それがたとえ本心であっても,心の中の「焦り」がそうさせるのはこれまでの経験からわかっているので,若干心配になってくる。
今年の3月に骨折した時もその直前まで同じように「何でもやってみよう」と挑戦したがっていた。
(あの時も)ある意味,なんでも「やりたがって」いたのだ。
その時(の状況)とちょっと似ていることが私の心を少しばかり不安にさせる。
彼女の言っていることだけ考えると気持ちがそういう風に「前向き」になっているのだし,それだけ「元に戻った」とも言えるのかもしれないが,実際は気持ちだけが先行していて「身体の能力」はその気持ちを支えるほどにはまだ追いついていない。
彼女は,私が台所にたつとすぐに「何か手伝えることな~い?」と聞いてくる。
キャベツ刻んだり,肉を切ったりできるのであればすぐに「..やって!」と言えるのだけれども,そうした仕事はまださせられない(切る力がないというよりも台所の流しに真っすぐ立っていられるわけではないのだからモノを切る以前の話だ)。
それでも,豆腐をスプーンですくって皿に入れたり,油揚げをキッチンバサミで切ってもらったりして,何とか「お手伝い」の格好はさせられる(それも全てをテーブルに持っていって座っている彼女の目の前に並べるのだ)。
何か,子供に「初めてのお手伝い」をしてもらったりしているような格好だが,彼女にしてみれば(子供とは違って,これまで当たり前にやっていたことが)できないことがもどかしいのだから,「出来た!」という感動と自信を少しでも味わいたいのだ。
後は,ご飯の盛りつけもお釜からおひつにわざわざ移しそれを彼女の目の前に置きそこからお茶碗によそってもらうという作業をする。
でも,昔はみんなこういう「二度手間」をかけていたのだから「わざわざ」というのは本当はおかしいのかもしれない。
洗濯物も,洗濯の終わった衣類をカゴに入れ,それと物干ハンガー(洗濯物をかけられるパイプ状のやつだ)をわざわざ彼女の目の前にセットして干してもらう。
それでも,洗濯バサミのバネを押せるようになっただけ進歩だ。
今の彼女には,できることを探してそれをやってもらう算段を作る方が実際に私がやるよりもはるかに大変だ。
それでも,リハビリというのはこうした「忍耐」と「手間」を惜しんでいては絶対に先に進まない。
だって,十年も二十年もかかって人が手に入れた能力を(それを病気で失ったからといって)すぐに回復できると考える方が本当はオカシイのだから。
それでも,一方で,彼女の気持ちがどれだけ平静を保っていられるのかも心配になってくる。
先日,洗面台の下が汚れているといって夜中に突然泣き出したことがあった(そんなリアルな夢を見ていたのだ)。
「前は,あそこちゃんといつも自分で掃除してきれいにしていたのに...」。
今それができない悔しさが彼女の心を絶えず掻きむしる。
今年の3月に骨折した時もその直前まで同じように「何でもやってみよう」と挑戦したがっていた。
(あの時も)ある意味,なんでも「やりたがって」いたのだ。
その時(の状況)とちょっと似ていることが私の心を少しばかり不安にさせる。
彼女の言っていることだけ考えると気持ちがそういう風に「前向き」になっているのだし,それだけ「元に戻った」とも言えるのかもしれないが,実際は気持ちだけが先行していて「身体の能力」はその気持ちを支えるほどにはまだ追いついていない。
彼女は,私が台所にたつとすぐに「何か手伝えることな~い?」と聞いてくる。
キャベツ刻んだり,肉を切ったりできるのであればすぐに「..やって!」と言えるのだけれども,そうした仕事はまださせられない(切る力がないというよりも台所の流しに真っすぐ立っていられるわけではないのだからモノを切る以前の話だ)。
それでも,豆腐をスプーンですくって皿に入れたり,油揚げをキッチンバサミで切ってもらったりして,何とか「お手伝い」の格好はさせられる(それも全てをテーブルに持っていって座っている彼女の目の前に並べるのだ)。
何か,子供に「初めてのお手伝い」をしてもらったりしているような格好だが,彼女にしてみれば(子供とは違って,これまで当たり前にやっていたことが)できないことがもどかしいのだから,「出来た!」という感動と自信を少しでも味わいたいのだ。
後は,ご飯の盛りつけもお釜からおひつにわざわざ移しそれを彼女の目の前に置きそこからお茶碗によそってもらうという作業をする。
でも,昔はみんなこういう「二度手間」をかけていたのだから「わざわざ」というのは本当はおかしいのかもしれない。
洗濯物も,洗濯の終わった衣類をカゴに入れ,それと物干ハンガー(洗濯物をかけられるパイプ状のやつだ)をわざわざ彼女の目の前にセットして干してもらう。
それでも,洗濯バサミのバネを押せるようになっただけ進歩だ。
今の彼女には,できることを探してそれをやってもらう算段を作る方が実際に私がやるよりもはるかに大変だ。
それでも,リハビリというのはこうした「忍耐」と「手間」を惜しんでいては絶対に先に進まない。
だって,十年も二十年もかかって人が手に入れた能力を(それを病気で失ったからといって)すぐに回復できると考える方が本当はオカシイのだから。
それでも,一方で,彼女の気持ちがどれだけ平静を保っていられるのかも心配になってくる。
先日,洗面台の下が汚れているといって夜中に突然泣き出したことがあった(そんなリアルな夢を見ていたのだ)。
「前は,あそこちゃんといつも自分で掃除してきれいにしていたのに...」。
今それができない悔しさが彼女の心を絶えず掻きむしる。
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