自分はTVを持たない人間なのでTVというメディアを見るチャンスはほんのたまにしかない。
一週間に一度恵子のリハビリに病院に行くと受付ロビーにTVが置いてある。
まあ、どこの病院にでもよくある光景なので別に素通りしてしまえばよいのだが、先日は会計を待つ間にワイドショーらしき番組でどなたか知らないコメンテーターの男性が今回のエンブレム問題についてコメントしていたのをつい聞き耳をたててしまった。
曰く「今回の騒ぎはネットユーザーがいろいろ意見を言ったり他の(盗作とおぼしき)作品を探してくれたおかげでデザイン取り下げまで行ったんですよ。ネット民のおかげですね」と鬼の首でも取ったようなコメントをしていた(この人は一体誰なんだろう?)。
聞いていて思わず吹き出しそうになり、日本人って(というか、この人だけなのかもしれないが)どこまでオメデタイんだろうと思うと同時に「やっぱTVなんか持たなくて正解だ」と正直思った。
以前ウォルフレンという経済学者の方が書いた『人間を幸福にしない日本というシステム』という本がベストセラーになったことがあったが、このコメンテーターの意見などは、まさしくこの本の主張そのもの(だから日本はダメなんだと作者なら必ず言うはずだ)。
かのデザイナーさんが悪者にされてネットで袋叩きにあったことを、さも「正義が勝った」みたいに勘違いする人がいる一方で、「誰も責任取ってないじゃん」と正論を言う人もいる。
問題はそこからだ。
かの本で「日本人は不幸だ」と言っているポイントもまさしくこの部分。
日本では正論が正論として通った試しがないということをウォルフレン氏は主張していた。
今回の問題に置き換えれば「じゃあ、誰が一番の責任者で誰が全てを説明してくれるの?」ということになるのだが、もちろん今回の最大の責任者が誰なのかすらわかっていないじゃないかと思うし、仮にその「悪人」がわかっても責任を取らせるなんてことができる(ネコの首に鈴をつけに行ける)ほど肝の座った人がこの国にいるのだろうかという問題が「そもそも」としてある。
多分そんな度胸のある人は一人もいないだろうし、この国の人たちはきっと本当の「犯人探し」はしないだろうナとも思う。
だってもともとこの国は「責任の所在を明らかにしない」というシステムの上で国が成り立っているのだから、今さらオリンピックだからといって、「正論で世の中を仕切る」ような仕組みにはならないだろうと思う。
この国の人たちは基本的に左翼(といわれる人たち)も右翼(といわれる人たち)も結局思想的なことを争っているわけじゃあないのだと思う。
戦争中もそうだったし戦後も全く同じこと。
戦争中はお国のために戦いましょうと言っていた人たちが戦争が終わった途端に手のひらを返したようにそれまでとは正反対のことを言う。
全く同じ人間が昨日と今日で意見が百八十度変わるのだ(そういう人は未だに政治家に多いけれども)
もちろん戦争中に大方の人が正論を言いたくても言えなかったことはよくわかるし、自分の存在をリスクにさらしたくないということもよくわかるがそうなると「日本人(であるということ)は不幸だ」というかの本の主張を素直に認めてしまうことになる。
日本人はいつも「みんなで渡れば怖くない」国なのだ、ということ。
多様性とはほど遠いところにいる民族。
要は、みんなと同じところにいたいだけ(なのでは?)。
だから、クラスで「仲間はずれ」になるのを恐れるし(いじめられたくないし)、社内派閥の主流派からもはずれたくないし(出世コースからはずれたくないし)、同じ業界の横並びからはずれて仕事を失いたくないし(だから、談合はいつまでたっても減らないし、TVは相変わらず同じような番組とニュースを流すだけだし)、ヘタな記事書いて記者クラブから追い出されたくないし、…。
そして、最終的に、考えたくない結末に至る… (だから、日本の自殺率は相変わらず世界のトップクラスなのかナ?)。
要するに、いつまでたっても「みんなと同じことしかできない」国民は、誰かをいつもスケープゴートにして「こいつはオレ達とは違うから」といじめているだけなのかもしれない。
かのデザイナー氏は、陰にいる本当の「悪人」に都合よく使われ、結局捨てられてしまっただけの話なのだと私は思っている。
色とか形なんて、結局自然界以上に斬新なモノを創ることなんて人間にできるわけがないんだし(自然の造形の豊富さの方が人間の創るデザインなんかを軽く凌駕している)、似ているデザインがそこいら中にあるのなんか当たり前の話。
特に今回のような幾何学的な図形が基本のデザインなら、最初から似たものだらけなわけで、別にネット民じゃなくても「似ているものを探してくる」のはそんなに難しいことではない。
作曲家である自分だって、「おお、けっこう良い曲できた!」と思ったら「誰かの曲とほとんど同じ」なんてことはこれまでしょっちゅう(笑)。
だって、その人の脳の中にはこれまで聞いた数千、数万の曲のリストが既にあるわけだから、知らない間にどこかの引き出しから自分の脳が勝手に(良い曲のネタを)引き出してしまうなんてこと、人間だったら当たり前なのでは?
