友人とのドライブの思い出

2022年11月15日 14時13分28秒 | 日記・断片

当方は、自動車免許を持っていない。
遠出する時は、友人頼みである。
同年代の寺田さんとは、何度も筑波山の東側の山道を越えて、福島方面まで行った。
茨城県小町街道(小野小町が越えたとされる峠道)
山道は曲がりの連続で、くねりにくねっていたので、「対向車が来るのでは?」と常に身の危険を感じるほど気をもんものだ。
時には、道に迷いに迷った末に、いつの間にか花貫渓谷へさ迷い込む。

奥入瀬渓谷を想わせる景観に寺田さんとともに感動する。

あいにくカメラを持参していないので、携帯電話のカメラで景色を映した。

それが錦秋に染まる北関東屈指「花貫渓谷」であることを後日、知る。

実は、11月12日(土曜日)長男の運転で、「花貫渓谷」へ行くが、午後7時過ぎでライトアップの景観。

うっかりして、スマートフォンの電源が切れていて、映像を写すことはできなかった。

充電が足りなかったことを悔いることに。

そのため、竜神大吊橋の景観の映像も残せなかった。

街灯もなく、道は真っ暗やみで懐中電灯を持参する人も多かった。

スマートフォンの灯りで道を行く人も居た。

「こんなに、星がたくさん見える」と空を見上げる人々。

その星座群へカメラを向ける人も。

動画リンク

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茨城県土浦市小野は、平安時代の歌人、絶世の美女とうたわれた小野小町(おののこまち)の墓(五輪塔)が残ると伝えられる小町伝説の里。

土浦市小野に残る伝承では、小野小町は京から奥州に下る途中、清滝観音から北向観音(現・石岡市小野越)へと向かう途中で(あるいはその帰途に)病に倒れ、元慶7年(883年)7月7日、亡くなったとされています。

近隣の山

宝篋山 (461m) ほうきょうさん

小町山 (361m) こまちやま

尖浅間 (315m) とがりせんげん

深間山 (450m) 

鬼越山 (372.29m) 

花貫渓谷
花貫渓谷

高萩市にある渓谷でモミジの名所として知られています。
特に汐見滝吊橋(長さ60m)を囲む紅葉は美しく、紅葉の時期にはたくさんの人が訪れます。

汐見滝吊り橋⇔駐車場 約1.5km・徒歩約20分

紅葉の見頃 11月初旬~中旬頃
紅葉の見所 汐見滝吊り橋
所在地 茨城県高萩市大野地内

 


 



 

 
 
 

 


心が強い人が幸福の人なのだ

2022年11月15日 12時43分41秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▽希望がなければ、自ら希望をつくろう。
闇が深いほど、自分が太陽として輝こう。
常に強く強く朗らかに!

▽試練に応戦してこそ、価値創造の力が漲る。

▽若者が勇んで進めば、希望の波動が起こる。

▽誰もが無限の可能性を持つ。
地道に、<種子>を発芽させ成長させるのは、地道で粘り強い努力だ。
自らが抱く夢の実現へ、きょうも不屈の一歩を刻みたい。

▽人間力を高める努力によって、<心の財(たから)>は積まれていく。

▽長い間、不幸に慣れてきた人には、あきらめの<負>が身についてしまっている場合がある。
しかし、誰もが可能性を秘めている存在であり、卑下する必要などない。
悩み、苦労しながらも、あきらめずに突き進むことだ。

▽自身の使命を自覚して、どんな環境でも、最後までやり遂げるのだ。

▽何をするにせよ「人のせい」や「環境のせい」にする弱さがあるかぎり、希望の道は開けない。
まず、「全部、自分で決まるのだ」「自分が強くなるのだ」と、決意することだ。
それもしないで、グチを言っているだけなら、あまりにかっこ悪い。
私たちは、人生ドラマに「勝つために生まれてきた」のだから。
夢に向かって、がんばってもらいたい。

▽十代、二十代でできなければ、三十代で挑戦すればいい。
人生はこの繰り返しだ。
強くなることだ。
心が強い人が幸福の人なのだ。

▽「君は人のために祈ったことはあるのか?」稲盛和夫さんが社員の一人に尋ねた。
「祈る」ということは、人間にしかできない崇高な行為でもある。
祈りは、自身に内在する<本源の生命の発露>であり、力の源泉ともなる。

▽祈っても、叶わないこともある。
それは、例えば、大地の深いところに埋まっている宝を取り出そうと必死に堀ったけで、硬い岩にぶっかって、たどり着けないようなものだ。
そこで諦めてしまえば、宝を掘り出すことはできない。
貫き通せば祈り(念願)は叶うものだ。


触発がある―人と人との絆

2022年11月15日 12時25分25秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▽有能な人は常に学ぶ人―ゲーテ

