今日の「 お気に入り 」は 、作家 司馬遼太郎さんの 「 街道をゆく 」から
「 朽木の興聖寺 」の一節 。
備忘の為 、抜き書き 。昨日の続き 。
引用はじめ 。
「 われわれの車は 、南北二〇キロの朽木谷の南北をつらぬく唯一
の街道をゆるゆると南下している 。
この渓谷の底をゆく道は 、若狭湾から京や奈良へゆくための古
街道で 、外来人や外来文化の流入路でもあったであろう 。若
狭湾は上代 、大陸からの航海者を吸い入れる吸入口のひとつで
あったことを思うと 、この山間の古街道はその吸入路だったか
と思われる 。平安初期 、いわゆる満州あたりにあった渤海国
( ぼっかいこく ) からしきりに日本に国使がきている 。日本を
兄の国といったかたちの礼をとり 、いわば朝貢してきている 。
渤海は多分に中国化したツングースの国で 、その宮廷の女性は
乙姫のような服装をしていたであろう 。いまでも若狭湾の沿岸
に浦島伝説が多いのは 、日本海をへだてて渤海国に対していた
からにちがいない 。その国使が 、しきりに来る 。日本は兄上
です 、なんといっても兄上ですから 、などといってやってくる
が 、地理的関係上 、国際感覚にとぼしい日本人としては 、なぜ
こんなに慕われるのか 、当時も理由がわからなかったらしく 、
ましていまとなればその理由はつかみどころもない 。渤海国は
遊牧民族がたてた軍事国家だから 、安全保障条約をもとめてき
たのかもしれないが 、この大海のなかの蓬莱島ともいうべき日
本列島に住んでいると 、低血圧がこの島の風土病( ? )である
ように 、まったく安全保障の感覚がなくなってしまうこと 、こ
ればかりはむかしもいまも変らない 。この列島何万年の歴史のな
かでまれに沖のむこうに幻想をいだき 、一大狂気を発して海外に
領土を求めようとすることもあった 。秀吉の英雄的自己肥大によ
る外征と 、明治後の民族的自己肥大によるそれとの二度っきりで
あり 、不幸にも二度とも打上げ花火のように虚空に火の花をひら
かせただけで 、失敗した 。まして平安初期の日本貴族には民族的
自己肥大の感覚などはなく 、ただ渤海国の使者をめずらしく思う
ばかりであった 。それに 、平安貴族には中国的教養があるために 、
入貢してきた蕃国には彼らがもってきた手みやげの何倍かの物品を
持たせて帰らさねばならぬという唐の国家習慣 ―― 中華思想によ
るそれ ―― をそのまま踏襲してずいぶんいいカッコをしようとし
た 。経済的にはずいぶんつらかったろうが 、そのうち日本の弟と
称する渤海国が日本にとって知らぬまに亡んだ 。寿命は二百余年
であった 。渤海をほろぼしたのは 、熱河の草原であらあらしい野
性を養っていた契丹 ( モンゴル系 ) である 。が 、東海の日本は
そういうことも知らず 、いつのまにかあの連中来なくなったなあと 、
駘蕩たるムードの中で公卿さんたちはつぶやいていたに相違ない 。
その朝貢使たちは 、敦賀に上陸して湖北の木ノ本あたりから湖東
平野を通ったとおもわれるが 、ときにはこの湖西の朽木谷の隠れ道
を ―― このほうが距離的には京に近いために ―― 通ったことが
あるにちがいない 。渤海人は唐冠をかぶり 、唐服を着ていたとお
もわれるが 、その言語は中国語ではなく 、日本語と同じ語族で 、
ワタシハ二ホンへユキマス 、という語順である 。 」
引用おわり 。
二百年余りもの間、渤海国の外交使節が敦賀に来航していたとすれば 、
それ以前も 、それ以後も 、大陸との間に絶えざる交易路が存在し 、
人事往来もあったにちがいない 。