みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

駅の音と文化

2005-02-15 21:39:05 | Weblog
JRを利用するたびにこれでいいのかナ?と思うことがある。
特に品川駅。あの発着時の音楽を聞くと日本の音楽というか文化に対する考え方が「この程度なんだよな」と思ってつくづくイヤになってしまう。
ただ、これって何も今に始まったことではない。東京オリンピックの開会式の時の黛敏郎の作ったあのあやしげなコンピューター音楽の時もそう思ったし、翻れば、江戸時代が終わり明治になった時この国はそれまでに培ったすべての文化を葬りさろうとした事実を見ても、日本という国は、あまり歴史を大切にしないらしいということがよくわかる。
もしアメリカのボストン美術館やシーボルトが持ち帰った浮世絵がオランダの博物館に保管されていなかったら、私たち日本人は自国のあれだけ素晴らしい文化の存在すらずっと知らずにいたのかもしれないのだ。政治や経済に限らず「外圧」として外国から何かを指摘されない限り、私たちは自分たちのアイデンティティに目覚めることができないのかと思うととても悲しくなるが、ある意味、これも日本の一つの伝統なのかもしれない。
東京オリンピックから十年以上たった1984年のロスアンゼルス・オリンピックではコンピューターがあれほど発展した国と時代であったにもかかわらず式典に使われた音楽はすべてアコースティック楽器だった(宇宙がイメージの『スター・トレック』や『スター・ウォーズ』でも、アメリカはシンセの音なんか使いやしない。音楽はすべてアコースティックなオーケストラ・サウンドだ)。ユニオンが強い国だからと言ってしまえばそれきりだが、日本ではその音楽ユニオンさえまともに機能していない。
戦争の大好きなあの国は、こと文化に関してはヨーロッパに対するコンプレックスがあるせいか、とても大事にする。 美術品しかり、音楽、映画などの文化は、ある意味、おおいばりで外国にひけらかす。そしてそれをいつでもありがたがる日本という構図は、昨日のグラミー賞受賞式の中継や、もうすぐやって来るアカデミー賞のTV番組を見ればひと目でわかることだ。
ヒーリング・ブームのおかげで、ここ数年、和モノ音楽や世界中の伝統音楽が少しは注目されているが、クラシック音楽とヒーリング音楽が同じ感覚でとらえられ、未だにジャズとクラシックが別の生き物のような場所に置かれていること自体が、この国の人の音楽や文化に対する認知度の低さを物語っているのかもしれない。まあ、音楽を専門にしている人たちでさえ、ジャズとクラシックの違いが(というか、そこには何も違いがないということが)わかっていないし、民族音楽と西洋音楽の違いすらわかっていないのが現状なのだから、あまりこの国の文化のレベルの低さを歎いてみてもしょうがないのかもしれない。

ただ、やっぱりそれでも、駅のあの音楽はどうなのかナ?と思う。
私には、街中に一つ騒音のタネが増えているだけに過ぎないとしか思えないのだが....。


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