▽青年は、遠大な理想をいだき足元から実践することだ。

▽勇気と信念の人がいて、新しい道が開かれる。

▽悩み、苦闘する人にとって、安心して集える場所があることが、希望の灯台(光)そのもである

▽水俣病<人間のおごりに原因があった>。
利益追求、生命軽視の加害企業・チッソは、有機水銀を含む自社工場からの排水が水俣病の原因であること知っていたにも関わらず、その事実を隠蔽し、さらに政府は過度に問題視しなかった。
多くの被害者たちは病苦と貧困と社会的差別の中で、1953年から1968年まで放置され、本来なら救われる命も無視され続けられた。
最終的、人間生命の奥深く潜む<闇>を浮き彫りにしたのだ。

▽触発がある―人と人との絆。
躍動する「今この瞬間」の生命と生命の出会いによってこそ、胸打つ人生ドラマは紡がれるものだ。、


映画 ジェイン・オースティン 秘められた恋

2022年11月15日 08時02分50秒 | 社会・文化・政治・経済
11月14日、午前1時30分からCSテレビのザ・シネマで観た。
 
ジェイン・オースティン 秘められた恋
 

あらすじ・解説

1795年、イギリス。オースティン家の次女ジェイン(アン・ハサウェイ)は、裕福で家柄のいい相手との結婚を望む両親に迫られ、地元の名士レディ・グリシャム(マギー・スミス)の甥(おい)との結婚をしぶしぶ検討。

しかしそんな中、ジェインはロンドンで法律を学ぶ知的なアイルランド人青年トム(ジェームズ・マカヴォイ)と出会う。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
  この記事の項目名には以下のような表記揺れがあります。
  • ジェーン・オースティン
ジェイン・オースティン
Jane Austen
Watercolour-and-pencil portrait of Jane Austen
 
1810年頃の肖像画
誕生 1775年12月16日
イングランド、ハンプシャースティーブントン牧師館
死没 1817年7月18日(41歳)
イングランド、ハンプシャーウィンチェスター
墓地 ウィンチェスター大聖堂
教育 レディング修道院女子寄宿学校
活動期間 1787年から1809–11年
サイン Signature from Austen's 1817 will
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ジェイン・オースティンの姉のカサンドラによる肖像画を元にした銅版画

ジェイン・オースティンJane Austen 英語発音: [dʒeɪn ˈɔːstən /ˈɑstən]1775年12月16日 - 1817年7月18日)は、イギリス小説家イングランド南岸部ハンプシャーのスティーブントン生れ。Janeを「ジェーン」、Austen を「オーステン」とカナ転写する場合もある。

18世紀から19世紀のイングランドにおける田舎の中流社会を舞台として、洞察力に裏打ちされた解釈で女性の私生活などを結婚を中心として皮肉と愛情を込めて描いた。

その作品は近代イギリス長編小説の頂点とみなされており、英語における自由間接話法(描出話法)の発達に大きく貢献したことでも知られる。

生涯

スティーブントン時代

1775年12月16日に、ハンプシャースティーブントン牧師館で生れた。牧師である父のジョージ・オースティン(1731年 - 1805年)は9歳で孤児となったが、伯父のフランシス・オースティンに助けられ、オックスフォード大学に入った。

妻のカサンドラ(1739年 - 1827年)との間にはジェインの他に6人の兄弟と姉がおり、長兄のジェームズは父と同じくオックスフォードに入り詩などを発表していて、ジェインに影響を与えた。

次兄のジョージについてはあまり伝えられておらず(言語に障害があったらしい)、三兄のエドワードは裕福な家の養子に入り、四兄のヘンリーもオックスフォードに入っている。

五兄のフランシスと弟のチャールズは、共に海軍に進み提督にまで昇進した。姉のカサンドラとは生涯を通じて非常に親密な関係を保ち続けている。

ジェインを描いたものと公式に認められている肖像画は、ロンドンナショナル・ポートレート・ギャラリーに収められたカサンドラの手による彩色スケッチのみである。

しかしながら、等身大の彩色画をジェインの一族が所蔵しており、これは10代の頃のジェインを描いたものとも言われている。

1783年にカサンドラとともに知り合いのもとへ預けられ、短期間ではあるがオックスフォードおよびサウサンプトンで教育を受けている。

1785年から翌年にかけてはバークシャーレディングにあるレディング修道院女子寄宿学校で学んだ。当時一般の少女よりも充実した教育を受け、この間に多くの文学作品に触れ、英訳されたゲーテの『若きウェルテルの悩み』も読んだという。

1789年には早くも小説の原型を書き始めるようになったが、これは友人や家族に読み聞かせて喜ぶためであった。小説は3冊のノートにまとめられているが、2冊目にある「愛と友情」などには、すでに特色があらわれている。

1795年、書簡体形式の「エリナとメアリアン」を、翌年には「第一印象」を書いた。

父は「第一印象」の出版を打診する手紙を出版社に送ったが断られた。1797年11月、「エリナとメアリアン」を下敷きとして「分別と多感」を書き始める。

さらに、のち『ノーサンガー・アビー』となる「スーザン」にも取りかかり、1803年にはクロスドー社に売った。しかし生前は出版されず、死後『説得』とともに出版された。

