「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

朽木街道 Long Good-bye 2023・09・15

2023-09-13 05:39:00 | Weblog

 

    今日の「 お気に入り 」は 、作家 司馬遼太郎さんの 「 街道をゆく 」から

  「 朽木 ( くつき ) 渓谷 」の一節 。

  備忘の為 、抜き書き 。

   引用はじめ 。

  「 信長のおもしろさは桶狭間の奇襲や 、長篠の戦いの火力戦を

    創案し 、同時にそれを演じたというところに象徴されてもいいが 、

    しかし 、それだけでは信長の凄みがわかりにくい 。この天才の凄

    みはむしろ朽木街道を疾風のごとく退却して行ったところにあるで

    あろう 。 」

 

  「 信長は 、越前 ( 福井県・朝倉氏の本拠 ) を攻略した 。ときに信長

   は三十七歳で 、同盟軍の徳川家康二十九歳の三河兵までかり催し 、

   空前の大軍を編成して敦賀に集結した 。敦賀という土地は敦賀湾に

   面して背後左右に山がせまり 、湾に面した平地がひどくせまい 。

   その狭隘地へ軍勢が充満したありさまはものすごいばかりで 、その

   熱気だけで 、敦賀のまわりの諸城が陥ちてしまった 。あとは東方に

   そびえる木の芽峠の嶮をこえて越前平野に攻め入るばかりという時期 、

    『 近江の浅井氏が 、敵にまわった 』 という報に接した 。 

     信長は猜疑ぶかいたちであったが 、このことばかりは 、とっさ

   信ぜられぬといった表情だったといわれる 。 」

 

  「 信長は 、退路を断たれた 。

    このころ岐阜が信長の軍事的本拠で 、京都がその政治的本拠だったが 、

   その岐阜 ― 敦賀間に 、浅井氏がいる 。敦賀にいる信長の背後の山河

   はことごとく敵になったといっていい 。

     敦賀の信長とその大軍は 、朝倉・浅井のはさみうちを受けるという

   かたちになった 。包囲されて 、北方の敦賀湾に掃くようにして追い

   おとされるという形勢になる 。

     こういう状況下に置かれた場合 、日本歴史のたれをこの条件の中に

   入れても 、信長のような蒸発 ( という表現が恰好であろう ) を遂げる

   ような離れ業をやるかどうか 。 」

 

  「 信長には 、参謀がない 。かれ一個の頭脳によって構成されていた 。

   その処女作である桶狭間の奇襲以外は 、かれは無理ということをいっ

   さいせず 、つねに堅牢な力学的計算の上に戦略が成立していた 。その

   計算の数式の一要素が欠けても 、かれは行動をはじめなかった 。この

   越前朝倉攻めは 、―― 北近江の浅井氏は中立する 。

    ということを要素として構成した 。その要素がにわかに消滅して逆に

   敵側の要素になったとき 、この人物は 、惜しげもなく作戦のすべてを

   すてたのである 。 」

 

  「 その行動はまったくの蒸発であった 。身辺のわずかな者に言いのこし 、

   供数人をつれて味方にもいわず 、敦賀から逐電したのである 。信長は

   中世をぶちやぶって 、近世をまねきよせようとした 。時代を興す人間

   というのは 、おのれ一己のかっこ悪さやよさなどという些事に 、あた

   まからかまっていないものであるらしい 。

    同盟者の家康にさえ告げなかった 。家康は木の芽峠寄りの最前線にい

   た 。もっとも危険な場所に置きすてられた 。

    大久保忠教 ( 彦左衛門 ) が書いた『 三河物語 』にはこのときのことを 、

   『 信長は 、家康を捨て置き給い 、沙汰もなしに退却された 。それが 、

   夕刻のことである 。夜があけて朝になってから 、木下藤吉郎 ( 秀吉 )

   のほうから使いがきて 、事情がわかった 』

    と書いている 。秀吉も捨ておかれた 。ただし秀吉は信長の蒸発を早く

   に知っており 、みずから志願して 、全軍退却の殿軍 ( しんがり ) をつと

   めた 。殿軍は追撃軍を一手にひきうけねばならず 、全滅を覚悟せねば

   ならない 。 」

 

  「 『 どの経路をとるか 』

   であった 。岐阜には帰れない 。京都ならなんとか帰れる 。ただし京都

   に帰れるとしても 、湖北から湖東にかけては近畿最強といわれる浅井氏

   の江州兵が充満していて 、ふつうの経路はとれない 。

    『 朽木越え以外にはありませぬ 』

    といってすすめたのが 、戦国きっての悪党といわれる松永久秀 ( 弾正 )

