「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

穴太の黒鍬 Long Good-bye 2023・09・19

2023-09-19 05:22:00 | Weblog

 

   今日の「 お気に入り 」は 、作家 司馬遼太郎さんの 「 街道をゆく 」から

  「 楽浪 ( さざなみ ) の志賀 」の一節 。

  備忘の為 、抜き書き 。昨日の続き 。

   引用はじめ 。

  「 中世では近江の湖賊 ( 水軍 ) という大勢力がこの琵琶湖をおさえていて 、

   堅田がその一大根拠地であった 。この小松は堅田に属し 、伊藤姓の家が

   その水軍大将をしていた 。織田信長は早くからこの琵琶湖水軍をその傘下に

   入れ 、秀吉は 朝鮮ノ陣 に船舶兵として徴用し 、かれらに玄界灘をわたらせた 。

    その小松の水軍大将の末孫は菅沼氏の話では土地の氏神の神主をしていて 、

   友人だという 。

   『 戦前は盛んなものだったといいます 。舟に苫をつけて家族が寝泊まりで

   きるようにし 、それで小松を漕ぎ出てゆきますと 、一月も帰らなかったそ

   うです 』

    琵琶湖はそれほどひろい 。小松舟はモロコやエビを獲りながら浦々で米や

   野菜と交換してゆくのである 。まるで古代安曇族の生活ではないかとひそ

   かにおもったが 、安曇については 、のちに触れる 。

    北小松の家々の軒は低く 、紅殻 ( べんがら ) 格子が古び 、厠 ( かわや )

   のとびらまで紅殻が塗られて 、その赤は須田国太郎の色調のようであった 。

   それが粉雪によく映えて 、こういう漁村が故郷であったらならばどんなに懐

   かしいだろうと思った 。須田克太 ( こくた ) 画伯は 、私が家々の戸外の厠

   をのぞきつつ村のにおいを嗅ぎまわっている後姿を 、厳密な風貌でスケッチ

   していた 。私の足もとに 、溝がある 。水がわずかに流れている 。

    村なかのこの溝は堅牢に石囲いされていて 、おそらく何百年経つに相違ない

   ほどに石の面が磨耗していた 。石垣や石積みのうまさは 、湖西の特徴のひと

   つである 。山の水がわずかな距離を走って湖に落ちる 。その水走りの傾斜面

   に田畑がひろがっているのだが 、ところがこの付近の川は目にみえない 。こ

   の村なかの溝をのぞいてはみな暗渠になっているのである 。この地方のことば

   ではこの田園の暗渠をショウズヌキという 。よほど上代からの暗渠らしいが 、

   その石組みの技術はどこからきたのであろう 。そのかぎは 、新羅神社や韓崎 、

   和邇 ( わに ) 、楽浪といった地名のなかにかくされていることは 、ごく自然な

   想像といえる 。

    石組みについてはさきに過ぎた坂本のあたりに穴太 ( あのう ) という土地があ

   る ( もっとも全国にこの地名が多く 、穴生とか穴穂という字を当てたりするが 、

   古代語で格別な意をあらわす言葉にちがいない ) 。で 、ここの穴太は 、

   『 穴太の黒鍬 ( くろくわ )

