今日の「 お気に入り 」は 、 岡本太郎 さん ( 1911 - 1996 ) が書かれた 文章「 夏祭 」。
昨日の続き 。
「 気をとりなおし 、親父と縁の深い朝日新聞社に行った 。そこで 、遠い岐阜の田
舎に疎開していることを聞き 、ほっとした 。だがそこまでたずねて行く気力 、
体力は 、私にはなかった 。多摩川の母の実家にたどりつき 、暖かいもてなしを
受けてしばらく弱りはてた身を休めた 。
敗戦の傷手 、物資の欠乏によって 、生活がすべてムキダシになっていた時代だ 。
闇市が栄え 、人間は素っ裸だった 。食うものもろくになかったが 、荒々しい活
気があった 。
ある宵 、人をたずねた帰り 、遅くなって多摩川にそった暗い道を歩いていた 。
向うから来た四 、五人づれの男達とすれちがった 。突然 、中の一人が 、
『 このニッポンジンの馬鹿野郎 ! 』
朝鮮人独特の 、訛 ( なま ) りで叫ぶと 、私は向うずねを蹴とばされた 。
まったくの不意打ちだった 。びっくりしたが 、蹴られた瞬間 、私は不思議に
相手に対する憤りを感じなかった 。
ひどく悲しい 、・・・ その痛みから 、言いようのないひびきが私には身体全
体につたわった 。それは人間的な痛みだった 。運命の悲しさ 。それにいくらか
動物的な味を加えて 。
日本の国の運命の痛みでもあった 。敗けたことが悲しいのではない 。この些細
なことにもむきだしになるような 、矛盾した道を 、長い間日本はたどってきた
のだ 。
真暗な闇の中で 、向うは私を知らない 。私も相手を知らない 。私自身への憎
しみはない 、しかし蹴とばす 。それは猛烈なゆがみだ 。日本と 、その運命が
作りあげたゆがんだ東洋 。互いに痛いんだ 。痛かったんだ 。恥らいのような
熱い痛苦が 、この理不尽な暴力にカッと燃えながらも 、身のうちにはしった 。
逆境時代の 、この孤独な想い出は 、黒々と闇にこめられた木立をバックにし
ている 。
その頃 、ちょうど夏祭の時期で 、真昼間町へ出ると 、方々でワッショイワッ
ショイ 、おみこしをかつぎまわっているのを見かけた 。
焼け野原のバラック 、何もかも変りはてた町を 、お祭が異様な活気でおし歩
いている 。私には不思議だった 。
あれほど国じゅう神がかりで 、勝つと思って拝んでいた 、不動の信念が 、こ
んなに徹底的にくつがえされたんだから 、もう神も信心もなくなってしまうの
かと思ったら 、平気なものだ 。もっとも 、おみこしは神信心とは別に関係な
い 、景気づけの年中行事としてやっているんだろうが 。
戦争に敗けて 、メイッているところへ活をいれる意味で 、それもいいだろう 。
だが 。
日盛りのもと 、紅や白粉が汗みどろになった奇怪な顔で 、ひどく気負った町
の若い衆たちが 、もんで行く 。その様子を見ていると 、ふと腹立たしい気分
になった 。過ぎてきた戦争いきさつが 、象徴的にそこにむきだしになってい
るような気がしたからだ 。
えらく勢いこんで 、傍若無人 、往来や人のことなんかまったく無視してしま
って 、あっちへよろけ 、こっちへナダレをうって 、ただわいわい景気をつけ
ている 。一人一人の顔を見ると 、奇妙に浮ずっている 。まるで自分一人でか
ついでいるような息まき方だ 。
しかしそうやっているうちに 、何かのハズミでおみこしがひっくりかえる 。
すると 、あれほど気負っていた連中が 、みんなケロリとした無責任な顔つき
なのだ 。
ワッショイワッショイとかつぎあげて 、ドカンとひっくり返し 、誰も知っち
ゃいない 。まさに神国日本の姿だった 。 」
( 出典 : 岡本太郎著 「 疾走する自画像 」みすず書房 刊 )
ついでながら、インターネットのフリー百科事典「 ウィキペディア 」掲載の
経歴記事から 岡本太郎さん の「 年譜 」。
「 年 譜
1911年( 明治44年 )2月26日 、母の実家である神奈川県橘樹郡高津村二子 /
現在の川崎市高津区二子 に生まれる。
1917年( 大正6年 ) 東京・青山の青南小学校に入学
1918年( 大正7年 ) 2回の転校ののち 、東京・渋谷の慶應幼稚舎に入学 。
1929年( 昭和4年 )
慶應義塾普通部を卒業 、東京美術学校( 現・東京芸術大学 )洋画科入学 、
半年後中退 。
父のロンドン軍縮会議取材に伴い 、渡欧 。その後 、パリ大学ソルボンヌ校
で哲学・美学・心理学・民族学を学ぶ 。
1936年( 昭和11年 ) 油彩『 傷ましき腕 』を制作 。
1940年( 昭和15年 ) パリ陥落の直前に帰国 。
1942年( 昭和17年 ) 海外に在住していたために延期されていた徴兵検査を31歳に
して受け 、甲種合格 。召集され 、中国にて自動車隊の輜重兵として軍隊
生活を送る 。