   であった 。かれは京都西岡 ( にしのおか ) の出身といわれ 、かつて京都

   を支配していた阿波の三好長慶の祐筆 ( 秘書 ) になり 、謀臣になり 、

   やがて主家をしのぐ勢いになり 、足利将軍義輝を不意に攻めてこれを

   殺し 、ついには主家の三好氏を没落させ 、大和一国のぬしになったが 、

   東方から織田氏が勃興してきたため 、敵しがたいとみてすすんで帰属

   した 。信長はこの松永久秀という人物の骨のずいまで見ぬいて使って

   いるところがあったが 、ただ信長はその他人に恨みを買うことを恐れ

   ぬ性質のため 、松永久秀を満座の前で 、『 この老人はその生涯でひと

   のやれぬことを三度やった人よ 』

   と 、その悪党ぶりをからかったことがある 。松永は深くそれを恨んだ

   らしいことはのちのかれの反乱によってもわかるが 、しかしこの敦賀

   の時期は 、信長の勢いに巻かれて 、しおらしく身辺に持していた 。

   この久秀が 、

   『 朽木

   という耳なれぬ地名を口にしたのは 、根が京都人でもあり 、天下の

   群雄割拠時代に京都を支配していた時期も長かったから 、京都から

   若狭 ( 福井県西部 ) へ抜ける間道として 、湖西に南北ニ〇キロにおよ

   ぶ朽木谷 』という長大な渓谷があるのを知っており 、その谷底を

   ひとすじの古道が走っていて 、途中人里もあることを知っていたので

   ある 。その間道は 、信長にとって意外にも 、京都の北東の八瀬・大

   原に入ってくるという 。

    信長が 、久秀を信用したというのは 、ひとつは火急の場合ということ

   もあるし 、いまひとつはやはり人の将になる男だけに 、その猜疑ぶか

   い性格とはべつの機能として 、人の心を楽天的に値踏みできて信用する

   という 、矛盾した巨大な性格が信長にあったからであろう 。事実 、久

   秀はこのとき『 蒸発 』する信長をもって 、かれの衰運であるとは見な

   かった 。むしろ積極的に信長に自分の誠実さを売ろうとした形跡がある 。」

    引用おわり 。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三輪神社 Long Good-bye 2023・09・13

2023-09-13 04:49:00 | Weblog

 

  今日の「 お気に入り 」は 、作家 司馬遼太郎さんの 「 街道をゆく 」から

  「 三輪山 」の一節 。

  備忘の為 、抜き書き 。

   引用はじめ 。

  「 『 この神社の名前は 、ややこしいですね 』

   と 、編集部のHさんは 、杉木立の参道を歩きながらいった 。

    まったくそのとおりで 、このお宮は通称 、

   『 三輪明神

   もしくは三輪神社と言われながら 、活字の上の正称 ( ? )