    といわれ 、戦国期には諸国の大名にやとわれて大いに土木工事に活躍し

   た 。『 広辞苑 』( 第一版 )によると 、

   『 戦国時代 、築城・道普請などの作事に従う人夫 。黒鍬者 』とある 。

   ついでながら作事は建築の意味だから 、正確な日本語としては『 普請

   ( 土木 ) に従う人夫 』とすべきであろう 。とくに戦国末期 、諸国の城

   が土塁でなく石垣を土台にするようになってから 、この穴太の技術者の

   需要が大いにあがった 。湖東の安土に信長が築いた安土城の石垣づくりに

   は 、この『 穴太の黒鍬 』が村中一人のこらずかり出されて行ったにちが

   いない 。

    穴太の里の歴史は 、おそろしく古い 。千年以上前に成立した『 延喜式 』

   にも重要な駅として指定され 、駅馬五頭がおかれていたというが 、これで

   もまだ記録はあたらしい

    それより古く 、成務 ( せいむ ) 帝というその存在さえさだかならぬ帝の

   ころ 、ここに都があり 、

   『 志賀高穴穂 ( しがのたかあなほ ) の宮 』

    と称せられていたという 。中国の『 後漢書 』によれば 、この時期 ( 中

   国で桓という王と霊という王のあいだの時期 ) 、日本は大いにみだれ 、互

   いに攻伐しあい 、ともに卑弥呼を立てて王としたというが 、上代の土地感

   覚では日本も広大だから 、これはあるいは九州のほうの事件かもしれず 、

   近江にいたという『 成務 』という古代王とは関係のない事件かもしれない 。

   いずれにせよ『 志賀高穴穂の宮 』をつくる土木技術は穴太人が担当したで

   あろうし   、のちの天智 ( てんぢ ) 帝の『 滋賀大津宮 』がつくられるとき

   も活躍したにちがいなく 、その技術は地元の農業灌漑にも生かされ 、戦国

   期にはふたたび活躍時代に入って諸国の城造りにやとわれ 、その技術はなお

   この古色を帯びた北小松の漁港設備や溝に生かされている

   『 いい石組みですな 』

    と 、須田剋太氏は溝をのぞきこんでしばらくうごかなかった 。

   『 穴太の黒鍬の技術は大したものです 』

    と 、菅沼氏はこの一事でも近江は古代技術の一大淵叢であったというふうな

   感慨をもらした 。

    この漁港から湖岸をわずかに北へ行くと 、山がいよいよ湖にせまり 、その

   山肌を石垣でやっと食いとめているといったふうの近江最古の神社がある 。

   白髭 ( しらひげ ) 神社という 。

   『 正体は猿田彦 ( さるだひこ ) 也 』

   といわれるが 、最近 、白髭は新羅のことだという説もあって 、それが

   たとえ奇説であるにせよ 、近江という上代民族の一大文明世界の風景が

   虹のようなきらびやかさをもって幻想されるのである 。

    つぎは 、この湖西の安曇 ( あど ) へゆかねばならない 。 」

    引用おわり 。

   穴太の黒鍬って 、ゼネコンの元祖 !?

   ・・・ つづく 。

 

 

  ( ついでながらの

    筆者註:「  須田國太郎( すだ くにたろう 、1891年6月6日 -

         1961年12月16日 )は洋画家 。京都市立美術大学

         名誉教授 。重厚な作風と東西技法の融合に特色 。 」

        「  須田 剋太( すだ こくた 、1906年5月1日 - 1990年

         7月14日 )は 、日本の洋画家 。埼玉県生 。浦和画家 。

         人 物

           当初 具象画の世界で官展の特選を重ねたが 、1949年

         以降 抽象画へと進む 。力強い奔放なタッチが特徴と評

         される 。司馬遼太郎の紀行文集『 街道をゆく 』の挿絵

         を担当し 、また取材旅行にも同行した 。道元の禅の世

         界を愛した 。文展に入選した翌年の昭和9年には寺内

         萬治郎が浦和の別所沼畔のアトリエを訪れ激励し 、光

         風会に入ることを勧められ入会した 。また 、寺内萬治

         郎の門下生が集まる 武蔵野会に参加した 。浦和画家の

         ひとり 、光風会の里見明正とは同じ熊谷中学校で 、別

         所沼のアトリエも隣り合っていた 。また 、四方田草炎

         や林倭衛とも交流していた 。

         略 歴

         埼玉県北足立郡吹上町( 現:鴻巣市 )で、須田代五郎

         の三男として生まれる 。本名 勝三郎 。1927年 - 埼玉県

         立熊谷中学校( 旧制 、現・埼玉県立熊谷高等学校 )卒

         業 。その後浦和市( 現:さいたま市 )に住み 、ゴッホ

         と写楽に傾倒する 。東京美術学校( 現東京芸大 )を4度

         受験するもいずれも失敗 。独学で絵を学ぶ 。 」

        「  司馬 遼󠄁太郎( しば りょうたろう 、1923年〈大正12年〉

         8月7日 - 1996年〈平成8年〉2月12日 )は 、日本の小説

         家 、ノンフィクション作家 、評論家 。位階は従三位 。

         本名:福田 定一( ふくだ ていいち )。筆名の由来は

         『 司馬遷に遼󠄁( はるか )に及ばざる 日本の者( 故に

         太郎 )』 から来ている 。

         大阪府大阪市生まれ 。産経新聞社記者として在職中に 、

         『 梟の城 』で直木賞を受賞 。歴史小説に新風を送る 。

         代表作に『 竜馬がゆく 』『 燃えよ剣 』『 国盗り物語 』

         『 坂の上の雲 』などがある 。『 街道をゆく 』をはじめ

         とする多数の随筆・紀行文などでも活発な文明批評を行

         った 。 」

         以上ウィキ情報 。)

  

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