盗作か盗作でないかは、そこに「その意図があったかどうか」だけの話。
人間の創るものは、勝手に他人に似てくるものだという前提にたたなければ私たちは創作なんて作業は何もできない。
今回の「騒動」でもっと気味が悪いのは、かのデザイナー氏だけが世間からバッシングされただけで終わってしまったこと(まだ終わってはいないけれども)。
オリンピックなんていう「国家の一大事」が「個人の責任(しかも一アーティストの責任)」で片付けられてよいのかナと思う。
なんか、「出入り」があった組同士の抗争で「誰かタマ出しとけ」で無理矢理出頭させられた「下っ端」感が拭えない。
まあ、本気で突き詰めていくと結局回り回ってその「矢」が自分に向って飛んで来るのをみんな避けたいだけなのだろう。
なので、この国で「正論」を主張し続けるのは相当にタフな人でないとできない作業。
それにけっして無傷では済まない。
「自分がこれこれこう主張したら、こういう風に反論が来て、結局自分はこういう窮地に追い込まれてしまう...」。
だから「やらない」という結論と、「いや、それでもやる」という2つの選択肢のどちらを選ぶのか。
しかし、そこまで覚悟してやれる人(自分の主張と自分の生き方に責任の取れる人)がいないことには、この国はけっしてこれから先良い方向にはいかないと思うのだが…。
一週間に一度恵子のリハビリに病院に行くと受付ロビーにTVが置いてある。
まあ、どこの病院にでもよくある光景なので別に素通りしてしまえばよいのだが、先日は会計を待つ間にワイドショーらしき番組でどなたか知らないコメンテーターの男性が今回のエンブレム問題についてコメントしていたのをつい聞き耳をたててしまった。
曰く「今回の騒ぎはネットユーザーがいろいろ意見を言ったり他の(盗作とおぼしき)作品を探してくれたおかげでデザイン取り下げまで行ったんですよ。ネット民のおかげですね」と鬼の首でも取ったようなコメントをしていた(この人は一体誰なんだろう?)。
聞いていて思わず吹き出しそうになり、日本人って(というか、この人だけなのかもしれないが)どこまでオメデタイんだろうと思うと同時に「やっぱTVなんか持たなくて正解だ」と正直思った。
以前ウォルフレンという経済学者の方が書いた『人間を幸福にしない日本というシステム』という本がベストセラーになったことがあったが、このコメンテーターの意見などは、まさしくこの本の主張そのもの(だから日本はダメなんだと作者なら必ず言うはずだ)。
かのデザイナーさんが悪者にされてネットで袋叩きにあったことを、さも「正義が勝った」みたいに勘違いする人がいる一方で、「誰も責任取ってないじゃん」と正論を言う人もいる。
問題はそこからだ。
かの本で「日本人は不幸だ」と言っているポイントもまさしくこの部分。
日本では正論が正論として通った試しがないということをウォルフレン氏は主張していた。
今回の問題に置き換えれば「じゃあ、誰が一番の責任者で誰が全てを説明してくれるの?」ということになるのだが、もちろん今回の最大の責任者が誰なのかすらわかっていないじゃないかと思うし、仮にその「悪人」がわかっても責任を取らせるなんてことができる(ネコの首に鈴をつけに行ける)ほど肝の座った人がこの国にいるのだろうかという問題が「そもそも」としてある。
多分そんな度胸のある人は一人もいないだろうし、この国の人たちはきっと本当の「犯人探し」はしないだろうナとも思う。
だってもともとこの国は「責任の所在を明らかにしない」というシステムの上で国が成り立っているのだから、今さらオリンピックだからといって、「正論で世の中を仕切る」ような仕組みにはならないだろうと思う。
この国の人たちは基本的に左翼(といわれる人たち)も右翼(といわれる人たち)も結局思想的なことを争っているわけじゃあないのだと思う。
戦争中もそうだったし戦後も全く同じこと。