バース、サウサンプトン時代

オースティンの私生活にはほとんど変化がみられない。1801年にジョージはジェームズに牧師職を譲り、一家は当時から著名な保養地であったバースへと移った。オースティンはこのことを聞くと卒倒したというが、バースでの経験は後に小説を書く上で大きな糧となった。

ここで一家が過ごした家屋は現存しており、その近くにはジェイン・オースティン・センターがある[注釈 2]。この時期に「ワトソン一家」を書いたが、放棄されてしまう。

1801年夏、一家でデボンシャーを訪れた際、生涯唯一の恋をしたといわれる。

相手はトーマス・ルフロイといい、晩年その旨を語っていたという。

また1802年にはハリス・ビッグ=ウィザーという人物からプロポーズされた。彼は裕福な若者であったが、「大きくて不器用な」性格をしており、彼女より6歳年下であった。

未婚の女性は一生父や兄弟に頼って生活しなければならなかった当時のイギリスの中流階級において、この申し込みはまたとない機会であった。オースティンは一旦プロポーズを受け入れたが、翌日には断りの返事をした。

1805年1月21日に父が死去すると、オースティンと母と姉の3人はサウサンプトンのカッスル・スクエアの五兄フランシスの家でしばらく平穏に暮らした。

チョートン時代

 
オースティンが晩年8年間を過ごした家屋。現在博物館として使用されている

妻を亡くした三兄エドワードの勧めで1809年にチョートンへと移る。エドワードの妻は裕福で、所有していたコテージで生活するようになった。この家は現在ジェイン・オースティンズ・ハウス博物館として一般に開放されている

1811年、「マンスフィールド・パーク」を起稿し、さらに『分別と多感』を匿名で出版。

さらに1813年1月には「第一印象」をもとにした『高慢と偏見』を出版した。

なお、作品はすべて匿名で発表され、親しい者にも明かさなかった。

1814年5月には『マンスフィールド・パーク』を刊行するが、読者や文壇からジェイン・オースティンという名前が知られることはなかった。だが1815年10月、『エマ』の出版直前に、偶然が重なり摂政王太子ジョージ(のちのジョージ4世)にもてなされた。王太子はジェインの作品の愛読者であり、そこで急遽『エマ』が献呈されることとなった。

1816年になるとオースティンは体調を崩しがちになり(現在ではアジソン病に罹患していたと考えられている)、病状は一進一退を繰り返し、翌1817年5月には療養のためハンプシャーのウィンチェスターへと移ったが、その2か月後の7月18日に死去した。

その亡骸はウィンチェスター大聖堂に葬られ、1818年に『ノーサンガー・アビー』と『説得』が出版された。


創作 山口家のお祓い

2022年11月15日 04時31分34秒 | 創作欄

私の父親の真一は次男で、3人兄弟、妹1人の家族構成であった。
長男の幸作は、熱心な天理教の信者であり、長野原の教会長の立場であった。
父親の実家・群馬県吾妻郡六合村赤岩は、山また山の形容通りの山村で急な丘陵の真下にあった。
吾妻川は、魚が住まない「死の川」だった。
上流にある化学工場の工業排水のため、子どもたちは、川で泳ぐことを親たちから厳しく諭されていたのだ。
「継君、川で泳ぐと死ぬよ」都会育ちの私に、従兄たちが言うのだ。
近隣のどこの家も田畑は僅かであり、炭焼きなどで生計を立てていたのである。
あるいは男たちは出稼ぎで家族を養っていた。
昭和20年代のことであるが、いわゆる部落民(当時の呼称)たちが人里離れた山奥に暮らしていて、草履などを作り売りに来ていた。
その草履の見事な出来栄えに、村人たちは「凄い!手仕事をするもんだ」と感嘆していた。
15歳になった私は、「僕は、どんな子どもだった」と5歳離れた従兄の恒男に聞いてみた。
「そうだな、継君は5歳なのに、話がとても上手だったな」意外な返事であった。
私は人見知りな性格で無口な中学生だったので、「信じられない」と驚く。
3歳年上の従姉の朝子も「良くしゃべる子だったよ」と笑顔になる。
朝子は東京の浅草の仲見世で働いていたが、法事で実家に戻っていた。
朝子の兄の次郎の葬儀は、天理教で執り行われた。
前年には、弟の三郎の子どもの葬儀もあった。
いずれも交通事故死だった。
「山口家は事故死が多い、お祓いが必要だ」と恒男が言う。
そこで、親戚一同が集い墓地でお祓いをした。
従兄の長男佐太夫は、伊勢湾台風禍、崖崩れで死亡していたのだ。
さらに、佐太夫の妻も畑の作業中に、蝮に咬まれ死亡していた。

親戚一同が首を深くたれる中、伯父は厳粛に祝詞を挙げた。

そして、1年に1回いとこたちが集う「いとこ会」が発足する。