   はそうではなく 、大神神社と書いてオオミワジンジャと訓

   ( よ ) ませるのである 。

    人を馬鹿にしていると思うが 、しかし考えてみると 、日

   本語は法則についてはきわめて厳密でない言葉で 、たとえ

   ば 、

   『 白 』

   という漢字に 、アオというふりがなを振ってもかまわない

   のである 。

    いまどき国語問題の右派のひとびとが古 ( いにしえ ) を

   よしとして国語の紊乱をやかましくいうようだが 、そもそ

   ものむかしから日本人は国語について勝手気儘なもので 、

   共同のたてまえを尊重する思想に乏しかった 。

    大神という漢字を 、訓で捩じあげてオオミワなどと読ませ

   たのは 、どうやら明治初年の神主さんであるらしい 。その 

   ように社名を作った事情と神主さんの心理を推測するに 、

   こうであろう 。

    まず 、明治初年に神仏分離がおこなわれたことが 、事情の

   一つである 。それより以前 、平安時代に神仏混淆思想が完

   成され 、明治までそれがずっとつづいてきたのがその事情で 、

   天台・真言の政略感覚に長けた僧たちが 、『 日本土着の神も 、

   蕃神といわれる仏教の仏も 、あれは二つのものでなく一つの

   ものです 』という説を確立し 、仏教普及のために 、日本の

   神に仏教的な名称をつけた 。たとえば権現というのも明神と

   いうのも 、そうである 。権現とは日光サンを東照権現とい

   ったように 、仏教の仏が権 ( かり ) に神の姿で現われたもの 、

   という仏教語であり 、明神というのは 、諸説はあるが 、た

   とえば『 陀羅尼経 』に『 当 ( まさ ) ニ神明ヲ以テ証トナ

   スベシ 』といったぐあいにいわれるように 、仏教語である 。

    明治は 、文化大革命期であり 、その最大なものの一つは 、

   日本固有の神から仏教臭を消してしまう大運動であった 。その

   ため権現や明神の呼称は廃され 、あらためて日本らしい神名もしく

   は神社名をつけねばならなくなった 。従って三輪明神も 、明神

   というホトケ臭い称号が廃された 。むろんこれは 、新政府の至

   上命令だから 、神主さんの責任ではない

   『 で 、どういう社名を新政府に登録しようか 』

    と 、神主さんが頭をひねったと想像する 。このとき 、わが

   三輪山の神主さんの心に勃然と湧きあがったのは 、千数百年の

   鬱屈から来た言語的自己肥大の衝動であろう 。

    その鬱屈というのは 、

   『 三輪の神は 、日本の土着神の元締めでありながら 、単に大

   和地方の一地方神のようにおもわれてきた

    ということであったか 。

    なるほど上古 、どこからか ( ? ) 来て大和盆地を征服した

   崇神 ( すじん ) 帝は 、原住民 ( 出雲族 ) があがめていたこ

   の三輪山を 、政略上これをあがめ直すことによって 、原住民

   を慰撫しようとした 。中世 、この神は神殿は無くとも社格は

   高く官幣大社として帝室から礼遇されたりしたが 、しかし一般

   に知られることが薄く 、江戸時代にいたっては 、名所として

   の全国的知名度はじつにひくい 。わずかに 、

   『 大和名所図会 ( ずえ ) 』

    という江戸時代の通俗地誌 ( 寛政三⦅1791⦆年編集 全六巻

   七冊 ) に 、優遇とはゆかないまでも多少のスペースが割かれ

   ている程度で 、それ以外には醸造業者から商神として信仰さ

   れてきた程度であろう 。

    その鬱屈が 、明治初期 、社名を政府にとどけ出るにあたって 、

   『 大神神社 』

    と書き 、オオミワと読ませる愚をやってしまったに相違ない 。

   もっとも祭神が大物主大神 ( おおものぬしのおおかみ ) とな

   っており 、明治以前 、大神大物主 ( おおむちおおものぬし )

   の社 ( やしろ ) とよばれたこともあるようだから大神という

   文字は無縁ではないにせよ 、それにしてもこれをオオミワと読

   ませるのは押しつけがましい 。

   『 新聞の県版でもこの社名には弱っているらしいですね 』

    と 、Hさんがいった 。大神神社と書くと 、奈良県の人でも

   そんな宮どこにあります 、と支局に問いあわせがくるらしい 。

   三輪神社のことです 、と答えると 、ああ誤植ですか 、といわ

   れることもあるという 。だからこの稿では 、奈良県人が言いな

   らわしているように三輪神社と書く 。 」

   引用おわり 。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

月日の残像 Long Good-bye 2023・09・11

2023-09-11 06:41:00 | Weblog

 