戦争中はお国のために戦いましょうと言っていた人たちが戦争が終わった途端に手のひらを返したようにそれまでとは正反対のことを言う。
全く同じ人間が昨日と今日で意見が百八十度変わるのだ(そういう人は未だに政治家に多いけれども)
もちろん戦争中に大方の人が正論を言いたくても言えなかったことはよくわかるし、自分の存在をリスクにさらしたくないということもよくわかるがそうなると「日本人(であるということ)は不幸だ」というかの本の主張を素直に認めてしまうことになる。
日本人はいつも「みんなで渡れば怖くない」国なのだ、ということ。
多様性とはほど遠いところにいる民族。
要は、みんなと同じところにいたいだけ(なのでは?)。
だから、クラスで「仲間はずれ」になるのを恐れるし(いじめられたくないし)、社内派閥の主流派からもはずれたくないし(出世コースからはずれたくないし)、同じ業界の横並びからはずれて仕事を失いたくないし(だから、談合はいつまでたっても減らないし、TVは相変わらず同じような番組とニュースを流すだけだし)、ヘタな記事書いて記者クラブから追い出されたくないし、…。
そして、最終的に、考えたくない結末に至る… (だから、日本の自殺率は相変わらず世界のトップクラスなのかナ?)。
要するに、いつまでたっても「みんなと同じことしかできない」国民は、誰かをいつもスケープゴートにして「こいつはオレ達とは違うから」といじめているだけなのかもしれない。
かのデザイナー氏は、陰にいる本当の「悪人」に都合よく使われ、結局捨てられてしまっただけの話なのだと私は思っている。
色とか形なんて、結局自然界以上に斬新なモノを創ることなんて人間にできるわけがないんだし(自然の造形の豊富さの方が人間の創るデザインなんかを軽く凌駕している)、似ているデザインがそこいら中にあるのなんか当たり前の話。
特に今回のような幾何学的な図形が基本のデザインなら、最初から似たものだらけなわけで、別にネット民じゃなくても「似ているものを探してくる」のはそんなに難しいことではない。
作曲家である自分だって、「おお、けっこう良い曲できた!」と思ったら「誰かの曲とほとんど同じ」なんてことはこれまでしょっちゅう(笑)。
だって、その人の脳の中にはこれまで聞いた数千、数万の曲のリストが既にあるわけだから、知らない間にどこかの引き出しから自分の脳が勝手に(良い曲のネタを)引き出してしまうなんてこと、人間だったら当たり前なのでは?
盗作か盗作でないかは、そこに「その意図があったかどうか」だけの話。
人間の創るものは、勝手に他人に似てくるものだという前提にたたなければ私たちは創作なんて作業は何もできない。
今回の「騒動」でもっと気味が悪いのは、かのデザイナー氏だけが世間からバッシングされただけで終わってしまったこと(まだ終わってはいないけれども)。
オリンピックなんていう「国家の一大事」が「個人の責任(しかも一アーティストの責任)」で片付けられてよいのかナと思う。
なんか、「出入り」があった組同士の抗争で「誰かタマ出しとけ」で無理矢理出頭させられた「下っ端」感が拭えない。
まあ、本気で突き詰めていくと結局回り回ってその「矢」が自分に向って飛んで来るのをみんな避けたいだけなのだろう。
なので、この国で「正論」を主張し続けるのは相当にタフな人でないとできない作業。
それにけっして無傷では済まない。
「自分がこれこれこう主張したら、こういう風に反論が来て、結局自分はこういう窮地に追い込まれてしまう...」。
だから「やらない」という結論と、「いや、それでもやる」という2つの選択肢のどちらを選ぶのか。
しかし、そこまで覚悟してやれる人(自分の主張と自分の生き方に責任の取れる人)がいないことには、この国はけっしてこれから先良い方向にはいかないと思うのだが…。
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