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薩摩侵攻史跡めぐり~大湾・渡具地港~

2010年06月09日 | ・琉球史散策/第二尚氏

はーい。

では、薩摩侵攻史跡めぐり、再開です。

今帰仁城趾を後にして、
間にランチタイム兼休憩を挟み、
南下していきます。

向かった先は、読谷村の大湾・渡具地の港。
(過去記事でも紹介済み。→テンペスト行脚こいのぼりフェスタ



運天港から本島上陸を果たした薩摩軍。

周辺の村々と今帰仁城を落とし、
王都・首里を目指して南下しますが、
陸路でいくよりも海路のほうが早い。



内部の派閥によりいざこざがあった薩摩は
ゆっくりしてはいられない、
ということで海路で南下。

しかし、主要港の那覇港は首里軍でしっかり防御され、
安易に入れる状態ではなかった。
(琉球側にも軍隊がありました。薩摩を迎え撃ち戦ってもいます)

そこで、那覇にほど近い、中部の読谷村、大湾・渡具地港から
再上陸を果たすのです。


↑の写真は、大湾・渡具地の海岸から南を望むの図。すぐ向こう側に浦添、那覇が見える。

ここは、那覇にもほど近く、
また比謝川の河口にあたり真水が入ってくる場所であったため
船にとってはやっかいな珊瑚礁が発達しておらず、そこそこ水深もあった港だったのです。

首里王府はこの読谷からの上陸は予想外だったらしく、
まんまと再上陸を許してしました。

そして、薩摩軍は数隻をそのまま那覇港にさしむけ、
同時に陸路からも兵を仕向けるのです。



きっとこの水平線に、薩摩軍の軍艦がずらりと並んでいたことでしょう。

ちなみに、ここ渡具地は太平洋戦争の時、
米軍が沖縄本島上陸をした場所でもあります。

薩摩軍と米軍。

ああ、なんという因果か。


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