今日の「 お気に入り 」は 、作家 司馬遼太郎さんの 「 街道をゆく 」から
「 布留 ( ふる ) の里 」の一節 。
備忘の為 、 抜き書き 。
引用はじめ 。
「 車は 、天理で高速道路を降りた 。そのあと道を南へとり 、そろそろ
と十八丁 。やがて東へ折れる枝道があるはずで 、これはうかうかする
と行きすぎてしまう 。そう思いながら懸命に注意していたが 、やはり
行きすぎてしまった 。土地の人に教えてもらいながら 、野道を東へ入
った 。正面に山辺 ( やまのべ ) の丘陵地帯が起伏し 、右手のやや高
い台上に森がある 。
『 布留 』
というのが 、このあたりの古い地名である 。古代人にとって神霊の宿
るかのような景色だったのであろう 。神にかかる枕ことばである『 ちは
やふる 』の ふる がそうであり 、神霊が山野にいきいきと息づいておそ
ろしくもあるという感じが 振る という言葉にあるようにおもわれる 。
この森の杉は 、
『 布留の神杉 ( かみすぎ ) 』
とよばれていたらしい 。柿本人麻呂の『 石上布留の神杉神びにし吾や
さらさら恋に遭ひにける 』という歌が 、この森の気分をよくあらわし
ている 。
『 新撰姓氏録 』の地名のあらわしかたによると 、
『 石上 ( いそのかみ ) 御布瑠 ( みふる ) 村 高庭 ( たかば ) 之地 』
という 。森へ入ってゆく道がわずかにのぼりになっている気味があり 、
なるほど森は高庭というようにやや高台になっているらしいが 、さらに
厳密にいえば 、『 高庭 』は森のもっとも奥にある特定の一角をさす 。
その場所についてはあとで述べる 。 」
「 大和はすでにいまの奈良県にないか 、もしくは残りすくなくなって
いるものの 、この布留の石上の森には測りしれぬ古代からつづいてい
る大和の息吹がなお息づいているといった感じなのである 。つまり大
和の土霊の鎮魂 ( たまふり ) の『 振る 』なる作用がなおもこの石上
の森には生きつづけてるように思える 。 」
「 ところで 、この森は 、崇神 ( すじん ) 王朝という大和勢力の隆盛期
に 、王家が直接にまつる社 ( やしろ ) にされたというが 、むろんそれ
以前の 、はるかな昔から神霊の ふる 森として畏れられていたのであろ
う 。
そのころには 、沖縄の古信仰がそうであるように社殿も拝殿もなく 、
森そのものが神の庭であった 。いまこの石上神宮には国宝の拝殿や重
要文化財の楼門などがそなわっていて 、どの建物もそれぞれ優麗であ
るにせよ 、しかし神さびた森にはそれさえ唐めいていて さわがしい
ような思いがする 。 」
「 『 拝殿 』
という建物がある 。例の『 鴨の水と双六の賽と山法師 』というまま
ならぬ三つをならべた言葉で有名な白河天皇 ( 1053 – 1129 ) の寄進
による 。樹林を背にして南面して建ち 、入母屋造り檜皮ぶきといった
荘重な建物である 。宮中の神嘉殿をこの森に移したというから 、想像
するところ 、
『 石上には拝殿がないのか 。神に対してそれは礼を欠く 』
というようなことで 、京都で発達したこの種の建物を移築したらしく
おもえるが 、もしそうとすれば白河帝というこの漢字と仏教の大権威
にとって 、古神道のたたずまいはもはや念中になかったのかもしれな
い 。
この拝殿の後方に 、
『 高庭 』
が存在しているらしい 。いわゆる『 いそのかみのふるのたかにわ 』
である 。この高庭こそ古代人が神のやどる場所として畏敬していた
場所であり 、白河帝がつくった拝殿は余計なものながら 、しかし
高庭をおがむための施設としてのつつましやかな役割をわすれては
いない 。その証拠に白河帝から八百数十年のあいだ 、この森にあ
っては拝殿のみが存在し 、本殿がなかった 。本殿はあくまでも
『 地面 』である高庭でありつづけたのだが 、明治後 、国家神道
という 、神道が変形して英雄的自己肥大したものが出現し 、そう
いう官僚神道が 、大正二年 、拝殿とかさねて流 ( ながれ ) 造りの
本殿をつくりあげてしまった 。多分建売り屋に似たような料簡で
あったのであろう 。なにしろ 、この石上の神の憑代 ( よりしろ )
はあくまでも森の中の高庭だけであるものの 、しかし半面 、持た
されている社格が非常に高く 、伊勢神宮にせまるほどの存在であ
ったために 、役人が国家予算を組んでとくに造営したものである
らしい 。
さて 、
『 高庭 』
