音楽のプロデューサー業というものをやっていると、どうしても若い世代の優秀なタレント(=才能)を見つけだし彼らを育てようという感じになってくるのだが、最近よく感じるのは彼らの音楽に対する「勘違い」と「甘え」だ。
洋楽という比較的新しい音楽(そりゃあ、日本に洋楽が入ってきてまだ百年ちょっとなんだから、比較的新しい音楽と言ってもさしつかえないと思う)をやっていると、親から子、孫の世代へとどんどん才能が急激に進化して(環境も変わるので)、現在の若い世代には優秀な才能を持った人がどの分野にも溢れかえっているような気がする。今日も、ショパン・コンクールに日本人の20才と21才の男性が入賞したとかいうニュースをやっていたが、問題は、そういう若い才能が音楽や芸能の本質を完全に見誤っていることだ。
最近よくTVでやっている吹奏楽番組に見られるような勘違いは、実際のプロの現場でもよく起こる。つまり、音楽とスポーツを完全に取り違えているということ。より早く、より遠く、より高くがスポーツの本質だとすれば、音楽の本質はそれとはまったくかけ離れたところにある。スポーツでは必ず勝ち負けが起こる。どんな競技も勝たなければ意味がない。でも、音楽に勝ち負けなど存在しないし、音楽の本質は誰かをうち負かすことでも追い抜くことでもなく、逆に、どれだけ多くの人とコミュニケーションをとれるか、どれだけ多くの人を説得し感動させられるかにある。音楽というのは、およそ、スポーツの勝ち負けの世界とはほど遠いところにあるはずなのに、ああいうTV番組ではひたすら勝った負けたというところに感動を作り出し涙を誘う(音楽コンクールの問題点もまさしくこれだ)。確かに、あの番組を見て泣く人は多いと思う。でも、その涙は音楽の感動から出て来た涙ではないことを忘れてはならない。それが証拠に、ああいった番組で音楽の中身が語られることはまずない。ひたすら、勝ったか負けたというところで視聴者の興味をひこうとする。
たぶん、私たちが持っている洋楽に対する勘違い、あるいは音楽そのものに対する勘違いは、音楽=楽器を上手に演奏すること(歌を上手に歌うこと)という誤解から生まれていると思う。それが証拠に、私がやっているフルートという楽器を小さい頃から習っている人たちのほとんどは、フルート音楽以外に何の興味も示さない。つまり、彼ら彼女らは、音楽が好きなのではなくフルートという楽器が好きなだけ。多分、他の楽器でも似たりよったりなのかもしれない。ピアノが好き、ギターが好き、ヴァイオリンが好き、でも、音楽が好きなのかはよくわからない。
楽器が上手、歌が上手、ラップが上手、DJが上手、踊りが上手。だから何?
問題は、そうした手段を使って何を表現するかということ。誰に向かって表現するかということ。
楽器ができること=音楽ができることではない。何かを表現したい人は、楽器ができなくても表現するだろうし、表現する場所がなかったら、相手がいなかったらそれを自分で見つけてくるだろう。しかし、音楽大学を出た人たち、専門学校を出た人たちは、技術は学ぶけれども、その技術の使い方を根本的に理解していないし、第一、音楽は誰に向かってどうやって表現すればいいのかすらまったくわかっていない。本当は、学校は何も教えちゃくれない。どんな分野でもどんな仕事でも、そこに必要があるから生まれるモノ。ゴハンを食べるには食器が必要だから食器を作るだろうし、そこに病人がいるからクスリが必要になる。それだけのこと。音楽が必要な人必要な場所とは一体どこにあるのか考えなければ音楽家がメシが食えるはずもない。楽器が上手なだけでは、それは永遠にわからないし、一生見つけることはできないのではないのか?
少なくとも音楽のプロを目指す人は、これだけはわかって欲しいと思う。プロとは、絶対に逃げない人のこと。アマチュアはいつでもどこにでも逃げだすことができるけれども、プロにそれは絶対に許されないことを絶対にわかって欲しいと思う。「いつでもやめられるし...」と思っている人をプロとは呼べない。いつでもどこでもやめられると思っている人は、永遠にアマチュアだし、彼ら彼女らが持っている技術を使って人を幸福にすることなんてできるはずがない。
でも、そんな勘違いも甘えもない本当のプロの音楽家が一体どれだけいるのだろうか?