  今日の「 お気に入り 」は、山田太一さんの「 月日の残像 」から 。

  備忘のため 、抜き書き 。

  引用はじめ 。

  「 映画は 、つくる時だけ人が集まり 、終れば散って行く 。

     それはそうだが 、つくっている時の一時的共同体気分は

     時にかなり強いものがあるし 、業界にいて歳月を重ねれ

   ば 、一緒につくる仲間もできて来る 。 」

  「 ひとりの 、たぶん三十代後半の男を思い出す 。ある映

    画で助監督が足りなくなるということがあった 。そんなに

    大作という記憶はないのだが 、チーフ助監督が別班を

    つくって 、役者の演技をさほど必要としないロケーション・

    シーンを撮りに行き 、もう一人の助監督が体をこわして

    入院してしまったというようなことだったと思うのだが 、

    四人編成が二人になってしまった 。通常ならあいている助

    監督を応援に頼めばすむのだが 、どういう訳か撮影所の人

   ではないその人がやって来た 。ヴェテランということだっ

   た 。事実 、よく働く人だった 。

     ところが撮影所のスタッフの評判は良くなかった 。声や

   身振りが大きく  、目立つのである 。そのつもりはなかっ

   たかもしれないが 、自分はいまここにいて 、こういうこと

    をしているというアピールが頻繁になされすぎるように 、

    私にも感じられた 。

     椅子に掛けた監督がその人に小声でなにか指示をする 。そ

   れを臣下の侍のように片膝ついて『 ハイ 、ハイ 』とうなず

   き 、終りは 『 ハイッ 』 と大きめの声をあげて 、 その用事を

   果すべくすっとんで行く 。

    『 やだね 、万事おつくりで 』 とカメラマンが 小声で側の

    撮影助手に憫笑するのを聞いた 。

     私は自分がいつの間にか撮影所の内部の人間になっている

   ことを感じた 。撮影所の空気がなにをどう感じるかを承知

   していて 、それに教育されてもいて 、馴れて無理せずに

   振舞っている 。今更私がおつくりをしようにも 、どの程度

   の仕事ができるかできないか 、どういう人間かはとうに周

   囲に見ぬかれているから飾りようもない 。その安息を感じた 。

     もし自分がその人のように 、突然外から 『 ヴェテラン

    の助監督 』 としてほうり込まれたら 、きっと私も自分

    の能力をアピールするだろう 、働きを周囲に念押しし

    たくなるだろう 、品よく控えめにしていたら 、自分の働

    きを周囲は気づかないかもしれないのだから 。

     飛躍するようだが 、アメリカの自己主張の文化にも 、

    似たような 『 せつなさ 』 があるのではないだろうか 。

   よくも悪くも歳月をかけて根付いた共同体を信じられず

    頼れず 、ただもう一人で血も涙もないグローバルシステ

   ムの前に 、裸で立たなくてはならないとなれば 、粋だ

    とかシャイだとか謙譲なんていっていられない 。 」

  「 なんであれ人間の営みは 、どうしても 『 陰の存在 』

   を生むし 、必要ともしてしまう 。それを当然のこととして

   生きるのでは満たされず 、誰しもが光を浴びずにはいら

   れなくなるような孤独が 、今はいうまでもなく日本にも

    ひろがっている 。 」

  「 小道具係 。役者たちの帽子やバッグ 、傘から風呂

   敷包みや本や下駄や靴を管理し 、セットを飾るあらゆ

     る小道具も担当の範疇で 、食事のシーンがあれば飯

     を炊き 、献立を用意し 、犬猫が出ればその手配も世

    話もする 。どこまでも具体性から逃げられないその人た

   ちが私は好きだった 。

    ケーキを食べるシーンがあるとNGが出てもいいように

   いくらか余分に買ってあり 、余ると食べに来ないかと

   誘われたりした 。ある日 、先輩の助監督にたしなめ

   られた 。

   『 君はいまに監督になるのだろう 。彼らと親しみすぎ

   てはいけない 。命令する立場になるのだ 。いまのまま

   だと 、彼らは君を軽く見るだろう 』

    しかし 、私は助監督室の映画論に加わるより 、小

   道具さんといる方が楽しかった 。たぶん下町にうまれ

   て 、親族に大学出もサラリーマンも一人もいない育ち

   のせいだろう 。その結果 、軽く見られたかどうかは 、

   監督にならなかったので分らない 。 」

  「 『 陰の存在 』 もしゃべれば 、いくらでもしゃべること

    はあるのだった 。

     だったら話せ 、書けというのがいまの風潮だが 、

    のうまさと仕事での腕のよさは 、必ずしも一致しない

    映画のスタッフの書いた本を読むと 、時折それを感

    じる 。 」

   ( 山田太一著 「 月日の残像 」新潮文庫 所収  )

   引用おわり 。

   

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

額田王 Long Good-bye 2023・09・09

2023-09-09 05:30:00 | Weblog

 

   今日の「 お気に入り 」は 、歴史作家 関裕二さんの著作

  「 古代史の正体 」から 。

  備忘のため 、抜き書き 。

  引用はじめ 。

  「 天智7年( 668 ) 夏5月5日 、天智天皇は 、

     大海人皇子( のちの天武天皇 )や諸王 、内臣( 中

     臣鎌足 )、群臣らとともに 、蒲生野( 滋賀県東近江市 、

     蒲生郡日野町の周辺 )に薬猟( 不老長寿の薬になる

    鹿の新しい角を取り 、薬草を摘む儀式的な行楽 )を行っ

   ていた 。この猟の後の宴で 、歌が披露された 。その時の 、

   額田王の 『 天皇 、蒲生野に遊狩したまう時 、額田王の

   作る歌 』 が 、次の一首だ 。

 

    あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る

 

   ( 大意 )紫野を行き 、標野を行って 、野守に見られて

   いないでしょうか 、あなたが手を振っているのを ・・・ 。

 

   『 野守に見られていますよ 』 と 、はにかむ額田王を連想

  してしまう 。手を振るしぐさは愛情表現なのだが 、古代人

  にとってはさらに大きな意味があって 、魂を招き寄せる行

  為だった 。一見して朗らかな歌なのだが 、これには 、裏が

  ある 。というのも 、このとき額田王は 、大海人皇子のもと

  を離れて 、天智天皇に嫁いでいたからだ 。『 元夫 』が野

  原で手を振ってきた  ( 魂込めて愛情表現してきた ) ことを 、

  みながいる宴席で 、暴露してしまったわけである 。もちろん 、

  今の亭主も 、目の前にいたにもかかわらず 、『 野守に見ら

  れてスキャンダルになっちゃいますよ 』と 、その状況を告白し

  てしまったのだ 。これに 、大海人皇子はどう応えたのだろう 。

 

   紫草 ( むらさき ) のにほへる妹 ( いも ) を憎くあらば人

  妻ゆゑにわれ恋ひめやも

 

  ( 大意 ) ムラサキ草のように照り映えるあなたを 、もし憎い

  いと思っていたら 、人妻と知りながら 、どうして恋をしまし

  ょうか ・・・ 。

 

   微妙な歌だが 、天智天皇だけでなく 、一堂に会してい

  た群臣たちも 、歌を反芻したにちがいない 。『 憎いと思

  っているなら? 』『 何で恋をするでしょう? 』ということは 、

  『 憎くない? 』『 だから 、手を振った? 』『 要は 、好き

  なんだ ~ !!  』 。」

 

 「 民俗学者の折口信夫はこれを 、『 戯れ言 』とみなし 、

   この解釈が通説となっている 。たしかにそう考えなければ 、

   その場は凍てついていたはずだ 。

   ( 中 略 )

