今日の「 お気に入り 」は 、作家 司馬遼太郎さんの 「 街道をゆく 」から
「 湖西の安曇人 ( あずみびと ) 」の一節 。
備忘の為 、抜き書き 。昨日の続き 。
引用はじめ 。
「 左手を圧していた山が 、後方に飛びさった 。この湖西最大の野は近江の秘
めやかな蔵屋敷といった感じで 、郡の名は高島という 。
『 安曇 ( あど ) 』
という呼称で 、このあたりの湖岸は古代ではよばれていたらしい 。この野を 、
湖西第一の川が浸 ( ひた ) して湖に流れこんでいるが 、川の名は安曇川という 。
安曇は 、ふつうアヅミとよむ 。古代の種族名であることはよく知られている 。
かつて滋賀県の地図をみていてこの湖岸に『 安曇 』という集落の名を発見し
たとき 、
( 琵琶湖にもこの連中が住んでいたのか )
と 、ひとには嗤われるかもしれないが 、心が躍るおもいをしたことがある 。
安曇人はつねに海岸にいたし 、信州の安曇野をのぞいて内陸には縁がないもの
だとおもっていた 。
この海で魚介を獲る種族は 、どうも容貌がひねこびて背がひくく 、一方 、
長身で半島経由してきた連中にくらべて一目みてもなり姿がちがったように
おもえる 。
アヅミとは海積 ( アマヅミ ) の変化だという 。ツミとは古代語で長 ( おさ )
ともいうが 、種族という感じにも用いられる 。
古代中国では 、
『 倭 ( 日本とおもっていい ) には 、奴 ( 那・娜 ) の国というのがある 』
といわれているが 、この奴の種族が 、安曇であることはほぼまちがいある
まい 。
かれらは太古 、北九州にいた 。
そのもっとも古い根拠地については 、
『 筑前 ( 福岡県 ) 糟屋郡阿曇郷が 、阿曇 ( 安曇とおなじ ) の故郷であろう 』
と 、本居宣長がその著『 古事記伝 』でのべたのがおそらく最初の指摘であろう 。
『 古事記 』にある安曇系 ( 海人系 ) の神話をみてもごく普通になっとくできる
ところで 、かれらが種族神としてまつっていた神が 、宇佐 ( うさ ) 、高良
( こうら ) 、磯賀 ( しか ) という九州の大社に発展してゆくことは周知のとお
りである 。ひょっとすると ―― と 、便利な言葉をつかえば ―― 蛋民はアジ
ア全体にひろがっていたのかもしれない 。
という空想 ( そういう説もある ) はべつとして 、アヅミは日本の地名では 、
厚海 、渥美 、安積 、熱海などとさまざまに書くが 、いずれも海人族らしく潮騒
のさかんな磯に住みついているのに 、この琵琶湖の西岸にやってきた安曇族は 、
なんとも侘びしげで 、ひょっとするとほうぼうの海岸の同族と大げんかして 、つい
に内陸へのぼり 、やっとこの湖をみつけてしぶしぶながら住みついたひねくれ者ぞ
ろいだったかもしれず 、
『 きっとそうに違いありませんよ 』
と 、湖西安曇野を歩きながらそういうと 、H氏がふりかえって私の顔を不安そ
うに見つめたのには閉口した 。気がたしかかと 、まじめなH氏は心配してくれ
たのであろう 。
『 安曇川町 』
という 、町とは名ばかりの村がある 。その路次のあたり、ふと軒下をくぐって
古代安曇人が出てきそうな気がするほど 、しずかな集落であった 。
路上で地図をみていると 、ふと気づいたのは 、この湖西最大の田園の地名である 。
青柳という 、近江聖人といわれた中江藤樹 ( 1608 - 48 ) のうまれたあたりの在所
の名が 、遠く安曇族の故地とされている福岡県粕屋郡にもある 。福岡県のその郡の
せまい範囲内に古賀という地名もあるが 、この湖西の安曇川町の西北 、安曇川ぞい
にもそれがある 。いずれも古い地名だが 、まあ偶然であろう 。偶然をもう一つい
うとすれば 、福岡の安曇の地にも 、つまり博多湾を東から抱いている腕のような
半島に 、志賀というふるい土地がある 。『 倭名類聚鈔 』では志珂郷と書いたりし
ているが 、要するに近江の志賀と地名が符合している 。ついでながら 、河海に面
した砂地のことを 、
『 スカ 』
と 、古くはよばれた 。後世 、須賀の字をあてたりする 。蜂須賀や横須賀などの
須賀がその好例だが 、それとシカ ( 志賀 ) は関係があるのか 。あるいはさらに飛
躍してそれら一群の地名が安曇族のことばを暗示するものだとすればおもしろいの
だが 、しかしこうした地名詮索のたぐいにはキメ手がない 。ひまつぶしにとどめて
おくほうが無難でいい 。
『 ところで 』
と 、H氏が助手台からふりかえった 。
『 朽木谷へゆくのでしょう ? 』
それが近江での最終目的地のはずだった 。ところが湖岸の安曇族ですこし浮
かれすぎたかもしれない 。
『 陽が 、落ちますよ 』
と 、H氏は比良連峰のほうをながめた 。ところが須田剋太画伯は 、その落
陽とは逆方角の 、つまり湖の北東の天に光っている白銀の山を見つめていた 。
伊吹山であろう 。その白銀がみるみるうちに薄れて 、紗の幕が降りたような 、
奇妙な光景に変った 。
『 伊吹は 、きっと吹雪いているのですね 』
と 、私に教えてくれた 。
われわれは西へ折れ 、安曇川ぞいの道を川上にむかってさかのぼりはじめた 。
この道の奥に 、南北二〇キロという長大な谷間があり 、朽木谷といわれる 。そ
の谷に着くころにはおそらく夜になっているであろう 。 」
引用おわり 。