作曲家アイヴスのことを考えた。
今回のディランの受賞で、ディランがピューリッツァ賞やその他たくさんの賞も取っていたことを初めて知ったけれど、作曲家アイヴスだってピューリッツァ賞を取っている。
自称「アイヴス研究家」の私にとってチャールズ・アイヴス(1874~1954)というアメリカの作曲家のどこが魅力かと言えば、正直言って彼の作品自体というよりも、彼のアイデアやその生き方。
ディランとアイヴスではその音楽は「天と地」ほども違うけれども、両者に共通しているところもある。
強いて言えば、両者共完全に「我が道を行く」(ぶれない)生き方かもしれない。
私は、ボブ・ディランがノーベル文学賞を取れるのだったら、それよりも先にアイヴスにこそ「ノーベル文学賞」をあげるべきだったのではとさえ思う(でも、亡くなった人は対象ではないのでこれは詮ない願い)。
アイヴスのピアノソナタ第二番<コンコード>には、「ソナタの前にEssays before a sonata」という文章がついている。
別に研究論文ではなく単なるエッセーと(自分では)言っているけれども、これが超難解な文章(しかもけっこうな量)。
このソナタが長い間「演奏不能」と言われたのは、その技術的な難しさだけでなく、この「エッセー」の難解さも影響したのかもしれない(4楽章の終わりにフルートのオブリガートがついているのでこの曲の演奏には何度か立ち会ったが、さすがにどのピアニストもその演奏に苦労していた)。
4楽章のそれぞれにアメリカの超越主義文学者の名前のついたエッセーが用意されている。
1楽章、エマーソン(アメリカの思想家、哲学者、宗教家)、2楽章、ホーソン(小説『緋文字』で有名な19世紀米文学者)、3楽章、アルコット「自分の無知に無知なことは、無知な人間の慢性病である」ということばで有名な19世紀アメリカの教育者、4楽章、ソロー(小説『森の生活』で有名な19世紀米文学者)。
これら4人の米文学者と対峙したアイヴスのこの『ソナタの前に』という文章は、現在でもアメリカの大学文学部のテキストとしてよく使われている(アメリカの「超越主義」文学というのは、「神秘主義」とほぼ同義語のように扱われている)。
こうなると、ディラン同様、「音楽家と文学者」が一人の人間の中に同居していても何の違和感もない。
しかも、アイヴスには、音楽家、文学者という「顔」以外にも実業家とスポーツ評論家という顔もあったのだ。
彼は、エール大学で音楽を学んだ後プロの音楽家にはならずに生命保険会社を起業してそれを定年まで勤めあげた人物(この会社は今もアメリカのメジャー保険会社の一つとして残っている)。
生命保険は人々の命を守るために必要なモノという彼の信念が会社を起こさせたのだ。
彼の「人物像」をひとことで言うならば、筋金入りの「平和主義者」。
彼がルーズベルト大統領に直訴した手紙が彼の著作の中に残されている。
現在の国連とまったく同じコンセプトの組織(peoples’ world nationとアイヴスは呼んでいいた)を世界平和のために作るべきだと大統領に訴えているのだ(もちろん国連が作られるはるか前に)。
それに、彼の日常生活も、作家ソローの『森の生活』そのもの。
会社はボストンにあったが、ふだんの生活はボストン郊外の森(その場所の名前がコンコード)の中のログハウス。
都会と自然の中を行ったり来たりしながら、ウィークエンドだけ作曲を続けるという生活を続けていた(この辺り、最初はサラリーマン作曲家だった小椋佳さんに近いかナ)。
私がアイヴスにのめりこむキッカケになったのが彼の書いた『114の歌曲集』。
アメリカで音楽を勉強していた時、「楽曲分析(アナリーゼ)」の時間に初めて聞いたこの「歌曲集」の詞の深さに圧倒された。
「え?ウソ!?こんな曲をこれだけたくさん作った人が世の中にいたんダ!」という衝撃。
ジョン・ケージがやった数々の実験も山下洋輔がやったアヴァンギャルドもすべてアイヴスが先にやっていた。
そうした彼が成し遂げた数々の現代音楽の実験にも圧倒されたが、私はその詞の内容に打ちのめされ、以来今日まで彼の楽譜と著作を集めまくってきた(レナード・バーンスタインはハーバード大学でアイヴスの講義を続けていて、その一部はyoutubeでも見ることができる)。
私も、もちろんアイヴスに関する著作の出版を試みたけれど「そんなもの売れないよ」とすべての出版社から断られた(日本じゃ当たり前かもネ、ハハハ)。
もし彼が今も生きていたらピューリッツァ賞だけでなく、ボブ・ディランと同様にノーベル賞を取っていたことは間違いないだろう(彼には、平和賞の方がふさわしいかもしれないが)。
案の定、今回のボブ・ディランの文学賞にクレームをつける人たちもいたようだ。
「文学はこうでなければいけない」とか「音楽がこうでなければいけない」といった考え方そのものが時代遅れだし、多様性という人間にとって一番大切な基本に逆らうことになるのでは思う。
人は皆違うし、考え方も違う、だから面白いし、だからこそ人はみんなハッピーになれると思うのだが、そう考えない人も世の中には多い(らしい)。
違いを認めない(きっと「違うこと」が怖いんだろうネ)。
だから争う(ヒトラーの考えの根底にはきっと「恐怖心」があったのでは?)。
結果、戦争や紛争が絶えない。
別に音楽だろうと文学だろうと同じじゃないの?と思う。
だって、人が頭の中で想像すること、問題にすることって結局「人生のこと、愛情のこと、神のこと、死のこと、…」じゃない。
それをことばで表現しようが音で表現しようがだろうとそんなこと関係ないじゃない。
ことばだって音だって、そんなの所詮人が神から借りた道具を使っているだけなんだから、もっと謙虚にその道具を「使わせてもらえばよい」だけの話し。
別にノーベル賞がえらいとはちっとも思わないけれど、「文学」ということばの多様性を気づかせてくれただけでも今回の文学賞は価値があるような気がしてならない。
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