洋楽という比較的新しい音楽(そりゃあ、日本に洋楽が入ってきてまだ百年ちょっとなんだから、比較的新しい音楽と言ってもさしつかえないと思う)をやっていると、親から子、孫の世代へとどんどん才能が急激に進化して(環境も変わるので)、現在の若い世代には優秀な才能を持った人がどの分野にも溢れかえっているような気がする。今日も、ショパン・コンクールに日本人の20才と21才の男性が入賞したとかいうニュースをやっていたが、問題は、そういう若い才能が音楽や芸能の本質を完全に見誤っていることだ。
最近よくTVでやっている吹奏楽番組に見られるような勘違いは、実際のプロの現場でもよく起こる。つまり、音楽とスポーツを完全に取り違えているということ。より早く、より遠く、より高くがスポーツの本質だとすれば、音楽の本質はそれとはまったくかけ離れたところにある。スポーツでは必ず勝ち負けが起こる。どんな競技も勝たなければ意味がない。でも、音楽に勝ち負けなど存在しないし、音楽の本質は誰かをうち負かすことでも追い抜くことでもなく、逆に、どれだけ多くの人とコミュニケーションをとれるか、どれだけ多くの人を説得し感動させられるかにある。音楽というのは、およそ、スポーツの勝ち負けの世界とはほど遠いところにあるはずなのに、ああいうTV番組ではひたすら勝った負けたというところに感動を作り出し涙を誘う(音楽コンクールの問題点もまさしくこれだ)。確かに、あの番組を見て泣く人は多いと思う。でも、その涙は音楽の感動から出て来た涙ではないことを忘れてはならない。それが証拠に、ああいった番組で音楽の中身が語られることはまずない。ひたすら、勝ったか負けたというところで視聴者の興味をひこうとする。
たぶん、私たちが持っている洋楽に対する勘違い、あるいは音楽そのものに対する勘違いは、音楽=楽器を上手に演奏すること(歌を上手に歌うこと)という誤解から生まれていると思う。それが証拠に、私がやっているフルートという楽器を小さい頃から習っている人たちのほとんどは、フルート音楽以外に何の興味も示さない。つまり、彼ら彼女らは、音楽が好きなのではなくフルートという楽器が好きなだけ。多分、他の楽器でも似たりよったりなのかもしれない。ピアノが好き、ギターが好き、ヴァイオリンが好き、でも、音楽が好きなのかはよくわからない。
楽器が上手、歌が上手、ラップが上手、DJが上手、踊りが上手。だから何?
問題は、そうした手段を使って何を表現するかということ。誰に向かって表現するかということ。
楽器ができること=音楽ができることではない。何かを表現したい人は、楽器ができなくても表現するだろうし、表現する場所がなかったら、相手がいなかったらそれを自分で見つけてくるだろう。しかし、音楽大学を出た人たち、専門学校を出た人たちは、技術は学ぶけれども、その技術の使い方を根本的に理解していないし、第一、音楽は誰に向かってどうやって表現すればいいのかすらまったくわかっていない。本当は、学校は何も教えちゃくれない。どんな分野でもどんな仕事でも、そこに必要があるから生まれるモノ。ゴハンを食べるには食器が必要だから食器を作るだろうし、そこに病人がいるからクスリが必要になる。それだけのこと。音楽が必要な人必要な場所とは一体どこにあるのか考えなければ音楽家がメシが食えるはずもない。楽器が上手なだけでは、それは永遠にわからないし、一生見つけることはできないのではないのか?
少なくとも音楽のプロを目指す人は、これだけはわかって欲しいと思う。プロとは、絶対に逃げない人のこと。アマチュアはいつでもどこにでも逃げだすことができるけれども、プロにそれは絶対に許されないことを絶対にわかって欲しいと思う。「いつでもやめられるし...」と思っている人をプロとは呼べない。いつでもどこでもやめられると思っている人は、永遠にアマチュアだし、彼ら彼女らが持っている技術を使って人を幸福にすることなんてできるはずがない。
でも、そんな勘違いも甘えもない本当のプロの音楽家が一体どれだけいるのだろうか?
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