今日の龍馬伝のコーナー。
①
富さん、泣かす…
龍馬伝、結構泣かせに入りますね…。
3度目だよ。
蛍の演出、
すごい良かったー。
素朴な疑問。
蛍って本当にあんなふうに光るの?
ライムイエローっていうか。
ほわっとした、あんな光?
沖縄の蛍が違うだけ?
(やんばるで見たんだけど…印象としては全く違う…)
それとも、時代?
②
坂本家の果物冷やす水場!!!!(なんていうの?)
すごいっ!!!ステキすぎっ!!
というわけで、今日はスイカの写真。
薩摩侵攻ツアーのときに撮った今帰仁スイカ。
③
新撰組、野蛮だー
通常の御用改めであんなに有無を言わせずどかどか入り込む~?
そしてやっぱり馴染まない原田さんの近藤勇…
次は寺田屋ですね~
そしていよいよ禁門の変!?
縞のないスイカは砲丸のよう…。
ぽちっと応援お願いします♪
*おまけ*
手ぬぐいブロガー仲間のLeeさんが、
最近から各地のマンホールを紹介しているので、
肝高の阿麻和利公演後に撮ってみた、
うるま市勝連のマンホール(笑)
ワタシもマンホールの写真、結構撮ることあったんですが、
旅先が主で、地元のマンホールは特に気に留めていなかったことが判明(笑)
勝連といえば、勝連城跡を省けば、コレでしょう。
平敷屋(へしきや)エイサー。
平敷屋エイサーは沖縄でも独特なエイサーで、
すべてパーランクー(※イントネーションはまっすぐよ)と呼ばれる
小さな太鼓と、木の枝のバチで舞われます。
大太鼓などの迫力やダイナミックさはなく、
ゆったりとした動きや白とグレーの衣装は地味な印象がありますが、
今でも地域にしっかりと根付いた伝統芸能として
青年たちに引き継がれています。
あと、やたらと長い髪形のチョンダラー(京太郎)がいい(笑)
もちろん、肝高の阿麻和利の舞台にも欠かせません!
平敷屋エイサー、ブラボー
そろそろ、エイサーの太鼓の音がどこからともなく聞こえてくる季節ですね
エイサーはウチナンチュの魂です。
↑↓足跡代わりにぽちっと応援お願いします♪
昨日に引き続き、
肝高の阿麻和利6月公演行ってきました!(^ω^ゞ
通算21回目っ
2デイズ連チャンはいつものことだけど、
どちらも昼公演を、というのは初めてかも。
これまでどちらかといえば、
夜公演を指定して行っていたので。
(肝高の阿麻和利は1公演ずつ進化していくので最終日の夜公演は1番人気)
昨日は前方。
今日は後方から舞台全体を味わいました
夜公演も、やっぱり見たかったなー。
今日の舞台もすばらしかったですが、
細かい感想というよりも、
今日はリピーターのための
ワタシ的、肝高の阿麻和利観劇のツボを書きますっ
≪① 背景の人物に注目≫
背景と書いたら失礼ですが
メインの話や踊りが前方で行われてて、
その後ろに座する一時「背景」となっている人物たち。
肝高の阿麻和利メンバーは絶対に舞台上で気を抜きません。
背景になっていようと、前で自分とは関係なくストーリーが展開されていようと
ずっとその役として、実に細かい演技をし続けています。
それがたとえ階段下であっても。
ここだけでも見る価値、ありです。
個人的に好きなのは、
護佐丸討伐後の祝い酒を飲んでいる時の阿麻和利たち。
(やけ酒をあおる阿麻和利を見る百十踏揚がタマリマセン)
≪② 場面転換のハケに注目≫
場面転換で暗転して、
キャストが舞台袖にはけるときにも
ちゃんと動きがある。
タイミングがある。
リズムがある。
≪③ 「最期」の場面は死神と百十踏揚に注目≫
死神さん(正式役名は何だ?)、実はかなり激しい動きしてますよ。
黒尽くめで分かりにくいですが、
一度稽古で衣装なしの死神さんの舞を見たことがあります。
力強くてかっこいいです。
それから、聞得大君にあったという百十踏揚の
霊験あらかたな演出と演技。
ちなみに、この場面は誰を見ても面白いです。
大城賢勇だけを見ててもいいくらい。
≪④ 最後の最後の挨拶の、阿麻和利と百十踏揚のラブラブぶりに注目(笑)≫
舞台上、そして舞台を降りて中通路で各パートごとにお客さんに礼。
そのときの阿麻和利と百十踏揚。
中通路での、最期の最期にご注目。
たぶん、一番ドキドキします(笑)
見詰め合って互いににこっとして、というのは前からあったけど、
見つめつつ手を取り合って惜しみつつ身を離してゆく、
というのは去年くらい?から出てきた演出ですよねー。
きゃっ
ってなります(笑)
阿麻和利と百十踏揚と大城賢勇の三角関係ぶりは
歴史的にも色々憶測が飛び通ってますが、
阿麻和利と百十踏揚のラブラブ説を断固押します!!(笑)
ああ、そろそろ夜公演が始まりますね。
6月公演、楽しませてもらいました。
また、次が楽しみです。
…ところで、擬似首里軍(伝令)の音楽、
アレンジちょっと変えた?前半くらい。
…ちょっとおとなしくなってる?キノセイ?
