「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

夏祭 Long Good-bye 2022・05・11

2022-05-11 05:11:00 | Weblog

   今日の「お気に入り」は 、 岡本太郎 さん ( 1911 - 1996 ) が書かれた 小文 「 夏祭 」。
  
  「 夏祭の季節だ 。町にはオミコシがくり出し 、町内の顔役 、親父連がそろいの浴衣
   で 、うちわを振りたてながら先頭に立って 、ワッショイ 、ワッショイやっている 。
    通りは忙しく車が往きかい、いつもの通り 、無関心な人達が通りすぎて行く 。
   すこしも祭ではないのだが 、彼らだけが奇妙に浮上がって 、一生けんめい景気を
   つけ 、あおってくる 。何か気の毒のような 、時代のズレを感じてしまうのだが 。
    こんな風景を見ると 、私にはふっと 、戦地から帰ってきた 、復員直後の夏の想
   い出がよみがえってくるのだ 。
    終戦翌年の六月半ば 、私は中国から復員してきた 。
    日は空高くギラギラ輝いていたが 、べっとりとはりつくような湿気に息苦しい 。
    佐世保から乗込んだ列車は 、疲れきってうす汚れた 、汗臭い復員兵であふれて
   いた 。車窓から眺める五年ぶりの故国の山 、田畑 ・・・ 国は敗れたが 、勤勉な
   農民達が 、せっせと野良仕事をしているのを見ながら 、私は何かうれしいような 、
   もの悲しいような気持だった 。
    山陽線の道のりはながかった 。とまっては 、のろのろと走り出す列車 。また
   停る 。翌日 、まる一日がかりで 、ようやく真昼の大阪駅に着いた 。
    おっ ! と押しころしたような叫び声が車内にひろがった 。ごみごみしたプラッ
   トホームのあちこちで 、派手な衣装 、こってり化粧した女達が 、GIと抱きあっ
   たり 、人眼かまわずイチャついているのだ 。
    パリ暮しのながかった私には 、街なかで抱擁・接吻ぐらいありきたりの風景だし 、
   戦いに敗れ 、占領され 、なるほどこんなことだろうとしか思わない 。しかし 、兵
   隊達は眼をうたがったようだ 。ついこの間まで 、猛烈な憎しみをもって殺しあって
   きた敵 。あの 『 鬼畜米英 』が 、しかも白昼 、公衆の眼の前で 。
    青黒い復員兵達の顔が 、異様な目つきでそれを見まもっていた 。
    すると 、中年の駅員がそっと車窓に寄ってきた 。小声で 、吐きだすように言った 。
    『 毎日あんなザマですよ 。・・・日本の女は 、世界中で 、一番わるいやつですわ 』
    軽蔑しきったという風 。いかにも口惜しそうな顔は暗くゆがんでいる 。
    このニッポン男子 ・・・ つい先頃までは 、世界一の男とうぬぼれていたのだが 、
   弱いものの方を責める 。エゴイスティックな負け犬の遠吠えだ 。
    翌朝 、やっと東京に着いた 。到るところ焼け野原 。だが 、わが家のある青山は
   広大な神宮の森に近く 、閑静なところだ 。引揚船の乗組員から 、東京は丸焼けだ
   が 、あの辺だけは残ってますよ 、ときかされていた。もしかしたら 、と多少の望
   みをつないでたどり着くと 、見わたす限りの焼け跡だ 。わが家とおぼしきあたりに
   は青々と麦が風にそよいでいた 。
    呆然と 、焼け崩れた土台石に腰をおろす 。たった一人の肉親 、親父 ――生きて
   いるのだろうか 。
    雑のうの中に 、靴下につめた二日分の米と 、毛布一枚 。着たっきりの軍服 。
   それだけが私の全財産だ 。
    さっき品川駅で皆と別れるまでは 、いかに惨めでも一人ではなかった 。しかし今 、
   初夏の青空のもとに 、あたりの空気はやわらかい 。まったく解放され 、自由の身だ 。
   なのに 、かつて知らない異様な孤独感 。やや栄養失調気味の衰えた身体に 、まわり
   からひしひしとおし迫ってくる 。じっと眼をつぶって耐えた 。」

   ( 出典 : 岡本太郎著 「 疾走する自画像 」みすず書房 刊 )

     ついでながら、インターネットのフリー百科事典「 ウィキペディア 」掲載の
    岡本太郎さん の 経歴記事から 。

   「 岡本 太郎( おかもと たろう 、1911年( 明治44年 )2月26日 - 1996年
    ( 平成8年 )1月7日 )は 、日本の芸術家 。血液型はO型 。
    1930年( 昭和5年 )から 1940年( 昭和15年 )までフランスで過ごす 。
    抽象美術運動やシュルレアリスム運動とも接触した 。」

   「 岡本太郎( 以下岡本と表記 )は 神奈川県橘樹郡高津村大字二子( 現・
    神奈川県川崎市高津区二子 )で 、漫画家 の 岡本一平 、歌人で小説家・
    かの子 との間に長男として生まれる 。父方の祖父は 町書家 の 岡本可亭
    であり 、当時可亭に師事していた 北大路魯山人 とは 、家族ぐるみの
    付き合いがあった 。

    父・一平は朝日新聞で " 漫画漫文 " という独自のスタイルで人気を博し 、
    『 宰相の名は知らぬが 、一平なら知っている 』と言われるほど有名に
    なるが 、付き合いのため収入のほとんどを呑んでしまうほどの放蕩ぶり
    で 、家の電気を止められてしまうこともあった 。
  
    母・かの子 は 、大地主の長女として乳母日傘 ( おんばひがさ ) で育ち 、
    若いころから文学に熱中 。 お嬢さん育ちで 、家政や子育てが全く出来
    ない人物だった 。岡本が3〜4歳の頃 、かまって欲しさにかの子の邪魔
    をすると 、彼女は太郎を兵児帯で箪笥にくくりつけたというエピソード
    がある 。また、かの子の敬慕者で愛人でもある堀切茂雄を一平の公認で
    自宅に住まわせていた 。そのことについて 、かの子は創作の為のプラト
    ニックな友人であると弁明していたが 、実際にはそうではなく 、自身も
    放蕩経験がある一平は容認せざるを得なかった 。後に岡本は『 母親とし
    ては最低の人だった 。』と語っているが 、生涯 、敬愛し続けた 。

    家庭環境の為か 、岡本は 1917年( 大正6年 )4月 、東京青山にある
    青南小学校に入学するもなじめず一学期で退学 。その後も日本橋通
    旅籠町の私塾・日新学校 、十思小学校へと入転校を繰り返した 。
    慶應義塾幼稚舎で自身の理解者となる教師 、位上清に出会う 。
    岡本はクラスの人気者となるも 、成績は52人中の52番だった 。
    ちなみにひとつ上の51番は後に国民栄誉賞を受賞した歌手の
    藤山一郎で 、後年岡本は藤山に『 増永( 藤山の本名 )は
    よく学校に出ていたくせにビリから二番 、オレはほとんど出
    ないでビリ 、実際はお前がビリだ 』と語ったという 。

    絵が好きで幼少時より盛んに描いていたが 、中学に入った頃
    から『 何のために描くのか 』という疑問に苛まれた 。
    慶應義塾普通部を卒業後 、画家になる事に迷いながらも 、
    東京美術学校へ進学した 。」  



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