   政略結婚で天智天皇と額田王は結ばれたが 、大海人

  皇子と額田王が 、いまだに愛し合っていたとなれば 、天

  智天皇のメンツは丸つぶれになる 。だから和やかな雰囲

  気の中で 、大海人皇子も額田王もケラケラ笑いながら

  この歌を交わし戯れ事にしたと考えたのだろう 。

   しかし 、本当にそうなのだろうか 。額田王は 、腸 ( はら

  わた ) が煮えくりかえっていたのではなかったか 。彼女は

  近江遷都の際にも 『 なんで三輪山から離れなければな

  らないのだ 』 と 、天智の政策を批判する歌を作っている 。

  好きでもない ( 憎んでいた可能性もある ) 人のもとに嫁

  ぎ我慢していたのに 、大海人皇子はのんきに手を振って

  くる 。それならばと 、猟のあとの宴席で二人の権力者に

  一泡吹かせたのではなかったか 。男の度量を試したので

  ある 。

   額田王が歌った瞬間 、緊張が走り 、群臣たちはポー

  カーフェースを決めこんだろう 。天智は顔をこわばらせ 、

  大海人皇子も青ざめ 、たじたじだったにちがいない 。

   天智と大海人皇子は 、反蘇我派と親蘇我派に分

  かれて 、骨肉の争いを演じてきた仇敵である 。天智

  天皇は親蘇我派を懐柔しなければ 、政権を運営で

  きなかった 。だから 、やむなく大海人皇子に娘を大勢

  差し出し 、その見返りに 、額田王ひとりをもらい受けた 。

  屈辱の交渉を経て 、今 、ここにある 。いわば額田王は 、

  娘数人と対等の人質だ 。その額田王が 、『 大海人

  皇子とまだ恋愛中 』 と 、歌にしてみなの前で発表した

  のである 。最も権威ある地位に立っている天智が 、コケ

  にされたのだ 。殺意を抱いたとしても不思議ではない 。

    そして 、大海人皇子が必死の思いで返した歌に 、天

  智は顔を赤らめ怒り心頭に発し 、群臣はさらに緊張し 、

  額田王はほくそ笑んだ  ・・・ 。そんな情景が伝わってく

  る 。

   ならばなぜ 、天智天皇は大海人皇子を殺さなかった

  のか 。そしてなぜ 、大海人皇子は 、額田王の問いか

  けに 、『 憎いわけがないだろ 』 と 、殺されても文句が

  言えない歌を返したのだろう 。

    答えははっきりとわかる 。すでに述べてきたように 、天

  智朝で重用されていたのは 、蘇我系豪族たちだった 。

   彼らが集っている宴の場で 、天智は迂闊に手を出せ

  なかったのだろう 。それを知った上で 、額田王と大海

  人皇子は 、歌をやりとりし 、心の中で舌を出したので

  はないか 。

    痛快な事件と言っていい 。これほど胸のすく愉快な

  事件が起きていたことを 、『 万葉集 』 は伝えたかった

  のだろう 。女性の度胸に 、頭が下がる 。 」

   ( 関裕二著 「 古代史の正体 」新潮社 刊 所収 )」

  引用おわり 。

  異論もあろうが 、面白い 。いつの時代も ・・・  。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なごやかになれる人々となごやかになれない人 Long Good-bye 2023・09・07

2023-09-07 04:30:00 | Weblog

 

