「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2007・10・17

2007-10-17 09:50:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「その事件は昭和五十四年一月二十六日金曜日午後二時半に始まり、一月二十八日日曜日午前八時四十二分に終りました。足掛け三日、正味四十二時間かかったあの事件です。その間私たちの多くはテレビに釘づけになりました。」

 「テレビは彼がマンションに住んでいることを伝えました。けれどもマンションにもピンからキリまであります。家賃がいくらかを言わなければどの程度か分りません。これも新聞によると三万二千円で、いわゆる下駄ばきマンションだそうで、それなら商店街でしょう。驚くべきことに、犯人はそこに七年も住んで、家賃を着々と払っていたそうです。また相当な読書家で法律経済医学の本まで読んで、このごろは流行の『不確実性の時代』を読んでいたと、新聞は揶揄(やゆ)していましたが、考えてみると私たちのなかのいわゆる読書家というのはたいていこの程度で、これは笑うに及ばぬことです。
 彼は流行の本を小脇にかかえて、このマンションの一階にあるスナックに出没しました。これも私たちがよくすることです。彼のいわゆる友人はこのスナックのマスターと、ここで知り合った何人かで、彼らは麻雀友だちだったようです。そして二十七日、犯人は机のかげでひそかにダイヤルを回して彼らに、また金を借りた相手に電話をかけています。してみると彼は手帳を持っていたことが分ります。犯人は死ぬ覚悟で、だれかに別れを告げたくて電話をかけたのです。
 お察しの通り私はこの男を哀れに思っています。電話をかける友だちを持たぬ彼に現代人を見ています。むかしから船の中の友は友でないと言います。船の中で知合になっても、船を降りたらもう友でないこと、汽車の中の友が友でないがごとしです。以前はバーやキャバレで知合になった人とは名刺を交換しませんでした。談笑してもそれはバーやキャバレのなかだけのことで、その人を白昼訪ねませんでした。訪ねられてもあいさつに困ります。それはつい戦前まで常識でしたが、いまは訪ねる人があるようです。
 スナックのマスターやそこで知り合った麻雀友だちは、やはり友ではありません。思いがけず梅川から電話をもらったマスターは声をのんだことでしょう。『ま、がんばってしっかりやれや』と犯人に言われて、返す言葉がなかったことでしょう。
 梅川はこの期に及んで、借金を返そうとしています。ドロボーや人殺しをして奪った金で借金を返すなんて前代未聞のことで、ドロボーの風上(かざかみ)におけないと、本もののドロボーなら笑うでしょう。
 これによってみると、彼は借りたものは返さなければならぬと思っているようです。親孝行もしなければならぬと思っているようです。四国の母親を訪ねると、マスターに土産を持って帰ったと言います。旅すれば必ず土産を持参するという習慣――ずいぶん多くの習慣が滅びましたが、これだけは滅びない習慣――梅川はこの土産を持参する相手がなくて、スナックのマスターに持参したのです。
 彼は人質のなかの片親の子と子連れの客をいたわっています。律気で親切なところがあると言わなければなりません。ただ頭の一個所がこわれているだけです。
 チェホフに『六号室』という短篇があるのを思い出します。ながく六号室にいる狂人をふとしたことから訪ねた医師の物語です。医師は狂人と話して、彼こそ語るに足りる唯一の友だと知ります。しげしげ通っているうちに、病院中に怪しい評判がたって、ついに医師は狂人扱いされ、六号室にとじこめられて終ります。
 六号室の患者は、ただ頭の一個所がこわれていたにすぎません。」

   (山本夏彦著「つかぬことを言う」中公文庫 所収)
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