今日の「 お気に入り 」 は 、作家 司馬遼太郎さんの 「 街道をゆく 」から
「 湖西の安曇人 ( あずみびと ) 」の一節 。
備忘の為 、抜き書き 。昨日の続き 。
引用はじめ 。
「 日本民族はどこからきたのであろう 。
という想像は 、わが身のことだからいかにも楽しいが 、しかし空しくもある 。
考古学と文化人類学がいかに進もうとも 、それが数学的解答のように明快にな
るということはまずない 。が 、まだ学問としては若いといえる日本語中心の
比較言語学の世界になると 、今後英才が出てきて 、大きなかぎをさぐりあてる
かもしれない 。
ただしいまは 、まだ茫漠たる段階である 。なにしろどの大学にも国語学者が
いるが 、たとえば隣接地の言葉である朝鮮語を同時にやっているという当然
の方法さえ 、いまはほとんどおこなわれていない段階なのである 。この稿の
読者のなかで 、一念発起してそれを生涯のテーマとしてやってみようという青
年がいればありがたいのだが 。
ふと湖にはさまれた湖西の寂しい道を走りながら 、
『 日本人はどこからきたのでしょうね 』
と 、編集部のH氏がつぶやいたのも 、どうせちゃんと答えがあるはずがな
いという物憂げな語調だった 。
しかしこの列島の谷間でボウフラのように湧いて出たのではあるまい 。
はるかな原始時代には触れぬほうが利口であろう 。しかしわれわれには可視
的な過去がある 。それを遺跡によって 、見ることができる 。となれば日本
人の血液のなかの有力な部分が朝鮮半島を南下して大量に滴り落ちてきたこと
はまぎれもないことである 。その証拠は 、この湖西を走る車のそとをみよ 。
無数に存在しているではないか 。
私の友人 ―― といえば先輩にあたる作家に対して失礼だが ―― 金達寿
( キム・ダルス ) 氏と話していたとき 、
『 日本人の血液の六割以上は朝鮮半島をつたって来たのではないか 』
というと 、
『 九割 、いやそれ以上かもしれない 』
と 、金達寿氏は 、『 三国志 』のころの将軍のような風貌をほころばせな
がら笑った 。私はそうかもしれないと思いつつも 、
『 それではみもふたもない 』
と 、閉口してみせた 。それでは日本語のなかに語彙として痕跡をとどめて
いる南方島嶼語をもちこんだ連中 ―― 黒潮に乗って ―― はどうなるのか
とか 、あるいは東シナ海を横切ってきた華南大陸からの連中や 、またさら
にこまかくいえばその連中の血液に微量ながら混入していたはずのユダヤや
アラブ人の血はどうなるのか 、といったこと 、そして数量的にはいまの学説
ではあまり過大に考えられないというにせよ 、アイヌ人の血などはどうなる
のか 、とおもったりするが 、ともあれ縄文・弥生文化という可視的な範囲で 、
われわれ日本人の先祖の大多数は朝鮮半島から流れこんできたことは 、否定す
べくもない 。
まず言語的に語法・音韻とも 、日本語は北方系に属する 。朝鮮語はその地理
的環境から 、中国語という異質言語との接触がふかくて 、一見 、日本語とは
遠くなっているようだが 、語法の骨格はおなじである 。現代朝鮮語のあの舌の
運動のむずかしさをのぞいては 、日本人は朝鮮語の生活会話 ( 五百ほどの単語 )
をおぼえるのは 、ふるい津軽弁や薩摩弁を習得する三倍程度の根気があればよい 。
すくなくとも語法のまるでちがう中国語や英語をおぼえるという 、言語中枢が
ひきさかれるような思いをせねばならぬのにくらべると 、日本人にとって雲泥
のちがいである 。
というようなことだが 、べつにここで朝鮮語の宣伝をしているわけではない 。
『 朝鮮人などばかばかしい 』
という 、明治後できあがった日本人のわるい癖に水を掛けてみたくて 、私は
この紀行の手はじめに日本列島の中央部にあたる近江 ( おうみ ) をえらび 、
いま湖西みちを北へすすんでいるのである 。
『 日本語と朝鮮語の分岐は 、六千年前である 』
という計算の仕方が 、アメリカにある 。それが正しいと仮定しても 、六千年
以後もさかんに語彙が日本に流入している 。
朝鮮語との相関性をはじめて指摘したのは 、新井白石であった 。
『 百済の方言に母をオモと言へり 。今も朝鮮の俗に母をオモと言ふは 、古
( いにしえ ) の遺言なり 』( 『 東雅 』 )
とし 、日本の古語と同じだが 、どちらが影響したのだろう 、と述べている 。
実際は 、オモニという 。ついでながら『 広辞苑 』であもの項をひくと 、
『 阿母 ( あも ) ―― はは 』
とあり 、『 万葉集 』の巻二十・四三八三の防人 ( さきもり ) の歌『 ・・・
阿母が目もがも 』が引用されている 。防人の歌にしばしば出てくるアモ ( 母 )
が 、その祖語であるオモニの系統をひくことは異論のすくないところである 。
奥里将建氏の意見 ( 『 日本語系討論 』 ) になると 、これがさらに上流まで
さかのぼって 、モンゴル語の女 ( ウム- ) から来ているとまで発展する 。
どうも話が 、
―― これでも紀行文でしょうか 。
と 、同行のH氏に苦情をいわれそうなぐあいに発展してしまったが 、この
連載は 、道を歩きながらひょっとして日本人の祖形のようなものが嗅げるな
らばというかぼそい期待をもちながら歩いている 。
そういうわけで ( われわれはまだ車のなかだが ) 朝鮮渡来文化が地下にねむ
る上を走っている 。
『 弥生式文化は朝鮮渡来人がもちこんできたことはわかりますけど 、それよ
り古い縄文式をもちこんだ民族はまるでちがうでしょう 』
と 、H氏はいった 。H氏の脳裏には 、あの呪術性に富み 、怨念をもって
天地をうごかそうという意思のあらわれのような火焔土器がうかんでいるので
あろう 。
私もそう思いたい 。弥生式土器をみると和魂 ( にぎみたま ) そのもののよ
うに和やかで縄文にみる拒絶の精神などはまるでなく 、哀れなほどに受容性
に富み 、縄文のごとく天地をうごかそうとする怪奇な気魄はない 。むしろ
逆に天地のなかに融けて同化しようとする姿勢があって 、その後それもはる
かな後の日本的思想 ( たとえば浄土教 ) 、あるいは日本的美意識 ( たとえば
茶道 ) につながってゆくようにおもえる 。
『 すると 、縄文のほうは何につながるのでしょう 』
と 、H氏はいったが 、しかし前方の風景が変ったため 、氏は話題をひっこ
めた 。というよりこの湖西の楽浪 ( さざなみ ) の志賀の優しさのなかをゆく
ときは縄文というあらあらしい世界の話題はふさわしくないとおもったので
あろう 。
急に野がひらけたのである 。 」
引用おわり 。
・・・ つづく 。
アジア大陸から北回りで北米大陸へ渡った古代人がいるのだから 、
北回りで 沿海州や樺太から 、日本海 を渡って 日本列島の東半分に
たどり着いたモンゴロイド系の種族 、支族 ( 縄文人の遠祖 ) がいても 、
何の不思議もないような ・・・ 。もとをただせば 、みなみな 渡来人 。