今日の「 お気に入り 」は 、作家 司馬遼太郎さんの 「 街道をゆく 」から
「 楽浪 ( さざなみ ) の志賀 」の一節 。
備忘の為 、抜き書き 。昨日の続き 。
引用はじめ 。
「 われわれは叡山の山すそがゆるやかに湖水に落ちているあたりを走
っていた 。叡山という一大宗教都市の首都ともいうべき坂本のそば
を通り 、湖西の道を北上する 。湖の水映えが山すその緑にきらきら
と藍色の釉薬をかけたようで 、いかにも豊かであり 、古代人が大集
落をつくる典型的な適地という感じがする 。古くはこの湖南の地域を
『 楽浪の志賀 』といった 。いまでは滋賀郡という 。で 、サザナミ
に楽浪という当て字をつけたのは なにか特別ないわれがあるのだろう
か 。朝鮮半島にも楽浪という地があり 、それとなにか関係があるの
だろうか 。彼の地の楽浪古墳群は平壌の西南 、大同江の水を見おろ
す丘陵地帯にある 。この『 楽浪の志賀 』も古墳の宝庫で 、その
すべてが朝鮮式であることがおもしろい 。上代このあたりを開拓
して一大勢力をなしていたのが 半島からの渡来人 であったことをおも
えば 、古墳が朝鮮式であることも当然であるかもしれない 。
叡山をひらいて天台宗の始祖になった 最澄 もこのあたりの渡来人の
村の出身である 。最澄のうまれは 称徳 ( しょうとく ) 女帝の神護
景雲元 ( 767 ) 年だから 、半島からの渡来人がこの湖岸をひらいて
村をつくってから二世紀ほど経ってからの出生であろうか 。
『 もう 、古墳だらけで 、あの丘陵のあたり土地を買って宅地造成
しようとしたひとは 、かならず古墳にぶつかって 、教育委員会との
いざこざをおこしたりします 』
という旨のことを菅沼氏はいった 。
このあたりを故郷とする 最澄 の村は 、百済人の村なのか新羅人の村
なのか知らないが 、大津市の北に新羅神社というふるい神社がある 。
それが 、このあたりの渡来人の族神だったのかどうか 。
伝によると空海のメイの子で 、三井寺を中興した円珍が唐から帰って
きたとき 、夢枕に老翁が立ち 、
『 我是新羅国神也 』
と 、名乗り 、汝を加護するから自分をまつれ 、といったから円珍は
この土地神をまつったというが 、むろんこれは古代的表現で 、むかし
渡来人たちがまつっていた新羅の神が 、円珍のころには社殿荒廃しきっ
ていたのを円珍が復興したということであるにちがいない 。
古代朝鮮の年譜をみると 、新羅の王の第二十四代真興王が 、西紀五
六四年 ( 日本の欽明 ( きんめい ) 帝のとき ) 中国 ( 北斉 ) の属国になり 、
北斉からその王は 、
『 楽浪郡公新羅王 』
という称をもらった 。つまり新羅と楽浪は同義であり 、この湖岸
の古称『 志賀 』に 、『 楽浪の 』というまくらことばをつけてよば
れるようになったのは 、そういう消息によるものにちがいない 。
車は 、湖岸に沿って走っている 。右手に湖水をみながら堅田をすぎ 、
真野をすぎ 、さらに北へ駆ると左手ににわかに比良山系が押しかぶさ
ってきて 、車が湖に押しやられそうなあやうさをおぼえる 。大津を
北に去ってわずか二〇キロというのに 、すでに粉雪が舞い 、気象の
上では北国の圏内に入る 。山がいよいよのしかかるあたりに 、
『 小松 ( 北小松 ) 』
という古い漁港がある 。
日本に小松という地名が無数にあるが 、周防 ( すおう ) 大島の漁港
小松が高麗津 ( こまつ ) であったように 、ここもあるいは高麗津だ
ったのかもしれない 。この漁村を通りすごそうとして ふと自然石を組
んだ波ふせぎが古い民芸品をみるように鄙寂びているのに気づき 、降
りて浜へ出てみた 。波うちぎわで老婦人が菜を浸け 、左右に振りなが
らあらっているのをみて 、
『 なんの菜ですか 』
と 、やや期待をかけてのぞくと 、これどすか 、大根葉どす 、とごく
平凡な回答がもどってきた 。
そこから舟底板の橋をわたると 、水の淀んだ舟溜まりになっている 。
沖から戻ってきたアノラック姿の漁師に『 いまの季節はモロコですか 』
ときいた 。漁師はだまってうなずいた 。肌が白い 。海辺の人とのちがい
であろう 。
『 いまこの漁村 ( むら ) に舟は何艘です 』
と 、稼働舟の数をきいてみた 。戦前は三十八ハイも動いていたがなあ 、
という 。それが去年は七ハイや 、とさびしげである 。
『 ことしは ? 』
『 それがあんた 』
憎むような目差しで私をみて 、
『 五ハイになってしもうた 』といった 。」
引用おわり 。
もう一つ「 お気に入り 」。
「 楽浪の 志賀の辛崎 幸くあれど 大宮人の 舟待ちかねつ 」
( 柿本人麻呂 )
・・・ つづく 。