山里ひぐらしの小径

木曽路の入り口、岐阜県中津川市から
人と自然とのかかわりをテーマに、山里、植物、離島など。

行方不明の人たちと、インドネシアの国勢調査

2010-08-09 | なんとなく報告
全国各地で、戸籍上はいるはずなのに、実はいない、というお年寄りのことが続々と明るみに出た。

家族と一緒にいるのに隣室で白骨化していたというのは特殊な例としても、はなはだ無責任な言い方をすれば、死期近くなって姿を消し、どこかの山中で静かに息を引き取り土に戻るのだとすれば、それは生き物としてなかなか立派な死に方なのではないかと思う。
家族に介護の世話をかけることもない。

猫はそういう死に方をする。
人と猫と一緒にしてはいけないという人もいるかもしれない。

行方不明の人たちは、いったいどこへ行ってしまったのだろう。
日本の場合、都会のお年寄りが一人でそのような山中に入り込むということもないだろうから、どこかの街で行き倒れになり、病院なり施設なりに運ばれて、そこで名もない人として生きている(あるいは亡くなった)というのが多いのだろうか。

幸福の黄色いハンカチみたいに、どっかの農家の納屋にすみつきそれなりに仕事をしていたりするならいいけれど。
あるいは寅さんみたいに旅をしている?
昔はそういう素性の分からない流れ者みたいな人が、
山村にやってきて、住み着いたり、まだ若い人であればそこで所帯をもったりすることも
多くあったようである。
そうやって、新しい血を入れていたりしたのである。

どこかの施設に引き取られている場合なら、税金でその人をやしなったり看護したりしているわけで、家族は年金をもらいその義務を免れているのだから、けしからんという言い方もできなくはないが
都会だからそういうことにきちきちせざるを得ないのであって
山里には場所も食料もふんだんにあり、ただ行政のしくみとして困るということであって
健全なコミュニティーというのは本来そういう「ゆとり」「あそび」があるものだろう。

そもそも、人の出生と死について、すべてを国が把握できていることのほうが異常であり奇跡的驚異的であり、むしろ不自然である。


インドネシアでは5年ぶりかなんかで国勢調査を行い、今まで把握されていなかった樹上生活の民族のむらに分け入ったらしい。パプア島のこと。
インドネシアというのは本当に広くて、無数の島があり、それが一つの国になっていること自体、驚異的である。どうやってそれを「国」にしているのか不思議でならない。
ジャングルを奥へ奥へと分け入っていけば、忘れたころに次のむらが現れ、それが他の地域と隔離されていれば、別の民族だったりする。
フローレス島では、ネアンデルタール人とは別の系統の人類の骨が発見されている。
くだんの樹上生活の人たちへの国勢調査の様子をテレビでやっていたが、「インドネシアって何?」って答えていた。
彼らにとっては国なんか関係ない。

把握できない人たちやその地域を、自分の国として括ろうとすることをやめてみてはどうなんだろう。国勢調査の手間も省ける。
把握できる人と地域だけを自分の国とする。それでダメなのか。
インドネシアを批判しているのではない。
地球上のすべての地域をどこかの国として境界を引くようになったのは、いつからなの?
学校で習ったかもしれないが、歴史は苦手だったので、私は無知である。
ただ、その方式の中に、権力者の陣地取り合戦のにおいを感じて
無為に思うのである。
管理しようとしているのは誰なのか。
何のために管理するのか。

国というのは、「よその国」があって初めて意識されるものである。
よその国が認識されなければ、自国を国として括る必要もないし、境界線を引く必要もない。
生活に必要な土地を利用して暮らす、それだけのことである。

どこの「国家」にも属さず、自分たちの暮らしを営々と続け、そのことを外の人には知られずにいる人たちが(知られてもいいけど支配されずにいる人たちが)、地球上に残っていてほしいと思うのは、
私だけだろうか。


Comment    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 恵那市中野方の不動滝直売所... | TOP | 暑い夏にはサルスベリ »
最新の画像もっと見る

post a comment

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

Recent Entries | なんとなく報告