みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

リンパマッサージというのは

2011-11-22 20:42:09 | Weblog
本当に軽いタッチで繊細に皮膚をマッサージしていかなければいけないのだが、それを入院以来ずっと施していると、恵子の反応がどんどん変わってくるのがよくわかる。
最初の頃はもちろん無反応。
私が触っていることすら自覚できない。
それがだんだんと「かすかに」「なんとなく」「わかるけどすごく遠い」という風に変わってくる。
ここ最近の反応が面白い。
指先はかなり力が出てきているので、私が指先を恵子の指先にあてると、そのまま指相撲でもできそうなほどの力で押し返してくる。
じゃあ箸なんか簡単に持てそうじゃん、と箸を渡しても割り箸のような軽い箸でもじっと持ってはいられない。
持つこと自体に相当苦労する。とてもモノを食べるどころではない。
要するに、まだ肩から指先にかけて腕全体の力がちゃんとは回復していないのだ。
指先だけ力があってもどうなるものではない。
マッサージを指からだんだん手首にもっていくと最近よく言うのが「ポニョポニョする」ということばだ。
感覚的にはなんとなくわかる。
では、ともう少しマッサージのポイントを肘の方まで上げていくと今度は「ザワワザワワだ」と言う。
それってザワザワするってこと?と聞くとそうでもないらしい。
ザワザワではなくザワワなんだそうだ。
それってどういうこと?と改めて聞くと、例の『トウモロコシ畑』という歌の出だしの「ザワワ」らしい。
つまり、何となく不安な予兆とでも言うのだろうか(ものすごい感覚的なことばだがまあわかることにしておく)
触られている感覚がポニョだったりザワワだったりでなんとなく二人の会話になっているのが不思議だが麻痺なぞ経験したことのない私には本当の「ポニョ」と「ザワワ」の正体はわからないが、恵子と話しているとなんとなく私まで理解できるような感覚になるから不思議だ。
人間というのは本当に「恣意的」な動物だということがよくわかる。
まあ、恣意的とは言っても、恵子と二人の会話には楽しさがあるから良いのだが、今同居している老人との会話はまた別物だ。
何の因果か、恵子の入院以来恵子の叔母と二人暮らしをするハメになったのは良いが、やはりお年寄りとの生活というのはかなりシンドイ部分がある。
世の中には介護の必要があろうがなかろうが(そんなのはケースバイケースで介護の度合いなんて人それぞれケタ違いに異なる)、お年寄りと毎日暮らしている人たちには「吐き出したいこと」がたくさんあるのだと思う。
でも、それを吐き出してしまうと絶対に「愚痴」になるからきっと皆さんあまり言わないのだと思うし、私もそんなことを言い始めたら永遠に終わらないんじゃないかというようなことがたくさんある。
でも、それって個々の家庭や環境ではみんな何とか解決しようとしているのだろうけど、根本的には社会の仕組みが変わらないと本当の意味で問題は解決しないんじゃないだろうかも思う。
老人の一番の問題は明日への希望がないことだ。
「あまり長く生きてもしょうがない。早く死んでしまいたい」と嘆く老人は一人や二人ではない。
若い人が「死にたい」と発することばの意味とはまったく違うことばの重みがそこにはある。
人間の「生命」はあたかも永遠に続いているかのような錯覚の上に生きることのできる若い世代と、もはやエンディングの秒読みを始めた年代の人間では「今日」と「明日」の感覚がまるで違う。
なにか無理矢理生かされていると感じる老人も多いはずだ。
「明日」=「希望」という図式にはならない現在の「今日」という「時間」をどう使っていくのか?
老人の問題はその部分の社会全体での共有だ。
「愚痴」は問題解決にはならないが少なくともストレス発散にはなる。
老人には老人の愚痴が、世話する側には世話する側の愚痴がある。
「ポニョポニョ」や「ザワワ」でわかりあえるぐらいの軽い「会話」が一番幸せだ。

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