今日の「 お気に入り 」 は 、読み応えのある「 安倍晋三回顧録 」の一節 。
備忘の為 、抜き書き 。
引用はじめ 。
「 小池さんは 、常にジョーカーです 。手札の1から13の中には
ないのです 。ジョーカーのカードなしでも 、トランプの多くの
ゲームは成り立つのだけれど 、ジョーカーが入ると 、特殊な効
果を発揮してくる 。ある種のゲームでは 、グンと強い力を持つ 。
スペードのエースよりも強い 。彼女は 、自分がジョーカーだと
いうことを認識していると思います 。ジョーカーが強い力を持つ
には 、そういう政治の状況が必要だね 、ということも分かって
いる 。 」
「 小池さんはいい人ですよ 。いい人だし 、人たらしでもある 。
相手に勢いがある時は 、近づいてくるのです 。2016 年に知事
に就任した当初は 、私の背中をさすりながら話しかけてきて 、
次の衆院選では自民党の応援にに行きますからね 、とまで言っ
ていたのです 。
しかし 、相手を倒せると思った時は 、パッとやってきて 、横
っ腹を刺すんです 。『 あれ 、わき腹が痛いな 』とこっちが思っ
た時には 、もう遅い 。
彼女を支えている原動力は 、上昇志向だと思いますよ 。誰だっ
て上昇志向を持つことは大切です 。でも 、上昇して何をするの
かが 、彼女の場合 、見えてこない 。上昇すること自体が目的に
なってしまっているんじゃないかな 。 」
「 上昇する過程では 、小池さんは関係者を徹底的に追い落と
してきましたね 。築地市場の豊洲移転問題では 、土壌汚染
対策などが不十分だったのではないかと石原慎太郎元知事の
責任を追及した 。都議会のドンと言われた内田茂前自民党
都連幹事長と対立し 、内田氏を引退に追い込みました 。そう
考えると 、私も危うかったです 。
彼女の弱点は 、驚くほど実務が苦手な点です 。 」
引用おわり 。
( ついでながらの
筆者註:「 小池 百合子( こいけ ゆりこ 、1952年 〈 昭和27年 〉 7月15日 - )は 、
日本の政治家 。
都民ファーストの会所属の東京都知事( 第20・21代 )。 都民ファースト
の会特別顧問 。
アラビア語通訳者 、ニュースキャスターを経て 、1992年に政界へ転身した 。
テレビ東京 『 ワールドビジネスサテライト 』 キャスター( 「 小池ユリ子 」
名義 )、参議院議員( 1期 )、 衆議院議員( 8期 )、 総務政務次官 、
経済企画総括政務次官 、環境大臣 、内閣府特命担当大臣( 沖縄及び北方対
策担当 )、 防衛大臣 、自由民主党広報本部長 、自由民主党総務会長 、自
由民主党国際人材議員連盟会長 、都民ファーストの会代表 、希望の党代表
を歴任した 。
経 歴
兵庫県芦屋市出身 。父・小池勇二郎 は 戦時中 、仲小路彰 、小島威彦らが
創設した思想団体 『 スメラ学塾 』 のメンバーとして活動し 、石油関連の
貿易商として戦後に財を成した 。また 、政治家への転身を考えていた父親
は 末次一郎 に心酔していた 。1959年 、末次の主催する日本健青会がエジ
プトとの交流事業を行い 、その一環としてアラブ、アフリカ諸国に視察団
を送る 。視察団に参加した勇二郎は エジプトのカイロで感激し 『 自分は
ここに残って商売がしたい 』 と言い出した 。結局 、周囲に説得させられ
て帰国するが 、小池百合子とエジプトの縁は ここに端を発した 。
芦屋市立岩園小学校 、甲南女子中学校を経て 、1968年に甲南女子高校に
進学 。在学中は 、テニス部 、ソフトボール部 、ESS部 に所属した 。
高校2年の1969年12月 、父親の勇二郎は 第32回衆議院議員総選挙に 、石
原慎太郎による将来的な新党結成を見据えた 『 日本の新しい世代の会 』
