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ジェイン・オースティンの姉のカサンドラによる肖像画を元にした銅版画
ジェイン・オースティン(Jane Austen 英語発音: [dʒeɪn ˈɔːstən /ˈɑstən]、1775年12月16日 - 1817年7月18日)は、イギリスの小説家。イングランド南岸部ハンプシャーのスティーブントン生れ。Janeを「ジェーン」、Austen を「オーステン」とカナ転写する場合もある。
18世紀から19世紀のイングランドにおける田舎の中流社会を舞台として、洞察力に裏打ちされた解釈で女性の私生活などを結婚を中心として皮肉と愛情を込めて描いた。
その作品は近代イギリス長編小説の頂点とみなされており、英語における自由間接話法(描出話法)の発達に大きく貢献したことでも知られる。
生涯
スティーブントン時代
1775年12月16日に、ハンプシャーのスティーブントンの牧師館で生れた。牧師である父のジョージ・オースティン(1731年 - 1805年)は9歳で孤児となったが、伯父のフランシス・オースティンに助けられ、オックスフォード大学に入った。
妻のカサンドラ(1739年 - 1827年)との間にはジェインの他に6人の兄弟と姉がおり、長兄のジェームズは父と同じくオックスフォードに入り詩などを発表していて、ジェインに影響を与えた。
次兄のジョージについてはあまり伝えられておらず(言語に障害があったらしい)、三兄のエドワードは裕福な家の養子に入り、四兄のヘンリーもオックスフォードに入っている。
五兄のフランシスと弟のチャールズは、共に海軍に進み提督にまで昇進した。姉のカサンドラとは生涯を通じて非常に親密な関係を保ち続けている。
ジェインを描いたものと公式に認められている肖像画は、ロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリーに収められたカサンドラの手による彩色スケッチのみである。
しかしながら、等身大の彩色画をジェインの一族が所蔵しており、これは10代の頃のジェインを描いたものとも言われている。
1783年にカサンドラとともに知り合いのもとへ預けられ、短期間ではあるがオックスフォードおよびサウサンプトンで教育を受けている。
1785年から翌年にかけてはバークシャーのレディングにあるレディング修道院女子寄宿学校で学んだ。当時一般の少女よりも充実した教育を受け、この間に多くの文学作品に触れ、英訳されたゲーテの『若きウェルテルの悩み』も読んだという。
1789年には早くも小説の原型を書き始めるようになったが、これは友人や家族に読み聞かせて喜ぶためであった。小説は3冊のノートにまとめられているが、2冊目にある「愛と友情」などには、すでに特色があらわれている。
1795年、書簡体形式の「エリナとメアリアン」を、翌年には「第一印象」を書いた。
父は「第一印象」の出版を打診する手紙を出版社に送ったが断られた。1797年11月、「エリナとメアリアン」を下敷きとして「分別と多感」を書き始める。
さらに、のち『ノーサンガー・アビー』となる「スーザン」にも取りかかり、1803年にはクロスドー社に売った。しかし生前は出版されず、死後『説得』とともに出版された。
バース、サウサンプトン時代
オースティンの私生活にはほとんど変化がみられない。1801年にジョージはジェームズに牧師職を譲り、一家は当時から著名な保養地であったバースへと移った。オースティンはこのことを聞くと卒倒したというが、バースでの経験は後に小説を書く上で大きな糧となった。
ここで一家が過ごした家屋は現存しており、その近くにはジェイン・オースティン・センターがある[注釈 2]。この時期に「ワトソン一家」を書いたが、放棄されてしまう。
1801年夏、一家でデボンシャーを訪れた際、生涯唯一の恋をしたといわれる。
相手はトーマス・ルフロイといい、晩年その旨を語っていたという。
また1802年にはハリス・ビッグ=ウィザーという人物からプロポーズされた。彼は裕福な若者であったが、「大きくて不器用な」性格をしており、彼女より6歳年下であった。
未婚の女性は一生父や兄弟に頼って生活しなければならなかった当時のイギリスの中流階級において、この申し込みはまたとない機会であった。オースティンは一旦プロポーズを受け入れたが、翌日には断りの返事をした。
1805年1月21日に父が死去すると、オースティンと母と姉の3人はサウサンプトンのカッスル・スクエアの五兄フランシスの家でしばらく平穏に暮らした。
チョートン時代
オースティンが晩年8年間を過ごした家屋。現在博物館として使用されている
妻を亡くした三兄エドワードの勧めで1809年にチョートンへと移る。エドワードの妻は裕福で、所有していたコテージで生活するようになった。この家は現在ジェイン・オースティンズ・ハウス博物館として一般に開放されている。
1811年、「マンスフィールド・パーク」を起稿し、さらに『分別と多感』を匿名で出版。
さらに1813年1月には「第一印象」をもとにした『高慢と偏見』を出版した。
なお、作品はすべて匿名で発表され、親しい者にも明かさなかった。
1814年5月には『マンスフィールド・パーク』を刊行するが、読者や文壇からジェイン・オースティンという名前が知られることはなかった。だが1815年10月、『エマ』の出版直前に、偶然が重なり摂政王太子ジョージ(のちのジョージ4世)にもてなされた。王太子はジェインの作品の愛読者であり、そこで急遽『エマ』が献呈されることとなった。
1816年になるとオースティンは体調を崩しがちになり(現在ではアジソン病に罹患していたと考えられている)、病状は一進一退を繰り返し、翌1817年5月には療養のためハンプシャーのウィンチェスターへと移ったが、その2か月後の7月18日に死去した。
その亡骸はウィンチェスター大聖堂に葬られ、1818年に『ノーサンガー・アビー』と『説得』が出版された。