今日の「お気に入り」は 、 岡本太郎 さん ( 1911 - 1996 ) の「 憂愁 」と題された
詩一篇 、そして 小文 「 憂愁の頃 」。
「 憂 愁
心空しい時 、ハタハタと鳴る
わが悲しみのあかし―― 旗
右から左のこめかみにかけて
一 ( ひと ) はた ―― 又一 ( ひと ) はた
さゝやかな白い旗
心 、傷つき
血のほとばしり出るとき
ぬぐひ去ることの出来ない
不幸のあかしとして
一 ( ひと ) はた ―― 又一 ( ひと ) はた
角のやうに ――
影のやうに ――
環を描いて 、我が額のまわりに生え出る 。
うつろな心に 、風がたちそめると 、
あゝこの旗は
それぞれの傷ましい思ひ出に戦き、
高く 、或は低く 、
聲を合せ
ハタハタと鳴る
ハタハタ ――
ハタハタ ハタハタと 。
1948.3.13 」
「 憂愁の頃
終戦後一年 、復員して東京のわが家のあとにたどりついて 、ぼう然とした 。一帯の
焼け跡 。家族の生き死にもわからない 。私はポケットの中に二千円持っていた 。佐
世保上陸の際支給された 、軍隊生活五年間の決算である 。
ぐっと 、それを握りしめた 。オレの全財産だ 。それは 、じっとりとした実感だった 。
一日 、二日して 、町で偶然 、横山隆一 、永井龍男の両人に会った 。生きていたのか 、
というわけで銀座裏のヤミ商売をしているバーで祝杯をあげてくれた 。栄養失調寸前
の身体である 。いきなり強い酒がはいったので 、いっぺんに意識不明 。気がつくと 、
私は国電のプラットホームにいた 。あわててポケットをさぐったが 、トラの子がない 。
両足がふうっと軽くなったような気がした 。無い 、無い 、しまった 。そう思いながら 、
また意識を失ってしまった 。
さて住む家もなく 、しかも文字通り無一文である 。悲壮だった 。やっと知りあいの
出版社をさがして 、千円だけ貸してもらった 。
そんな状態で迎えた復員第一年の歳の暮れのさびしさは 、いま思い出してもゾッと
する 。
身体のシンまで凍りつくような寒い晩だった 。新橋裏でカストリしょうちゅうをのみ 、
かなり酔って 、偶然一緒になった女性を白金まで送って行った 。遅いから泊まって行
くように 、とすすめるのを 、キレイなところを見せようと 、ちょっと気どって無理に
別れて歩きだした 。
さて 、玉川の奥まで帰らなければならなかったのだが 、五反田の駅にたどりついたの
は十一時すぎ 、もう終電車が出たあとである 。まさか歩いて帰るわけにもいかない 。
その辺は花柳街だったし 、どこか休むところがあるだろうと思ってさがしてみたが 、
全部戸をぴったり締めている 。当時は物騒な時代で 、たしか十一時になるともう盛り
場では戸をあけなかったものである 。
途方にくれて 、駅前の交番に行った 。そのころはおまわりさんもひどく低姿勢で 、
『 困りましたなあ 。国電の始発まで 、ここでお待ちになったどうですか 』という 。
私は巡査のイスに腰をおろして 、小さい電熱器に手をかざしながら夜のあけるのを
待った 。
寒い 。警官は交替で仮眠に行くのだが 、こちらはじいっと 、寒さにふるえながら
表のやみをながめて耐えた 。これはまったく軍隊の衛兵勤務だ 。つらかったあの
前線の勤務がまざまざと全身によみがえってくる 。やっとあんな悪夢からおさらば
したというのに 、またこんなところで繰り返すとは 、うらめしく 、口惜しく 、涙
が出そうになった 。
白いものがちらちらしてきた 。その朝 、東京に初雪が降った 。
翌年の暮れのことである 。やっとアトリエをもって仕事をはじめることが出来た
のだが 、相変わらず赤貧だった 。独りものの身の回りを世話するために 、親せき
が心配して 、若いがえらく気の強い女の子をつけてくれた 。豆タンクのようによく
働く 。私はしょっちゅうヘコまされていた 。金がはいると 、全部渡して 、やりく
りしてもらう 。
ある朝 、彼女が急にひらき直って言った 。『 家にはもう七十五円しかありません 。』
私はドキッとした 。どこからもはいってくるあてはない 。彼女はそれでもかいがい
しく 、買いものに出かけて行ったようだ 。やがて両手いっぱいに花をかかえて帰って
来て 、部屋に活けはじめた 。
『 どうしたんだい ? 』と聞くと 、
『 花を買って来ました 』
『 いくらだ ? 』
『 四十円です 』
それじゃあ 、残り三十五円 、とピンとくる 。私は憤然とした 。
『 どうしてこんな時に花なんか買ってくるんだ 』
彼女はすまして答えた 。『 お金がないときは 、花ぐらい飾った方がいいです 』
バカヤロー 、花なんか食えるか 、と腹の中でどなった 。
『 憂愁 』という絵を描いたのは 、その時代である 。 」
( 出典 : 岡本太郎 著 「 疾走する自画像 」みすず書房 刊 )
この文章を読んだときおどろいたのは 、昭和21年という 、敗戦の一年後に
中国大陸から復員した 岡本さん が 、
・ 佐世保上陸に際して 金「 二千円 」也 を 「 軍隊生活五年間の決算 」として支給
されていたこと 。
( 進駐軍の統治下とは言え 、敗戦国の復員兵に対して 、「 一時金 」
だか「 慰労金 」らしきものが 、行政機関から 粛々と 支給されていたんだ 。
昭和21年2月の「 新円切替」後の 「 二千円 」だから 、そう大きな金額では
なさそうだけど 、今の貨幣価値で いくらぐらい ?
佐世保から東京までの交通費は 、かかったんだろうか 、それとも公費だったのか ? )
そして 、
・ 昭和21年の歳末に 、「 国電 」が 、夜の11時頃まで運行されていて 、五反田駅前に
交番があって 、複数の警官 ( おまわりさん 、巡査 ) が交替で夜勤していたこと 。
後年 、岡本さん の 秘書 兼 養女 となる 平野( 旧姓 )敏子さん との出会い ( 昭和22年 )
や赤貧時代のお二人のエピソードが 、ほほえましく述べられています 。
「 進駐軍 」 がアメリカ以外の「 他の国 ( 々 ) 」でなくてよかった 、とつくづく思う 今日この頃 。
筆者が生まれる前のことだけど 、ソ連 や 共産党中国 でなくて ほんとうに よかった 。
お行儀のいい「 進駐軍 」ばかりではなかったようだけど 、
77年後の現在 、ウクライナに侵攻中の どこかの 、民度の低い国の 傭兵混じりの
「 進駐軍 」 とは 、ずいぶんと違うような 。
頭の中から 、「 モラル 」が ストン と 抜けてんだ 。