肝高の阿麻和利はワタシの元気の源
↑↓足跡代わりにぽちっと応援お願いします♪
尚家家紋、左三つ巴を考える、その2。
三つ巴は全国的にも非常にメジャーな家紋のひとつ。
バリエーションも様々あります。
(↑は鎌倉、大巧寺)
新撰組の土方さんもこの家紋だし。
さて、【1】で巴は「水」をあらわしており、
防火のまじない瓦として多く利用されている、
とご紹介しましたが、
今回は、家紋(社紋・神紋)としての三つ巴の考察。
「巴」とは何か。
「水」以外にも、
弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、もとは鞆絵である
というのもあります。
(引用/wikipedia)
ま、コレも有名ですね。
そして、
巴紋が弓矢の神である八幡宮の神紋と見なされるようになり、
宇佐八幡宮をはじめ全国各地の八幡宮で使ったため、
武士は、これを家紋として神助を受けようとし、
巴紋は菊桐に次いで多く用いられることになった。
だそうです。
(引用/こちらのサイト)
八幡宮、八幡宮…
といえば、鶴岡八幡宮(IN鎌倉)でしょうか。
というわけで去年行った鶴岡八幡宮の写真、
カモーン!!!
(な、何も「家紋」とはかけたわけでは…)
じゃーん!
左三つ巴!
あっちこもこっちも三つ巴!
これでもか!ってくらい。
八幡宮の神紋が左三つ巴ということを踏まえて、
では小説「百十踏揚」からうんちくを一説。
第一尚氏最後の王、尚徳王が喜界島討伐の際に
掲げた大幟には
≪【左三つ巴紋】中山≫
と
≪八幡大菩薩≫
の文字。
「八幡大菩薩」は、これも自ら(尚徳王)のもうひとつの神号
「八幡之按司」の由来ともなった源氏の軍神にほかならない。
王家の左三つ巴紋自体が、源氏の氏神を祀る
八幡宮の総本社、豊前(大分県)宇佐八幡宮の社紋と同じである。
つまり、琉球王家の左三つ巴は、
「武の神」を象徴するものとして設定されたのであろう。
これを琉球王家の紋にしたのは、
恐らく、三山統一の覇業に向かって武威を広げていった尚巴志王ではなかったか。
「百十踏揚 626-」 (与並岳生著/新星出版)
尚徳王は後に那覇の安里に「八幡宮」をたてています。
うーん。
↑の小説に書かれているように
八幡神との関係があるのでしょうか?
でも、当時の三つ巴はまだ見つかっていないらしく、
(勝連城跡の三つ巴の瓦くらい)
尚徳王のエピソードも後世になってから書かれたものだったりするので
本当に当時から三つ巴を王家の家紋としていたかは、
やはり証拠はなし、ということでしょうか。
↑は京都壬生にあった小さな神社。
名前は忘れました…。
↑は高知城で展示されていた全国の城のパネル。
首里城のパネルには、尚家家紋について
紋章については本土のように家紋としての意味はなく、
道具紋として扱われていた。
と。
・・・たしかに、首里城の建物自体には三つ巴は見かけなかったけれど
道具にはけっこう三つ巴があしらわれていますね。
琉球王家、尚家の家紋「左三つ巴」を考える。
まだまだ謎は続く・・・。
↑↓足跡代わりにぽちっと応援お願いします♪