「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

憂愁 Long Good-bye 2022・05・14

2022-05-14 05:14:00 | Weblog

   
   今日の「お気に入り」は 、 岡本太郎 さん ( 1911 - 1996 ) の「 憂愁 」と題された
  詩一篇 、そして 小文 「 憂愁の頃 」。

   「  憂 愁

    心空しい時 、ハタハタと鳴る
    わが悲しみのあかし―― 旗
    右から左のこめかみにかけて
    一 ( ひと ) はた ―― 又一 ( ひと ) はた
    さゝやかな白い旗
    心 、傷つき
    血のほとばしり出るとき
    ぬぐひ去ることの出来ない
    不幸のあかしとして
    一 ( ひと ) はた ―― 又一 ( ひと ) はた
    角のやうに ――
    影のやうに ――
    環を描いて 、我が額のまわりに生え出る 。
    うつろな心に 、風がたちそめると 、
    あゝこの旗は
    それぞれの傷ましい思ひ出に戦き、
    高く 、或は低く 、
    聲を合せ
    ハタハタと鳴る
    ハタハタ ――
    ハタハタ ハタハタと 。

      1948.3.13   」

  「 憂愁の頃

    終戦後一年 、復員して東京のわが家のあとにたどりついて 、ぼう然とした 。一帯の
   焼け跡 。家族の生き死にもわからない 。私はポケットの中に二千円持っていた 。佐
   世保上陸の際支給された 、軍隊生活五年間の決算である 。
    ぐっと 、それを握りしめた 。オレの全財産だ 。それは 、じっとりとした実感だった 。
    一日 、二日して 、町で偶然 、横山隆一 、永井龍男の両人に会った 。生きていたのか 、
   というわけで銀座裏のヤミ商売をしているバーで祝杯をあげてくれた 。栄養失調寸前
   の身体である 。いきなり強い酒がはいったので 、いっぺんに意識不明 。気がつくと 、
   私は国電のプラットホームにいた 。あわててポケットをさぐったが 、トラの子がない 。
   両足がふうっと軽くなったような気がした 。無い 、無い 、しまった 。そう思いながら 、
   また意識を失ってしまった 。
    さて住む家もなく 、しかも文字通り無一文である 。悲壮だった 。やっと知りあいの
   出版社をさがして 、千円だけ貸してもらった 。
    そんな状態で迎えた復員第一年の歳の暮れのさびしさは 、いま思い出してもゾッと
   する 。
    身体のシンまで凍りつくような寒い晩だった 。新橋裏でカストリしょうちゅうをのみ 、
   かなり酔って 、偶然一緒になった女性を白金まで送って行った 。遅いから泊まって行
   くように 、とすすめるのを 、キレイなところを見せようと 、ちょっと気どって無理に
   別れて歩きだした 。
    さて 、玉川の奥まで帰らなければならなかったのだが 、五反田の駅にたどりついたの
   は十一時すぎ 、もう終電車が出たあとである 。まさか歩いて帰るわけにもいかない 。
   その辺は花柳街だったし 、どこか休むところがあるだろうと思ってさがしてみたが 、
   全部戸をぴったり締めている 。当時は物騒な時代で 、たしか十一時になるともう盛り
   場では戸をあけなかったものである 。
    途方にくれて 、駅前の交番に行った 。そのころはおまわりさんもひどく低姿勢で 、
   『 困りましたなあ 。国電の始発まで 、ここでお待ちになったどうですか 』という 。
    私は巡査のイスに腰をおろして 、小さい電熱器に手をかざしながら夜のあけるのを
   待った 。
    寒い 。警官は交替で仮眠に行くのだが 、こちらはじいっと 、寒さにふるえながら
   表のやみをながめて耐えた 。これはまったく軍隊の衛兵勤務だ 。つらかったあの
   前線の勤務がまざまざと全身によみがえってくる 。やっとあんな悪夢からおさらば
   したというのに 、またこんなところで繰り返すとは 、うらめしく 、口惜しく 、涙
   が出そうになった 。
    白いものがちらちらしてきた 。その朝 、東京に初雪が降った 。
    翌年の暮れのことである 。やっとアトリエをもって仕事をはじめることが出来た
   のだが 、相変わらず赤貧だった 。独りものの身の回りを世話するために 、親せき
   が心配して 、若いがえらく気の強い女の子をつけてくれた 。豆タンクのようによく
   働く 。私はしょっちゅうヘコまされていた 。金がはいると 、全部渡して 、やりく
   りしてもらう 。
    ある朝 、彼女が急にひらき直って言った 。『 家にはもう七十五円しかありません 。』
    私はドキッとした 。どこからもはいってくるあてはない 。彼女はそれでもかいがい
   しく 、買いものに出かけて行ったようだ 。やがて両手いっぱいに花をかかえて帰って
   来て 、部屋に活けはじめた 。
    『 どうしたんだい ? 』と聞くと 、
    『 花を買って来ました 』
    『 いくらだ ? 』
    『 四十円です 』
    それじゃあ 、残り三十五円 、とピンとくる 。私は憤然とした 。
    『 どうしてこんな時に花なんか買ってくるんだ 』
    彼女はすまして答えた 。『 お金がないときは 、花ぐらい飾った方がいいです 』
    バカヤロー 、花なんか食えるか 、と腹の中でどなった 。
    『 憂愁 』という絵を描いたのは 、その時代である 。 」

   ( 出典 : 岡本太郎 著 「 疾走する自画像 」みすず書房 刊 )

    この文章を読んだときおどろいたのは 、昭和21年という 、敗戦の一年後に
   中国大陸から復員した 岡本さん が 、
    
    ・ 佐世保上陸に際して 金「 二千円 」也 を 「 軍隊生活五年間の決算 」として支給
     されていたこと 。

     ( 進駐軍の統治下とは言え 、敗戦国の復員兵に対して 、「 一時金 」
     だか「 慰労金 」らしきものが 、行政機関から 粛々と 支給されていたんだ 。
      昭和21年2月の「 新円切替」後の 「 二千円 」だから 、そう大きな金額では
     なさそうだけど 、今の貨幣価値で いくらぐらい ?
     佐世保から東京までの交通費は 、かかったんだろうか 、それとも公費だったのか ? )

    そして 、

    ・ 昭和21年の歳末に 、「 国電 」が 、夜の11時頃まで運行されていて 、五反田駅前に
     交番があって 、複数の警官 ( おまわりさん 、巡査 ) が交替で夜勤していたこと 。
  
    後年 、岡本さん の 秘書 兼 養女 となる 平野( 旧姓 )敏子さん との出会い ( 昭和22年 )
   や赤貧時代のお二人のエピソードが 、ほほえましく述べられています 。


    「 進駐軍 」 がアメリカ以外の「 他の国 ( 々 ) 」でなくてよかった 、とつくづく思う 今日この頃
    筆者が生まれる前のことだけど 、ソ連 や 共産党中国 でなくて ほんとうに よかった 。
    お行儀のいい「 進駐軍 」ばかりではなかったようだけど 、
    77年後の現在 、ウクライナに侵攻中の どこかの 、民度の低い国の 傭兵混じりの
   「 進駐軍 」 とは 、ずいぶんと違うような 。 

    頭の中から 、「 モラル 」が ストン と 抜けてんだ 。     












コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする