ここ1週間、女子カメラモードな記事ばかりだったので、
琉球歴女な記事もいれていきましょう。
(その時々によって偏る和々のブログ…)
GWに百十踏揚のお墓参りとセットで行ってきた、
百十踏揚の父親、第一尚氏王統6代・尚泰久王のお墓です。
■尚泰久の墓■
「大世主」尚泰久王が薨じたのは、
天順四年(1460)、庚辰6月5日(太陽暦では6月23日)であった。
寿50、在位7年―――。
尚泰久王は、第一尚氏王統においては、
尚巴志王に次いで、存在感の大きい王といえた。
歴史的に見れば、仏教を国造りの基本に据えて、寺々を数多く建て、
知識人たる大和僧たちを招いて厚遇し、文教を盛んにし、
「万国津梁の鐘」を掛けて高らかに琉球の気概を謳い上げ、士民を鼓舞し、
海外貿易も盛んにしていった業績などによって、
尚巴志王以来の名君ともうたわれている。
しかし、一方においては、
岳父護佐丸を、
そして次に娘婿たる阿麻和利を滅ぼしたという、
血塗られた一ページも、付け加えている。
『百十踏揚 603-』より (与並岳生著/新星出版)
最近整備されたのか、尚泰久のお墓は
石も新しく白く光っていましたが、
(尚泰久の子孫は今でもはっきりしておられ、去年催しも行っていました)
元となっている大岩はごらんの通り。
やはりすごい存在感です。
大通り沿いというのがちょっと雰囲気ありませんが…
(1枚目の写真は裏側からの通路になります)
小説「百十踏揚」によると、
尚泰久は第一尚氏王統の玉陵である「天山陵」に葬られたとのことでしたが、
なぜ、尚泰久のお墓がここに?
金丸派のクーデターによる天山陵焼き討ちのときは、
尚巴志から、4代の尚思達王までの遺骨が持ち出され「佐敷森」に葬られた…
というのは以前記事にしたとおり。
どうして尚泰久は生まれシマでもないここ、玉城冨里に?
やっぱり息子・娘たちと一緒にしたかったのかしら。
(でも尚泰久は尚巴志の七男にあたります)
尚泰久のお墓は、長男の金橋(安次富加那巴志)お墓と一緒になっています。
百十踏揚は、次男の多武喜と一緒。
この3人が尚泰久妃(※護佐丸の娘)の生まれ。
もう一人、尚泰久の息子がいますが、側室腹、となります。
その側室腹の第4子が王位を継ぐわけですが…。