  今日の「 お気に入り 」は 、山田太一さんの「 月日の残像 」から 。

  備忘のため 、抜き書き 。「 女と刀 」と題した章のほぼ全文 。

  引用はじめ 。

  「 ほぼ三十年前の 、短い私の随筆が 、ある新聞のコラム

   で 、要約という形で言及された 。」


  「 私なりに要約すると 、湘南電車の四人掛けの席で 、

   中年の男が他の三人 ( 老人と若い女性と私 ) に 、いろ

   いろ話しかけて来たのである 。

    それだけでも 、いまはもうありそうもない 。長くて

   も二時間前後の 、いわば通勤圏の電車で相席の人に

   話しかけるなんていうことは 、酔っているとかすれば

   別だが 、それだってほとんどないだろう 。

    そのころだってやたらにあったわけではないが 、『 あ 、

   富士が綺麗だ 』 と誰かがいって 、『 そうですね 』 と

   いうぐらいのことは 、ごく普通の空気でなされたように

   思う 。いつの間にか 、人と人の閉じ方が強くなっている

   のかもしれない 。

   『 ああ 、まいった 。今日はえらい目にあった  』 と相手

   を求めて口をひらいた男にまず若い娘がつかまり『 いや 、

   今朝がた湯河原でね 』 という話に 、いつの間にか老人も

   加わり 、私にも目を向けるので 、私も 『 へえ 』 などと

   いっていた 。気の好い人柄に思えた 。

    ところがやがて 、バナナをカバンからとり出し 、お食べ

   なさいよ 、と一本ずつさし出したのである 。私は断った 。

   『 遠慮じゃない 。欲しくないから 』 『 まあ 、ここへ置く

   から 』 と男はかまわず窓際へ一本バナナを置いた 。

    食べている老人に 『 おいしいでしょう 』 という 。娘さん

   にもいう 。『 ええ 』『 ほら 、おいしいんだから 、お食べ

   なさいって 』 と妙にしつこいのだ 。『 どうして食べないの

   かなあ 』

    そのうち食べ終えた老人までが置いたままのバナナを気に

   して 『 いただきなさいよ 。せっかくなごやかに話していた

   のに 、あんたいけないよ 』 といい出す 。

    そのコラムの要約は 『 貰って食べた人を非難する気はない

   が 、たちまち 『 なごやかになれる 』 人々がなんだか怖い

   のである 』 という私の文章でまとめられている 。 」

  「 私はかつて 『 なごやかになれない人 』 の結晶のような

   人物を描いた小説をテレビドラマに脚色したことがある 。 

    脚本家になって一年目のことだった 。鹿児島の作家・中村

   きい子さんの 『 女と刀 』 である 。企画は木下恵介さん 、

   はじめの三回は木下さんが書き 、あとを引き継いで三十分

   二十六回のドラマだった 。 」

  「 小説は 、作者の母上の生涯を語ったものだが 、その 誕生

   ( 明治十五年 ) の五年前に西南戦争が起きている 。この戦

   争が 、この物語の底流から消えない出来事である 。

     贅言 ( ぜいげん ) だが 、大久保利通と西郷隆盛と いう 、

   同じ鹿児島の 、家も近い若い下級士族の青年二人が 、ほ

   とんど中心になって徳川の時代を終焉に導き 、明治新

   政府を樹立したのであった 。それが明治十年に 、大久保

   は新政権の最高位を占め 、西郷は反政府の士族たちの長

   となって 、戦い合うことになった 。

    熊本が主戦場となり 、西郷軍は敗走して鹿児島へ戻り 、

   力尽きた 。西郷は自刃した 。

    その西郷の許で戦って敗れたのが 、主人公の父であり 、

   作者の祖父である 。鹿児島でさえ賊軍呼ばわりされたと

   いう 。たしかに敗けは敗けである 。しかし 、だからと

   いって 、いさぎよく敗けたりはしない 、というのが 、

    その青年士族の 『 意向 』 であり 、新しい権力に無

   件でわが身をゆだねるなどということはあってはなら

   いといい 『 いくさとは 、ねばりという火をこころに燃

   やさねばならぬもの 』 、敗けても 『 おのれの意向は刀

   折れ 、矢つきても通さねばならぬ 』 というのである 。

    その 『 意向 』 とは 、慌てて西洋の仕組みを学びに行き

   『 一枚めくれば銀紙よりもまだ軽い 『 文明開化 』 などと

   いう 、毛唐どもの猿真似を 、まるで金のたまごのように

   持ちかえった大久保殿の気がしれぬわい 』という 、真向

   から明治新政府の西欧化 、近代化に叛旗を掲げるものだ

   った 。『 どうあろうとも西郷殿のお言いやい申したこと

   を 、きく耳もたなかった 『 日本 』 のやがてを 、わしら

   は見届けねばならぬ ( 略 ) このくろい目で確かめるまでは 、

   お互いに生きられるだけ生きのびることにいたしもそ 』

    その西郷殿の意向には 、今のうちに韓国を叩いておこ

   という 『 征韓論 』 もあり 、新政権にどのくらい対抗

   得る内容であったかは私には計り難いが 、一点 、新政権

   に勝るものがあるとすれば 、自分が生きて来た過去を素

   早く否定できない者たちの情念の重さのようなものでは

   ないかと思う 。

    さあ新時代だ 、髷を切ろう洋服を着ようという適応の

   さに 、人間そんなに簡単に変れるものか 、変ってたま

   かという 『 ついて行けない者たち 』 の誇りと無念の重

   がこの小説の柱である 。

    父の無念は 、『 意向 』 を 『 こころ 』 といい替えられて 、

    主人公に伝えられて行く 。第二次大戦の敗色が濃くなるこ

   ろになっても 、これは大久保たちのつくった 『 日本 』

   不始末で 、かかわりなどあるものか 、と軍需工場へ行って

   国のために戦うという娘に 、主人公は刀をつきつけて行か

   せぬといって押し通す 。周囲から非国民呼ばわりされても

   『 なんとよばれようがわたしゃ覚悟のうえでやったことじ

   ゃよ 』 と動じない 。

    敗戦になる 。すると周囲は一変する 。今まで命を賭し

   戦っていたはずの相手に 、これはもう無条件降伏なの

