今日の「お気に入り」は 、 岡本太郎 さん ( 1911 - 1996 ) が書かれた 小文 「 夏祭 」。
「 夏祭の季節だ 。町にはオミコシがくり出し 、町内の顔役 、親父連がそろいの浴衣
で 、うちわを振りたてながら先頭に立って 、ワッショイ 、ワッショイやっている 。
通りは忙しく車が往きかい、いつもの通り 、無関心な人達が通りすぎて行く 。
すこしも祭ではないのだが 、彼らだけが奇妙に浮上がって 、一生けんめい景気を
つけ 、あおってくる 。何か気の毒のような 、時代のズレを感じてしまうのだが 。
こんな風景を見ると 、私にはふっと 、戦地から帰ってきた 、復員直後の夏の想
い出がよみがえってくるのだ 。
終戦翌年の六月半ば 、私は中国から復員してきた 。
日は空高くギラギラ輝いていたが 、べっとりとはりつくような湿気に息苦しい 。
佐世保から乗込んだ列車は 、疲れきってうす汚れた 、汗臭い復員兵であふれて
いた 。車窓から眺める五年ぶりの故国の山 、田畑 ・・・ 国は敗れたが 、勤勉な
農民達が 、せっせと野良仕事をしているのを見ながら 、私は何かうれしいような 、
もの悲しいような気持だった 。
山陽線の道のりはながかった 。とまっては 、のろのろと走り出す列車 。また
停る 。翌日 、まる一日がかりで 、ようやく真昼の大阪駅に着いた 。
おっ ! と押しころしたような叫び声が車内にひろがった 。ごみごみしたプラッ
トホームのあちこちで 、派手な衣装 、こってり化粧した女達が 、GIと抱きあっ
たり 、人眼かまわずイチャついているのだ 。
パリ暮しのながかった私には 、街なかで抱擁・接吻ぐらいありきたりの風景だし 、
戦いに敗れ 、占領され 、なるほどこんなことだろうとしか思わない 。しかし 、兵
隊達は眼をうたがったようだ 。ついこの間まで 、猛烈な憎しみをもって殺しあって
きた敵 。あの 『 鬼畜米英 』が 、しかも白昼 、公衆の眼の前で 。
青黒い復員兵達の顔が 、異様な目つきでそれを見まもっていた 。
すると 、中年の駅員がそっと車窓に寄ってきた 。小声で 、吐きだすように言った 。
『 毎日あんなザマですよ 。・・・日本の女は 、世界中で 、一番わるいやつですわ 』
軽蔑しきったという風 。いかにも口惜しそうな顔は暗くゆがんでいる 。
このニッポン男子 ・・・ つい先頃までは 、世界一の男とうぬぼれていたのだが 、
弱いものの方を責める 。エゴイスティックな負け犬の遠吠えだ 。
翌朝 、やっと東京に着いた 。到るところ焼け野原 。だが 、わが家のある青山は
広大な神宮の森に近く 、閑静なところだ 。引揚船の乗組員から 、東京は丸焼けだ
が 、あの辺だけは残ってますよ 、ときかされていた。もしかしたら 、と多少の望
みをつないでたどり着くと 、見わたす限りの焼け跡だ 。わが家とおぼしきあたりに
は青々と麦が風にそよいでいた 。
呆然と 、焼け崩れた土台石に腰をおろす 。たった一人の肉親 、親父 ――生きて
いるのだろうか 。
雑のうの中に 、靴下につめた二日分の米と 、毛布一枚 。着たっきりの軍服 。
それだけが私の全財産だ 。
さっき品川駅で皆と別れるまでは 、いかに惨めでも一人ではなかった 。しかし今 、
初夏の青空のもとに 、あたりの空気はやわらかい 。まったく解放され 、自由の身だ 。
なのに 、かつて知らない異様な孤独感 。やや栄養失調気味の衰えた身体に 、まわり
からひしひしとおし迫ってくる 。じっと眼をつぶって耐えた 。」
( 出典 : 岡本太郎著 「 疾走する自画像 」みすず書房 刊 )
ついでながら、インターネットのフリー百科事典「 ウィキペディア 」掲載の
岡本太郎さん の 経歴記事から 。
「 岡本 太郎( おかもと たろう 、1911年( 明治44年 )2月26日 - 1996年
( 平成8年 )1月7日 )は 、日本の芸術家 。血液型はO型 。
1930年( 昭和5年 )から 1940年( 昭和15年 )までフランスで過ごす 。
抽象美術運動やシュルレアリスム運動とも接触した 。」
「 岡本太郎( 以下岡本と表記 )は 神奈川県橘樹郡高津村大字二子( 現・
神奈川県川崎市高津区二子 )で 、漫画家 の 岡本一平 、歌人で小説家・
かの子 との間に長男として生まれる 。父方の祖父は 町書家 の 岡本可亭
であり 、当時可亭に師事していた 北大路魯山人 とは 、家族ぐるみの
付き合いがあった 。
父・一平は朝日新聞で " 漫画漫文 " という独自のスタイルで人気を博し 、
『 宰相の名は知らぬが 、一平なら知っている 』と言われるほど有名に
なるが 、付き合いのため収入のほとんどを呑んでしまうほどの放蕩ぶり
で 、家の電気を止められてしまうこともあった 。
母・かの子 は 、大地主の長女として乳母日傘 ( おんばひがさ ) で育ち 、
若いころから文学に熱中 。 お嬢さん育ちで 、家政や子育てが全く出来
ない人物だった 。岡本が3〜4歳の頃 、かまって欲しさにかの子の邪魔
をすると 、彼女は太郎を兵児帯で箪笥にくくりつけたというエピソード
がある 。また、かの子の敬慕者で愛人でもある堀切茂雄を一平の公認で
自宅に住まわせていた 。そのことについて 、かの子は創作の為のプラト
ニックな友人であると弁明していたが 、実際にはそうではなく 、自身も
放蕩経験がある一平は容認せざるを得なかった 。後に岡本は『 母親とし
ては最低の人だった 。』と語っているが 、生涯 、敬愛し続けた 。
家庭環境の為か 、岡本は 1917年( 大正6年 )4月 、東京青山にある
青南小学校に入学するもなじめず一学期で退学 。その後も日本橋通
旅籠町の私塾・日新学校 、十思小学校へと入転校を繰り返した 。
慶應義塾幼稚舎で自身の理解者となる教師 、位上清に出会う 。
岡本はクラスの人気者となるも 、成績は52人中の52番だった 。
ちなみにひとつ上の51番は後に国民栄誉賞を受賞した歌手の
藤山一郎で 、後年岡本は藤山に『 増永( 藤山の本名 )は
よく学校に出ていたくせにビリから二番 、オレはほとんど出
ないでビリ 、実際はお前がビリだ 』と語ったという 。
絵が好きで幼少時より盛んに描いていたが 、中学に入った頃
から『 何のために描くのか 』という疑問に苛まれた 。
慶應義塾普通部を卒業後 、画家になる事に迷いながらも 、
東京美術学校へ進学した 。」