なんていうどうしようもなく陳腐なタイトルから始めてしまったが、他に適切なことばを思い浮かべることができないのであえてそう呼ばせてもらう。
今日は満月。
当たり前だが月が大きい。
月が大きいということは月明かりも明るいということで、毎晩のように家の灯りを全て落としてお風呂に入るのが私の「楽しみ」になっているのだが(月明かりと海を楽しむために)、満月の夜はもうこれ以上何も望むものはないというほどに「至福の時」を過ごすことができる。
自宅にある温泉につかりこうこうと照らす月明かりとその月の反射する海の水面を楽しむ時間が何ものにも代え難い。
こんな贅沢をしていいんだろうか?と貧乏性の私は折角の楽しみに自らの気持ちに水を差す(笑)。
きっと周りがシーンと静かなのも良いのかもしれない。まだ冬なので、獣たちもみんな騒がない。これが夏であれば、虫や何やらウルサい生き物たちもいるのだが、この季節は本当にシーンと静まり返っている。
昨日は、雨と風で嵐のようだったが、今日は打って変わって静かな満月の夜だ。
昼間、文芸春秋に載っていた芥川賞の2作品を一気に読んだ。
朝吹真理子さんという受賞作家は文学一家に育ったサラブレッドの女性。ともう一人の西村さんはフリーター生活を長きに渡って送ってきた男性。
本当にタイプの正反対の二人の人間の作った作品を読むとやはり、文学作品も音楽と同じで人が作るモノという感を否めない。
ものすごい繊細で計算され尽くした巧みなことばが次から次に紡ぎだされてくる朝吹さんの作品と、いかにもフリーター男性の粗野な生き方が作品として昇華されたものを読み比べると今回の芥川賞が「どちらか一方を選べなかった」という事情もわかるような気がする。
ただ、私は、この2作品とも個人的にはあまり好きではない。
朝吹さんの作品は、「めちゃくちゃ文章が上手」だと思う。だけど、ことばの使い赤があまりにも上手なせいかことば遊びが過ぎるような印象だ。
ちょうどあまりにも上手な楽器の演奏を聞くと逆に音がうすっぺらく聞こえてしまうのに似ているかもしれない。
そして、一方の西村賢太さんの作品は日雇い労働にありつく主人公のフリーターとしての生活の中身や心情はよくわかるけど(私も学生時代は同じような経験はしたことあるので)、だから何?という感じが最後までした。
これら2つの作品に共通な私の不満は、どちらもストーリーがほとんどないということ。つまり、何も起こらない。何もドラマがないということだ。
別に小説にはドラマチックな展開が必要不可欠なわけではないけれど、私の個人的な趣味からすれば何らかの「ドラマ」はあって欲しいと思う。
人の心理や状況のこと、社会性、そしてディテールなどはやはり芥川賞に選ばれるだけあってものすごく上手なんだろうけど、読み終わって「それで、何が言いたいの?」と私なんかは思ってしまう(特に朝吹さんの文章はディテールがあまりにも上手なので余計にそう思えてしまう)。
表現っていうものを多分どうとらえるかなのだろうなとも思う。
音楽はすごく抽象的な表現なので「それで何が言いたいの?」と言われたら「別に」となってしまうようなものもたくさんあるだろうけど、でもそれが表現である以上、絶対に「何かは言いたい」のだろうと思う。
でなければ、音楽を作る必要もないし絵を描く必要もないし、小説を書く必要もないのでは?と思ってしまう。
私は、少なくとも、これまで音楽作品を作ってきたのも、演奏をしてきたのも、本を書いてきたのも、私の中に「表現したいこと」「言いたいこと」があったからだ、
という意味で言えば、朝吹さんにも西村さんにも絶対それはあるはず。
でも、それは私にはストレートには理解できなかった。
要するに、私にはピンと来ないというだけのことなのだろうけど(でも、やはり文章は上手です。二人とも)。
今日は満月。
当たり前だが月が大きい。
月が大きいということは月明かりも明るいということで、毎晩のように家の灯りを全て落としてお風呂に入るのが私の「楽しみ」になっているのだが(月明かりと海を楽しむために)、満月の夜はもうこれ以上何も望むものはないというほどに「至福の時」を過ごすことができる。
自宅にある温泉につかりこうこうと照らす月明かりとその月の反射する海の水面を楽しむ時間が何ものにも代え難い。
こんな贅沢をしていいんだろうか?と貧乏性の私は折角の楽しみに自らの気持ちに水を差す(笑)。
きっと周りがシーンと静かなのも良いのかもしれない。まだ冬なので、獣たちもみんな騒がない。これが夏であれば、虫や何やらウルサい生き物たちもいるのだが、この季節は本当にシーンと静まり返っている。
昨日は、雨と風で嵐のようだったが、今日は打って変わって静かな満月の夜だ。
昼間、文芸春秋に載っていた芥川賞の2作品を一気に読んだ。
朝吹真理子さんという受賞作家は文学一家に育ったサラブレッドの女性。ともう一人の西村さんはフリーター生活を長きに渡って送ってきた男性。
本当にタイプの正反対の二人の人間の作った作品を読むとやはり、文学作品も音楽と同じで人が作るモノという感を否めない。
ものすごい繊細で計算され尽くした巧みなことばが次から次に紡ぎだされてくる朝吹さんの作品と、いかにもフリーター男性の粗野な生き方が作品として昇華されたものを読み比べると今回の芥川賞が「どちらか一方を選べなかった」という事情もわかるような気がする。
ただ、私は、この2作品とも個人的にはあまり好きではない。
朝吹さんの作品は、「めちゃくちゃ文章が上手」だと思う。だけど、ことばの使い赤があまりにも上手なせいかことば遊びが過ぎるような印象だ。
ちょうどあまりにも上手な楽器の演奏を聞くと逆に音がうすっぺらく聞こえてしまうのに似ているかもしれない。
そして、一方の西村賢太さんの作品は日雇い労働にありつく主人公のフリーターとしての生活の中身や心情はよくわかるけど(私も学生時代は同じような経験はしたことあるので)、だから何?という感じが最後までした。
これら2つの作品に共通な私の不満は、どちらもストーリーがほとんどないということ。つまり、何も起こらない。何もドラマがないということだ。
別に小説にはドラマチックな展開が必要不可欠なわけではないけれど、私の個人的な趣味からすれば何らかの「ドラマ」はあって欲しいと思う。
人の心理や状況のこと、社会性、そしてディテールなどはやはり芥川賞に選ばれるだけあってものすごく上手なんだろうけど、読み終わって「それで、何が言いたいの?」と私なんかは思ってしまう(特に朝吹さんの文章はディテールがあまりにも上手なので余計にそう思えてしまう)。
表現っていうものを多分どうとらえるかなのだろうなとも思う。
音楽はすごく抽象的な表現なので「それで何が言いたいの?」と言われたら「別に」となってしまうようなものもたくさんあるだろうけど、でもそれが表現である以上、絶対に「何かは言いたい」のだろうと思う。
でなければ、音楽を作る必要もないし絵を描く必要もないし、小説を書く必要もないのでは?と思ってしまう。
私は、少なくとも、これまで音楽作品を作ってきたのも、演奏をしてきたのも、本を書いてきたのも、私の中に「表現したいこと」「言いたいこと」があったからだ、
という意味で言えば、朝吹さんにも西村さんにも絶対それはあるはず。
でも、それは私にはストレートには理解できなかった。
要するに、私にはピンと来ないというだけのことなのだろうけど(でも、やはり文章は上手です。二人とも)。
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