   から仕様がないと 、占領軍が持ち込んだ民主主義をぬけ

   ぬけと歓喜の両手で迎えてしまう 。その思想の深さも知ら

   ずに 、おのれのもののように振舞う 。『 敗けてよかった 』

   などという 。『 非国民は許せない 』 といっていたのは誰

   だったのか 。父が生きていたら 、大久保のつくった 『 日

   本 』 のなれの果てを見て憤死するだろう 、という 。

    そういう激しい女性だから 、実生活で周囲にいる者たちは 、

   たまったものではない 。

    生きるということは 『 ただそれだけにとどまる姿勢でなく

   して 、おのれの意 ( こころ ) を通して生きるという姿勢を

   貫かねばならぬ 』 。

    近隣からは 『 鬼婆あ 』 といわれ 、子どもと争い 、嫁とも

   戦い 、一番の災難は夫で 、ごく普通の平凡で小心な男なの

   だが 『 ひとふりの刀の重さほども値しない男よ 』 と見捨て

   られてしまう 。

    世間にも気をつかい 、細かな我慢を重ね 、時には小さな不

   正にも加担し 、怠けたり 、こっそり小さな愉しみを見つけ

   たりという 『 なごやかな人生 』 などに安住しようもな

   女性の生涯なのであった 。

    この脚色は 、一口にいえば 、鍛えられた 。なまはんか

   ものを書こうものなら激しい作者に𠮟りつけられそうで 、

   おびえながら書いた 。なにしろ私はといえば 、その 『 ひ

   とふりの刀の重さほども値しない男 』 の一人だから 、主

   人公の台詞ひとつひとつが私に向けられているようで 、

   叱咤の台詞を自分で書いて自分でへこんで 、あやまって 、

   時には𠮟りつける主人公と一体化したような錯覚があった

   りして 、やり甲斐のある仕事だった 。

    主人公のキヲは 、中原ひとみさんだった 。当時はもう

   可愛い少女ではなかったが 、それでも明るく柔らかな

   象の女優さんを 、強さのかたまりのような女性に配役した

   木下さんの感覚もすばらしかった 。老婆になるまでを 、

   見事に中原さんは 、やり通した 。春川ますみさんが演じ

   た 、ドサリとしたたかな嫁との激しい闘いのシーンなど

   も忘れられない 。もしこれが映画だったら 、木下恵介

   監督の代表作の一つになったかもしれないと 、ひそかに

   思っている 。

    というような訳で 、その後の私はこの作品にいくらか

   しばられている 。 」

  「 バナナをすすめられて 、欲しくないといった 。それは

   本心だった 。知らない人から簡単にものを貰って食べて

   いいのか 、という用心もある 。

    しかし 、気軽に他の二人が 『 おぃしい 』 『 食べなさい

   よ 』 と言い出すと 『 じゃあ 』 といって手を出してしま

   うのが 、まあ 、本来の私かも知れなかった 。しかし 、

   そこで 『 女と刀 』 の叱咤が甦るのである 。欲しくない

   なら 、その 『 こころ 』 を貫ぬけ 、と 。

    すると 『 あんた大人気ないよ 』 とかいわれはじめる 。

   次第に窓際のバナナが踏み絵のようになって来る 。

    つまり 、たちまち 『 なごやかになれる人 』 は 『 なご

   やかになれない人 』 を非難し排除しがちだから怖い

   いったのだった 。

    そのあとどうしたかは 、元の随筆でも書いていない 。

   途中の藤沢で老人が立上り 『 あんたがいらないなら私が

   貰うよ 』 とそのバナナをとって 『 ありがとね 』 と中年

   男に礼をいっておりて行った 。こういうのを見事というの

   だろう 。中年男と若い娘は雑談を続け 、共に横浜でおりて

   行った 。私はそれだけで疲れて 、『 女と刀 』 をやるのは

   大変だよ 、と溜息をつきながら川崎でおりた 。 」

   (  山田太一著 「 月日の残像 」新潮文庫 所収  )

   引用おわり 。

   ( ´_ゝ`)

     湘南電車の乗客四人のやりとり 、今の言葉でいうなら「 同調

   圧力 」。コロナ禍で右往左往していた頃 、よく使われた言葉 。

    人は忘れやすい生き物 。

    コロナなんてあったっけ 、地震なんてあったっけ 。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

阿修羅のごとく Long Good-bye 2023・09・05

2023-09-05 05:00:00 | Weblog

 

  今日の「 お気に入り 」は 、山田太一さんの「 月日の残像 」から 。

  備忘のため 、抜き書き 。

  引用はじめ 。

  「 この間のことで残像もまだ雑多だが 、七月の中旬 、

   イスタンブールのトプカプ宮殿の前庭で軍楽隊の行進

   に出会った 。

   『 トルコ十一日間 』というツアーに参加したのである 。

   かねがねトルコを見たいといいながら 、言葉も出来ない

   七十代の夫婦が 、頼れる知人もなしに個人で出掛けても

   手も足も出ないだろうと ( それはもう行ってみて本当に

   そうだった ) 棚上げにしていたのだが 、急にその気にな

   ったのである 。

    観光の定番だからトプカプ宮殿の前は大変な人だった 。

   多くはツアーの人たちである 。日本人は年間十万人ほど

   で 、一番多いドイツからの客は二百万人というのだから 、

   背の高い白人の男女が多い 。チケットをさし込んで通る

   ゲートを入っても 、また人でいっぱいで 、宮殿に至る

   中央の道も人で溢れている 。港に豪華客船が停泊してい

   て 、そこからのグループも十何組もあるとのことだった 。

   急に人込みの先で 、あのトルコの軍楽がはじまった 。

   シンバルと太鼓とトランペットとオーボエ ( というのは

   西欧の楽器になぞらえてのことで 、それに近いもの 、も

   のによっては 、その原型かもしれないのだが ) の力強い

   行進曲である 。 」

  「 現代の軍装ではなく 、いかにもオスマン・トルコの軍隊

   である 。

    ( 中 略 )

