「臣を以って君を奪ふは忠なるか。下を持って上に叛くは義なるか。
爾(なんじ)等、宜しく首里に帰りて、貴族賢徳の人を択びて君と成すべし」
これは第2尚氏王統へのクーデターの際、
金丸派が金丸を次の王にすべく迎えにいったときに
金丸が発した台詞。
クーデターを嘆き、
自分(金丸)ではなく、首里でふさわしい人を選んで王にせよ
と、王位を辞退しているわけですね。
さてさて、
「貴族賢徳の人を択びて」
だれでしょう。
そもそも29歳で謎の死を遂げた7代王・尚徳は
三男で、しかも側室腹でもあり、
第一王位継承者ではありませんでした。
では、なぜ尚徳が王位を継いだのかというと、
色々と内部も画策もあっただろうと思われますが、
一般的なのは、尚泰久の正室の子である長男・次男は
護佐丸の孫
であったから、ということ。
1458年、
護佐丸が謀反を企てているという阿麻和利の讒言を信じた王府は
阿麻和利にこれを討たせますが、
同じ年、勝連を脱出してきた百十踏揚・鬼大城の
「阿麻和利が首里を狙っている」
との進言に今度は阿麻和利を討ちます。
その際、
「ここにおいて、王、大いに之を追悔し、ついに夏居数(鬼大城)等に命じて阿麻和利を征滅せしむ。
これよりの後、護佐丸の丹心中外に明らかなり」
(「球陽」)
つまりは「護佐丸を討ったのは阿麻和利にたぶらかされていた故で間違いであった」
と後悔しここに忠臣・護佐丸が回復するように見えるわけです、が。
さて、ではなぜ護佐丸の孫である2人の世子が跡継ぎに認められず、
尚徳が死んだ後も、金丸はこの2人のことを出さなかったのでしょうネ。
護佐丸の孫だから、という理由では
「護佐丸を討ったのは間違いだった」
という尚泰久の嘆きも意味をなさなくなります。
それとも護佐丸の名誉回復はもっと後の時代であって
この時期はまだ謀反人・護佐丸であったのでしょうか。
ってことは、すぐに阿麻和利を討った
という王府の判断もちょっと怪しくなってきますよね~。
それは阿麻和利が問答無用で首里を攻めてきたから?
では、少なくともこの時代、
護佐丸=忠臣、阿麻和利=逆賊ではなく、
王府にとっては阿麻和利も護佐丸も同じ謀反人として扱っていた
いうことになりますな。
護佐丸の孫である2人の世子を省みていないとなるとネ。
王府にとって、
護佐丸も阿麻和利も敵だった、と。
阿麻和利が攻めてきたことで、
「阿麻和利にだまされた!護佐丸は悪くなかった!」
って気づいたのであれば、
2人の世子を遠ざけるばかりか、
むしろ懺悔もこめて優遇すべきでしょう。
三男である尚徳の即位については
もしかしたら全く別の思惑があってのことだとしても、
尚徳の死後にも、一切2人の兄の存在が見えないのは…
…考えちゃいますよねぇ…策士、金丸さん。
どうでしょう。
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