の推薦を受けて旧兵庫2区から無所属で立候補したが 落選 。
業者間転売品の仕事が立ち行かなくなった父親は 、1970年に ムハンマド・
アブドゥル・カーデル・ハーテム が来日すると 、日本アラブ協会が主催し
た歓迎パーティーに出席し ハーテム に自分を売り込んだ 。帰国したハー
テムを追いかけ 、同協会に所属する国会議員の紹介状を手にエジプトに
飛んだ 。さらに ハーテムの知遇を得た勇二郎は 帰国後の同年10月14日 、
大阪倶楽部で講演を行う 。『 中東から日本に入ってくる石油は すべて
ユダヤ人が経営する企業を経由している 。今回の中東訪問で自分は人脈
を築いたので 、ユダヤ企業を通さず石油を仕入れられるが 、足りないの
は 自前のタンカーである 』 と述べて投資を募り 、商売を続けた 。
1971年3月 、甲南女子高校卒業 。同年4月 、関西学院大学社会学部に入学 。
朝堂院大覚によれば 、その後ほどなくして父親の会社が倒産し 、一家は
東京都の六本木に引っ越して 朝堂院の事務所で働いたという 。 『 国際連
合の公用語にアラビア語が加わる 』 旨を伝える新聞記事がきっかけでアラ
ビア語通訳を目指し 、同年9月に大学を中退して父親の貿易先でもあった
エジプトへ留学した 。
カイロ市の カイロ・アメリカン大学( 英語版 )で アラビア語を修めたと
いう 。エジプト滞在中にカイロ近郊にあるギザの大ピラミッドを登り 、
その天辺で 茶道の形式に則りお茶を点てたことがある 。両親は 朝堂院
( 松浦良右 )の資金援助で カイロ市で日本食レストランを経営するが 、
その会社は 小池の留学中に倒産した 。
1972年6月 、カイロ大学に入学 。1976年10月 、同大学文学部社会学科
を卒業 。小池の著書によれば 『 カイロ大学を首席で卒業 』と記されて
いる 。来日するエジプトのサダト大統領夫人の ジハン・サダト をエス
コートするために 、同年10月11日 、一時帰国 。
11月にまたエジプトに戻り 、12月に正式に帰国した 。
通訳・ニュースキャスター時代
帰国後は アラビア語の通訳として活動 。父勇二郎の友人で民族主義者の
中谷武世が会長を務める 日本アラブ協会 の嘱託となり 通訳兼アラビア語
講師を担当する( 1989年には同協会の事務局長に就任 )。
PLO議長アラファトやリビアのカダフィの会見では 、コーディネーター兼
インタビュアーを務めた 。
1979年から1985年まで 、日本テレビのトーク番組 『 竹村健一の世相講談 』
で アシスタントキャスターを務めた 。 『 海外ウィークリー 』 の 幸田シャ
ーミン や 野中ともよ 、『 BIG NEWS SHOW いま世界は 』 の安藤優子より
1年早いデビューで 、元々フリーから出発した女性キャスターとしては草分け
的存在であった 。
1984年 、ヌスレット・サンジャクリの抗議により 『 トルコ風呂 』 の名称が
『 ソープランド 』に改められた際 、小池は この運動を支援しており 、本人
も後日新聞報道でそれを認めている 。小池によれば 、トルコ留学生の熱心な
訴えを聞き 、国家の尊厳を守るという 『 大義 』 に加えて 、個人的な共感
の結果であったという 。自ら 厚生省に乗り込み 、当時大臣だった 渡部恒三
に 『 日本中でトルコの名前が出ているが 、これはやめてくれ 』 と直談判 、
渡部の指導により 『 トルコ風呂 』 という名称は使用されなくなった 。
1988年 、テレビ東京 『 ワールドビジネスサテライト 』 初代メインキャス
ター に就任 。1990年度の 日本女性放送者懇談会賞 を受賞 。
( 後 略 ) 」
以上ウィキ情報 。 )