   行進の縦の列が 、横に拡がる 。宮殿を背にして 、観光客

   と向き合う位置に並ぶと 、ひとまず演奏が止んだ 。いつの

   間にか人々の最前列にはユニフォームの男たちがいて観光客

   を制している 。ギャグのようにたっぷりと髭をひねり上げ

   た楽長が見物人に背を向けてタクトの位置につく 。

    それから 、あの曲がはじまった 。向田邦子さんのNHK

   ドラマ『 阿修羅のごとく 』のメイン・テーマである 。無

   論 、トルコの軍楽隊が日本のテレビドラマのテーマを演奏

   したのではなく 、向田さんの方がトルコの軍楽を 、日本の

   家族劇に使ったのである 。向田さんではないのかもしれない 。

   演出の和田勉さんかもしれない 。あるいは音楽担当のスタッ

   フのアイディアかもしれない 。

    ともあれ 、テレビドラマの音楽で 、これほど突飛でこれほ

   ど秀抜な効果を上げた例を他に知らない 。私にとってこの曲

   は『 阿修羅のごとく 』と不可分で 、耳にすると抗いようも

   なく加藤治子さん 、八千草薫さん 、いしだあゆみさん 、風

   吹ジュンさん 、佐分利信さんの映像が甦ってしまう 。向田

   さんの仕草や声音が間近をかすめるような気持になる 。

    あくまであのドラマを見た人だけのことだが 、日本人はト

   ルコの人には思いもよらない情感でこの曲を聞くことになる 。

   その感動があった 。奇妙さが面白くもあった 。そしていく

   らかは 、はかないテレビドラマも 、人の心に残るのだとい

   う手前勝手な感慨もあった 。それもこれもあのドラマがよか

   ったからで一般論にはできない 。失敗した作品だったら 、オ

   スマンの軍楽と日本の家族劇の組合せは 、とても無残だった

   ろう 。

    更に演奏は続いた 。曲が変り 、歌もまざる 。歌も凄い 。

   男だけの世界 。太い声の合唱 。力強い太鼓 。高鳴るトラン

   ペット 。青年も髭をつけてむしろ中年の強者を装う 。

    軍楽隊なのだから当り前だが 、堂々たる強さの誇示 。そし

   て華やかな衣裳 。裾長の赤いマントに金色のライン 。紫の

   マントに金色もある 。帽子の純白のあしらいも清潔 、正義

   を感じさせなくもない 。楽長は鎖帷子のような金属をまとい 、

   胸を張り 、剣も見事にそりかえっている 。

   臆面もなくためらいもなく『 勇ましさ 』『 男らしさ 』『 強

   さ 』『 戦士の美しさ 』の強調である 。とてもとても 、幼な

   さ 、未熟 、弱さの魅力などつけ入る隙がない 。

    絶えて久しく日本から消えていたものを見ている思いだった 。

   人一倍意気地のない私のような男でも 、ここまで女性の冷笑を

   気にしないでマッチョを展開したら気持ちがいいだろうな 、と

   ふらふらする魅力があった 。

    とはいえ 、無論これは現代のトルコの軍隊のなにかを語るも

   のではない 。あくまでオスマン・トルコ時代の軍楽隊の再現で

   ある 。いい曲ばかりだから式典ぐらいでは演奏されるだろうが 、

   いまのトルコ軍がいつもこの軍楽隊に励まされているとは思えな

   い 。

    しかし 、旅行者の浅い目には 、日本の祭の時代行列のリアリ

   ティのなさとは比べ物にならない重厚感 、本当らしさが感じら

   れた 。 」

   ( 山田太一著 「 月日の残像 」新潮文庫 所収 )

    引用おわり 。

  ( ´_ゝ`)

    トルコの軍楽隊の行進を 、家族とともに 、東京銀座の街頭で見物

   した日のことや 、「 阿修羅のごとく 」の あの場面この場面 を思

   い出す 。インパクトある あのメロディー が脳裏に甦る 。なにひと

   つ楽器演奏はできないが 、メロディーを口笛で吹くことぐらいは

   今でも出来る 。

    (* ̄- ̄)

   昨日 今日 漸く 秋の気配 。

   炎天下 、庭の蜥蜴の背色が綺麗 。

   自転車に乗って 、塩辛蜻蛉と並走 。

 

  ( ついでながらの

    筆者註 : 「 メフテル( トルコ語 : Mehter )とは 、オスマン帝国と

         トルコ共和国で行われてきた伝統的な軍楽のことで 、オ

         スマン軍楽 、トルコ軍楽とも称される 。また 、メフテルを

         演奏する軍楽隊をメフテルハーネ ( Mehterhane ) と言う 。」

        「 ジェッディン・デデン  Ceddin Deden( 祖父も父も )

         NHKドラマ「 阿修羅のごとく 」や ビートたけし主演の中外製薬

         『 グロンサン 』 CMで使用され 、日本で最もよく知られたメフ

         テル楽曲 。

        以上ウィキ情報 。)

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする