑を否認していて、警察は動機などを詳しく調べる方針です。

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