である 。ひろさは二百四十三坪で 、地面の下ふかくに磐座 ( いわ
くら ) がうずめられ 、本来 、これが本殿とされてきた 。代々の神
職はこの高庭を『 禁足地 ( きんそくち ) 』と称し 、古来 、神職と
いえども足をふみいれたことがなかった 。
が 、明治という時代は 、国家神道が成立したりする一方 、古い
権威の没落時代だったから 、―― この禁足地を掘ってみたい 。
という探求心がおこったらしい 。古来 、ここに磐座だけでなく
神剣宝珠がうずまっているという伝承があったのである 。
明治七年 、ときの宮司が 、教部省に申請してゆるしをうけ 、奈
良県知事の立会いのもとに掘ってみた 。
古記録では 、崇神帝の七年 、帝は物部氏祖である伊香色雄命 ( い
かしこおのみこと ) という武将に命じて石上の地に剣をまつらしめ
た 。色雄 ( しこお ) というのは醜男 ( しこお ) だから 、大変強い
男という意味である 。その剣というのは 、伝説の神武 ( じんむ )
帝が日向から大和を東征するときに使った剣とされているもので 、
『 布都御魂大神 ( ふつのみたまのおおかみ ) 』
という名がついていた 。伊香色雄命はそれをこの石上の高庭にう
ずめたという 。
鍬を入れると 、はたしてその剣が出てきた 。神職たちは大いに畏
れ 、『 これこそ布都御魂大神に相違ない 』として 、神体として
奉斎 ( ほうさい ) してしまったから 、いまはその剣が鉄なのか銅
なのか 、どのような形をしていたかなどということは 、障りが
あるとして秘せられている 。
ほかに 、銅鏡が二面 、銅製の鏃 ( やじり ) が二本 、硬玉の勾玉
( まがたま ) 十一個 、さらに碧玉の管玉 ( くだたま ) がざくざく
出てきて 、かぞえると二百九十三個あった 。いずれもいまは文
化財に指定され 、この神宮の宝物になっている 。
これらの神剣や神宝をこの石上の高庭にうずめさせたという崇
神天皇というのは 、どういう人物なのであろう 。
( ̄- ̄) ^^^ ( ´_ゝ`)
どうもよくわからない 。
二世紀から三世紀にかけて存在したこの大和の王であるらしい 。
その勢力範囲が 、大和以外にまでおよんだ最初の王であるかも
しれない 。
その王朝の首都が三輪山 ( 三輪山 ) のふもとの三輪の地にあった
ことも 、ほぼたしかであるとすべきであろう 。
『 三輪山へゆくんでしたね 』
と 、編集部のHさんが楼門をくだりながらいった 。私はつい習
慣で地図をひろげてみたが 、わざわざ地図を見るまでもなく 、
これほど単純なコースはない 。石上から 、真南へまっすぐ七キ
ロゆけば三輪なのである 。
崇神帝の伯母の倭迹迹日百襲姫 ( やまとととびももそひめ ) と
いうひとが三輪山にこもる大巫女であったことも 、ほぼたしか
であろう 。
彼女がもつ宗教的勢力が 、崇神帝の地上における勢力拡張に大
いに役立ったことも 、想像できる 。
この崇神帝が 、石上に兵器庫をたて 、各豪族から兵器をさし
出させて収納した 。その後 、庫に兵器がふえ 、いつのころか
らか遠く百済王からも七枝刀 ( 現存・国宝 ) という剣の左右に
三本ずつ枝が出ている剣まで送られてきた 。はるかな後世 、
桓武帝のときこれらを京へ運んでしまったが 、そのとき十四
万七千の人夫を要したという 。その人数の多寡や真否はさて
おき 、ともかくも崇神という古代三輪王朝のときにこの森が
宗教的権威であったほかに兵器庫であったということもおもし
ろい 。ここに大和じゅうの戦争道具を集めて物部氏という軍
隊に守らせてさえおけば 、諸豪族の反乱をふせぐことができ
たのであろう 。その石上と三輪をつないでいる道が 、まぎれ
もなく日本最古の官道である山辺道 ( やまのべのみち ) である 。
むろん 、その道は現存している 。
この石上の森の中から発して村々や古墳群を縫いつつ三輪の古
都にいたる 。ただし道幅はせまい 。
『 三輪まで歩きますか 』
と 、Hさんが決然たる口調でいったが 、途中で日が暮れるかも
しれませんよ 、と私はうまく口実を使って 、車にもどった 。
車の場合 、西のほうに並行して走っている舗装路をとるのであ
る 。が 、石上から三輪へゆくというこの神さびた気分のなか
では 、当然山辺道を日が暮れても歩くべきであったろう 。 」
引用おわり 。
( ´_ゝ`)
「 崇神帝 」って、好意のかけらもない ネーミング からして怖ろ
しげ 、「 たたりがみ 」。