1945年( 昭和20年 )5月 、東京・南青山高樹町一帯を襲ったアメリカ軍の焼夷弾
による空襲により 、岡本太郎のパリ時代の全作品が焼失 。
1946年( 昭和21年 ) 復員 、東京都世田谷区上野毛にアトリエを構える 。
1947年( 昭和22年 ) 後に養女となる平野( 旧姓 )敏子と出会う 。
1948年( 昭和23年 ) 花田清輝 、埴谷雄高らと「 夜の会 」結成 。
1949年( 昭和24年 ) 翌年の現代美術自選代表作十五人展のために 、読売新聞美術
記者・海藤日出男のたっての希望により 、戦災で焼失した油彩画『 傷まし
き腕 』『 露天 』を再制作 。
1950年( 昭和25年 ) 読売新聞主催の現代美術自選代表作十五人展に11作品を出品 。
1951年( 昭和26年 ) 東京国立博物館で縄文土器を見る( 11月7日 ) 。
1952年( 昭和27年 ) 「 四次元との対話-縄文土器論 」を美雑誌『 みずゑ 』に発表
する 。11月に渡欧 。翌年にかけてパリとニューヨークで個展を開く 。
1954年( 昭和29年 ) アトリエを青山に移し「 現代芸術研究所 」を設立 。『 今日
の芸術 』を光文社からはじめて刊行 。
1955年( 昭和30年 ) ヘリコプターで銀座の夜空に光で絵を描く 。
1956年( 昭和31年 ) 旧東京都庁舎( 丹下健三設計 )に『 日の壁 』『 月の壁 』
など11の陶板レリーフを制作 。
1957年( 昭和32年 ) 46歳にしてスキーを始める 。
1959年( 昭和34年 ) 初めて沖縄に旅行する 。またこの年から彫刻を始める 。
1961年( 昭和36年 ) 草津白根山でスキー中に骨折入院( 同じ病院には石原裕次郎
が入院していた )。療養中に油彩『 遊ぶ 』、彫刻『 あし 』を制作 。
『 忘れられた日本 ―― 沖縄文化論 』が毎日出版文化賞受賞
1964年( 昭和39年 ) 東京オリンピックの参加メダルの表側をデザイン 。
1965年( 昭和40年 ) 名古屋の久国寺に梵鐘『 歓喜 』制作 。
1967年( 昭和42年 ) 大阪万国博覧会のテーマ展示プロデューサーに就任 。
1968年( 昭和43年 ) 初めての建築作品《 マミ会館 》が竣工 。
1969年( 昭和44年 ) 1968年から制作が開始されていた『 明日の神話 』完成 。
1970年( 昭和45年 ) 大阪の日本万国博覧会のテーマ展示館『 太陽の塔 』完成 。
1973年( 昭和48年 ) 岡本太郎デザインの飛行船レインボー号が空を飛んだ 。
スポンサーは積水ハウス。
1974年( 昭和49年 ) NHK放送センター・ロビーにレリーフ壁画『 天に舞う 』制作 。
1976年( 昭和51年 ) キリン・シーグラムから発売されたブランデーの記念品として
《 顔のグラス 》を制作 。「 グラスの底に顔があってもいいじゃないか 」が
流行語になる 。
1977年( 昭和52年 ) スペイン国立版画院に 、日本人作家として初めて銅版画が収蔵
される 。
1978年( 昭和53年 ) 毎日放送のテレビ番組『 もうひとつの旅 』撮影のために訪れた
マヨルカ島で 、ショパンが使用したピアノを弾く 。
1979年( 昭和54年 ) 慶應義塾大学の卒業記念品としてペーパーナイフを制作 。はじ
めての著作集が講談社から翌年にかけて刊行される 。
1981年( 昭和56年 ) 初めてコンピューターで絵を描く 。日立マクセルのCMに出演 。
ピアノを叩き叫んだ言葉「 芸術は爆発だ!」が同年の流行語大賞の語録賞を
受ける。
1982年( 昭和57年 ) 慶和幼稚園( 名古屋市港区 )の新園舎の竣工にあたり 、遊戯室
にモザイク壁画『 あそび 』を制作 。
1984年( 昭和59年 ) フランス政府より芸術文化勲章オフィシエを受章 。
1985年( 昭和60 年) つくば万博のシンボルモニュメント《 未来を視る 》を制作 。
あわせて万博記念発売の洋酒ボトルをデザインす る。こどもの城のシンボル
モニュメント 、《 こどもの樹 》を制作 。
1986年( 昭和61年 ) 福井県三方町で復元された縄文前期の丸木舟の進水式で舟長と
して舟を漕ぐ 。
1988年( 昭和63年 ) ダスキンのCMに出演 。翌年アメリカの第29回国際放送広告賞
を受賞 。
1989年( 平成元年 ) フランス政府より芸術文化勲章コマンドゥールを受章 。
1991年( 平成3年 ) 東京都庁舎移転のため 、旧庁舎に設置されていた1956年作の陶板
レリーフが取り壊される。
1992年( 平成4年 ) 油彩『疾走する 眼』制作 。
1994年( 平成6年 ) 三重県で開催される世界祝祭博覧会のシンボルモニュメント『 であい 』制作 。
1996年( 平成8年 )1月7日 急性呼吸不全のため慶應義塾大学病院にて逝去( 満84歳没 )。 」